表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しい死神  作者: ミナセ
10/14

09:さようなら




 環とキスをしてからの光希はまさに絶好調だった。

 確かに辛さはあった。

 キスをした後の環の切なそうな顔も、その後に感じた胸の痛みもはっきりと覚えている。

 それでも次にまた環と会える。

 二人で約束をしたデートまでもうすぐだと思うと自然と心は浮足立った。

 会った後のことや自分の気持ちを考えることはあった。

 だが、最後には早くまた会いに行きたいという気持ちが勝った。


 そして約束の日。

 光希の仕事は休みだった。

 いそいそと支度をして人間界に続く扉に向かうと、伊藤がいた。

 誰かを待っている様子なのは相棒の琴美を待っているのだろう。


「伊藤ちゃん達はこれから仕事? いってらっしゃーい」

 誰から見ても上機嫌だとわかる光希の様子に、変に絡むと話が長くなり、面倒なことになるとわかっている伊藤が短く応えた。

「まあな。これからデートか?」

「そうそう! タマちゃんとね。それじゃ!」


 環のことを知っているのは伊藤だけ。

 だから光希が聞かれて嬉しい言葉を引き出そうとした。

 答えは案の定、環とのデート。

 何も知らなければ名前を言っても、まさか光希のデートの相手が人間だとは思わないだろう。

 光希が環にそう言った意味で好意を抱いているのは、前に環に会いに行った時に気付いた。

 その時の環は光希をどう思っているかはわからなかったが、デートだと臆面もなく言い放つ光希を見ると、もしかしたらいい線をいっているのかもしれない。

 光希の性格を考えれば盛大に情報を盛っている可能性はあるが。


 死神と人間が結ばれる筈がないとわかっていても、自分が巻き込んでしまったことだからか、伊藤はただ二人を見守ることに徹しようと思っていた。

 死神と人間の恋が辿りつく先など、ないのだから。

 わかっていても、会うのを止められない気持ちは伊藤にもわかる。

 むしろ、結ばれないとわかっているからこそ気持ちが盛り上がることもあるのだろう。

 ならば、せめて自分だけは。

 二人が恋を諦めた時に話を聞ける場所に立っていようと決めていた。

 だから伊藤は光希を応援もしないし否定もしない。

 それが、自分の我儘で巻き込んだ二人に対する、精一杯の礼儀だと考えていた。

 そこへ今日の魂狩りのリストを手にした琴美がやって来て伊藤の背中をポンと押した。


「それじゃ行こうか。これ、今日のリスト。今日もよろしく」

 人間界に通じる重々しい扉の前で相棒である琴美から魂を狩る人間のリストを渡される。

 いつものようにざっと目を通して、伊藤の視線は下の方で止まったまま、縫いとめられた。


(どうして、この名前がここにある……?)


 見覚えのある名前は、同姓同名の他人ではなく、自分の知る人物だと名前の横に書かれている住所でわかった。

 すぐにでも光希を追いかけようと思った。だが。


「伊藤? どしたー?」

 何も事情をしらない琴美が、リストを手にしたまま驚きに固まる伊藤を訝しむように見上げていた。

 この動揺を琴美に悟られるわけにはいかなかった。


 今なら、まだ間に合う。

 人間界に向かった光希は少し前にこの扉を潜ったし、行き先もわかっている。

 だが光希を追いかける為には相棒である琴美を説得しなければならい。

 そして説得するためには自分がやらかしたことを全て話さなければならない。


 伊藤は考えた。

 何が最善で、自分はどう動けばいいのか。

 ここには、自分が死神になる前のことを罰せられるかもしれない、そんなリスクなど盛り込むことはしなかった。

 考えるにはまず絶対的なもの、変えられないことを軸にしなくてはならない。それは。

(ここに載っている以上は、覆す事ができない)

 リストに乗った人物の死は免れないことだった。

 その上でどうするべきか。


「ほら行くよー」

 いつまでも扉を潜ろうとしない伊藤に痺れを切らした琴美が伊藤を促して自分は先に人間界へと向かった。

「どこかのタイミングで光希に会いたいんだが……まずは仕事が優先か」


 絶対に覆すことができないのなら。

 その期限までは幾許かの時間はある。

 その間にどうやって光希と会えばいいのかを考えれば良い。

 今は少しでも動きやすくなるように、目の前の仕事を片付けるべきだ。

 最悪の場合は琴美に頼み込んで少しだけ仕事を抜けるようにしてもらうしかない。

 理由も言えない、誰に会いに行くのかも、どこにいくのかも、何をするのかも。

 そんな状態ではどれだけ怒られるかわからないが頼むしかない。

 そこまでを決めると伊藤は気を引き締め直して人間界へ続く扉を潜った。




 一人、また一人とリストにある人間の魂を狩り取って、あと二人で環の所に向かう番になった所で伊藤は時間を確認した。

 時間は三時すぎ。

 光希は何をしているだろうかと考えながら琴美に気付かれないようにそっと時間を確認するのはもう何度目になるだろうか。

 そろそろ仕事を抜け出さないと時間通りに事が運ばなくなってしまう。

 こうなったら琴美に頼み込むしかない。

 第一声はどうするか。

 そんな落ち着きのない伊藤に琴美は両手を腰に当てながら仕方なさそうに声をかけた。


「行きたい所があるんでしょ」

「琴美?」

「今日のリスト見てからずっとおかしかったからね。明らかに仕事に集中できてない」

「どうして」


 伊藤は何も言っていないのに、何故集中していない伊藤がどこかに行きたがっているのだとわかったのだろうか。

 病気や仕事の後に浮かれるような予定があるなどではなく、ピンポイントで。

「隠し通せてると思った? 私の方が大分先輩なんだから、仕事に集中できなければすぐにわかるって。ほら、早く行きなよ」


 琴美は伊藤に何も聞かなかった。

 聞かれて何も答えることができない今はそれが何よりもありがたかった。

 自分が琴美と同じ立場なら。

 こんな風に何も聞かずに送りだすことはできない。

 それだけ信頼されているのだ。

 いや、信じようとしてくれているのかもしれない。


「すまん」

「有能な相棒に感謝してね?」

 そう言ってニコッと笑う琴美に、改めて相棒が琴美で良かったと強く感じた。

「行ってくる。それと、一件だけ仕事を光希に回してくるな」

「わかった。帰ってきたら全部聞かせて貰うから、覚悟しといて」

「ああ。終わったら寮の部屋で待っていてくれ」

 琴美の力強い笑顔に後押しされて、伊藤は光希がいるだろう場所へと急いだ。




◆◆◆




「おっそいなー。塾の授業が遅れてるのかな」

 約束の時間は夕方の四時。

 デートをしようと言った時、今日なら塾が早く終わりからとこの日に決めた。

 外をぶらぶらと歩いて、夕飯を食べて、また外を歩く。

 この季節ならまだ飾られているイルミネーションを見に行くのもいいかもしれない。

 その下調べもさっきバッチリ済ませてきた上でやってきた、待ち合わせ場所。

 今はもう四時半。

 これまで時間に遅れることがなかった環に光希はどうしたものかと考えた。


 光希は死神なので携帯を持っていない。

 異界で使用できるものは持っているが、さすがに人間の携帯とは繋がるはずがない。

 環の塾の場所は知っているので、様子を見がてら行こうかと上半身を起こしかけた時に声をかけられた。


「光希」

 環の声ではない、でも聞き覚えのある声に光希はゆっくりと振り返る。

 そこにはいつものように人を揶揄うような笑みや、皮肉を口にする時とは全く違う伊藤が立っていた。

 肩で息をしているのは余程急いで来たのだろう。

「伊藤ちゃん、どうしたの」


 伊藤は光希に無言で一枚の紙を差し出した。

 今は何を言葉にするよりも、これを見て貰った方が早いと判断したのだ。

 見覚えのある紙はいつも仕事で渡される魂を狩る人間のリストの紙。

 何故そんなものをと不思議に思いながら光希は紙を受け取って、内容を確認する。


「……え?」

 その瞬間、光希は絶句した。

 見間違いではないかと何度も何度も見直しても、そこにある文字は変わることはなかった。


――望月環


 信じられないという思いと心臓がドクリと鷲掴みにされたような痛みで手が震え始めた。

 そしてそれは手にしている紙をブルブルと震わせた。

 一気にカラカラに渇いた喉をゴクリと慣らしながら、光希の目はやっと次の文字を追った。


――事故


「まさかタマちゃんが俺達の姿を見る事ができたのは」

「ああ。環は死期が近かったから俺達の姿が見えたんだろう」


 どうして気付かなかったのか。

 いくら伊藤が環の身体に入りこむといったアクシデントに見舞わされたと言っても。

 ずっと排除していた可能性。

 環には病魔の影が見えなかった、それだけで排除していた。

 環がまだ高校生だからとそのことを考えないでいた。

 死神として長い間その鎌を振るってきたのだから、いつだって死は隣り合わせにあると、わかっていたのに。


 光希はぐしゃりと音をたてて手のリストを握りしめた。

 環がこの場所に来なかった理由。

 代わりに伊藤が来た理由。


「どうする」

 伊藤がかけられる数少ない言葉の一つだった。

「……行くよ」

 ここでどうしてだと蹲ることも叫ぶこともできる。

 だが光希には約束があった。

 光希はぐっと歯を食いしばると前を向いて全力で空を蹴った。

 曇りのない目で環の元へと向かった光希を見て、きっと大丈夫だと伊藤は重い溜息をついた。


「説明しにいかないとな」

 既に仕事を終えて寮に戻っている琴美はきっと伊藤を待っているだろうから全てを洗いざらい話そう。

 伊藤はもう一つ溜息をついて異界に向かった。



◆◆◆



 光希は大きな病院にやってきた。

 突然の事故に環の家族はまだやってきていないようだった。

 真白い部屋の中で静かに横たわる環に、光希は手を伸ばした。

 そっと、そっと。

 振るえる指先が環の頬に触れた時、光希は息を飲みこんだ。


「――っ!」

 反射的に伸ばした手を引っ込めた。


「どうして……っ!」

 これまで、何度触れ合っても伝わることのなかった、環の体温。

 それが今、光希の指先に伝わった。


「どうして今なんだ……!」

 自分よりも少し冷たい環の身体。それを感じる指先。

 それは環の存在が光希達に近づいていることを意味していた。


 光希は死神。

 死を司ることはできても、生を司ることはできない。

 どれだけ助けたいと望んでも、生かしたいと願っても、できない。

 光希に唯一できることは、一刻も早くこの苦しみから救い出すことだけだった。


――死をもって


「何が……何が死神だ……たった一人、大事な人を助けることもできなくて、神を名乗るなんて……!」

 悲痛な叫びだった。

 何もできない無力さに打ちひしがれながら、光希は環の手を握った。

 その感覚に、閉じられていた環の目がうっすらと開いた。


「タマちゃん……!」

「来てくれたんだ」

 弱弱しく笑いながら、無理に話そうとする環に光希はただ首を横に振った。

「タマちゃん、俺は……っ」

 光希の声を聞きながら、環は再び目を閉じた。

「っ……! ごめん」

 他の言葉は浮かばなかった。

 やがて。

 環の身体から力が抜けていき、握りしめたてはゆうるりと光希の手をすり抜けた。


「タマちゃん……!」

 光希はその名前を呼ぶと、環の亡骸を抱き締めた。

「……最後の約束だけは、守るよ」


 死神の特別な力、その一つが声だった。

 人間で言う所の声紋、波長があり、対象となる人間の名前を正しく呼ぶことでそれが発揮される。

 魔法のような力の一つ。

 名前を呼ばれたことで身体から引きだされた魂を、その手にした鎌で分断する。

 だから光希は必ず環のことを『タマちゃん』と呼んでいたのだ。

 決して間違いが起きないように。


「モチヅキ、タマキ」


 これまで何人の名前を呼んだかわからない。

 それなのに、こんなにも口にするのを躊躇い、声が震えそうになったのは初めてだった。

 そして。

 もう二度と……味わいたくないものだった。


 光希の声に呼応するように、ゆっくりと環の身体から淡い光を放つ魂が現れた。

 丸くまとまりつつあるが、下の方は細く長く伸びて身体と繋がっていた。

 この細い線を切ることで魂と身体を分断させる、それで魂狩りは終了する。

 抵抗を見せる様子はなかった。

 光希は手にした鎌をただ振り上げるだけ、それだけで終わる仕事。

 なのに、ずっと手の震えが止まらなかった。


 今ならまだ。

 繋がっている魂を身体に戻せば、まだ。


 そんな考えが光希の頭の中から離れなかった。

 その先にあるものがわからないまま、決められた命を無理に伸ばして、環はどうなるのか。

 もし、ただ環を苦しませるだけになったら。

 今、命を伸ばしても苦しみを長引かせるだけかもしれない。

 伊藤と琴美は知っているのだ。

 光希が狩らなければ彼らが狩りにくることも考えられる。

 ならば。

 約束通り、この手で。

 光希は手にした鎌の柄を再びグッと握り直すと、迷いごと経ち切るように振り上げた。


 プツリ、と響く小さな音がやけに大きく重く聞こえた。

 こんなにもこの小さな感触が怖いと思ったことはなかった。

 嫌だと思ったことはなかった。

 それでも、約束をしたから。環のことは光希自身の手で見送ると決めたから。

 光希はそのまま環の魂が形どりながら身体から完全に離れていく所を静かに見つめていた。

 環の魂は、どんな色でどんな形なのか。

 こんなにも若くして亡くなったのだ、未練がないはずがない。

 だが、あんなにも楽しそうに明るく笑う環の魂が歪な姿も見たくない。

 現れた、環の魂は。

 見た事もない程の……綺麗な球体だった。


 どうして。

 どうして。

 どうして。


 長く死神として生きた光希ですら、他の死神達の間でも噂でしか聞くことのない、一度も見たことがなかった綺麗な魂。

 温かみのある柔らかい色をした、見る者を安心させるような魂は環そのものだった。

 環はふよふよと光希の周りを一周すると、光希の前でピタリと止まった。


『来てくれたんだね』

「……約束、していたからね」

 こんなにも早く果たされる筈ではなかった約束。


「何かしたいこと、ある?」

『うん。最後にゆっくり、この街を見て回りたい』

「そんなことでいいの?」

『うん』

「それじゃあ、行こうか」


 最初に向かったのは駅前だった。駅前にある大きな交差点。

 ここで二人は再会した。

 この時は驚くばかりで、こんなことになるなんて思ってもいなかった。

 懐かしそうに眺めている環の隣で、再会した時に死神が見える環の可能性の一つを潰していた自分に光希は唇を噛んだ。

(死と年齢は関係ない、今まで嫌という程見届けてきたのにね)


 次に向かったのは街全体が一望できる環のお気に入りの場所。

 ここで環は光希が来ることを楽しみにしていた。

 初めて光希と小指を絡めた場所。

 この時にはもう環は光希に惹かれ始めていたのかもしれない。

 そして死神になった伊藤にも会えた場所。

 普段はあまり感傷に浸ることはないのだが、懐かしさと寂しさを深く感じるのは、これが最後だと思うからなのだろうか。


『なんでここがお気に入りか話したことあったっけ』

「ないよ」

『ここね。元々好きな場所だったんだ。でも、好きな人と来た時に、いつもとは違う景色に見えたんだ。それが新鮮で楽しくてさ。それからちょくちょく来てた。勉強の息抜きなんて言いながら』

「……そうなんだ」


 本当はそれだけではなかった。

 約束もしていないのだから、いるはずがないとわかっていても、もしかしたら会えるかもしれないなどと思いながら足を運んでいた。

 もちろんそこに望んでいた姿はなかった。


『でも好きな人とじゃないと、あの景色は見れないんだってわかってからは、懐かしくなったな』

 それでも、見える景色の色は違っても、また次がある間は一緒に見た景色を思い出すだけでも十分だった。

「その好きな人は今は?」

『元気にしてるよ』

「会わなくてもいいの?」

『いいの。もう十分すぎるくらいの時間を貰っているから』

「そっか」


 環に好きな人がいたことを、光希は初めて知った。

 最後に会わなくてもいいということは気持ちにけりがついているのだろうか。

 口ぶりからすると過去に好きだったようにも聞こえるが、環の口から好きな人の話を聞くのは正直かなりきつかった。

『次が最後だから。もう少し付き合ってもらってもいい?』

「タマちゃんが望むならいくらでも」


 光希の優しさに甘えながら環が最後に選んだ場所は自分の部屋だった。

 ここには大事なものが詰まっていた。

 生まれてからこれまでの大事な思い出の一つ一つ。

 学校でももちろん楽しい事や嬉しいことはあった。

 だが、それを一人で噛みしめたり思い出したりするのは全てこの部屋だった。

 そして、最後に甘い時間を過ごしたのも、約束を交したのもこの部屋。


『こうして見ると変な感じ』

 改めて部屋を眺める。

 こうして今まで自分の部屋を眺めたことなどなかったから、少しくすぐったいような、寂しいような変な感じがした。

 小さな頃にこの部屋を貰ってから、お転婆をして付けてしまった柱の傷。

 なんとなく気になって手に取った本が気に入っていつでも読めるようにとベッドのヘッドボードに並べていたり。

 いつもなら気にならないような小さなもの一つ一つに深い思い出があることを知った。


『さっきまでこの部屋にいたのに、懐かしいって思うのは初めての感覚かなー』

 旅行で一週間家を離れていても、この部屋に懐かしさを感じたことはなかった。

 きっと、そう感じるのは。

 環はそこでチラと隣にいる光希を見た。

 ずっと、ずっと、泣きそうな顔をしたままの、優しい死神の横顔を。


(あんな約束をしたから、来てくれたんだよね。嫌なことをさせて、ごめんなさい)

 環が見て回ったのは、どれもが光希と共に過ごした場所だった。

 光希はきっと気付いていない。

 ただ環が気に入っている場所だとしか思っていないかもしれない。

 だが、それでも良かった。

 最後に光希と一緒の時間を過ごしたかったのだ。

(だから、もう十分)


『私、光希君と会えて良かった。あの時、伊藤君が私の中に入ってくれて良かった』

「全然、良くないよ」

 面白くなさそうに、不貞腐れたかのように言う光希に環の魂は小さく揺れた。


『今まで、ありがとう』

「……うん」

『なんで光希君が泣くの』

「うん……」


 たった一つ、伝えたい言葉があった。

 だが。言葉にすることはできなかった。

 美しい魂の形はこの世への未練のなさを物語っていた。

 光希が気持ちを伝えた時。

 それが未練になってしまって、この綺麗な魂を汚してしまうことが、怖かった。


 だが、何よりも。

 光希の気持ちを伝えても、環の魂が全く揺れることがなく、この綺麗なままでいるのを見るのが怖かった。

 自分の存在が環にとっては何一つ響かないと突き付けられることが怖かった。

 だから、できなかった。


『それじゃ、私もう行くね。光希君も次の仕事があるでしょ?』

「ないよ」

『そうなの?』

「今日はデートする予定だったんだから、仕事は入れてないよ。それに本当はここに来るのも伊藤ちゃんのはずだったんだ。それを約束してたからって言って来たんだよ」


 光希の話を聞いて、やっぱり光希は優しいと思った。

 そんな優しさに環は甘えて、辛い仕事をさせてしまっている。

 嬉しいと思いながら、同時に申し訳なさも感じた。


『そっか。約束、守ってくれてありがとう』

「うん」

『もー。また、うん、しか言わなくなった』

「うん……」


 環は最後に光希の周りとクルリと一周すると、光希の額にフワリと触れた。

 それは、不思議と暖かかった。

 光希が環の魂を両手で包み込むと、環の魂はゆっくりと天へと登り始めた。


『ありがとう』

 最後にそう一言を残して。

 震えていない声に、きっと環は笑ってくれているのだと思った。

 そして空の高く、高くへと登って行く美しい環の魂を光希はいつまでも見守っていた。


「さようなら」

 きっともう二度と会うことはないから。

 その言葉に、ありったけの気持ちを込めた。





 やがて環の魂が見えなくなった時。


「あああああああああっ!」


 緊張の糸が切れたのか、環の前では抑え込んでいた感情が爆発した。

 ただただ叫ぶことしかできなかった。

 足からは力が抜け、光希は膝から崩れ落ちた。

 そのまま地面に突っ伏して声を上げ続けた。

 意味などないとわかっていても、握りしめた拳を何度も地面に打ち付けた。

 そうでもしないと、この行き場のないどうしようもない気持ちをぶつけることができなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ