58. ボスは勉強中 ~ 魔族討伐作戦 - 6
ちょっと短め
深緑の谷ダンジョンの核のすぐ傍に居ながら、イプロディカは侵入者たちの存在を感知していた。
もともと戦闘勘とともに感知能力は鍛えていたものの、ここまで領域内の事がハッキリ分かるのはダンジョンの核とある程度結びついて主となったからに他ならない。
しかし世にあるダンジョンで、主に当たる魔物も当然この能力を得ていてもおかしくはないのだが、活用されている例を彼は知らない。
もっとも、イプロディカ自身も活用する気もなかった。
屋外ダンジョンである深緑の谷は、最奥部の瘴気の吹き溜まりである核が円形のコロシアムのように空が開けたすり鉢状の地形の中心にあった。
そこでイプロディカが何をしているかと言うと・・・文字を練習していた。
ダンジョン核のある空間は元は放棄された何らかの集落らしく、石を積み上げた小屋などが何とか使えるような状態で残っていた。
その屋内の薄汚れたテーブルにはいくつかの本と紙が積まれていて、彼はその座席に就いてペンで文字の書き取りをしていた。
彼の教科書は、神聖王国で広く普及している児童用の読み書きの教本だった。
神話を基にした昔話や民話を追いながら文字の練習をする、という作りだ。
この本や筆記用具などは、街道のダンジョンを出てここに来るまでに適当に襲った村で手に入れた物だ。
襲ってみた事に食料目的とか殺戮衝動を抑えられなかったみたいな大した意味はなく、ただ折角世界の敵たる魔族になったのでらしい事を試してみたと言う、それだけだ。
しかしイプロディカは、何も感じなかった。
その場にいた老若男女を鉤爪や牙で平等に血の海に小島の様に浮かぶ肉塊に変えても、例えば魔王の尖兵たる魔族らしく体の奥から湧き上がってくる黒い高揚や衝動とか、はたまた人の世に生きていた頃の倫理観の残滓で嫌悪感を感じるなどもなかった。
確かに自分の意思で操れる瘴気由来のパワーの大きさには自分自身驚き、感心し、より自在なコントロールの為の修練の必要性は感じた・・・だがそれだけだ。
本当に、何もなかった。
むしろ興味を惹かれたのは、そこいらの民家の中にあった読み書き用の教本だ。
里を出てから今まで裏街道でヘドロのように生きてきた彼は、文字を習う機会が無かった。
もっとも彼と似たような理由で裏社会の人間になるような者達も、同様に文盲である事などザラで―――多くが過度の暴力性や窃盗癖などそんなものどうでもよくなる位の問題を抱えていたのもあったが―――大して気にも留めては来なかったが、神聖王国では読み書きのできない者の方が妖精族・獣人含めて珍しいぐらいだったのだ。
その事実が、なぜかこの文字の教本と言うのだけは表紙の絵で知っていた本を襲撃した村で見た時に気になって仕方なくなったのだ。
文字は知らずとも、誰しもが諳んじられるいくつかの昔話。
その全体が絵物語で示され、リンゴや剣など単品を示すイラストには単語が添えられ、ストーリー自体は可能な限り平易な文章で表現される。
字を練習しながら物語を追う。
こういった民話自体は、イプロディカも母から寝物語で聞いて知っていた。
神聖王国で生きている者なら誰でも知っているものだからこそ、誰でも自然に文字を学んでいけるという仕組みになっていた。
フォーリムの生みだした何羽かの黒い揚羽蝶が、黒い光の粒子を纏いながら辺りを飛んでいた。
魔族になったついでに軽く暴れて古巣の魔王派から飛び出してきたわけだが、別に嫌になったと言うようなわけではない。
むしろ居心地は悪くない場所だったように思う。
だが世間から爪弾きにされるような連中の吹き溜まりだけあり、大言壮語と空気に酔っている雰囲気が先行し世の中をひっくり返す大それた事ができるとはとても思えなかった。
大体、最大のスポンサーが紛い物の治療薬絡みで家の取り潰しになった貴族なんかの生き残りというケチな存在である時点で天井が見えているというものだ。
だからこそ、スライムになり果てた状態から魔族に羽化したと同時に飛び出してきた。
魔王派は魔王の瘴気を使えるフォーリムが居るから成立し、世界を滅ぼすあまりにも危険な魔王の力を使えるからこそこの世に生きる真の大悪党のような連中は見向きもしない。
滅んだ世界など、彼らに利益をもたらしようが無いからだ。
そしてイプロディカとフォーリムでは、魔王由来の力を振るうのに躊躇が無いという点で似ていた。
フォーリムの眼である蝶を放っておくのも、最早仲間でこそないが敵対するほどでもないからだ。
イプロディカはフォーリムの本気で世界を滅ぼしてやろうという深い憎悪に興味はないし、フォーリムはイプロディカが魔族としての力を真に己のものにしようと修練を重ねるのなど知った事ではなかった。
魔族と化した身には不快な強い光の魔力が発生し、それとともに深緑の谷に冒険者が入り込み出して既に一日と半ば。
獣人の姿をした魔族の男は文字の教本を閉じ、一度大きな伸びをした。
討伐しに来た冒険者たちともフォーリムの蝶とも、また変異を始めたダンジョンの魔物たちとも違う襲撃者の気配を感じたからだ。
それは丁度、人の形をした影のような存在だった。
『今日は五匹、か。いつもいつも返り討ちにされに来るとはご苦労な事だなァ。――返せ、だと?クケケケ、バァァァァッァじゃねェの!?お前ェはな、俺様のエサになるしかねェんだよ!』
影はそれぞれに手を増やしたり、腕を武器や盾などに変形させて襲い掛かってきた。
それはイプロディカにとっては、そこそこ手応えのあるいい練習相手でしかない。
ひりつくような鋭い殺気を放ってくるのは分かる、だが不気味な外見やその存在の由来に反して超常的で圧倒的な何かを感じさせるものではなかった。
最後の一匹が拳を頭で貫かれ、黒い蒸気となって完全に消え失せるまで数分とかからなかった。
『つーわけで、大人しく寝てろよ。手前ェが起きた暁にはこっちからボコしにいってやるからよ、クソッタレ魔王が』




