水曜日の王国
水曜日の放課後は秘密基地で秘密会議をするという約束事があった。
小学3年生になる桜と茜は一番の親友同士だった。
親友の証に、秘密の交換だってしたのだ。
桜の秘密は、何時もは前髪で隠れているけれど額に小さな傷があること。それは幼稚園生の時に転んで切ってしまった傷だった。よく見なければ分からないくらいに小さいけれど何処か特徴的で一度見たら忘れられない不思議な傷跡だった。桜にとっては恥ずかしいものだった。茜の秘密は好きな男の子のこと。茜は同じクラスにいるユウタのことが好きだった。クラスで一番足が速くて頭も良い。みんなの人気者でクラスの中心だ。それを知った桜は、私がキューピッドになってあげると盛り上がって、茜は止めてよと恥ずかしがった。
一見すればおしゃまで目立ちたがりの桜と引っ込み思案な茜だけれど、誰よりも互いを大事に思っていた。
二人は誰も知らない秘密を共有していた。
二人にとっての秘密基地は、桜の祖父の裏庭にあった。
桜にとっての祖母が健在な時は、小さいながら華やかなに手入れされてあったらしい庭園の面影はない。けれど、茫々に生い茂った雑草は二人にとっては薬草畑で、時折咲いている名も無い雑草の花は宝石の花だった。そして何よりも、二人の秘密基地に欠かせないのは異世界へ通じる井戸だった。
実のところはなんてことの無い井戸で、使う必要性もなく危険だからとコンクリートの蓋をしているだけだ。それでも危ないからと祖父からは近づいてはいけないと桜は言い聞かされてきた。
けれど好奇心旺盛な小学生の二人にとっては「バレなければ」どうってことはないのだ。
この秘密基地は二人の秘密の王国だった。二人の決まりが王国の決まりだ。
井戸は玉座になり、コンクリートの蓋はふかふかのクッションにできた。
その玉座に座る二人は王女さまでお姫様になる。
水曜日の二人だけの秘密。
水曜日だけの秘密の王国。
何時もの水曜日に二人は秘密の王国へと帰還した。駄菓子屋に立ち寄りチョコレートとアメを買ってきた。ピンクの水筒には紅茶をいれてきた。今日はお茶会をするのだ。
茜とユウタくんを進展させる作戦を立てようか、それとも王国の新しい決め事を考えようか。
今日の女王さまは桜の日だった。
女王は一番に玉座に座る。何時ものように玉座に座ろうとしたところで、ひゅん。そんな音が聞こえそうなくらいに呆気なく見慣れた友人の姿が消えた。間もなくして聞こえたのは、「キャアアアアアア!」という悲鳴だった。
「桜ちゃん!?」
「たすけて!たすけて!」
茜の耳には確かに、桜の声が聞こえた。反響しあって聞き取り辛いが間違えることはない。たった今まで一緒だった親友を間違えたりしない。
何が起こったのか理解できず、茜は青褪め、震える。
「どうしよう」
「たすけて!たすけて!あかね!いるんでしょう!?」
「ま、まってて!」
震える足を必死で動かして、桜の祖父宅のドアを叩いた。
「おじいちゃん!おじいちゃん!」
「どうした?」
桜の祖父は、普段は大人しい茜の必至な声に何かあったのだと察した。茜はただ、「桜ちゃんが、桜ちゃんが!」というだけだった。
「落ち着いて、桜がどうした?」
「どうしよう!落ちちゃったの!」
さーっと祖父の顔も青褪める。落ちた、そう言われて何のことだろうと思ってから二人の遊び場を思い出した。落ちたとなると、あの井戸以外にありえなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「大丈夫だから、少し待ってなさい。大丈夫」
混乱して泣きじゃくる茜を宥めながらも、桜の祖父も動転していた。
「おじいちゃんは消防に連絡をするから、茜ちゃんは此処にいなさい」
「うん」
桜が落ちてから30分程経過していた。
井戸からはぱしゃぱしゃと藻掻く水音と小さな悲鳴が響いていた。
「ねえ!茜!おねがい、たすけてよ!」
見上げる空は高く小さい。茜は私を見捨てたのかしら。そんな不安がよぎっては、誤魔化すように声を上げた。
「たすけて!」
一人ぼっちは怖い。必死に「何か」にしがみついた。桜の眼には暗くてよく見えないが、触感は腐敗したような木だった。気持ち悪いが何時までも立ち泳ぎをするのは辛かった。
「おーい!」
頭の上から音が聞こえる。桜は声を張り上げた。
「たすけて!」
「大丈夫、すぐに助けるから」
優しい声に桜はやっと、安堵する。じわりと涙がにじんだ。
茜は太いロープを背負いながら井戸に入って行った消防員を見ながら未だ不安になっていた。桜の声が聞こえない。助けてという声が聞こえない。
桜ちゃんは、もしかして。そんな恐ろしい不安が過る。どうしておじいちゃんの言葉を無視したんだろう。どうして井戸の上でなんて遊んでいたんだろう。よくよく考えれば危ないことだってわかっていた。なのに全部バレなければ大丈夫だからと二人で笑いあった。おじいちゃんは大げさだ。コンクリートなのだから簡単に割れたりなんてしない、壊れたりなんてしない。茜のおうちのマンションだってコンクリートでしょうと言われて納得した。なんてばかなんだろう。
(かみさま、かみさま)
誰に祈れば分からず茜は何処かの神様に祈った。
(いい子になります、ちゃんと言いつけを守ります。だからおねがいです。桜ちゃんをたすけてください)
必死に願っていると、井戸から歓声が沸いた。何処から来たのかカメラマンがフラッシュをたいている。人ごみの中から何かを背負う消防員が姿を見せた。きっと、背負われているのは「桜ちゃん!」叫びながら駆けだした茜はするりと大人の中をくぐり抜けた。大人が制止しようとするのも、何も見えずにまっしぐらに桜に駆け寄る。
桜はぐったりとしているが大きな怪我をしているようではなかった。井戸の中で水をかぶったのかぺたりと髪が張り付いている。
「桜ちゃん、ごめんね。ごめんね」
茜はごめんねと押し付けた。そんな二人の様子を大人は優しく見守ろとして、それでも桜の様子を診なければならない。職員の女性が泣く茜の背を優しく押して、消防員は救急車に乗り込んだ。
ちらりと桜の横顔を見た茜は違和感を抱いたけれど、背中を押されるまま秘密基地を跡にした。
「三倉さん少し良いですか」
消防員に声をかけられたのは桜の祖父だった。仕方ない。敷地内での事故なのだから仕方ないことだ。
消防員は井戸の様子、蓋は何時設置したのかだとか、亀裂が入っていた様子はあっただとかそういったことを聞き取った。
「5年ほど前に設置したきりで、点検はしていましたが……。まさかこんなことになるとは」
消沈した様子を見せる老人を労わるように、消防員は声を掛けた。
「お孫さんは大きな怪我は無いようですし、大丈夫ですよ」
「ええ、本当に、ありがとうございます」
目を伏せる。居た堪れなさで吐き気すらした。
子どもを引き上げた消防員は既に撤収をして、見守っていた野次馬やマスメディアも何処かへといなくなっていた。普段は孫とその友人それから自分が入る程度の裏庭は散々に、荒れている。
「すまんなあ桜」
誰もいなくなった庭で、井戸にむかって声を掛ける。
「だがなあ、お爺ちゃんはちゃんと言ったぞ?井戸には近付くなって。それをお前はなあ……」
言ったところで既に手遅れだとは分かっていても言わずには居られなかった。
孫の友人はもう来ないだろう。
倉庫から取り出したのは、コンクリートで作られた蓋の前に使用していた木製の蓋だった。随分と古いが、無いよりはマシ、といった程度のものだ。
「それでは、な」
「どうして!?此処だよ!桜はここにいるのに!」
暗い穴を見上げて、藻掻く子どもの声が深い井戸に響いた。其処には誰もいない。ただただ暗闇が広がっていた。
誰もそれを知ることは無い。