08:君と約束
ピンポーン
環が忙しそうに台所に立って動き回っていると、来客を告げるインターホンが聞こえた。
「えっ、もう来たの? とりあえずこれレンジに入れてからー!」
そう言って環は卵を入れた器をレンジに入れて加熱ボタンを押すと、急いで玄関に向かった。
今日は約束していた、光希が環の家にやってくる日。
昼過ぎに来ると言っていたから、今のインターホンを押したのは光希だろうと予想しながら玄関の扉を開ける。
「こんにちは」
「いらっしゃ……」
いらっしゃい、と笑顔で迎えようとした時。
――ボバンッ!
「な、なにっ?」
突然の爆発音にバッと家の中を振り返った。
そして、ゆっくりと二人は互いの目を見合わせる。
「何か心当たりは?」
「な、ないよ? ただ昼ごはん食べようとしていただけだから……!」
本当に身に覚えがなのだろう。何が起きたのかわからずに、狼狽える環に光希は一つ息をつくと、落ち着いた声音で問いかける。
「……上がってもいい?」
「う、うん。どうぞ」
「タマちゃんは後からついて来て。おじゃまします」
言いながら光希は環の家に足を踏み入れた。
音が聞こえたのは右側から。
玄関を入ってすぐ右側にあるドアに手をかけると環を振り返った。
「ここは?」
「キッチンとリビング」
「わかった」
静かにドアを開けて慎重に中の様子を伺う。
人がいないことを確認して更に奥にある台所に向かおうとした所で、レンジからもうもうと煙が立っていることに気付いた。
「うっわ、何? タマちゃん、レンジに何したの?」
見るからに異常をきたしているレンジを見て、先程の爆発音は間違いなくこのレンジが上げた悲鳴だとわかる。
「何もしてないよ! ただタマゴを入れただけだけだから!」
焦ったように答える環の言葉に光希は、固まった。
今聞き間違いでなければ。
タマゴをレンジに入れたと言ったような気がする。
「……タマゴを? レンジに?」
「うん」
「もしかしなくても生タマゴ?」
「うん」
「……なんで?」
「ゆでタマゴを作ろうとしたからだよ?」
「まさか、生タマゴのまま、何もしないで?」
「うん。もちろん」
水を張った器ならともかく、あんなに柔らかい殻で包まれている生卵をそのままレンジに入れれば間違いなく卵は爆発する。
「ゆでタマゴはね! 茹でるからゆでタマゴって言うんだよ! レンジに入れたらただの爆発物―!」
「そうなの?」
「そうなんですよー……」
いまだに自分が何をしでかしたのかわかっていない様子の環に、光希は疲れたようにがっくりと肩を落とした。
そのままレンジのドアを引けば、中は見るも無残な惨状となっていた。
「うわー。生タマゴの威力ってすごいんだね……」
「いつも昼ご飯どうしてたの……」
もう疲れたような声しか出てこなかった。
「いつもは母さんがレンジで温めればいいようにって用意してくれてたんだけど、今日は寝坊したみたい。自分で適当に作って食べようとしてたんだ」
「なら俺がレンジを拭いておくから、タマちゃんはお昼食べてて。カップラーメンとかあるならそれで」
「あるある! 買い置きのカップラーメンがあるからそれにする。月城君はお昼ご飯は?」
「食べてきたから気にしないでいいよ」
穏やかで優しくて、なんとなく勉強もできるように見える環の雰囲気は家庭的で。
だからこそ勝手に料理もできるのかと思っていたが、実は壊滅的だったとわかって、そのギャップがなんだか可愛らしくて光希は環には見えないように笑って、環が昼食を食べている間に簡単に片付けてしまおうと光希はせっせとレンジの中の掃除を始めた。
「ごちそうさまでした。ごめんなさい。来るなりこんなことさせて」
「いや、中々ない体験させてもらったよ」
友達と言えど初めて家に来た光希に掃除をさせてしまった事に環は素直に謝った。
そしてようやく中を拭き終わった光希の顔を見て小さく吹き出した。
「月城君、顔に殻がついてる」
クスクスとおかしそうに笑う環に光希は大きな溜息をついて見せた。
「もう、誰のせいだと思ってるの?」
「ごめん、ごめん。私のせいだね」
そして二人はやってくるなり大仕事を片付けてから環の部屋に向かった。
「好きにしてね。さっきのでわかったと思うけど、何のお構いもできないので」
「タマちゃんだって勉強があるんでしょ? 気を遣わなくていいんだよ。さすがに俺だって邪魔はできないから、お言葉に甘えて漫画でも読ませてもらうよ」
言いながら光希は本棚にあった漫画を一冊手に取った。
ペラリとページを捲って導入部分を読みながら環に声をかける。
「食べたばっかりで悪いんだけど、夕飯の予定は?」
「決めてないよ。何か作るか、外に行くかって感じかな。どうしようか?」
「キッチンを借りていいなら俺が作るよ。タマちゃんは料理しない方がいいし」
「なんか、さっきので大分、料理に関する信頼がなくなったような……後で買い物に行こうか」
「まあ……爆発すればね……。今日はこのままゆったりしていたいから、何があるのか見てから決めようか」
それきり会話はなくなり、環がノートに走らせているシャーペンのサラサラとした音と、時折光希が読んでいる本や漫画のページを捲る音だけが聞こえた。
二人の吐息が溶けあったような部屋の空気は、心地がよかった。
「そうだ、月城く……」
ふと、夕飯はどうするのだろうかと聞こうとして環が光希を呼ぶが、返事がなかった。
机に向かっていた身体を椅子の上で反転させると、光希がテーブルの上で突っ伏して眠っていた。
「……月城君?」
今度は遠慮がちに呼んでみるが、起きる気配はない。
部屋の中は暖房が効いていると言っても、このままでは風邪をひいてしまう。
死神も風邪をひくのかな、などと考えながら環は毛布を取り出すと、光希を起こさないようにそっと毛布を掛けた。
「良く寝てる」
言いながら見つめるのは光希の寝顔。
初めて会った時も口にこそ出さなかったものの、その容姿に驚いていたが、こうして改めて見ると光希の容姿がどれだけ整っているのかがわかった。
普段は良く見ることができない光希の顔をもう少しだけ見ていたくて、環は光希の隣にちょこんと座った。
「かっこいい、な」
言いながら環の手がゆっくりと光希の頬に伸ばされる。
触れる直前に躊躇ったものの、光希を起こさないようにと恐る恐る、環の指先は光希の頬に触れた。
やはり温度を感じない。手は届くのに光希の温もりは届かない。
「やっぱりだめか……。触ってるのに」
こてんとテーブルの上に頭を預けながら再び光希を見る。
本来ならもう会うことはなかった相手。
見る事も話す事もできない相手だったのだ。
それでも、話しているだけで、笑いあっているだけで胸が高鳴るのを止められなかった。
「こうしているだけでも十分だって思わないといけないのにな」
そう言いながら、環の意識はトロトロとまどろんで、やがて沈んでいった。
「ん……?」
左側の頬に違和感を覚えて、光希の意識は浮上した。
そういえば環の部屋で本を読んではずが、いつの間にか眠っていたらしい。
意識と視界をクリアにさせようと何度か瞬きした所で目の前に何かがあることに気付いた。
「え、タマちゃん?」
そして目の前にあったのが環の頭だったことに気付いた瞬間に光希の心臓は、その近さに跳ねた。
これは一体どういう状況なのだろうか。
光希には毛布がかけられていた。
眠ってしまった光希に環がかけてくれたのだろう。
そして環は隣に座ってそのまま眠ってしまった、という所か。
「疲れているのにね。ありがとう。でも」
光希は環の肩に手を置いて優しく揺らしながら声をかけた。
「タマちゃん、起きて」
「んー、もう、ちょっと……」
「だーめ。ホラ起きる!」
いくら可愛く言ってもそこまで甘くはないと伝えるように光希は環の鼻を軽くつまんだ。
「うにゃ……ひゃめてー」
さすがに鼻をつままれると目を覚まさないわけにはいかなかったのか、環がゆっくりと身体を起こすと、お返しとばかりに光希の鼻先に触れて、スルリとその手を左側に頬に滑らせた。
「テーブルで寝るから跡がついてるよ」
「ついね、居心地が良かったから」
決してつまらなかったわけではないと言外に伝えた。
「うん……」
環の手は光希の頬を撫でるものから、確かめるようなものになっていたが、光希は何も言わずに好きにさせていた。
「月城君は死神なんだね」
「そうだよ」
「こうしていると私と全く変わらないのにね」
「うん。でも。どれだけ取り繕っても俺の仕事は人を殺すことだよ。だから、いつか。……君も殺すよ」
最後に少しの間があったことに環も気付いていた。
気付いていながら、知らないふりをした。
「うん。なら私がいつか死ぬ時は月城君に来て欲しいな」
「いいよ。もっとずっと先。君がおばあさんになって、俺のことを忘れていても、この姿のままで君に会いに来るよ」
「うん。待ってる」
いつかの約束に二人は胸にある寂しさを押し込めるように笑いあった。
「よし。それじゃ夕飯作ってくる。キッチン借りるね。タマちゃんはこれまで居眠りしていた分の勉強を頑張ること」
「えー」
元々そのつもりだったが、光希に言われると何となく甘えてみたくなって環は頬を膨らませた。
本当は、少しだけ光希がキッチンに立つ姿を見たいと思っていたから。
「えー、じゃないでしょ。ほらやる。ちゃんとやったらご褒美あげるから」
ご褒美という言葉に環は反応する。
もちろん光希からのご褒美という言葉にだ。
キッチンに立つ光希はこの後いつ見られるかわからないが、ご褒美だって捨てがたい。
ならば光希がキッチンに立つ姿はトイレだと称してこっそり見るだけに留めておこうと決めた。
「わかった。楽しみにしてるね。ご褒美」
ご褒美という言葉に反応して、貰う気満々でいる環に光希はプッと吹き出すように笑った。
「あんまり期待されても困るけど、もう貰う気でいるんだ?」
「自分でこういうこと言う方じゃないけど、今だけね。結構成績優秀なんだよ」
「へえ、俺と同じだ」
「月城君は自分でエリートとか言ってるから、そこは違うもん。私は普段は言わないよ」
「はいはい。それじゃ俺は行きますよ」
「うん。ありがとう」
キッチンは一階、環の部屋は二階。
距離は多少あるものの、光希がキッチンで料理をしているらしい音が時折耳に届いた。
それは、まな板で野菜を切っているらしい軽快なリズムに乗った音や、鍋かフライパンだろうか。それを用意しているらしい金属の音。
どれもが些細な音だったが、小気味よい音だった。
そんないつもと同じ、だが母親とは違う光希の音を聞きながら、環も次第に勉強に集中していった。
やがて、良い香りに鼻孔をくすぐられて、環がハッとしたようにノートから顔を上げた。
かなり集中していたが、時間はどれだけ経っているだろうかと時計を確認すれば光希が部屋を出てから一時間が経とうとしていた。
そのことにホッとして、そろそろ光希を見にトイレに行く振りでもしようかとした時。
『タマちゃん、ゴハンできたよー』
良く通る光希の声が聞こえた。
「しまった、見逃した……!」
集中できた充足感の代わりに見逃してしまった光希のレアな姿に環は肩を落とすが、それを励ますかのように環の腹が鳴った。
「全部いっぺんには欲張りすぎたね」
今日一日こうして過ごせただけでも満足なのだ。
これ以上を望んだらきっと罰があたる。
そう思う事にして、環は一階へと降りた。
「これ、本当に月城君が作ったの?」
並べられたものはパスタとサラダとスープといったものだが、料理が得意ではない環からしてみれば驚きのメニューだった。
「まあねー。と言ってもどれも簡単なものばかりだよ。パスタは茹でればいいし、このスープは煮込めばいい。サラダは野菜を切ればいいだけだからね」
「そうだったとしても、味付けは別だよ」
「ま、そこは慣れだよ。今は寮に入ってるけど仕事で用意されてる食事を食べ逃すなんて良くあることだし、寮の冷蔵庫にあるもので適当に作ってるんだ。冷蔵庫のものは好きに使っていいって言われてるからねー」
「そうなんだ」
だから、今日も買い物に行こうかと言った時に、このままゆったりとしていたいから、と言ったのかと納得できた。
「さ、食べて食べて」
「いただきます。……おいしい!」
言われるままにパスタをフォークに絡めて、口元に運ぶと、何回か咀嚼した後に環の顔が綻んだ。
パスタはキャベツとベーコンのペペロンチーノだった。
昼間の一件で環が激辛好きだとわかったからか、母親が作るものよりも辛さがあった。
その分、キャベツの甘みもしっかりと感じられる。
「すごい、ピリッと辛いけどキャベツが甘いよ、おいしい! 月城君すごい!」
「口に合ったみたいで良かったよ。それじゃ俺もいただきます。自分で言うのもなんだけど、美味しいね」
「こういうの、自分でもできればいいのにな」
「タマちゃんはしばらくは料理しないこと。あれはもはや事件だからね……」
「あー、うん。それはまあ」
昼間の大惨事を思い出して環は素直に頷く。
それから二人は光希の作った料理を口に運びながら、楽しそうに食卓を囲んだ。
「んー! お腹いっぱい幸せ! ごちそうさまでした!」
「おいしそうに食べてくれるから、俺も作ったかいがあったよ」
「いつもはもっと少ないけど、今日はおいしかったから、つい食べすぎちゃった」
「それは嬉しい褒め言葉だね」
二人で片付けをして部屋に戻って時計を見れば、夜の八時を過ぎていた。
もうそろそろ光希も帰る時間だろう。
そう思うと笑いあっているのに、環の心は沈み始めていた。
別れがたかった。
光希はただ伊藤の一件で環に何かあったらと、その責任感で環に会いに来ているだけなのに、会う度に次はどうしよう、どこに行こうと考えて、光希を思い出すと胸が躍った。
だが別れの時間が近づくとどうしようもない寂しさが募った。
今もそう。
いっそ光希が人間だったらと考えることもあった。
一度や二度じゃない。
人間同士だったら連絡先を交換すればいつでも連絡は取れる。
会えなくても声は聞ける。
文字で言葉を、気持ちを伝えることができる。だが、光希は死神。
好きになってもどうにもできないとわかっているのに、会う度に惹かれていった。
心が光希を求めていた。
環は思わず俯いた。そんなことをしても時間の流れは止まらないとわかっていても。
「タマちゃん? どうしたの?」
嬉しそうに笑っていたかと思えば、急に俯いてしまった環に光希が声をかけるが環は頭を横に振るばかりだった。
「…………」
光希はそれきり黙ってしまった。
俯いたまま何も答えようとした環に呆れてしまったのだろうか。
気付けば先程までの心地よい空気はどこかへと消えてしまっていた。
空気を悪くしたいわけでも、喧嘩をしたいわけでもない。
ただ、寂しいと言いたかった。
でも、それは光希を困らせるから言えなかった。
「……寂しい?」
光希の一言に環は目を瞠った。
どうして気付かれてしまったんだろうか。
顔を上げて光希がどんな表情をしているのかを確かめたい。
言葉からは呆れや困惑は感じられないが、光希は何を思ってこの言葉を口にしたのだろうか。
だが顔を上げてしまえば、寂しいのかという問いを肯定することになる。
そんな環に光希はゆっくりと言葉を続けた。
「もし、タマちゃんが今、寂しいって思ってくれてるならさ。次はデートしようか」
「デート……?」
「そう。今まではタマちゃんの様子を見るって言う大義名分の前で会っていたけど、そうじゃなくてさ。約束しよう。ただ二人が会いたいっていう理由で会う、約束」
その言葉にやっと環が顔を上げた。
ようやく見た光希の顔は、真っ直ぐに環を見る真面目なものだった。
どうかな、と続けられた言葉に環はやっと小さく頷いた。
環の返事を聞いた光希は安心したように良かったと言って笑った。
そして額をちょこんと触れ合せて光希は小さくありがとう、と呟いた。
「ありがとう、はこっちのセリフだよ」
まさに目と鼻の先で絡む二人の視線。
触れ合せていただけの額をじゃれあうように軽く押し付けたり、擦り合わせたりしていた。
光希が顔を左右に振る度にその前髪にツンツンと目の周りを突つかれてくすぐったかった。
「くすぐったいよ」
「いいでしょ。なんか楽しい」
「もう」
こんなじゃれあいがまたくすぐったかった。
意味のない言葉のやりとりが甘く沁みるようだった。
先程までの寂しさを溶かすように。
そして、環の目の前が暗くなった直後。
二人の唇が重なった。
「……ん……」
「タマちゃん……」
「うん……」
「……タマちゃん」
重ねるだけの唇は名前を呼ばれる度に角度を変えて、その度にチュッと濡れた音がした。
「あ……」
最初はされるがままだった環も、次第に光希を求めて、柔らかい唇が押しつけられた時に軽くその唇を吸い上げた。
「んっ……んん」
何度も何度もそれを繰り返して、長い時間戯れのようにそんなキスを続けた唇が離れた時、光希は最後のオマケとでも言うように環の下唇をペロリと舐めた。
互いを求める目にも熱が灯っていた。
再びすぐ近くで視線が絡んだ時、光希が囁いた。
「タマちゃん……名前、呼んで……」
「っあ……光希、くん」
光希の言葉だけを追うようにしながら、環は誘われるように名前を呼ぶ。
名前を呼ぶ、たったそれだけで心が熱くなるようだった。
こんな、触れるだけでも気持ちがかき回されるようなキスをされてしまったら。
「環……」
光希に名前を呼ばれると気持ちまで溶けてしまうようだった。
――好き
思わずそう告げそうになって、初めて環は自分の光希に対する気持ちを知った。
頭のどこかでわかっていたはずなのに、名前が付くとフワフワとした気持ちにハッキリとした輪郭が生まれた。
信じられなかった。
こうしてキスをして初めて気持ちの名前を知るなんて。
だが、心の中で好きだと思えば思う程胸の辺りがカアッと熱くなった。
そんな時。
光希はほんの一瞬だけ唇を離すと、小さく笑った。
意地悪そうなその顔にもまた環の胸は熱くなった。
息継ぎで唇が離れた時、トロリとした目で光希を見ると、光希の切れ長の瞳は切なげに環を見ていた。
「こうきくん……」
思わず好きだと言おうとした唇を、光希は人差し指で制した。
「言っちゃだめだよ」
「どうし……ん……」
再び唇を奪われた。
どうして言ってはいけないのか。
「言ったら、ダメなんだ。ごめん」
そう言うのに光希のキスは止まらなかった。
どうして気持ちを伝えてはいけないのか。
それなのに、なぜ光希はキスをするのか。
キスを止めてくれないのか。
死神と人間だからなのか。
そう思うとただ熱かっただけの胸がズキリと痛んだ。
環の身体は熱くて蕩けてしまいそうなのに、光希の身体はどうなっているのだろうか。
光希も環と同じように気持ちがいいと思っているのだろうか、同じように求めているのだろうか。
その身体を熱くさせているのだろうか。
どれだけ触れても光希の体温がわからなかった。
伝わらなかった。
このキスの光希の気持ちが見えなくて切なかった。
ずっと近くにあった光希の顔が離れていった時には、環の目はトロリと蕩けていた。
そんな目を向ける環を光希は優しく撫でた。
「義理や義務、ましてや建前なんかでキスなんてしないからね」
「ん……」
「それじゃまたね」
今はただ光希と見送ることしかできなかった。
初めてのキスは甘くて、切なくて、苦しかった。
そんな切ない身体を環はきつく抱き締めた。
環の唇は柔らかくて、甘くて。
深く求めれば求めるほど甘さを増して光希を夢中にさせた。
止める事ができなかった。
もっと、もっと。
それこそ息をするのも忘れるくらいに。
だが、同時に。
伝わらない体温に苦しくなった。
うっとりとした目で光希を見ていた環が何かを言おうとした時、直感でその先を制した。
その言葉を聞いてしまったら止められそうになかった。
勢いのままに傷つけることはしたくないと思っていても、あの甘さを含んだ声で言われてしまったら、抗うことができない。
環の身体が熱くなっているのかもわからないまま、環を求めて、無茶をさせてしまいそうだった。
キスをしてわかった。
触れあっていることで確かに自分の心は満たされる。
だが、環の身体がどこまで熱くなっているのかはわからなかった。
気持ちが見えなかった。
こんな状態で気持ちを伝えあっても、きっと虚しくなるだけ。
気持ちを通わせる前よりも苦しくなるだけ。
だから今は、気持ちを伝えることができなかった。
――好き
その一言が酷く重くて苦しかった。
光希を踏みとどまらせていたのは、それを口にした時に越えてはならない一線を超えてしまいそうだったから。
出口のない迷路に踏み出して迷子になってしまいそうだったから。
そんな所に環を連れて行くわけにはいかない。
決して伝わらない温もりが光希に最後の一歩を踏み止まらせていた。




