十六夜の薔薇園にて
満月より少し欠けた月が、私のいる広場を柔らかく照らしている。
辺り一面を薔薇に囲まれたそこは、さながら私の為に用意された舞台のようだ。
私一人だけの、孤独な舞台。
___悲しくなんてない。だって、これが運命だったんだから。
「待たせてしまったね」
不意に聞こえた声。振り向いた先には、彼がいた。
彼の姿は、私の記憶よりずいぶん弱々しくなってしまっていた。
頬はこけ、目は落ちくぼみ、髪も荒れ放題。
着ていた服もいたるところが破れてしまっており、
元の高貴な姿は跡形もない。
そんな姿になり果てた彼の歩く姿は、堂々としていて格好良かった。
私の好きになった人。何一つ変わることのないその姿に、
私の瞳はうるんでいく。
「約束を破ってしまって申し訳ない。
満月の夜に君を迎えに行く。そういったのは私なのに」
___そんなことはいいの。ただ、貴方を一目見れただけで、それでいいの。
うるんだ瞳は限界に達し、雫をこぼしていく。
頬を伝う雫は私から離れ、虚空へと消えていく。
触れたい。彼のその腕に抱かれ、頭をなでてもらいたい。
キスしてもらいたい。
……けれど、それはもう叶わない。
彼は広場の中央にある碑石の前まで来ると、そこでうなだれた。
「すまない。私は、君を守ることが出来なかった。
性根の腐った貴族たちの魔の手から、救い出すことが出来なかった……」
体を震わし泣いている彼の肩に手を伸ばすも、その手は彼をすり抜け、触れることは出来ない。
……そう。私の体は既に土の中。生ける彼とは触れ合うどころか、彼の目に移ることすら叶わない。
私と彼は二人でこの腐りきった国から抜け出そうと約束していた。
どこか遠く、私たちを知る人のいない場所で、二人で幸せになろう。そう誓って。
でも、その約束が果たされることはなかった。
約束の日の前日。とても綺麗な満月の夜だった。
私は貴族たちに囚われ、彼は無実の罪のせいで国から追われる身となった。
そして、私は純潔を守るため、自らその命を絶った。
地上では一緒になれなかったけど、せめて天国でなら。
そんな淡い期待が、私の生前の最後の思考だった。
でも、私の魂は大地に縛られた。私の墓を飾るために造られたという薔薇園の内側で、
美しくも残酷なこの舞台で、誰かに解き放たれる時を待つしかなかった。
来てくれるなんて思っていなかった。
彼だって追われる身。自分の身を大事にしてほしかったから。
死んでしまった私の為に、彼が傷つくことはしてほしくなかったから。
私のことなんて忘れて、自分の為に生きてほしい。そう思っていた。
それでも彼は来てくれた。私のもとへ来てくれた。
たとえ彼に姿を見せることが出来なくても、彼は生きている。
それだけでとても嬉しかった。
「君が死んだと聞いたときは、この世で生きている意味を失ったと思ったよ。
君のいない世界に生きる意味なんてないと、そう思っていた。
一度は君を追って、死のうとすら思った。
でも、君はそんなこと望まないと知っていたから、
私は今、生きている。」
___ありがとう。私の事を知っていてくれてありがとう。
生きていてくれてありがとう。
「今日ここに来たのは、君との約束を果たすためだったのだけど、
国からの追手がしつこくてね。一日遅れてしまった。
……やはり私はダメな男だな。約束ひとつ守ることが出来ない。
こんな男のどこを君は愛してくれたんだい?」
___貴方のそういう自分に自信がないところが直したほうがいいわ。
でも、そう所を含めて貴方が好き。貴方の全てを私は愛しています。
たとえ私がもう死んでいて、体がもう朽ち果ててしまっていても、
この思いは永遠に変わりません。
「ここに来て、こんな話をする気はなかったんだけどな。
やはり、いざ目にしてしまうと堪えるなぁ。
……そろそろ行くよ。近衛に見つかると厄介だ」
彼はそういうと、私に背を向けて出口に向かっていく。
___えぇ、それがいいわ。来てくれてありがとう。
貴方を一目見ることが出来て、私も幸せだった。
もう、思い残すこともない
私の足の先が、手の先が、光になって消えていく。
___そう。やっと天国に行けるのね。
こんな気持ちで行けるなんて、私ったら本当に幸せ者だわ。
あぁ、愛しの貴方。どうかお元気で。またあの世で会いましょう。
体の大半が、光に溶けていった頃。唐突に彼が振り返った。
「そうだ、忘れていたよ」
再び近づいてくる彼は、懐から鎖にかかった指輪を取り出すと、
私の墓にそっと置いた。そして、私の眼を見て口を開いた。
「君に渡そうと思っていたんだ。遅くなってすまないね。
それじゃあ今度こそ。さようなら、私の愛した美しい人よ」
彼はそう言い残すと、来た時と同じくらい堂々と去っていった。
___本当に、貴方のそういうところが、たまらないくらいに愛おしいの。
満月より少し欠けた月が、私のいた広場を柔らかく照らしている。
辺り一面を薔薇に囲まれたそこは、さながら私と彼の為に用意された舞台のようだ。
私と彼の、二人だけの舞台。
___もう悲しくなんてない。だって、最後の最後まで満ち足りた気持だったんだもの。
舞台に役者はもういない。必要ない。
演目は既に終わったのだから。
少し苦い。でも、最高のハッピーエンドで。