プロローグ.05
エトラの名前を聞いた事で、鹿島みろ子もようやく彼女に自分の名前を伝えるべきだという事に思い立った。
「鹿島みろ子と言います。先程はありがとうございました」
自己紹介を終えるとみろ子達はお互いに相手の名前を素敵だと褒め合った。
どちらもそれは本心からの言葉で、今まで自分の名前をこんな風に言われた事のなかったみろ子はこの世界に来てようやく顔をほころばせる事ができた。
思わず、体が身震いを始める。緊張していたからか、濡れてぐしょぐしょになった制服がみろ子の体温をすっかり奪っている事に今まで全く気付けないでいた。
「こっちにおいで、服を脱いで」
エトラは石壁の近くに座り込み、みろ子を促した。少し戸惑いながらも、体の震えを抑えられないみろ子はブレザーを脱ぎ捨て、リボンを解いてポケットの中に仕舞い込んだ。
彼女の長い胴体の横に座るとみろ子はブラウスのボタンを外してエトラに抱きついた。
下はキャミソールだったが流石にひと気のない森とはいえ脱ぐ気になれず、濡れた肌着越しに自分の冷えた体を押し付けた。
じんわりと、エトラの体温が伝わってくる。エトラも長雨に晒されていたので、すぐに体が満たされるような温かさではなかったがそれでも確実に、肌を通してエトラの体温を伴った血流が全身に巡っていくのをみろ子は感じていた。
この世界に来て数時間、私は既に何度もエトラに助けられてしまった。
そう思わずにいられなかったみろ子は頬で彼女の体を撫でながらある境地に至っていた。
「あのね、エトラ」
みろ子は、ぽつりぽつりと自分の事をエトラに話し始めた。それは自分自身が今の状況を整理するためでもあったが、彼女はじっと耳を傾けていてくれた。
自分がある高校に通う学生である事、帰宅途中に転んで死んだと思った事、そしたら変な空間にいた事、そしてそこから落ちてこの世界にやってきたのだろうという事。
おおよそエトラには理解しがたい単語もあったにも関わらず、みろ子は更につらつらと自分の世界の話を続けた。
しかしその身勝手な行為すら、彼女は優しく包み込むように首をもたげて聞き入ってくれていた。
「あなた、元の世界に帰りたいんじゃない?」
何の気なしにエトラが放った一言に、みろ子は言葉が詰まった。
帰りたいのだろうか? あの世界に。
ここはまだ何も分からない世界であったが、それでも充分すぎるほどに素敵な者に出逢えた。
人間が充実して生きられる理由に自身の周りの者達との関係があるのだとしたら、私はこの世界でどれだけ強くいられる事だろうか。
そう感じるまでにエトラはみろ子の中で大きな存在となっていたのだった。
しかし、みろ子は自分がこの世界に来るまでの、あの事故に会うまでの事をも思い返していた。
彼女は騒々しい所が嫌いで、学校の休み時間はいつも教室から飛び出して静かな廊下で窓の外を眺めていたし、昼休みになるとピロティの日陰になった所で一人お弁当を食べていた。
仲の良い友達もいない訳ではなかったが、精々学校で会ったら喋るというだけで休日に一緒に出掛けるという事はしなかった。
それはみろ子に友達を遊びに誘う度胸が無かったからではなく、単純に会う約束を反故にされた日にその友達が自分の知らないグループの子達とより仲良さそうに遊んでいるのを見てしまったからだった。
授業態度も悪い方ではなく、学年の中では50番代をキープしていたが担任の教師はあらかじめ気に入った生徒だけを相手にしていて、何かが尺に触ったのかその選別から漏れたみろ子は事ある毎に注意を受け、不誠実なレッテルを貼られていた。
それでもみろ子はそんな境遇を決して他人のせいにはしなかった。
自分の弱さを他人のせいにするのは愚かな人間のする事だ。周りの人間を見下さなければ自分は生きていけない、そう証明する事につながるのだと確信していたからだ。
そして全ての原因が自分にあるからこそ、常に自分が悪者であり弱者だった。
自分が悪いから友達と遊べない。自分が間違っているから常に注意を受ける。当然の事だ。
だが、そこからどうすれば良いのか。自己責任という重圧を自ら抱え、八方塞がりになったみろ子は灰色の学生生活を通夜のように送っていた。
きっとこの異世界で過ごす事になっても、私はこのしがらみを巻き付けて生きるのだろう。
この世界だろうが他の異世界だろうが、自分を彩ってくれる素晴らしい場所を欲する事は彼女にとっては不正解であり、大間違いに決まっているのだった。
「…………戻ります。元の世界に」
諦めに満ちた声だったが、その回答にエトラは無反応だった。
みろ子が振り向くと、彼女は雨の中に向かってじっと聴き耳を立てていた。
反り上がった耳をピクリと動かしたかと思うと、そのまま目の前の轍の先に顔を向けて見つめ始めた。
「みろ子、何か来る……!」
みろ子は全身に電気が走ったかのように飛び上がると、慌ててはだけた服を着直していった。
ブラウスのボタンを留め、リボンを結んでいるとみろ子の耳にも確かに雨音とは違う慌ただしい音が聞こえてきた。
なんとかブレザーに袖を通していると、それは二人の視界に入ってきた。
不揃いな足音と荷台の軋む音を奏でながら、一台の馬車がやってきたのだ。