Episode_01.01 ユーリー少年
アーシラ帝国歴489年 秋
狩人は息を詰め、小さな沢を見下ろす岩場に潜んでいる。朝霧が掛かる早朝からずっとこの場所に陣取っているのだ。眼下には森の木立に切れ目を作る小さな沢が流れている。九月終わりの秋の日差しが柔らかな光の手を差し伸べているが、狩人は敢えてその日差しから身を隠すように岩場の陰に身体を押し込んでいた。
狩人の体格は小柄で、まだ少年と呼んでも良い年頃のようだ。だが、一端の狩人のように岩場に潜む彼は、まるで周囲に同化したように気配を上手く消していた。その証拠に、近くの岩場では、山鳥のつがいが囀りを続けている。
囀り続ける山鳥の様子に安心を覚えた少年の瞳は、眼下の小さな沢に水を飲みに来た鹿の親子の動きを追っている。二匹の小鹿が親鹿の周りをじゃれ合うように跳ね回り、時折止まっては水面に口を付けるという動作を繰り返す。そんな小鹿を見守る親鹿は、時折少年の潜む岩場とは逆の方向を伺う素振りを見せるが、少年の潜む岩場の方には全く注意が向いていない様子だった。
この岩場は、少年が狩りの師匠から教えられた穴場の一つだった。その師匠から、
――頻繁に使うと獲物に警戒されるからここぞという時に使うんだ――
と言い聞かされている少年だった。ここぞという時とは、今の季節のように冬支度を始める時期のことである。雪が降り、冬が本格的になるのは未だ二か月以上先の事だが、何事も早めに準備を始めるのが少年の暮らす開拓村の流儀であった。
眼下の小さな沢でじゃれ合う獲物を瞳に捉えた少年は、ゆっくりとした動作で矢筒に手を伸ばす。その左手の弓は狩の師匠お手製の丸木弓。大きさは短弓だが、引く力は少年にぴったりと合せてある。そして矢筒の中の矢は鉄製の鏃以外は少年の自作だった。しかし、鉄という素材は開拓村では貴重なため、鉄鏃の矢は三本しか矢筒に入っておらず、他の矢は木を尖らせただけの単純なものであった。
少年の指先は、矢筒の上で一度躊躇うが結局木の矢を掴むと静かな動作で弓につがえる。そしてゆっくりと静かに引き絞る、その動作は少年ながらに手慣れた狩人の所作であった。
(親鹿は大きすぎて仕留めきれないかもしれない……やっぱり小鹿の方だな)
そんな風に割り切って考えようと努める少年であるが、それでも矢を射る手前で躊躇いを感じる。
生きて行くためには必要な事といっても、眼下の水場で憩う鹿の親子に自分がこれから行う仕打ちを考えると嫌な気分が湧き上がってくるのだ。
(子供が死んじゃったら、あの母鹿は悲しむだろうな……)
そんな風に考えてしまうのは少年が母親を知らないから、かもしれない。そんな少年は、一度目を瞑ると師匠の言葉を思い出す。
――必要な分だけ森から分けて貰う。狩人の心得だ。このことを忘れなければ、後は同じ生き物として当然の行為だから気にすることじゃ無い……お前だって肉は好きだろ?――
厳しい暮らしが常である開拓村で狩人の勤めを担う少年は、獲物を食物に変える術を心得ている。それでも、良く焼かれた鹿肉や塩漬けにされた野豚の肉といった大好物と、眼下で戯れる小鹿は中々同じ物として結びつかないのだ。
そんな事を考えながら目を開けると、小鹿の片方が動きを止めて少年の隠れる岩場を見上げる様子になっていた。
(目が合った?)
そう思った瞬間、少年は反射的に矢を放っていた。山鳥がその気配に驚きパッと飛び立つ。
矢は真っ直ぐに飛ぶと、岩場を見上げていた小鹿の喉に深く突き刺さる。矢を受けた小鹿はその瞬間にパッと飛び跳ねると、そのまま倒れ込んだ。一方、親鹿と残った小鹿は突然の出来事に驚くと、飛び跳ねるように草むらに逃げ込んでしまった。
「はぁ……」
少年は詰めていた息を吐き出すと、沢へ駆け下りる。そして、馴れた手つきで山刀を使い小鹿に止めを刺した。その後、少年は近くの木の枝をヘシ折り小鹿の足を括りつけ運べる状態に整える。テキパキとした動作は矢を射る前の刹那の感傷など無かったかのように感じさせるものだ。
結局、獲物として仕留めてしまえば、考えることは「早く村へ帰らなきゃ」とういう事である。時間が経ってしまうと血の匂いに惹かれた狼や野犬、最悪ならば梟頭熊といった魔獣に出くわしてしまうかもしれない。
少年の狩場は比較的村に近い山中で、それほど危険という訳では無いが、無用に狩場を汚してしまうと村全体に危険が及ぶ可能性出てくる。そのため、仕留めた後は狩場を血で汚さず、素早く立ち去ることが師匠の教えであった。
少年は作業の合間に気配を感じて山の斜面を見上る。すると、先程の親鹿が自分の方を伺っているのが見えた。チリッと心が痛む少年だが、親鹿は直ぐに茂みの中へ姿を隠してしまった。その様子に少年はもう一度溜息を吐くと、肩に担ぎ上げた獲物の重さにヨタつきながら村への帰路を急ぐのだった。
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少年の住んでいる村は、リムルベート王国の北部、テバ河上流域に広がる森林地帯にある小さな開拓村 ――住人達は「樫の木村」と呼んでいる―― である。人口五百人未満の小さな開拓村は良質の樫材や杉材など木材を産出する土地柄、村人の半数以上が林業に従事している。
ここ一帯にはこういった開拓村が点在しており、近隣のウェスタ侯爵の領地になっている。そんな開拓村の一つである樫の木村はウェスタ侯爵の開拓村の中では比較的新しい村だ。所在地は人外の魔境と恐れられ「暗く深き森」と異名を取る北部大森林地帯のすぐ南側という場所だ。この村から北には認知されている人間の集落は存在しないため、リムルベート王国の実質的な北限地とされている。
少年は村の東側の入口を入ると、少し小高い場所に建っている一軒の家の前に立つ。ここが少年の狩りの師匠の家であった。そして、少年は入口の木戸の前に立つと大きな声で、
「ルーカさん居る? 小鹿とってきたよ!」
と師匠を呼ぶのだ。
家の中から返事は無かったが、裏手から小柄な女性が姿を現した。綺麗なストレートの金髪に白い肌と切れ長の目が印象的な美人である。髪の間から先の尖った耳が覗いていて、どうやらエルフ族の女性であることが分かる。正確には純血のエルフ族ではなく、人間との混血、所謂ハーフエルフという存在だ。
「あらユーリー。ルーカなら、多分あなたのお爺ちゃんのところに行ってると思うわよ」
そう返事をしたハーフエルフは、少年の狩りの師匠ルーカと共に住んでいるフリタという女性だった。ルーカとフリタは二人揃って樫の木村が出来た頃から住み着いている住人である。そんな男女が夫婦なのか兄妹なのか、それは少年の知らないことだった。
「そうなんだ、じゃぁフリタさん。この小鹿よろしくね」
「あら、立派な獲物獲ってきたじゃない。ユーリーももう一人前かしらね」
綺麗な顔に悪戯っぽい表情を浮かべるフリタにそう言われると、ユーリーと呼ばれた少年はちょっと照れくさそうに頬を赤らめる。そして、フリタが出てきた家の裏側に回ると獲物の小鹿を作業台の上に乗せた。そのユーリーに、後ろからフリタが声を掛ける。
「そのままでいいわよ、後はちゃんと処理しておくからね」
ありがとう、とユーリーはフリタに言うと村の中心に向かって駆けていった。
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ユーリーのお爺ちゃん ――正確には養父だが―― は樫の木村の相談役をやっている。村長は別にいるのだが、村の最高齢であり特殊な経歴の持ち主でもあるため、ユーリーの養父は村長が非常に頼みにしている存在なのだ。名をメオンと言うが、皆メオン老師とか長老とか呼んでいる。今年で七十九歳という高齢であるが、腰も曲がらず矍鑠としたものである。そんなメオン老師の家に今三人の男が集まり何事か相談している。
樫の木村には今年の春から或る悩みの種が存在していた。それは今年の春に、小規模な地滑り跡で発見された「怪しげな洞穴」にまつわるものである。
その洞穴は、村から西へ少し離れた森の中の斜面で、冬の間に出来た地滑りの跡で発見された。その場所は隣の「楡の木村」に続く道のすぐ北の森の中であったため、森で作業をする木こりの男達によって発見されたのだ。
木こりの男達は直ぐに村長にこのことを知らせた。そして、村長の依頼で今メオン老師の家にいる四人 ――メオン老師・ヨーム村長・ハーフエルフの狩人ルーカ・木こりの纏め役ロスペ―― が検分に出向いたのだ。
現地に着いた四人はその洞穴に入ってみた。その洞穴は、中を少し進むと直ぐに石造りの扉に突き当たるという浅い穴だった。そして突き当りにある扉は、扉というよりも石棺の蓋のような造りをしており、その周りには何やら文字が彫りつけてあった。
メオン老師が言うには、文字は所謂魔法文字であり内容は、
――この扉開けんとする者に告げる、奥にあるのは災厄のみ――
というものだった。
その時は、冒険者の真似事をして扉を開けてみようというヨーム村長の意見もあったが「触らぬ神に祟り無し」と言う事で、それ以上石棺の扉には手を付けず、近い内に洞穴を埋め戻すことに決めて、村に引き返していた。ただ、ルーカがエルフ族独特の感覚で察知した、
「瘴気というか死者の気配というか、良くない空気が閉まった扉から吹き出しているようだ」
という言葉が、全員をうすら寒い気持ちにさせていた。