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歴史とDNA

続出アフリカ

作者: とびうお君

 大きな進展があったわけじゃないが、それなりに面白い旧石器時代のことが分かった。断片的だった集団が世界で時代ごとにまとめられたという感じになった。良く言われる最古層ともいえるDNAが調査されたグループは皆似たような集団が全世界に広がったものだと今回分かった。


 田園、ウスチイシム、オアセ、バチョキロ。これらの集団はIUP石器群と共に広がった可能性が述べられている。ただし、ウスチイシムや田園では石器は定かじゃない。ウスチイシムは広がりとしてはその付近までIUPが見つかってるため特に疑わなくもいいが、田園はどうか?とは思う。アジア圏のIUPの広がりはなんとも扱いにくい。アルタイ、モンゴルまでは確実だが、その先はなんとも言い難い。


 じゃ何故遺伝的に近縁な集団が東アジアでもいたのか?については私はまだ重要な部分が分かってないと見てる。そのため重要な進展だが大きな進展があったとは言えないと見ている。


 田園が最も重要なのだが、元々他の地域は同じ集団だと言われてて、田園だけが近縁だが分岐した集団だと言われていた。それが今回田園も1つのグループとしてみて良いとなったのが変化だと見て良い。複数見つかってる遺骨から一部はほぼ同一集団のDNAと見て良いとなって今回の事になった。


 大きな集団の中で一部やや偏ったDNAがあったため分岐したように見えたのかと思う。そもそもそうやって分岐していくので、その前段階だと見れる。今回大事なのは、そういった分岐のスタートになったわけじゃないのが分かったのも進展があった原因になる。今回新たに追加されたDNAで、2万年ぐらい前のDNAが東アジアで見つかって、これが全く田園に似てなかったそうだ。


 田園は、mtハプログループBから東アジア集団と無関係ではない。だが、先祖はつながってるが、その集団がそのまま東アジア集団になったというよりは、元あった東アジア集団の一部が基底部から分岐して別れたのが田園集団で、現在残ってるのは別の分岐集団だという事らしい。


 おそらくだが、現在の東アジア人の祖先は元あった集団から田園とは別に分岐して全く違う場所で誕生した別の場所の新しい集団だと見られている。これはある意味大きな進展だと見て良い。東アジア人の祖先集団がいた場所が不明になってしまったのが今回の大きな進展になる。ある意味東アジア人の起源が良く分からない振出しに戻った。


 他の集団よりは東アジア人に近いので近くで分岐したのだろうと思うが、あくまで推測でしかないし、全世界に広まったこれらの集団が直接的には子孫を残してないのでどこに元の集団があったのか?全くの不明ってのも納得できる。


 さてそれは置いておいて、これらはどうやってアフリカから移動したのか?で私は東南アジアやインドが起源地だと書いてきたが、今回これらのデータと石器から、良くある中東拡散説の結論になっていた。ただし、私はこれをもって中東より東寄りの起源説が否定されたとは見ていない。


 問題点として相変わらず中心点が見えないって欠点がある。現在の人類から分かってる中心点は東南アジアになる。これらは石器の発見からの決め手が大きくて、そのため従来通りのアフリカ中東の単純な拡散モデルに落ち着いてしまっただけだと見ている。


 問題点は、この石器中東辺りで発明されたと言うだけで、石器の連続性が無い。おそらくこの集団はよそからやってきたと推測されている。石器自体の広がりから実際は何もわからないと私は見ている。同種のDNA集団が移動して、IUP発明後に世界中に同様の遺伝子を持った集団が拡散したと見ている。


 問題は田園だが、何度も書くがこれはIUP石器群を伴った発見ではない。そのためIUP発明前の集団が逆にインド東南アジアにいてその一部が中東に移動して発明後に拡散したというのも描ける。これ無理やりじゃない、IUPと田園に深いつながりが見られないため、田園も同様にIUP拡散集団だと考えるのは無理がある。


 東アジアの石刃はむしろ、その後のUPの流れをくむものじゃないか?との見解があり、これらにモンゴルアルタイのIUPが混じってるからかなりややこしいことになってる。だが、遺伝的にUP集団とIUP集団に繋がりが無いことが分かったため後から来た別集団が主に石刃の担い手だったのじゃないか?となる。


 これについては、ハプロQで代表される集団がその担い手であるためこれは以前から私が指摘してきた。この点は、アメリカ先住民が直接的な東アジア人との混血の子孫だし、アジアの北方でかなり古い混血集団もちらほら見つかってる。現在見つからないのは、やはりその後の細刃器の広がりと同様に遺伝集団の広がりとは無関係な広がりであったためだと見ている。


 ただし、これらの2つの集団の接触する堺では混血がされている。それらの集団がアメリカに行ってしまったのと、残った集団はよりアジア色の強いDNAが追加されたこととが原因で消えてしまったからだと考えている。アルタイ辺りにはまだ色濃く残ってるが、バイカル湖あたりは新石器時代には徐々にDNAが薄くなっていくのが分かるようになってる。


 中国ではむしろその後のM120の拡散の方が目立っていて、石器の伝播とDNAの伝播が必ずしも一致しない良い例となってる。この点から私は北方ルートに否定的な見方になってる。


 北方ルートの唯一の遺伝的な証拠と言えるのが、ウスチイシムやオアセのNOと言う父系ハプログループになる。これをむしろ私は東から拡散したとみてて、これらがIUPを通して、北方ルートで移動してきたと見る見方がある。


 だが現代人の分析からはNOはむしろ南方から広がったという見方が多くて、古代北方ルートをたどったNOがわざわざ南方に進んで、さらに北方に拡散したというわけのわからない考えを提出しなくてはならない。それよりややインドよりの東南アジアの位置から同心円状に広がったと見る方がすっきりしてると見ている。


 古代DNAから分かるのは、世界中に広がっていたNOは東南アジア起源説を否定するようなものじゃない。単純なアフリカを中心とした拡散説をそのまま展開させただけだと見ている。現代人から推測されるものを決定的に否定するようなものじゃない。元々この説を取ってる人たちは世界中に東西と繋がる遺伝子が広がっていたのは知っていたため。今回田園もその1つで置換された集団だと分かった以外は、根本的には変わってない。


 そのためそれらの普通に見ればアフリカ単純拡散説に見えるのは知っていたとなる。後これらの説は父系だけの問題で、母系は単純な拡散説で問題はない。そもそも、父系NOが世界中に拡散していた時期があるので、それだけが問題となっていて、全DNAでは、相変わらずアジア人は南方起源北上説で見てよい。


 それらの説での違いは、海岸ルートか?ヒマラヤから中国内陸ルートなのか?程度の違いしかない。パプア人にD系がほとんどいないため、D系は内陸ルートである可能性が有る。ただ、フィリピンに一部いるので、彼らはもっと後の時代に海岸じゃなくて内陸ルートから東海岸に到達して船で移住したのではないか?とは見ている。


 またはD系でもかなり前に分岐してるので、フィリピンのD系だけが海岸ルートを通った可能性が有る。

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