90. AFTERMATH
その瞬間、神聖王国内において実に多くの者が異常な何かを感じ取った。
起きているのにそれが分からなかったとしたら、少なくともその人の危機に対する直感力は致命的に低いと言わざるを得ないだろう。
それ程の気配と殺気が、ある一点から放たれたのだ。
鳥たちは騒ぎ、突如暴れ出した馬を抑えるのに御者は苦労し、草むらで各々音色を奏でていた虫たちは鳴き止んだ。
何の素養もない村人や町人でさえもどこか彼方に起こった何かを感じ取り、そう言う種類の勘を鍛えていた騎士や冒険者は何らかの強大な怪物が突如として現れたような錯覚に陥った。
人より魔力の感知に長けた魔法使いや神官たちは、あの規模の現象であれば人為でも自然でも必ず大量に動くマナや魔力がそれにほとんど含まれていないのに気付いた。
盗賊や暗殺者などは心臓を握りつぶされる様な殺気を特に鋭敏に感じ取ってしまい、動悸と脂汗が止まらなかった。
――――――神聖王国南方、地図には地方名しか載っていないどこか。
聖女より依頼された魔族討伐よりの帰路にある最中、勇者アルテアは非常に大規模な戦闘から発せられるものに近い気配をキャッチした。
しかし不可解なのは、そう言った場合非常に雑多な思念が混じるはずなのにそうではなく、あたかも単一の何者かが殺気を発したような現象だったのだ。
だがそんな真似は先程討伐した魔族が十全に強化した状態だとしても恐らく不可能で、例えばそう・・・魔王の様な存在であれば可能かもしれない。
しかしだとしても魔王が存在する魔王領とは方向も距離も違い、何よりも仮に魔王やその眷属がやった事であるなら絶対にあるはずの瘴気がまるで感じ取れない。
逆に空を覆うほどの精霊たちの活性化が見られるなど、不可解極まりない。
(一体何が起こっているんだ・・・!?)
送還しようとした聖剣が反応しなかったり、どうも想像や予測だけで何とかなる水準を大幅に超えた事態が発生しているのは間違いない。
巨人の魔族との戦いで使用した≪浄滅極光陣≫には使える魔力の殆どを込め、更にこの地域では魔族の影響なのか魔力の回復が遅すぎる。
ここを抜けたら急ごう、そうアルテアはそう心に決めた。
――――――至光騎士団の駐留する前線監視基地。
「団長、これは・・・!?」
「良くわからんがチャンスだ、片っ端から斬り捨てろォ!」
謎の強大な気配と同時に急に動きの止まった魔王領の魔物達を、ラムザイル団長の号令で一方的に斬り伏せていく精鋭達。
より濃度の高い瘴気を持つ魔物程強い苦しみと戒めを感じているようで、この時の魔物の夜襲は普段ではありえない位手早く片付いてしまった。
止めを刺すだけの作業とさえも言っていい。
―――あの異常に強い気配は、殺気が込められていた。
あたかも魔王が地上に暮らす人々に殺意を向けるならそれに近いであろう、とさえも思えてしまうような底なしの深さがある。
しかしラムザイルはその殺気に覚えがあるような気がした。
以前の深緑の谷での魔族との決戦の時、真っ黒な全身鎧で顔も知らない魔剣の少年が発したそれに似ているように思えたのだ。
「・・・まさか、なあ」
「どうしたんですか団長?殴り足りない、いや斬り足りないとかですか?」
「人を何だと思ってやがる」
すっかり騎士団長のメインウェポンとなったデスブリンガーは、剣の形こそしているが実際は刃の無い鈍器である。
だが彼が斬るつもりで振れば、余りの剣勢に普通に相手を切断出来る。
「まあ何が起こるにしろ・・・俺はコイツを振るうだけだがな」
――――――どこかのダンジョン化した洞窟内。
神官戦士の銀勇者ファーイネスは、近頃急に魔物の強くなったダンジョンおよびその周辺地域の調査のため、信頼できる冒険者パーティと共に足を踏み入れていた。
魔王の復活が近いとされる現在、直接魔族との戦いに赴いた彼は神官戦士の中でも一目置かれる存在になっていた。
あの真の脅威の一端に触れ、また人の限界を超えた強さや若い力に触発されたファイは自身の実力をより高めるため、今までよりも積極的に任務に立候補するようになっていた。
金勇者入りも間近という声もあるが、パワーゲームに明け暮れる教会の実力者たちのような地位に興味は持てなかった。
そんなファイ達は現在、ダンジョンの奥で危機に陥っていた。
たしかにここの魔物は全体的に強化が見られるが、中でも異常な強さを誇る個体に出くわしたのだ。
それは、ゴブリンだった。
正確に言うと本体は頭に生えている気色の悪い花で、寄生した体を自在に操る植物タイプの魔物だ。
本来の性質は催眠性のある香りを出して人を誘い襲うものだが、中級以上の冒険者であれば対策が万全なため脅威は少ない。
しかしソイツは違った。
何やら瘴気の籠ったガスを放出するようになっており、変異した影響で人には効かないが代わりに他の魔物を強化・狂暴化した種類に変化させる効果を得ていた。
間違いなく異変の原因だ。
何よりもファイはその花ゴブリンの邪悪な存在感に覚えがあった。
以前深緑の谷で戦った、邪悪な何かに乗り移られた古代のゴーレムだ。
ファイ一行は見る間に追い詰められ、絶体絶命と呼べるまでの状況になってしまった・・・が、謎の現象はその時起こった。
余りにも強力な殺気が空間そのものを包み、魔物共を打ち据えたのだ
人にも明らかな異状として感じ取れたが、見えない何かがファイ達を無視した様に眼前の魔物の群れだけが恐慌し、苦しみ、全身から血を噴き出した。
中でも中心となった花ゴブリンの苦しみ方は一際強いものだった。
戦えなくなった全ての魔物を狩り尽くすのに、時間はかからなかった。
「今のは・・・一体何だったんだ?」
ふと一人が漏らしたそれに答える者は居なかった。
ファイには『一瞬の印象は恐ろしく邪悪な物にさえ感じるが、本質はむしろ生命の力強さに近い』とでも言うような訳の分からないものに感じられ、分析など出来るものではなかった。
ただどこか、不思議と既知感のある気配でもあった。
――――――王都近く、聖域。
側仕えの神官戦士達が狼狽する中、聖女アーフィナだけはそれが人を害する物でない事を瞬時に理解していた。
とは言え流石に驚きが無かったわけではない。
闇と戦うのに闇の力を模すと言うのは発想としては昔からあり、数多くの試行が為された一方実用的な成功例は極めて少ない。
にもかかわらず、これを成した何者かはよりにもよって魔王をコピーしてしまったのだ。
痛快に思うべきか、予言に全く無い事態があった事を恐れるべきか。
何はともあれ、今は幸運に思っておいた方が良いだろう。
予想よりも敵の侵食が深刻で対策が間に合わない可能性が極めて高かったところ、最高のタイミングで最強の邪魔が入ったのだから。
元気になった精霊たちが、アーフィナが気付いていた例のネットワークを行き交っている。
その遠端は間違いなく、今回の現象の爆心地だ。
――――――閉ざされた妖精郷。
時空の壁を越え、フェアリー達の領域にも余波が及んでいた。
送り込まれたままの状態で動かない魔物達は最早石像も同然で苔や蔓も生えかけていたが、精霊の力の籠った突然の強力な波動を受けて彼らは動き出した。
遊んでいた子供のフェアリー達がわーわーと逃げ出し、監視に当たっていた戦士は応援を呼んだ。
それは、神秘的な光景だった。
魔物達が各々の胸、体内から力ある石を取り出し、一つに融合させだしたのだ。
魔物となった生き物は基本的に、瘴気の力を秘めた核と言う物を体内のどこかに持っている。
言うまでもなく魔物の核は瘴気の満ちる代物だが、フェアリー達の眼前で取り出されたのはそれらとは違い非常に強い精霊の力が宿っていた。
亜精霊化が進んでいた影響だろうか。
『戦士長、これは一体――!?』
『分からん。分からんが―――いや、同じ木からは次の年も同じ葉が生えるように確かな確信があるのに、それでも私自身信じ難い事は―――一体どう言えばいいのだ?』
『ああ、気持ちは分かりますぜ戦士長。今の波動には、オレッチもアイツの放つ気と同じものを感じましたぜ』
そう言っている間に目の前の異変は進んでいく。
空中に融合した力ある石が浮かぶと、魔物たちの体が一斉に砂や灰の様に崩れて舞って、輝く大きな石を包んでいった。
全てが完了した後、巨石を磨いた様な巨大な卵が丘の上に残されていた。
一同が呆然としながらも油断せずにいると、町の方で強い魔法が使われた気配がした。
『ザアレ、それにスピナ!一体何があった!』
『ヴギルさん!わ、私も強い魔法を感じて飛んできたんだけど、そしたらザアレが倒れてて!今からベッドに運ぼうとしてたんだけど』
『分かった、ありがとう』
ヴギルが自宅で見たザアレは、ある魔法を使った直後の状態だ。
それは共に眠る事で精霊を共有し、相手の回復を大幅に助ける魔法。
手加減を誤ると相手に生命力を全部渡すこともある危険な妖精魔法だが、幸いにも成功していたようだ。
だが仮に失敗して自分の命が無くなると決まっていたとしても、ザアレであれば使うであろう相手は一人だけ居る。
ガメオだ。
ゾオレを通して彼に使った事は間違いない。
そのうち目覚める娘、そしていつか再開する機会もある弟子に対して言いたい言葉がヴギルの中に次から次に浮かぶ。
『色々言いたいが―――取り敢えず叱るのは決まりだな』
――――――闇の深淵。
復活の時を待ち揺蕩いの中にあった破壊者の意識は、不意に叩き起こされた。
世界に唯一の存在であるはずの自分しか使えない筈の力、それに近い何かが己以外の何者かより強烈に発せられたのだ。
滅ぶべき定めの小さい虫共には決して使えぬ、または使えてはならぬ力だ。
だが現に模倣され、使用されてしまった。
影響は甚大で、人族の中ツ国で自由に活動を開始していた影の殆どが一斉に力を失い、或いはそのまま消滅してしまった。
彼自身にしても、力の溜まり切らない半端な状態で強制的に覚醒させられたマイナスは小さくない。
すぐに眠りに就くという選択肢もあるが、彼はそれを選ばなかった。
アレが何なのか、知らねばならぬ。
混沌とした瘴気の空間の一点に強い力が集中し、ある物を形作った。
それは、人の姿をしていた。
今まで勝手に生まれていた影をより力を込め、意図的に作り出したのだ。
新たに生まれた影は、言葉もなくその場を去った。
やや大きな力を使った魔王は、今度こそ眠りに就いた。
その分復活が多少遠のきはしたが、それでも魔王は知る事を優先したのだ。
忌まわしき勇者とも違う、敵となり得る存在を。
ガメオの魔王を模倣した殺気は神聖王国全土に及んだが、その影響をある意味に於いて最も受けたのは既に挙げられた彼等彼女等ではない。
それは、王宮内に立場を築き上げていた一人の人物だった。