第12章-⑥ キティホークの死闘(第二幕・フィナーレ)
ラドワーン軍は、先鋒をアッバース、その後方の支援部隊をアーディル、右翼部隊をラフィーク、左翼部隊をフィラースが指揮しており、参謀はヤアクーブが務めている。彼らは全員、ラドワーン王の弟である。スンダルバンス同盟のナジュラーン朝は代々、このように親族で軍の要職を固めるというのが伝統であった。
右翼のラフィークはラドワーンの第一の弟で、デュッセルドルフで虎口を逃れたばかりの教国軍をナジュラーンまでエスコートした男であるというのは、先述した。また彼は能力は兄弟のなかでもとりわけ秀でていたが、「心映えが清くない」として、ラドワーンからは信頼されていなかった。反目している、というほど険悪ではないが、ラドワーンはこの弟を遠ざけていたし、ラフィークもあえて孤高を保っていた。民をいたわらず、酒池肉林を楽しみ、多くの愛妾を持つなど、ラドワーンの嫌う行動をあえて続けたのである。
ラドワーンが帝国軍に対して焦土戦術をとったときも、彼はラドワーンの想定をはるかに超える苛烈さでもってその作戦を指揮した。彼がナジュラーン方面へ帝国軍を引き込むほどに、その町は徹底的に破壊され、大地は一木一草さえも残らぬほどに焼き尽くされたのである。帝国領に近い町に住む民は、住処を失ったため大いに難渋し、多くの者はナジュラーンの市街に押し寄せて難民となったが、一部は避難の途中で飢餓や酷寒のために死者が出た。
ラドワーンは心を痛め、弟の所業に憎しみの念を抱いたが、一方で彼はその半生で最も年の近しいこの男を冷遇し続けてきたという負い目もある。
機会を与えようとした。
今回の作戦で、軍の一翼を与え、戦功を立てさせることで、立身させてやろうと考えたのである。
初戦において、ラドワーン軍は帝国第八軍に対し終始、優勢に戦いを進めたが、ラフィークもさすがの活躍であった。特に先鋒のアッバースの部隊と協力して、右翼方面から軽弓騎兵を率いて断続的に帝国軍の先鋒を攻撃するために、第八軍全体の積極的な動きを封じたのである。
ラフィークは、常に黒衣をまとっている。これは彼の一種の伊達というものであったが、彼の直接指揮する騎兵隊も全員が鎧兜を黒に染めていて、これがカラスの大群のように襲いかかると、敵に対し言い知れぬ不気味さと恐怖とを与えた。
会戦2日目、ラドワーンは軍を左へ左へと展開して、動揺する第八軍を包み込む態勢をとろうとした。一方、第八軍は積極攻勢に出て状況を打開しようと図り、その最も早い接触が、ラフィークの部隊とのあいだで発生した。
「敵は後方に別働隊の存在を知って動揺し、士気が落ちている。臆することなく進めッ!」
士気が落ちている、とは言ったが、帝国軍は精強であり、シュルツも決死の覚悟で督戦しているため、ぶつかってみると存外、脆くはない。この時間帯、この方面で展開された戦闘は類のない激しさで、わずか30分間の接近戦で、ラフィーク率いる右翼部隊は200人の死者と1,000人近い負傷者を出した。帝国第八軍も、ほぼ同数の被害が出ている。
ラフィークは正面に立って自らの手で敵を叩きのめすことを諦め、後退を命じた。後退して敵を誘い出し、味方と呼応して包み打ちに打てばよい。
だがシュルツ中将はもともと、一撃してのちに退く、という戦術構想であったから、ラフィークの後退と呼吸を合わせるようなリズムで第八軍の撤退を開始した。
ラフィークをはじめとするラドワーンの兄弟たちは、先を争って追撃を開始した。
第四軍も第五軍も先行してヌーナ街道を西進しており、第八軍は味方の渋滞に阻まれて迅速な撤退ができず、極めて困難と言うべき殿軍を務める格好となった。
当然、教国軍もラドワーン軍も、その後尾に食らいついて少しでも痛撃を与えようとする。この撤退戦を通じて、第八軍は帝国軍で最も深刻な被害を出すこととなった。逃げる味方を追い、敵に追われながらもそれを振り払う、という退却戦の難しさを、シュルツ中将はレーウという上官の無能ぶりとともに思い知ったと言っていい。
さて、そのレーウである。
彼は自らの直属部隊のみで、後背に現れた別働隊を駆逐しようとした。この別働隊は物見の報告では5,000以上。彼の手勢は3,000ほどに過ぎない。だが戦いは数ではないと彼は思った。
確かに、戦いは兵の数だけで決まるものではないであろう。しかしそれは百戦を経た将の経験として言えることであって、レーウのように常に机上で作戦を立て、机上の演習で戦ってきた男の主張しうることではない。
戦いとは多くの場合、数の勝負なのである。少数の軍をもって大軍に勝とうとするのは、無能な指揮官の自己陶酔であり、結局は破滅する。世に名将と謳われる将帥は、しばしば少数の兵で大軍を翻弄する。だが優れた将軍ほど、その奇功を誇らず、より多くの兵力を揃えようと腐心する。
敵より数が少ないと分かっていながらキティホークという広闊な原野での決戦を強行したのも、あるいは後方の別働隊に対しその半数程度の兵で撃退に向かったのも、このレーウという男が戦場の原理原則というものを心得ていなかったことに由来すると言えよう。
しかも相手は歴戦の雄たるドン・ジョヴァンニである。戦場の機微という機微を知り尽くしたこの男の前では、レーウのように軍人というより軍官僚として出世したような男など、赤子にも等しい。
ドン・ジョヴァンニは兵威をさかんにしつつ、重厚なほどのゆったりした歩みで帝国軍に迫っていたが、やがて前方に迎撃のための部隊が現れたため、戦闘隊形をとった。前方の敵部隊は見苦しいほどに将兵の動きが落ち着かず、退路を失った窮鼠のごとき悲壮さも、困難な戦局を打開せんとの勇気も感じられない。ただ全体の状況も分からぬまま、陣形さえ整わずに命令されるがままにおっとり刀で駆けつけたといった様子である。
ドン・ジョヴァンニは、敵兵のために不憫に思った。無能な指揮官の下につく兵ほど、世の中で報われない仕事もないであろう。あたら命をどぶに捨てるようなものだ。
彼は陣を広げ、ごくごく正統的な布陣で前進を命じた。数が多い側には、奇道を用いる必要などない。
奇策の必要があったのは、レーウの方であったろう。数的不利な立場にあるなら、それを挽回するだけの成算がなければならない。地の利を得るとか、敵の糧道を断つとか、伏兵を置くとか、そうした兵数の差を補いうるだけの工夫である。
レーウはそれをしなかった。
自身の手勢に倍する敵が後方に出現したというときに、彼はただ闇雲に、兵力を急行させただけであった。
当然、戦況は苦しい。
第二軍集団司令部直属3,000名の将士は、レーウのほとんど自殺行為とさえ言える勇気と無謀のために、ばたばたと倒れていった。ドン・ジョヴァンニの部隊は6,200名で、単純に計算すると2対1で戦わねばならない。真正面からぶつかって勝てるはずもなかった。
そして血みどろの戦いを続けるうち、後ろからは司令部の動きを撤退と理解した第四軍、第五軍が殺到してきて、この戦闘に加わった。
「なぜ、第四軍は命令もなく部署を移動したか。こうなっては総崩れではないか」
その理由はまさに身から出た錆と言うべきであったが、レーウとしては自分の行動が諸軍にどう映り、どのような結果をもたらすかの計算がまるでなかった。彼の感覚では、司令部からの新たな命令がないのなら、前線は現在の位置に留まり、敵と相対しているべきであったし、それが当然とも思っていた。各軍が司令部の命令なく勝手に動いたら、戦線は崩壊する。
もはや、レーウには収拾しようがない。こうなった以上は、目前の敵別働隊をがむしゃらに突破し、各軍司令官に連絡をつけた上で、帝国領内のしかるべき地を選んで再集結し、戦線を立て直すほかない。
レーウは内心で各軍司令官に責任を転嫁しつつ、まずは眼前の敵別働隊を全力で強行突破することとした。第二軍集団司令部と第四軍とは、部隊としての独立性を失って入り交じりつつ、遊撃旅団と戦った。さらにその背中からは第五軍が迫って、彼らは味方に押し出されるようにして、前へ前へと進んだ。
ドン・ジョヴァンニには、大局眼がある。ヌーナ街道は広大かつ平坦な大地を貫く整備された一本道で、統制がとれていないとはいえ大軍と混戦に陥れば、消耗戦になる。やがて教国軍の本隊とラドワーン軍が敵を背後から挟撃してくれるだろうから、彼が持ちこたえればいずれは敵を殲滅できるだろう。だがそのときには遊撃旅団も甚大な損害を被っているはずだ。
彼はこの戦いの戦略目的を忘れてはいない。この会戦は、帝国の大軍を撃破し、その戦力を覆滅するのが目的ではない。この方面に展開する帝国軍を撤退に追い込み、その組織的抵抗力を一時的にでも排除して、教国軍が本国に帰還するための軍事上の空白と移動に要する時間をつくるのが眼目である。
そのため、彼は敵の後方からさらに新手が殺到してきたと見るや、その勢いに流されるようにして部隊をしりぞかせ、本軍と合流して追撃戦に加わった。
レーウにしてみれば、思いもよらぬ事態にただただ唖然としつつ、逃げる味方と肩を並べて馬を駆けさせるしかなかった。彼には撤退の意志などまったくなかったのである。それが、彼の命令によることなく、全軍撤退という状況になっている。軍というものは、彼の理解では指揮官の命令によって動くものであった。だが、実際には一種の事故のように、最高指揮官ですらなすすべなく、ある方向へと勝手に動き出すことがあるらしい。
キティホークの会戦2日目は、純粋に正面から渡り合った戦闘というものはごくわずかしか発生していない。ほとんどは、追撃戦であった。当然、教国とラドワーンの連合軍が優勢になる。
この厳しい撤退戦のさなか、最後尾で必然的に殿軍の役を引き受けることになる第八軍は、司令官のシュルツ中将、副司令官のハインケル少将をともに失い、兵の死傷率も7割を超え、戦闘集団としては事実上この世から消滅した。最終的には、戦意を完全に喪失し、連合軍の鋭鋒から命からがら逃げ回るだけの哀れな子羊の集団となってしまったのである。
第四軍、第五軍は、逃げ遅れた第八軍に貧乏くじを引かせたことで、被害を最小限に食い止めつつ撤退することに成功した。
レーウは撤退の途中で幾度もこの両軍に連絡し、自らの指揮下に復帰して再決戦を挑むよう求めたが、リヒテンシュタインはその度にレーウの早馬に罵声を浴びせて命令を拒否し、ツヴァイクも僚友に同調してレーウの指示を黙殺した。両軍は阿吽《あうん》の呼吸で、相互に援護しつつ、連合軍の追撃を振り切り、ヌーナ街道とダンツィヒ街道の交点まで退却するとそこからさらに北上し、帝国領最大の要塞として知られるベルヴェデーレ要塞に入って、ようやく戦塵を洗い落とした。
レーウは両将を追って要塞に入ろうとはしなかった。教国軍とラドワーン軍の追撃に脅かされつつ、実に8日間にわたって逃走を続け、その間、両将の協力を一切得られなかった彼は、自らの指揮権が失われていることに激しく落胆していた。そのため、ベルヴェデーレ要塞にほど近くのシェーンブルンという町に入り、そこから帝都及び教国領侵攻作戦を遂行中の第一軍集団に対し、第二軍集団全面撤退のむね正式の報告を送った。
帝国軍は惨憺たる敗戦を喫した。第八軍はほぼ全滅し、第四軍と第五軍も損害は小さくない。全面撤退という言葉はむしろ実態に対して勇壮に過ぎるであろう。しかも不利な状況を受け止めた上で、計画的かつ整然と撤退したような印象を与える。こうした言葉を選択しがちなところも、彼の本質が軍人というよりは軍官僚であったことをうかがわせる。
レーウとしては拝命後わずかひと月足らずでの解任も覚悟していた。また任務を継続せよということであれば、総統からの命令ということで、再び前線司令官らを自らの統制下に置くこともできる。ただし、権限を回復できたとして、惨敗を喫した軍を立て直し、再びの決戦に勝利することができるのかどうかは、彼にとっても大いに疑問ではあった。
いずれにしても、教国軍がその祖国に帰り着くための道は開かれた。
奇跡と言ってもいい教国軍の本国帰還まで、残る障壁はカスティーリャ要塞にとりついたゴルトシュミット将軍率いる第一軍集団のみである。




