認識の違い
オブリード副司令が用意した資料は、二人の兵長達に大好評のようだった。興味津々に目を輝かせて、昼食を食べる時間を惜しみながら、僕達に質問を浴びせてくる。
僕はバルドと共に答えながら、食堂で手に入れた美味しい昼食を、口の中に入れた。
程良い硬さのブロッコリーを噛み砕くと、中に含まれた液体、恐らく、ソースという物が染み出してくる。野菜独特の、少し苦味を含んだ味も美味しいが、甘水のようなソースも負けてはいない。自然と、両方の頬が緩んでしまう。
「宇宙ってすっげーなあ」
前の席に座っているタウロス兵長から、周囲の大きい話し声に負けていない、大きな歓声が上がった。慌てて頬を引き締めて、タウロス兵長に目を向ける。
「この真っ黒いの、何なんだ?」
「それは、ブラックホールの観察動画でしょうか」
先程電子ペーパーに印刷した、資料の一部を指差すタウロス兵長に、バルドが明るい表情で答えていく。先程から、タウロス兵長の雰囲気に釣られているようだった。
「こういう隕石を壊していたんですか?」
「あ、はい。そうです」
僕は食事の手を休めて、タウロス兵長の隣に座っている、人型中型アーミーパウンドの、クロスト兵長に答えた。
「へえ。荷電粒子砲で、これをですか」
タウロス兵長と一緒に居た、羊を模しているクロスト兵長は、落ち着いた様子で、資料に視線を戻す。
電子ペーパーの両端から、羊を示す、二本の丸い角が飛び出した。冗談と可愛さが入り混じっているような、絶妙な光景に気が緩む。
「想像通りというか、本当に過酷な任務でしたねぇ」クロスト兵長は、電子ペーパーを端に寄せて、羊のような暖かみを持つ、細い目を僕に向けた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、お疲れ様です。地球の生活には、もう慣れましたか?」
「とりあえずは、何とか」
「そっか、それは良かった。でも、環境が大幅に違うよね。何か気に入らない事があったら、俺か周りにでも相談して下さい」
「そう言って頂けると、ありがたいです」嬉しさで表情を緩ませながら、僕は頭を軽く下げた。
「うん。じゃあ、連絡先の交換をしようか」
クロスト兵長は、白色が中心の身体を動かして、データ認証装置を起動させている、赤い右手を僕に向かって差し出した。
昔見た事はあるが、何をするのか分からない。戸惑いながら、視線を正面に戻して、何事かと口を開く。
「すみません、これは何でしょうか?」
「ん?」クロスト兵長の目が、大きく見開いた。「連絡先の交換だけど、知らないかな?」
「ああ!」勢い良く左手を差し出して、データ認証装置を、受信側に設定する。
クロスト兵長の行動は、アーミーパウンズだけが持っている、互いの個人通信を、許可する為の物だった。
「すみません、凄い久しぶりだったもので」「そうなんだ」クロスト兵長は、何処か寂しそうに喋りながら、右手で僕の左手を強く握る。殆ど経験の無い感触だったので、驚いて全身が少し固まる。「本当は、よくある事何だけどね」
相槌を打つ余裕が無かった。大人数の場所で、握手をしているような格好になっている。恥ずかしくて仕方がない。全身が、真っ赤に燃えているような気がする。
後に続いて、タウロス兵長とも、同じ遣り取りを行った。バルドも同じように、やはり少し恥ずかしがりながら、互いに個人通信の許可を取っていく。
良い頃合いだと思ったので、軍用倉庫に戻ろうと考えた。恥ずかしさが残っているので、二人と目線を合わせないようにしながら、口を開く。
「すみません、もうそろそろ次の時間が」
「あれ、もう時間か。何かあったら連絡しろよ」
「はい」
「何でもいいからね」
「有難うございます」
気恥ずかしいせいで、返事がとても小さい物になってしまった。バルドも僕と、似たような返事をしている。
恥ずかしさと嬉しさを感じながら、逃げるように残りの食事を完食して、礼を言いながら席を立つ。
内蔵機能から聞こえてくる、小さいアラーム音を聞いて、意識が一気に覚醒した。目を開けた瞬間、艦の外の光を再現した、自室の電灯が目に入る。
眩しさに目を凝らしながら、少し寝ぼけた頭で、朝の六時を表している、内蔵機能のアラームを消した。ベッドから抜け出して、バルドの方を確認する。
バルドは起床時間を無視しながら、自分のベッドで、気持ちよさそうに眠り続けていた。地球に降りてから、約二週間程度の時間が過ぎているのに、まだ一人で起きてくれない。
面倒な物を感じながら、部屋を区切っている、透明なフィルムを手でどける。プライバシー保護の為に取り付けられた、防音機能付きのフィルムを通って、バルドの傍まで近づいた。
バルドは未だに、身動ぎ一つしていない。
「バルド! 起きてバルド!」大声を上げながら、掛かっている布団をひっぺがして、思いっきり相手の身体を揺り動かす。「起きる時間だよ! 起きて!」
バルドの目が、寝ている時の赤い一本線から、起きている時の、大きな赤丸に変わった。言葉になっていない、気持ち良さそうな声が、後に続く。
「バルド、朝だよ」聞こえていると思ったので、声の大きさを少し下げた。「起きる時間だよ」
「起きるよ」眠い声を上げながら、バルドは全身を大きく縦に伸ばした。最後に大きな欠伸をして、普段通りの目を、僕の方に向けてくる。「おはよう」
「おはよう」
朝の挨拶をしながら、バルドはベッドから起き上がった。軽い話を交わしながら、朝食を食べる為に、食堂へ向かう。
室内に居た皆に挨拶をして、話を交わしながら、朝食のエネルギーパックを食べていった。美味しいとは思うが、物足りないと感じる液体を、身体の中に収めていく。
本当なら、基地の食堂で食べている、美味しい料理の方がいい。軍の食堂の昼食は、美味しく改良されたエネルギーパックの味が、物足りないと感じてしまう程の旨さがあった。
非常に美味しいので、最近は食堂で食べる昼食が、一日の楽しみになっている。休憩時間に余裕が出来た時には、必ずといっていい程、基地の食堂で昼食を食べていた。
思い思いに時間を過ごした後、朝礼を行う為に、全員で会議室の中に向かう。
部屋に入った瞬間、アクト司令官が眠そうな様子で挨拶をしながら、僕達に片手を小さく振ってきた。挨拶の中でアクト司令官は、オブリード副司令が基地に行った事を、僕達に伝えてくる。
「オブリード君は早出なので、もう基地に行っちゃいました。午前の任務には間に合うので、個人倉庫の方は、受付の建物で集合して下さい」
「了解」
「いい加減、頭がパンクしなきゃいいけどね」全員の返事を聞いた後、アクト司令官は苦い表情を浮かべて、話を締めくくる。不安を感じている様子だったが、すぐに顔付きと口調を引き締めて、今日の朝礼を開始させた。
「重要な連絡事項です。唐突ですみませんが、明日から他部隊の研修生が来ますので、準備をお願いします」
部屋の緊張感が、一段と強くなる。少し間を置いた後に、もう一度、アクト司令官が口を開いた。
「一日の行動は変わりません。研修生と一緒に、同じ任務と訓練を行う事になります。唐突な話で申し訳ありませんが、対応の方をお願いします」
話が終わった直後、目の前にデータ受信完了の表示が現れた。素早く中身に目を通して、送られてきた研修生のデータを、頭の中に入れていく。
名前はドラベラー、階級は上等兵。大型人型の、白熊を基にした、格闘型のアーミーパウンドらしい。僕達のように、宇宙で活動する事は出来ないと書いてあった。
短い説明文を読んだ後、次に外見の画像データに視線を移す。全身を全方位から、一枚ずつ捉えた画像の最後に、真正面から見据えている物があった。
特徴的な目付きをしている。相手を縫い止めてしまう程の、圧倒的な迫力を持っていた。
恐ろしいというよりも、薄気味の悪い物を感じる。アクト司令官のように、相手の懐を探っているんだろうか。
「詳しい事は夕礼で発表しますので、研修生の受け入れ体制を整えておいて下さい。特に問題がなければ、これで朝礼を終了致しますが、よろしいでしょうか?」
何も思いつかなかった。誰も尋ねてこないのを見て、アクト司令官がもう一度口を開く。
「では、今日も頑張りましょう。宜しくお願い致します」
「宜しくお願い致します」
全員と一緒に部屋を出ながら、僕は研修生の概要を思い出していった。基本的な事を再確認しながら、同じ任務のバルドと共に、基地の倉庫へと向かっていく。
アーミーパウンズの研修生は、今の部隊よりも、他部隊での適性が高いと判断されている。何らかの事情で、今の部隊との相性が悪くなった時に、使用されるらしい。
細かい所は分からないが、僕達の部隊は特殊なので、今回は研修が行われないと、アクト司令官の口から伝えられていた。
スラスターでの移動や、宇宙空間に耐えられる身体構造は、アーミーパウンズの中でも、独特な物になっている。他部隊との連携方法を、探っている最中だと言われていた。
今回のドラベラー上等兵は、一般のアーミーパウンドと変わりがない。戦法や考え方の不一致なら、他部隊に配属されるはずだ。
もしかして、本人の性格に問題があるんだろうか。強引すぎる性格、というよりも、乱暴な物かもしれない。
「ねえ」心細い物を感じたので、基地の入口に入ろうとしたバルドを、後ろから呼び止める。声に反応したバルドが振り向いて、入口を護衛していた少尉二人と共に、僕の方を見た。
「す、すみません」三人の迫力に負けた僕は、小さな声で謝りながら、右手を入口の方に向けて、前に行って欲しいという仕草をした。
バルドが何も言わないまま、開いている入口の中に入っていく。僕も顔を伏せながら、後に続いた。
すぐに後ろの扉が、聞き慣れてきた音と共に閉められていく。一際大きな音を立てて、扉が完全に閉められると、薬品による洗浄が開始された。全身を洗う液体に身を任せながら、先程の考えに浸っていく。
アーミーパウンズの、非常に厳しい適性検査に合格しているんだから、本人に問題があるとは思えない。ただ、水星で戦った時のように、環境で性格が変化してしまった、という事も考えられる。
悩んでいる間に洗浄が終わって、基地の中へ繋がる、前方の扉が開いた。
「ねえ」我慢出来なかったので、もう一度バルドを呼び止める。「今度来る研修生って、性格が問題なのかな?」
「は? 突然どうした?」
「僕達の部隊って、研修生は来ないというよりも、来れないでしょ?」
「お、おぉ」
「なら、性格に問題があって、直すために送られて来たとか」
「それは考えすぎだろ」唖然としていたバルドが、苦笑混じりの言葉を返す。「そうだったとしても、上官達に言えばいいだけの話だし」
的確な答えだったので、何も言えなくなってしまった。動きを止めている僕を見て、バルドの笑みが、意地悪い物に変わっていく。
「司令官辺りに報告しようぜ」
「もういいよ」恥ずかしさをごまかしながら、前を向いて、開いた扉の先に向かう。「何で気が付かなかったんだろう」
からかってくるバルドを無視しながら、軍用倉庫に到着した。伝えられていた通りに、受付の建物の外に居た、オブリード副司令と合流する。
お互いに挨拶を交わして、今日の役割を確認した後、午前任務を開始した。
もう手慣れてしまったので、悩む事は殆ど無い。無事に午前任務を終えた後、僕とバルドはオブリード副司令に、食堂へ行ってきますと一声かけた。
「あそこは、本当に私が行ってもいいのか?」
「え?」驚きながら返事をする。普段通りの、了解という返事ではなかった。「勿論ですよ」
「副司令、行きたいんですか?」隣に居たバルドが、口を開いた。
「行きたいといえば、行きたい。ただ、少将の私が行くと、周りが落ち着かないだろう」
「あ、ここは違いますよ」
「どういう意味だ?」バルドの明るい返事を聞いて、オブリード副司令は常に浮かべている、生真面目な表情を少し崩した。
「休憩時間中は、本当に階級が関係無いんですよ。食堂に行くと、少将とか中将が大勢居ます」
オブリード副司令の顔が凍りついた。悪いと思いながらも、殆ど見ない滑稽な姿に、少しだけ吹き出してしまう。
間違いなく、宇宙に居た時の感覚を引きずっているんだろう。軍律には休憩時間中に、階級は関係無いと記載されている。しかし、昔は殆ど利用されていなかった。
「俺達も、兵長や少尉とかに、色々な事を教えて貰ってますよ」
「冗談、じゃないのか」
何故か大きく戸惑いながら、オブリード副司令は、大きな独り言を呟き始めた。真剣な表情を浮かべたまま、一人でよく分からない話をしている。
「一度行ってみましょうよ」気圧されたように、バルドが小声で話しかけた。「結構凄い光景ですよ」
「それがいい、かもしれない。そうだな、そうしよう」
オブリード副司令は激しく動揺しながら、早足で正面に向かって歩き出した。前に居た僕を、半分押し抜けるようにして、倉庫の中を突き進んでいく。
異様な雰囲気に戸惑いながら、バルドの方を見た。戸惑った表情を浮かべている、バルドと目が合う。二人でごまかすような苦笑いを浮かべた後、僕達はオブリード副司令の後を追った。
三人でエレベーターを使い、食堂が作られている階で降りる。扉に最も近かった僕を先頭にして、食堂までの移動を再開した。他の場所と比べると、幅が広く作られている、通路の右側を歩いていく。
「ナナキ、ちょっと」
「はい?」後ろから聞こえてきた、オブリード副司令の声に振り向く。
「その、やはり」最後尾に居たオブリード副司令は、大きく戸惑いながら、一旦言葉を区切る。「いいんだろうか」
「大丈夫ですよ」非常に珍しい態度だった。少し驚きながらの返事になってしまう。「休憩時間中なら、本当に階級は関係ないですよ」
「いや、しかし、周りが」
「それを言うと、僕達の方が場違いだと思います」視界の中に表れている、階級部分に目を向けた。今まですれ違ったアーミーパウンド達の、様々な階級が示されている。「大尉とか中尉とか、少将とかが一杯居ますよ」
オブリード副司令は目を伏せて、何も言わずに黙りこんでしまった。考え込んでいるようにも見えるので、話が中断されてしまう。
「とにかく行きましょうよ」バルドが待ちきれない様子で話しかけた。「食べたいんですけど」
「分かった」険しい表情のまま、オブリード副司令は、強い決意を込めた言葉を返す。「分かったよ」
動いてもいいと思ったので、前に向き直り、食堂の中に入る。明るい話し声と、映像を表示している壁で作られた部屋が、目と耳に入ってきた。
今日の風景映像は、緑色の草木で設定されている。壁を眺めているだけで、呆然としてしまいそうな部屋の中を、真っ直ぐ奥に進んでいく。
食堂の最奥、中央部分の壁に設置されている、食事を受け取る機械に近づきながら、右手の認証装置を起動させた。
室内に点在して設置されている、テーブルと椅子は、置かれていない。部屋の中を、左右に分割しているようだった。
壁に埋め込まれている、銀色の四角い取り出し口に近づいて、右側の液晶ディスプレイに、右手の認証装置を当てた。一瞬の間を置いて、視界の中に、定食選択の画面が表れる。
何が良いのかを考えた後、大皿の上に茶色い肉が乗っている、美味しそうな豚のしょうが焼き定食を選んで、右手を離した。
取り出し口から、食欲をそそる美味しそうな音が聞こえてくる。少し経つと音が止んで、今度はアラーム音を鳴らしながら、取り出し口の銀色部分が、上の方にゆっくりと、滑るように動いていく。
中には先程注文した定食と、水の入ったコップが、黄色のトレイに載せられていた。香ばしい匂いを満喫しながら、両手でトレイを持って、後ろの二人を待つ為に、機械の左側へと身体を寄せる。
僕の後ろに居たバルドが、同じように機械を操作し始めた。アラームの音を聞きながら、開いた取り出し口の中に手を伸ばして、和風定食を両手で持つ。
「オブリード副指令、来て下さい」
バルドは僅かに後ろを向いて、後方に居るオブリード副指令を呼び寄せた。口頭で機械の操作を説明しながら、オブリード副司令に食事の注文をさせていく。
オブリード福司令は硬い表情を変えないまま、ぎこちない動きで、機械を操作していった。完全に開いた取り出し口の奥に、恐る恐る両手を入れて、和風うどんのセットを取り出していく。
手にしたうどんを凝視しながら、オブリード副司令は、僕達の所にやってきた。任務中によく使っている、感情の篭っていない冷たい視線を、美味しそうなうどんに向け続けている。
笑えない真剣さを帯びていた。迫力に負けて、格好を楽しむ事が出来なくなる。
「あっちが空いてますよ」
視線で方角を指し示したが、中途半端に顔が緩んでいるせいで、嘲るような言い方になってしまう。急いで気持ちを引き締めて、上官からの言葉を待つ。
オブリード副司令は、何も言わなかった。無言のまま、湯気が上がっているうどんを、ひたすらに見つめ続けている。
「あのー、座りましょう?」バルドのやや大きい声を聞いて、オブリード副司令が言葉になっていない、ぼんやりとした声を上げる。「食べましょう。あっちに座りましょうよ」
「あぁ」頭を軽く下げながら、先程よりも明確な口調で、オブリード副指令が返事をする。
少しふらついている足取りで、バルドの跡を追っていった。少しの不安を感じながら、オブリード副司令の後ろに付く。
自分達から最も近かった、白い円形状のテーブルの上に、全員が手に持っているトレイを置いた。オブリード副司令が、バルドの向かい側の席に座る。
直後に大きな溜息を吐きながら、うどんの乗ったトレイを端に寄せて、上半身を前に倒してしまった。息苦しい様子と共に、両手で頭を抱え込んでしまう。
異常な様子を気に留めながら、僕はオブリード副司令の、隣の席に腰掛けた。
「自信が無くなってきた」力尽き果てた様子で、オブリード副司令が口を開く。「宇宙とは違いすぎる。やっていけるんだろうか」
「大丈夫ですよ。落ち込まなくて平気です」
「お前も悩んでいるだろう」少しの怒りを滲ませながら、オブリード副司令が、僕に反論してくる。「食事も雰囲気も考え方も、何もかもが全く違う。お前の不安がよく分かったよ。落ち着かなくて仕方がない」
最近感じ始めている、強い不安を口に出された。一番考えたくない事を、強く意識させられる。悩んでいる時の恐ろしさが、頭の中に蘇った。
指摘された悩みは、アナクルさん以外に伝えていない。軍医は医療関係者以外に、個人のデータを渡す事が出来ないと、軍の規律で決められている。
今の話の最中に、情報伝達システムを使って、僕の気持ちを探ったんだろう。相手の弱い所を口にして、不安を増長させていく。アクト司令官が、最も嫌っているやり方だった。
「何やってるんですか」小さな声と共に、視界の端から黒い手の平が伸びて、オブリード副司令の頭を叩く。「ナナキが大変な事になってますよ」
オブリード副司令が、勢い良く身体を起き上がらせて、僕の方に顔を向けた。
「大丈夫か?」
「うん」まだ消えていない恐ろしさを押え込みながら、静かに返事をする。
「ああ、もう、上手くいかないな」
「一体何がしたいんですかね」混乱したオブリード副司令に向けて、バルドが静かな怒りを伝える。「八つ当たりならアクト司令官にどうぞ」
「すみません」怒りに燃えているバルドに向けて、オブリード副指令は気弱に答えながら、居心地悪そうに身体を縮める。
「で、生活がどうたらでしたっけ?」バルドが自分の味噌汁を味わいながら、落ち着いた口調で話しかけていく。「細かい事は分かりませんが、ここは地球なので、宇宙の考えは捨てた方がいいです。
「動き辛いんだよな」オブリード副指令は、気力が尽き果てている、うわ言のような返事をした。「宇宙とやり方が違いすぎる。効率的だと分かっていても、違いすぎて不安しか出てこない」
「大丈夫、いつか慣れますよ。ナナキがやれてるんですから、オブリード副指令なら楽勝ですよ」
「え? どういう事?」予想外の言葉に驚きながら、僕はバルドに問いかけた。「何で僕なの?」
「宇宙に居た時、地球の生活に馴染めないかもって、散々言いまくってただろ?」
「言ってたね」昔悩んでいた事を、完全に忘れていた。
「そうそう。あれだけ大騒ぎしてたナナキでも、今は地球に慣れてる。だったら、ナナキよりも器用なオブリード副司令に、出来ない訳がないだろ」
「それはちょっと違うんじゃないの」少し呆れた笑いを作りながら、バルドに口を挟む。「僕、そこまで地球に慣れていないよ」
「自分で気がついていないだけだろ」何故かバルドは、苦々しい表情を浮かべた。「馬鹿正直でマイペースだから、言われたままに動いてる。それってさ、俺達から見たら、新しい事やってて不安にならない? って事何だけど」
「不安も何も、決められてるんだから、その通りにやるんじゃないの?」
「お前って、そこら辺に関しては本当に凄いよな」
首を傾げる僕に向かって、バルドは更に表情を歪めながら、少し腹正しげに返事をする。
何故かオブリード副司令が、唸りながら僕に視線を送ってきた。突然の変化に困惑して、下を向いた時、自分の食事が視界に入る。
場を誤魔化す為、定食に付いてきた箸を使って、豚の生姜焼きを一口分、口の中に入れて味わった。
少し塩っぱいソースの味と、豚肉独特の甘い味の他に、何かの辛味が入っている。痛みを持つ辛さではなくて、爽快感に似た物だった。生姜焼きだから、生姜という物の味何だろうか。
豚肉の味かもしれないと思いながら、内蔵機能の辞書を使って、豚肉と生姜の項目を探していく。検索しながら、右側に置かれている白いご飯を、口の中に入れて噛み砕いた。
先程の三つの味が、ご飯の美味しさに絡み合っていく。無言のまま、発見した味に頬を緩ませた。豚肉の生姜焼きと白いご飯さえあれば、永遠に食べていけるかもしれない。
「あれ? オブリードさんじゃないですか?」
声の方角に顔を向ける。茶色の人型中型アーミーパウンドが、両手で青いトレイを持ちながら、僕達の方を眺めていた。すぐに識別機能が働いて、視界の端に、相手の階級が表示される。
「以前は戦術の事で、お世話になりました」
「ああ、カロス少佐か」視線をオブリード副司令の方に動かした。先程の硬い表情を、少しだけ崩している。「こちらも良い勉強になった」
「あの時はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」カロス少佐は、白い線が横一直線に描かれている、特徴的な頭を軽く下げた。
「問題は無い。気にしないように」
「本当に有難うございました」オブリード副司令の返事を聞いて、カロス少佐が、また小さく礼をする。「それでは、失礼致します」
「待て」
「はい?」オブリード副司令は、鋭くカロス少佐を呼び止めた。「何、でしょうか」
「地球のアーミーパウンズは、情報を徹底的に共有して、互いの問題点を解決するんだろう?」
「はい」
カロス少佐が大きく戸惑っている。今のオブリード副司令には、相手を黙らせる威圧感が宿っていた。
「それでだ。私はやった事が無いから、何をどうしたらいいのか分からない。だから、手伝ってくれ」
「はあ」カロス少佐から、溜息のような返事が出る。
「いいん、だよな?」
オブリード副司令の雰囲気が、気弱な物に一変した。突然の変化に、僕もカロス少佐も戸惑ってしまう。
「よく分かりませんが、その、重要なのでありましたら、手伝います」
「ああ、よかった」オブリード副司令が、大きく胸を撫で下ろした。「では、よろしく頼む。以上」
「はい」カロス少佐が困った表情で、小さく答える。「では、失礼します」
カロス少佐は僕達から離れて、食堂の入口方面に向かっていく。迷わずに女性型アーミーパウンドの、隣の席に腰掛けた。
インパウンドの男女は、纏っている雰囲気が全く違う。外見は男女共に同じでも、一目見ただけで、誰でも性別を見抜く事が出来た。
女性型アーミーパウンドは、嬉しそうな表情で、カロス少佐に話しかけた。すぐにカロス少佐の表情が、苦笑いの物へと変わっていく。
女性のアーミーパウンドから、少し危険な物を感じとった。自動認識機能が働いて、目の前に相手の階級が表示される。
本当に軍医なんだろうか。纏っている雰囲気が、やや特殊だと感じてしまう。
見続けすぎだと思ったので、視線を自分の食事に戻す。気にしない方がいいと思いながら、右手で箸を持った。
「ナナキのように、なるべきかもしれない」
「え?」小鉢に入っている野菜サラダを、箸で掴もうとした時、オブリード副司令が口を開いた。「何がですか?」
「面倒な話になるから、気にしないように」
少し照れながら答えた後、オブリード副司令は、自分の注文したうどんを食べ始めた。何で褒められたのか分からないまま、僕も自分の食事に戻る。
全員が完食して、食堂を後にするまでの間、オブリード副司令は、食べたうどんの味を絶賛し続けていた。
アクト司令官からの連絡事項を聞きながら、時々視線を一瞬だけ動かして、初対面の相手を垣間見る。
僕達と朝礼に参加している、研修生のドラベラー上等兵は、生真面目な面持ちを見せていた。少し丸い目付きからは、力強くて頼もしい物を感じさせてくれる。
画像データで見た、恐ろしい姿を連想出来ない。今は武器を外している状態なので、似ている別人だと言われたら、納得してしまうだろう。
「では、ドラベラー上等兵。全員に挨拶をお願い致します」
「了解」
ドラベラー上等兵が、改めて姿勢を正した後、僕達に敬礼の姿勢をとる。
「第十部隊から参りました、ドラベラー上等兵と申します。ヘプタ09とお呼びください。皆様方、宜しくお願い致します」
「宜しくお願い致します」全員と共に答えながら、アクト司令官の隣に居る、ドラベラー上等兵に返礼をした。
改めて真正面から、ドラベラー上等兵の姿を見る。やはり特徴的なのは、頭に備わっている二つの丸い耳と、両腕の部分だろう。
外見は白色が基調なのに、何故か両腕は、黒の部分が非常に多かった。見方を変えれば、白と黒の外見にも見えてしまう。熊の耳を持っているので、白熊というよりも、パンダに似た動物のようだった。
「ヘプタ09の任務は、ヘプタ04、ヘプタ05と同じです。非常に珍しい機会ですので、出来れば三人共、情報交換をしておくように。以上」
「了解」呼ばれた三人の声が、見事に一致した。
「では、朝礼を終わりましょう。今日も一日、宜しくお願い致します」
「宜しくお願い致します」
僕達以外の全員が、部屋の出口に向かっていく。僕とバルドは、皆の流れに逆らいながら、ドラベラー上等兵の元に進んで行った。
「初めまして。ヘプタ04のナナキと申します」バルドの前に居た僕が、先に口を開く。宜しくお願い致します」
「ヘプタ05の、バルドと申します。宜しくお願い致します」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」僕達が別々に頭を下げた後、ドラベラー上等兵はぎこちない動きで、返礼を行っていく。「ヘプタ09の、ドラベラーと申します。短い期間となりますが、こちらこそ、宜しくお願い致します」
全員の自己紹介が終わったので、ドラベラー上等兵と任務内容を再確認しながら、三人で軍用倉庫に向かっていった。
ドラベラー上等兵は、僕達が行う任務の事を、一通り把握しているらしい。数日前から訓練用のシミュレーターを使って、午前任務の練習をしていたようだった。
個人の為にシミュレーターを使うなんて、一度も聞いた事がない。非常に特殊なやり方だと話したら、地球のアーミーパウンズでは一般的なやり方だと、逆に驚かれてしまう。
比較的新しい方法だと言われたので、宇宙に行っている間に変わったんだろう。三人で顔を見合わせている内に、乗っているエレベーターが、軍用倉庫までの移動を終えた。
出入口の扉から抜けた所で、今日の倉庫任務担当の、デルタ隊長と合流する。
現状確認と挨拶を兼ねた、ドラベラー上等兵とデルタ隊長の話が始まる。ドラベラー上等兵は、エレベーターで話した内容のまま、デルタ隊長に報告していく。
デルタ隊長は少し訝しみながらも、各自個別で行動するように、僕達へ指示を出した。命令を受けて、全員が行動を開始する。
ドラベラー上等兵は、格闘型の高い身体能力を活かして、倉庫の中を走り回っていった。コンテナ運びは丁寧な物で、僕達の行う物と、殆ど変わりがない。タスキー少尉の姿と、非常によく似ている物だった。
不慣れで手間取っている様子はあるが、初めてとは思えないぐらいに、与えられた任務を次々とこなしていく。何かを周りに尋ねる時も、横暴な態度を決してとらない。
ドラベラー上等兵の、鮮やかな手付きに感心していた時、外部からのコンテナを運んでいた僕は、タスキー少尉に呼び止められた。
「何か問題はあるか?」
「ありません」
「そりゃよかった」心底胸を撫で下ろしながら、タスキー少尉は少しだけ気を抜いた。「しかしまあ、ああいう姿って、大型の方が見応えあるよなぁ」
何の事か分からなかったので、ドラベラー上等兵の方を向く。コンテナを持ち運びながら、跳んで移動している姿が見えた。
「自分はタスキー少尉の方が、見応えあると思います」
「そう言ってくれると、嬉しいねぇ」
僅かに笑みを浮かべた後、タスキー少尉は別の任務を行うからと言って、軍用倉庫を後にしていった。
多くの時間が経過しても、ドラベラー上等兵の行動は変わらない。同じ階級とは思えない貫禄だった。間違いなく、本当に強いアーミーパウンドだろう。
良い意味での強敵だと、自分の中の直感が告げている。悪く考えていた時の事が、恥ずかしいと思ってしまう。
自然と僕も、ドラベラー上等兵の勢いに引っ張られていった。普段よりも集中して、自分の役割をこなしていく。
特に問題が起こらないまま、荷物搬入の任務が終わった。今日の受付を担当している、デルタ隊長の所へ行き、中の戸締まりを全員で手伝っていく。
午前任務が終った直後、デルタ隊長が、全員で昼食を取らないかと、僕達に持ち掛けてきた。ドラベラー上等兵の許可は、予め取っておいたらしい。
特に急用も無かったので、僕とバルドは、話の内容に承諾した。すぐに二手に分かれて、食事をする為の準備に移っていく。
随分と久しぶりだなと思いながら、僕は建物で使っている、予備用の椅子を取りに行った。エレベーターの側に置かれている、折り畳みの椅子を人数分だけ、建物の裏手に持っていく。
適当に椅子を並べていた時、ドラベラー上等兵が、一人で姿を現した。小さく手招きをしながら、好きな所に腰掛けていいと言って、用意した椅子に誘導させる。
ありがとうございますと言った後、ドラベラー上等兵は、近くの椅子に腰掛けた。ほぼ同時に、エネルギーパックを持ってきた、バルドとデルタ隊長がやってくる。
椅子に座ったデルタ隊長が、エネルギーパックの蓋を開けながら、ドラベラー上等兵に世間話を持ちかけた。
何気ない話が進む度に、ドラベラー上等兵の雰囲気が、穏やかな物に変化していった。
今は明るい表情を浮かべていて、口調ものんびりとした物になっている。会話をしていても、不快な物は全く感じない。
問題があるとは思えなかった。何故研修生になったのかという疑問が、胸の中で膨らんでいく。
本人の話を聞く限りでは、元の部隊でも、特に問題は起こしていないらしい。何の為に来たのか、僕には理解が出来なかった。
口にすると、良好な流れを止めてしまうだろう。しかし、先の事を考えると、聞かない訳にはいかなかった。
「ちょっと、いいですか?」
意を決した時の、力強い言葉を使って、全員の話を止める。皆の視線が、僕の方に集まった。
三人共、楽しそうな表情を浮かべている。悪いと思いながら、僕はドラベラー上等兵の目を見て、もう一度口を開いた。
「どうして、僕達の部隊に来たんですか?」
ドラベラー上等兵は、一瞬にして顔を強張らせた。激しい変化を見て、少しの後悔が襲ってくる。
「相変わらず、重要な所を攻めていくな」デルタ隊長が少し吹き出しながら、感心したように口を開く。
「やっぱり、こういうのは言わなくちゃダメですよね」ドラベラー上等兵が、落ち着かない様子で答えていく。「焦りが酷くて、まともに動けないんです。今はどうしても、その、成果が欲しくて」
「そうなんですか?」
「はい。環境を変えてみろと命令されたので、こちらの部隊に来ました」
「すみません、失礼しました」激しく落ち込んだドラベラー上等兵に向けて、上半身ごと頭を下げる。
「いえ、ナナキ上等兵の謝る事ではありません。悪いのは、やっぱり僕なので」
ドラベラー上等兵は、自信がないように全身を縮こませた。言わなければ良かったと思いながら、助けて欲しいという視線を、デルタ隊長に向ける。
「どうせだから、最後まで教えた方がいいだろう」デルタ隊長の素っ気ない言い方に、嫌な物を感じとる。「ドラベラーが功績を上げたい理由はな。自分を作ってくれた人間に、最後の恩返しをしたいからだ」
首を傾げてしまう。遠回しな表現だと考えても、思いつく物が何も無かった。
「分からないか」デルタ隊長の表情が、苦い物へと変わる。「ドラベラーを作った人間が、もうすぐ亡くなりそうなんだ。死ぬ前に最後の恩返しとして、何かの成果を報告したいんだよ」
背筋が震える嫌悪感を感じながら、ドラベラー上等兵に顔を向ける。視線が合った瞬間、ドラベラー上等兵は、僕から目を逸らしてしまった。
「成果を上げようと、気負い過ぎているだけの話だ。そんな目で見るんじゃない」
右手のひらで、気持ちの悪さを振り払うように、自分の目を力強く擦る。批判的な目でもしていたんだろう。
「よくしてくれた人間に、恩を返す。悪い事ではないだろう?」
「それは無いんですけど」突然湧き上がってきた、強い苛立ちに任せて口を開く。自分の目付きが、また鋭い物に変わっていった。
反射的に否定しまったが、デルタ隊長の言ってる事は、間違っていない。返す言葉がみつからないので、納得出来ないまま黙りこむ。
本当に良い人間なら、デルタ隊長の言う通りだろう。でも、僕は自分の考えが間違っていないという、強い自信があった。
インパウンドを作っている人間達は、僕達の事を、金属の塊として認識している。成果を報告しても、より良い物を要求されるだけだ。
何十回も経験したんだから、間違いない。死んでくれるのなら、思い悩むよりも、むしろ喜ぶべき事だろう。信じられない話だった。
ドラベラー上等兵は、僕には理解出来ない、変な性格の持ち主なんだろうか。作った人間から、悲しめと命令されているのかもしれない。
「ふざけた話ですね」自分の目に、強い不快感が生まれてきた。昔味わった感覚を誤魔化す為に、手首で目の部分を、強く押し付けながら回転させる。「さっさと居なくなればいいのに」
「何を言っているんですか!?」ドラベラー上等兵が、突然怒声を上げて、僕の事を睨みつけてきた。「僕の親なんですよ!? 居なくなってもらっちゃ困ります!」
「居ない方がいいよ!」感情的に怒りだした姿を見て、更に自分の苛つきが高まっていく。
ドラベラー上等兵の目付きが、資料と同じ、冷たい物へと変化した。僕も気持ちを切り替えて、ドラベラー上等兵の隙を探っていく。
「何をやっている!」一触即発の状況を破るように、デルタ隊長が、怒声混じりの命令を出した。本気で怒っている声を聞いて、懲罰への恐怖が蘇る。「ふざけた事をしているんじゃない!」
怯えながら席を立って、僕はデルタ隊長と、ドラベラー上等兵に頭を下げた。「申し訳ありませんでした」
「はい」ドラベラー上等兵の、口篭るような返事を聞いた瞬間、僕は自分の考えを、他人に押し付けていた事に気がついた。
しかし、自分が間違っているとは思えない。理由は分からないが、無理だとしても、強引に考えを押し通したかった。
なんで意地を張っているのか、自分でもよく分からない。子供のようだと戸惑いながら、自分の席に戻る。
「考え方が違うだけだ。殺気を出す程の物ではないだろう」
デルタ隊長の話を聞いて、納得出来ずに押し黙る。今反論したら、間違いなく無事では済まないだろう。
「話は終わりだ。少し早いが、訓練を開始する。さっさと食事を終わらせろ」
激しく動揺しながら、デルタ隊長からの命令を実行した。エネルギーパックを勢いよく、口の中に流し入れる。
「持ってくぞ」バルドが片手を差し出して、空になったエネルギーパックを捨ててくるから、という仕草をした。
僕がエネルギーパックを渡すと、バルドはデルタ隊長達の物も回収して、近くのゴミ箱の中に捨てていく。
バルドの動きを見ながら、僅かに視線を、ドラベラー上等兵に向けた。目付きを鋭くして、怒りに満ちた雰囲気を纏いながら、近くの床を睨みつけている。
僕のように戸惑っていなかった。絶対に自分の方が、正しいと思っているんだろう。気が合わない物を感じながら、席を立って、全員の椅子を回収していく。
「よし、行くぞ」皆の椅子を手に持った時、デルタ隊長が背を向けて、艦に戻る為の移動を開始した。バルドとドラベラー上等兵が、無言のまま後を追っていく。
僕は三人の後ろにつきながら、デルタ隊長の言葉の意味を、頭の中で膨らませていった。
考え方の違いだと言っていたが、確実に別の何かがある。言葉や文字で表せないが、何かの確信を感じていた。
考えれば考える程、もどかしさで怒りが増していく。叫びたくなるような衝動が、心の奥底から溢れ出てきた。
爆発しそうな感情を抑えながら、必死で皆の後を追う。何処かで休みたかったが、今のデルタ隊長に、何かを言う勇気はない。
基地を抜けて、スペースポーターから降ろされていた、移動用のエスカレーターに足を乗せる。白色しかない雲が、空の中に浮かんでいた。
雨雲という物なんだろうか。雲の色が真っ白すぎて、人工的な物に見えてしまう。雨でも降るのかと思いながら、エスカレーターから降りようとした時、僅かに足が縺れてしまった。
慌てて体勢を整えながら、早足で前との距離を保つ。今の調子だと、訓練で大惨事を引き起こすだろう。
時間が無かったので、最後の手段を取る事にした。わざと緊張感を得る為に、力強く目を見開いて、ミュートからの仕打ちを思い出す。
相手から差し出された物や手を、少し鮮明に思い浮かべた。身震いが止まらなくなる寒気が、背中から全身に伝わっていく。
身体を激しく震わせていると、目に痛痒い物が襲ってきた。すぐに拳で、自分の頭を強く叩く。
打った所に、熱を伴う痛みが発生した。思い返している場所で、与えられた事がない。今が現実だという事を、強く再認識させてくれた。
気持ちを完全に切り替える為、口の中の空気を、外に向けて一気に吐き出す。嫌な出来事が終わった後の、独特な緊張感が、丁度良く残っていた。
心持ちを維持しながら、前を行く三人と共に、シミュレータールームの中に入る。
灰色の地面に足を付けながら、身体のシステムを戦闘態勢に変更して、背中の荷物入れに手を伸ばす。
誰かの腕が視界に入った。小さな悲鳴を上げながら、スラスターで一気に距離をとる。
ドラベラー上等兵の姿が見えた。先程見えた白い腕を、迷う事無く、自分の右腕に差し込んでいる。
格闘型の武器を、装備している時の光景だった。最近見慣れてきた景色を見て、僅かに胸を撫で下ろしながら、右手を背中の荷物入れに伸ばす。
格闘型の武器と防具は、自分の両腕を覆う一体型なので、見た目がインパウンドの腕にしか見えない。突然見せられると、先程のように混乱してしまう。
自分の武器を取り出して、右腕に装着しながら、足を地面に押し付ける。込めた力を受け止めてくれたので、地盤は問題ないだろう。
荷電粒子砲の取り付けを続けながら、周りの様子に注意を向けた。何かの部品が、地面の上に散乱している。
完成された物ではないので、無視しても構わないだろう。様子が気になったので、ドラベラー上等兵の方に視線を送る。
先程の白い武器の中に、自分の腕を入れている。まるで、人間が手袋をはめていくようだった。
腕の黒い部分が、武器の白色で覆い隠されていく。最後まで収まると、片腕が一回り大きい物に変化した。
武器が白色なので、今のドラベラー上等兵は、白色の大型アーミーパウンドにしか見えない。白熊という物を、強く連想させる物だった。
目付きも自然と、先日の写真のように、不気味な冷静さを纏い始めていく。油断のならない様子を見せながら、今度は反対側の腕を、背中の荷物入れから取り出した。
薄気味悪いと思いながら、武器と防具を構えて、視線を周囲を向ける。
「ヘプタ03、大尉から全員へ。今回の任務は、ヘプタ09の状態確認にある。警戒態勢のまま、ヘプタ09を見ろ。以上」
「了解」命令通りに目線を動かす。ドラベラー上等兵の顔付きが、気丈な物に変わっていた。口を真一文字に結んで、力強く目の前を見据えている。
「ヘプタ09は私の指示に従って、一通りの動きを行ってもらう。個人の動きは連携の基本となるので、全員注目しておくように、以上」
「了解」ドラベラー上等兵の返事が、僅かに遅いように聞こえた。
「では、ヘプタ09の位置を指定する」内蔵レーダーに、敵の位置を示している、赤くて四角いマークが表示された。「敵が記されている場所まで、全速力で走ってみるように。以上」
「了解」ドラベラー上等兵は、発言と同時に身体を動かした。コンクリートのような地面の上を、暴風のように駆け抜けていく。
格闘型ならではの光景だった。ただ、タスキー少尉よりも、僅かに遅く見える。少しやり方を変えれば、援護ぐらいは出来そうだった。
姿を目に焼き付けている内に、ドラベラー上等兵が、指定された場所で立ち止まる。
「ヘプタ09、上等兵からヘプタ03へ。移動を完了しました、以上」
「ヘプタ03、了解。この通信が終わった三秒後、前方にウォーマシンを、一体だけ出現させる。好きな方法で破壊しろ、以上」
「了解」
息を上げる事もなく、ドラベラー上等兵は平然とした様子で、両手足を前に構えた。アーミーパウンズで習う通りに、両腕と脇を軽く締めて、腰を深く下ろしている。
三秒後、ドラベラー上等兵の遥か前方に、遠距離型の敵ウォーマシンが出現した。敵は即座に、機体下部の大型マシンガンを、ドラベラー上等兵に向けて発射する。
銃撃の音と同時に、ドラベラー上等兵が飛び跳ねた。斜め前方に着地すると、すぐにまた、近くの地面に跳んでいく。
同じような動きを繰り返す事で、銃撃をかわしながら、敵に近づくつもりらしい。高速で不規則に動きながら、敵との距離を大幅に縮めていく。
全体を見渡せる場所に居るのに、僕の目だと、動く先が予想出来ない。タスキー少尉よりも、大きく位置を動かしているせいだろうか。
ウォーマシンの目前にまで迫っても、ドラベラー上等兵の行動は変わらない。同じ動きで、相手の左側に着地した瞬間、右の拳を、敵の頭上に叩き込んだ。
ウォーマシンの頭が、地面にめり込まれる。瞬時に拳を引き抜いて、ドラベラー上等兵は距離をとった。
相手の身体が動かない。慌てて視線を、内蔵レーダーに向ける。敵の表示が、完全に消えていた。
何も考えられないまま、視線をドラベラー上等兵に動かす。戦闘前と変わらない構えで、倒した相手を静かに見据えていた。理解が追いついて、身体がこわばる。
攻撃の仕草や、動きといった物を認識出来なかった。風景と一体化して、自然と見逃してしまう程、当然のように行われている。最小限の動きを、極限にまで突き詰めた結果だろう。
「ヘプタ03、大尉からヘプタ08へ。何か問題はあるか?」
「ヘプタ08、少尉からヘプタ03へ。特に問題は無し。以上」
「ヘプタ03、了解。これなら問題ないな」
二人の話を聞きながら、僕はドラベラー上等兵の姿を、未だに呆然と見続けていた。先程の圧倒的な光景が、まだ頭の中に残っている。
「ヘプタ03、大尉からヘプタ09へ。こちらの連携は独特だが、把握はしてあるだろうか。以上」
「ヘプタ09、上等兵からヘプタ03へ。一応の把握はしてあります。以上」
「よし。では、ヘプタ04とヘプタ05へ。ヘプタ09との連携訓練を行うので、ヘプタ08と合流しろ、以上」
「了解」無理やり引き締めた返事をしながら、頭と身体を動かして、全身のスラスターを起動させた。
目的の場所に移動した後、背中から武器と防具を取り出して、自分の立ち位置へと移動する。
「ヘプタ04、上等兵からヘプタ03へ。合流に成功、以上」
前方で立ち位置に困っている、バルドとドラベラー上等兵を眺めながら、僕は先に報告を終えた。同じ近接型なので、邪魔にならない所を探しているんだろう。
「ヘプタ03、大尉からヘプタ04、ヘプタ09へ。位置取りと行動は、基本通り行うように。以上」
「了解」
二人はデルタ隊長の助言を聞くと、僕の前方で左右に分かれていく。移動を終えた方から、デルタ隊長に報告をしていった。
「了解。今から三秒後、前方にウォーマシンを、二体出現させる。撃破するように、以上」
「了解」
「は、はい、じゃなくて、了解です」
突然気弱になった、ドラベラー上等兵に視線を向ける。全身が忙しなく揺れていて、落ち着きが全くない様子だった。
予想外の事だったので、頭の中で数えていた、時間の感覚が乱れてしまう。強い焦りを感じながら、目と武器の狙いを、前衛二人の前方に向けた。
予想よりもやや遅めに、二体のウォーマシンが、一キロ先の地面の上に出現する。姿が見えた瞬間、敵の左右近くに向けて、白色弾を一発ずつ発射した。
牽制として撃った弾が、灰色の地面を粉々に砕きながら、辺りに粉塵を巻き上げていく。ウォーマシン二体は、付近の異常を感知して、砲撃が来た方角に振り向いた。
次の瞬間、バルドがスラスターを使って、急加速をかけながら、左のウォーマシンに向かっていく。
極僅かに遅れて、何故かドラベラー上等兵も、バルドと同じ方向に向かって行った。
「ヘプタ09! 後退しろ!」タスキー少尉の叫び声を聞きながら、右側のウォーマシンに向けて、撃てるだけの弾を放つ。本来なら、ドラベラー上等兵が戦う相手だった。
狙いを付けていない弾の一つが、ウォーマシンの頭に命中する。前衛二人を狙っていた銃口がずれて、発射された弾が、何処かへと飛んでいった。
「邪魔だ!」聞き慣れている怒鳴り声と、誰かの怯えた声が、内蔵通信から聞こえてきた。
誰も死なない事を祈りながら、砲弾の装填を行わせて、右側のウォーマシンに追撃を行う。
幸運な事に、殆どの弾が、敵の全身に命中してくれた。頭を自爆させたウォーマシンから、バルド達の方を向く。
頭部が無くなっているウォーマシンと、前衛二人の、立っている姿が目に入った。生き残ってくれた事に安堵しながら、スラスターを使って、雰囲気の悪い二人に近づいていく。
バルドが無言のまま、顔を伏せているドラベラー上等兵を、真正面から睨みつけていた。ドラベラー上等兵の顔には、苦悩の色が濃く表れている。
「ヘプタ03、大尉からヘプタ09へ。今の行動はどういう事だ?」
「申し訳ありません。考えすぎて、混乱してしまいました」
ドラベラー上等兵が、声を震わせて、より差し迫った表情を浮かべながら、デルタ隊長に報告していく。
昔の自分を見ているようだった。共感出来る気持ちと共に、意地の悪い優越感が湧いてくる。出来るだけ、頭の中から振り払おうとした。
「ヘプタ03、大尉からヘプタ09へ。何も考えずに身体を動かせ。必要な動きは覚えているはずだ、以上」
「了解」
「よし。では今から三秒後に、今から全く同じ物を、もう一度行うぞ。以上」
「了解」
ドラベラー上等兵は、少しだけ調子を取り戻したようだった。恐らく大丈夫だろうと思いながら、敵が出現する前面に向けて、武器構える。
随分と形になってきたなと思いながら、二人の動きに注意を払う。
バルドが盾を構えて、最後に残ったウォーマシンの前に出た。一気に距離を詰められたたので、危険だと判断したウォーマシンが、攻撃をバルドの方に集中させていく。
バルドが盾で耐えている間に、ドラベラー上等兵が、ウォーマシンの後方から急接近していった。背後から仕留めるつもりだろう。
援護の砲撃を送れないと思ったので、変に強張った身体を解す為に、上半身を大きく動かす。前衛二人の動きに、気を使いすぎているのかもしれない。
ドラベラー上等兵の動きも、最初と比べて大分落ち着いてきた。全員の動きが整ってきた事に、少しの満足感を感じながら、前衛の二人に目を向ける。半壊したウォーマシンが、ドラベラー上等兵の背中を狙っていた。
「ヘプタ09! 背後の敵が動いていますよ!」
指示を送りながら、スラスターの反応を最大にして、ドラベラー上等兵の後方に突っ込む。盾で敵の攻撃を受け止めようとした時、何かで身体全体が吹っ飛ばされた。
地面の上に投げ出されたせいで、自然と俯せの状態になる。側頭部から、少し強い痛みが走った。スラスターで飛び起きようとした瞬間、強烈な目眩が襲ってくる。
強い吐き気と、平衡感覚を失う物だった。空中で体勢を整えようと思っても、何処が地面なのか分からない。わざとスラスターを切って、地面に身体を落とす。
前の方で、何かがぶつかった。俯せになっている身体を半回転させて、盾と身体を密着させる。光が完全に遮断されて、目の前が一面黒く染まった。
「ヘプタ03から、04、05、09へ。その場で停止しろ。誰かが来るまで、絶対に動くんじゃない」
「了解」意識が朦朧としているが、何とか返事をする。
頭の中で、何かが小さく揺れ続けていた。中の物が動く度に、全身が一瞬だけ痙攣する。痛みを感じないので、装甲が突破された訳ではないんだろう。
「マジかよ」吐き捨てるような声が、内蔵通信から聞こえてきた。タスキー少尉に、似ているような気がする。
「ヘプタ08、少尉からヘプタ04へ。診断プログラムを起動させるから、暴れるなよ。以上」
了解という返事が、呻き声になってしまう。言葉らしき物を出した瞬間、誰かが僕の左手を握りしめた。焦点の合わない視界の中に、外部から起動させられた、診断プログラムの表示が現れる。
内蔵システムからの物なので、周りのようにぼやけていない。不自然にはっきりと表れている、診断プログラムの経過を、苦しみながら眺め続けた。
結果を待っている間に、頭の中の揺れが治まってくる。気持ちの悪さが消えて、少しずつ視界が戻っていった。
右側からの光が、盾の裏側部分を照らしている。内蔵レーダーの表示通りなら、光の方に、タスキー少尉が居るんだろう。
「色々ごめんな」
「え」右の隙間から、タスキー少尉の声が聞こえた。口から発せられた物に驚いて、僕も声を上げてしまう。
「色々あるんだよ。ごめん」戦闘時の規律を破りながら、タスキー少尉は静かに答える。
独り言のような言い方だった。真剣さを帯びた雰囲気に、口を挟む事が出来なくなる。
黙りこんでいる間に、診断結果の送信が完了した。
「目を回しただけみたいだな」今度は内蔵通信を使って、タスキー少尉が僕に話しかける。
「起きられるか?」
「大丈夫だと思います」
太陽の光を想定しながら、盾を持っている右手を動かした。すぐに眩しい光が目に入って、意識が軽く揺さぶられる。
明るさに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。立ち眩みを起こしたが、倒れるような物じゃない。
「ヘプタ04、上等兵からヘプタ08へ。問題ありません、以上」
「ヘプタ08、少尉からヘプタ03へ。ヘプタ04の無事を確認、以上」
「ヘプタ03、大尉からヘプタ08へ。了解、以上」
内蔵通信の会話は、デルタ隊長への報告で終了した。事情を尋ねるなら、今しかない。
「ヘプタ04、上等兵から全員へ。何があったのでしょうか、以上」
「ヘプタ08、大尉から上等兵へ。ヘプタ09の誤認で、頭を殴られたんだよ。今はヘプタ03が様子を見てる、以上」
初歩的なミスに驚いて、口から声を上げそうになってしまう。新兵が行うような失敗だった。咳き込むように押し留めながら、内蔵レーダーを見て、視線をバルドと、ドラベラー上等兵の位置に向ける。
バルドが赤い目を釣り上げて、怒りをドラベラー上等兵にぶつけていた。間にデルタ隊長が居なかったら、殴りかかっていたかもしれない。一キロメートル以上離れているので、三人の声は聞こえないが、穏やかな雰囲気には見えなかった。
「今だけ、口で話してくれ」前に立っていた、タスキー少尉の方を向く。「倉庫での話は、ヘプタ03から聞いている。今の誤認は、話の内容が原因だと思うか?」
「思いません。自分に非があるので、ヘプタ09は全く関係ありません、以上」
「ん?」タスキー少尉は関心を持ちながら、僕の方を振り向いた。「そうか、そう考えてくれるのか。ありがとうな」
「はい」タスキー少尉の話し方は、自分の考えに集中している時のようだった。少し疑問に思った瞬間、相手の表情が大きく崩れる。
「あー、悪い悪い」苦笑いを浮かべながら、タスキー少尉は普段の口調に戻る。「俺って、顔に出やすいから」
「そうなのでしょうか」
「そうそう。表情も口調も、今だけは見なかった事にしてくれ」
僕が首を傾げると、タスキー少尉は困ったように返事をしながら、視線を真正面に戻していく。
「駄目だ。訓練にならない」間を置かずに、今度は内蔵通信から、デルタ隊長の苛立ち声が聞こえてきた。「ヘプタ03、大尉から全員へ。ヘプタ08に権限を譲渡するので、各自は設定された個人訓練を行え。ヘプタ09は、私がどうにかしておく、以上」
「了解」
頭の中で、ドラベラー上等兵の姿が思い浮かぶ。後で顔を合わせた時の、居心地の悪さを想像してしまった。
「よし。ヘプタ08、少尉から全員へ。三秒後、個人訓練の場所に転送する、以上」
「了解」
二体のブレイクパウンドを倒した瞬間、シミュレーションのシステムが、訓練の終了時間を提示してきた。時計の表示がゼロになると、周りの景色が、訓練開始前の物に変化する。
同時に頭の右側からの、後遺症のような痛みが収まった。漸く頭痛が治ってくれた事に、胸を撫で下ろしながら、ヘルメットを頭から外していく。
ドラベラー上等兵から食らった攻撃は、僕の内部システムに、大きな勘違いを引き起こした。非常に強い衝撃を受けた時、極稀に身体のシステムが、怪我を負ったと勘違いをする時がある。
一度認識されてしまうと、身体は無事なのに、後遺症だけが発生してしまう。とても珍しい現象だと、昔のアナクルさん辺りが言っていた。
疲れた身体を動かして、ソファーから床に立とうとした時、異様な表情が目に入って、腰の力が抜けてしまう。
生気の無い目付きをしている、ドラベラー上等兵の顔だった。口を力強く結んで、涙ぐみながら、僕を僅かに睨みつけている。何かを諦めた時の、冷たい眼差しによく似ていた。
身の危険を感じたので、床から起き上がる時に、相手から視線を外さないようにする。今の所、ドラベラー上等兵の様子に、変化は見られない。
「どうしました」
臆したら負けだ思ったので、自分の方から口を開く。すると、ドラベラー上等兵は、僅かに身体を僕の方へと動かした。
腕が折れる事を覚悟しながら、反射的に両腕を交差させて、自分の身体を守る。
暫く同じ姿勢を取っていたが、何の変化も訪れない。全身に力を込めて、すぐに動ける状態にしながら、両腕を勢い良く左右に開く。
ドラベラー上等兵は、口を開いて、何かを言おうとしているようだった。しかし、声を出さないまま、すぐに口をつぐんでしまう。
「あの」
声をかけた瞬間、ドラベラー上等兵は悔しい顔をしながら、駆け足で、シミュレーションルームを後にしていった。急いで相手の気配と心境を、能力で探っていく。
ドラベラー上等兵の気配は、艦の使われていない、空部屋の中に入っていった。怒りと悲しみが入り混じったような、特定出来ない感情を抱えたまま、室内の一箇所に留まっている。
暴れてはいないようだった。ドラベラー上等兵の気配を捉えながら、今すぐ上官に報告した方がいいのか、頭を少し悩ませる。
内蔵通信を使って報告したら、必ずドラベラー上等兵に確認を取るだろう。辛い状態のドラベラー上等兵から、無理やり話を聞き出す事になる。
部屋で何もしていないのなら、今は放っておいた方がいいのかもしれない。黙っている事を決めながら、視線を内蔵時計に移して、今の時刻を確認する。
十七時三十分を、少し過ぎた所だった。普段の時間なら、まだ訓練をしている最中だろう。
自室に戻って、報告書を作る事に決めた。ドラベラー上等兵の行動を教えるのは、時間を置いた方がいい。
安全を確保する為、ドラベラー上等兵の様子に注意を払いながら、足を自室の方へと向けていく。
シミュレータールームを抜けても、ドラベラー上等兵の様子に変化は見られない。少し緊張しながら、壁に取り付けられた認証パネルを使って、扉を開ける。
室内に居たバルドが、椅子に座ったまま、自分のコンピューターの、モニター画面を見据えていた。
「お疲れ様」僕が声をかけると、バルドが驚いたように、少し身体を跳ね上がらせた。
「あ、おう」
「どうしたの?」
「うん、まあ、ちょっと」何故か返事に困りながら、バルドは顔を伏せてしまった。
「何かあったら言ってね」無理に聞き出すのも悪いと思ったので、わざと話を打ち切りながら、自分のコンピューターに近づいていく。 バルドの右隣に置かれていた、机と椅子に身体を預けて、壁に埋め込まれている、コンピューターの電源スイッチを押した。
すぐにコンピューターのモニターが、緑一色の画面を表示する。同時に、僕一人では起動できない、特殊な内蔵機能が働いた。
僕の視界にしか表示されていない、コンピューターのシステム画面を操作して、報告書作成のアプリケーションを起動させる。
最初に、ドラベラー上等兵の事を纏めていった。誤認の記載は最小限にして、今起きている行動の詳細を、全て記載していく。
作った物を軽く見直した後、今度は毎回行っている、自分の為の報告書を作成していった。
訓練中の内容を纏めていた時、タウロス兵長の話を思い出して、両手が止まる。シミュレーションの中では、アーミーパウンド同士を戦わせる事もある、と言っていた。
何かに失敗した時の、急かすような焦りが強くなっていく。今日の訓練中に戦った、中型ブレイクパウンド二体は、もしかしたらアーミーパウンドかもしれない。
少し形は崩れていたが、銃の持ち方も偵察の仕方も、僕達のやり方に近かった。もしかしたら、本当に同じだったかもしれない。
最後の時、二人は完全に意識を失っていたんだろうか。荷電粒子砲で止めを刺す時には、至近距離から砲撃を撃って、相手の頭と動力炉を、粉砕しなければならない。訓練だから仕方がないとはいえ、受ける側からしてみたら、たまったもんじゃないだろう。
心の中で謝った後、強い罪悪感を持ちながら、報告書の続きを仕上げていく。訓練中とはいえ、僕だって殺されたくはない。仕方が無い事だろう。
出来上がった文章を、三回程度見直して、不備が無いかを確認する。必要な記載は出来ているので、恐らく大丈夫だろう。
付属のプリンターに印刷させて、最後にもう一度目を通す。最後はバルドに確認して欲しかったので、身体を左を向ける。
バルドは手元を忙しなく動かしながら、コンピューターの画面に目を凝らしていた。間違いなく、報告書を作成しているんだろう。「ヘプタ03、報告書の確認って出来る?」
「ん? うん」集中している時の、気の抜けた返事をしながら、バルドが僕の方を向いた。
僕が差し出した報告書を受け取ると、バルドは一枚一枚、ゆっくりと中身に目を通し始めていく。
「不審な行動ねえ」報告書から目を離さないまま、バルドは不満気に口を開いた。「怪しいというよりも、挙動不審というか、何なんだよあれ」
「よく分からないけど、何かあるんじゃない?」
不機嫌そうに鼻を鳴らした後、バルドは更に先を読み進めていく。最後のページは今まで以上に時間をかけて、ゆっくりと確認しているようだった。
「本当なら、これで納得しなきゃならないんだよな」
「え?」
「ああ、報告書はいいんだよ」バルドが殺気付いた目で、僕の方を見た。「これ出して、司令官達から罰を食らって、終わりだろ」
「ヘプタ09の事?」
「そうだよ」赤い目が不気味に輝いた。「俺は絶対に嫌だね。何とかしろっつっても、気になってしょうがないから無理だってよ」
話が終わると、バルドは僕に向けて、報告書を乱暴に突き出した。本気の怒りに圧倒されながら、慌てて差し出された報告書を受け取る。
バルドは表情を変えないまま、自分のコンピューターに身体を向けた。気不味い空気から逃げる為に、内蔵時計の時刻を確認する。
もうすぐ十九時になる所だった。今のバルドの側には居たくないので、先に夕食でも済ませておこう。
「ご飯食べてくるね」
バルドからの返事は無いが、間違いなく聞こえているだろう。椅子から立ち上がって、自分のベッドの側に取り付けられた、僕専用の物置棚に近づいていく。
棚の中で飾っている、動物で買った梟の置物を使って、報告書が横に倒れないように固定する。置物の梟は今までと変わらない、少し呆けた表情で、思った通りの役割をこなしてくれた。
愛おしく感じたので、置物の頭部分を、右手で優しく撫でる。一人で十分に満足した後、自室から通路に出た。念の為に意識を集中させて、ドラベラー上等兵の気配を探る。
ドラベラー上等兵は、アナクルさんの居る、医務室の中に移動していた。二人の感情に、大きな変化は見られない。
何か相談もしているんだろうと思いながら、通路を歩いて、食堂の中に移動する。
室内には誰も居なかった。今の時間なら、誰か居てもおかしくはない。珍しいと思いながら、部屋の冷蔵庫の扉を開けて、中からエネルギーパックを取り出した。
テーブルの椅子に座りながら、テレビの電源を入れて、知名度の高いチャンネルに合わせる。テレビの画面上に、見慣れたニュース番組の名前が表示された。
大きなボードを使って、インパウンドの男性と人間の女性が、何かの植物を紹介している。テレビ画面の右上を見ると、桜が散った後の植物を探せ、という文字が表示されていた。
基地の外に生えている、桜の木の事を思い出しながら、エネルギーパックの中身を口にする。確か、休暇の中程辺りで、桜の花が全部散っていた。
皆さんも探してみて下さいねと言って、インパウンドの男性が、笑顔で話を終わらせる。すぐに表情を引き締めて、次のニュースです、という言葉を口にした。
番組の内容が、海外の政治話に移っていく。アメリカの一つの州が、アーミーパウンズの支援を、長い間拒絶し続けているらしい。自給自足の生活を送っているので、支援は必要ないという話だった。
現地でのインタビューや、州で公表されている数値等が、番組の中で紹介されていく。全てが終わった後、インパウンドの男性と人間の女性は、互いに自分の考えを披露していった。
二人は声を荒げる事なく、冷静に物事を語りあっていく。まるで人間と人間が、向き合って話をしているようだった。
何度見ても、少し不気味で歪に見える。今は立場が対等だから、別に変な光景じゃない。でも、僕には凄く不自然な物に見えてしまう。
インパウンドの地位が、人間と変わりない物になったと言われても、昔の酷い仕打ちが無くなる訳じゃない。地球のインパウンド達は、すぐに見方変えられたんだろうか。
首を傾げていた時、ドラベラー上等兵の気配を、部屋の外から感じ取った。自然に感知したという事は、すぐ近くにまで来ている。今から移動しても、食堂の外で顔を合わせてしまうだろう。
偶然を装う為に、出来るだけテレビの方を意識しながら、ドラベラー上等兵が入って来るのを待った。部屋の扉が開いたのと同時に、出来るだけ自然な動きで、身体を相手の方へと動かす。
「申し訳ありませんでした」目が合った瞬間、ドラベラー上等兵は僕に向かって、頭を深々と大きく下げる。頭が床に付くぐらいの、深い角度だった。「本当に申し訳ありませんでした。色々と神経が昂っていたので、すみません、本当に申し訳ありません」
一字一句の最後まで、しっかりと読み上げている。心の底から反省している事が、自分の経験で良く分かった。
「大丈夫ですよ、うん」謝罪される事に慣れていないので、一瞬だけ言葉に詰まってしまった。「深く考えないで、もう終わった事にしましょう」
「申し訳ありませんでした」
噛み締めるような言葉の後、ドラベラー上等兵は、恐る恐る姿勢を正した。やや俯き加減だが、先程よりも大分落ち着いている。
「とりあえず、そこにでも座ってみますか?」立ち尽くしたドラベラー上等兵に向かって、僕は斜め向かいの席を、開いた手で誘導する。
「はい、すみません」
ドラベラー上等兵は、小さな声で答えながら、案内された席に腰掛けた。机の上に、手に持っていた書類を伏せた後、今度は不安な表情で、食堂の中を見渡していく。
すぐに下を向いてしまった。先程よりも表情を曇らせながら、伏せた書類に視線を送っている。見ない方がいいと思ったので、視線をドラベラー上等兵から、机の上に移した。
間違ってるかもしれないが、ドラベラー上等兵は、僕の事を誤解しているんだろう。内心は怒り狂っている等といった、悪いイメージを持っているに違いない。
僕は相手を責めるような事を、全く考えていなかった。誤認されても生きていたんだから、結果として大惨事にはなっていない。無事に終わったんだから、もう忘れていい物だだろう。
遠回しでもいいから、相手を励ます方法は無いだろうか。少し考えてみても、良い方法が見つからない。
何も考えずに、勢いだけで伝えた方がいいんだろう。
「あの、僕怒ってたりとかしてないですから、その、気にしないで下さい」
「はい」
ドラベラー上等兵は項垂れたまま、僕の落ち着いていない話し方に答えてくれた。無理やり答えさせたようにも見える。
「すみません」自分と相手に向けて、口下手なのを謝りながら、視線を逸らす。
悩みながら周囲を見渡した時、食堂のテレビが目に入った。各地のお店で売り切れ続出、人気の文房具という文字が、画面の右上部分に表示されている。
また、テレビの中央部分では、人間の女性リポーターが、白い紙に何かを書いていた。ペンの書き心地等を話しながら、何かの絵を、黒い色で描いていく。
書き終わった後、テレビの映像が、リポーターの書いたという部分を拡大していった。映像の動きが止まって少し経つと、先程描いた絵の部分が、自然と鮮やかな色で彩られていく。
テレビの音声と共に、感嘆の声を上げた。個別に描かれた絵の着色が終了すると、今度は一つ一つの絵が動き出していく。
簡単に描かれている家の煙突から、灰色の煙が出現した。周囲の緑色をした草原から、犬や猫のような物が現れ出てくる。まるでアニメーションのような光景だった。
絵を凝視している間に、お絵かきボールペンで描いた物です、という音声が、テレビから聞こえてくる。
一瞬だけ、ドラベラー上等兵に視線を向けた。先程と同じ様子を見せている。
「これって面白いですね」暗い雰囲気を打ち破る為に、やや大きな声で話しかけた。「お絵かきボールペンって言ってました。本当に人気あるんですか?」
ドラベラー上等兵は、無言のまま顔を上げて、テレビを見る。
「ああ、人気ありますよ」
「そうですよね、珍しいですもんね。これって、文字書いたらどうなるんでしょうか?」
「一回やった事ありますよ」僕の畳み掛けるような話を聞くと、ドラベラー上等兵は弱々しい笑みと共に、僕の方を向いた。「文字が動くので、書いた物が分からなくなりました」
「そうなるんですか」苦笑いをしながら、僕も視線をテレビの方に戻す。
暫くの間必死になって、ニュース番組の話題を、ドラベラー上等兵に振り続けた。少しは態度を崩せるかと思ったが、ドラベラー上等兵は硬い姿勢を変えないまま、僕の質問に答えていく。
無駄に気を使わせているみたいだった。今は黙っていた方がいいと思ったので、何も考えないまま、テレビの映像に目を向ける。
気不味い雰囲気が流れ始めるが、もう僕に出来る事は何もなかった。
「北極、って、見ましたか?」
「え?」不安そうに言葉を区切りながら、ドラベラー上等兵が口を開いた。突然の言葉に、反応が少し遅れてしまう。「北極ですか? まだ行った事は無いです」
「そうですか」
「何かあるんでしょうか?」少し様子が変わったので、自分から追求していく。一貫して変わらなかった表情が、残念そうな物に変化していた。「大事な物とか、重要な物とか、何かこう、人工島で凄いとか何でしょうか?」
「すみません、僕が北極生まれなだけです」相手を黙らせないように、訳の分からない話を続ける僕を見ながら、ドラベラー上等兵は苦笑いを浮かべる。「北極生まれなので、白熊何ですよ」
「白熊」話を中断させないように、関連する言葉を、頭の中から引っ張り出す。「肉食で、毛皮とか、何とか?」
「そうですそうです」ドラベラー上等兵は、少しだけ笑顔を見せながら、首をゆっくりと縦に振った。「周りと親しみやすい外見で。でも、やる時はやるという外見で。っていうのを考えたら、白熊を作ろうって事になったらしいです」
「気軽というか、何というか」僕達とは違う、別の理由で作られた事に、違和感を感じてしまった。「凄い理由ですね」
「決まりはあるみたいですけど、基本は直感で決めるみたいです。動いて活躍すれば、外見は関係ないみたいですよ」
首を傾げ始めた僕に答えながら、ドラベラー上等兵は、更に表情を緩めていく。
「じゃあ、ヘプタ08とかは、何の意味があるんでしょうか?」
「そうですねぇ。虎だから、えーと」
僕の質問に対して、ドラベラー上等兵は少し考える仕草をした。頭に付いている丸い耳のせいで、ぬいぐるみのようにも見える。「珍しいとか、カッコいいとか、そんな感じじゃないでしょうか」
「確かに格好はいいですね」今までの逞しい物とは違う、大きな差から来る変な笑いを、口の中で押し潰した。「ところで、その、動物っぽい仕草とかも、開発者が作ったんでしょうか」
「ああ、これはアーミーパウンズで学びました。一応、動物型は擬態を目的としているので、生態や仕草も学ぶというか」
「ああ、ちゃんと理由があるんですね」
「でも、本当の白熊は、こんな事しませんよ」感心した僕に向かって、ドラベラー上等兵は困ったように顔を歪める。「何というか、周りの要望に答えていったら、こうなったっていうか」
話を誤魔化すような、わざとらしい笑顔に釣られて、僕も似たような表情を作ってしまった。外見も性格も知ると、やって欲しいと言いたくなる気持ちは分かる。
「でも、可愛いとか言われるのって、正直恥ずかしいですよ」
「それは、そうだろうね」
二人で苦笑いを浮かべてしまう。自分の姿で置き換えてみると、違和感しかない。
話の区切りが良かったので、内蔵時計の表示に目を向ける。夕礼の時間まで、十五分程だった。
「すみません。もうすぐ夕礼なので、話はここまでにしましょう」
「そうですね」不安な表情に戻りながら、ドラベラー上等兵は、机の上の報告書を見直し始めた。
「大丈夫です」わざと強い口調を使って、バルドの不安を消し飛ばすように、相手を勇気付ける。「変な事にはなりませんよ」
「は、はい」ドラベラー上等兵は語尾を強めて、一気に表情を引き締める。まるでバルドのような行動だった。
「自分は報告書を取ってくるので、先に会議室の方に行ってて下さい」
「了解」
力強い表情に見送られながら、食堂から出て、自室に戻る。中に誰も居ない事を確認しながら、棚に置いた報告書を回収した。
中身に軽く目を通しながら、自室を出て、会議室の自動扉を開ける。
部屋の中を見た途端、今まで以上に厳粛な雰囲気だと直感した。眉間に皺を寄せている、上官達の厳しい視線が、部屋に入ってきた僕に向けられる。
司令官達の怖い目付きから逃げるようにして、自分の席に素早く移動した。全員部屋に集まっていたので、恐らく僕の到着を待っていたんだろう。
「面倒だから、もう本題に入りましょうか」 僕が椅子に腰掛けた後、アクト司令官は不快そうな声を上げた。「ヘプタ09の誤認は、流石に許される物ではありません。連帯責任として、上等兵三人は一週間。日頃の業務に加えて、相談室の清掃を命じます。以上」
「了解」二人と共に返事をしながら、相談室の概要を、頭の中から引っ張りだす。任務初日に教えられた場所だった。
相談室は、軍用倉庫のエレベーターから出て、普段の荷物受付の道とは違う、紺色の矢印に沿った場所に作られている。
中では複数人の心療軍医達が待機していて、建物に来るアーミーパウンド達の、心の悩みを治療している、と教えられた。
オブリード副司令からの連絡を聞きながら、一瞬だけ、ドラベラー上等兵の顔を見る。最後に見た時と全く変わらない、安心の出来る顔付きをしていた。
夕礼が終わって、周りから話しかけられても、特に緊張している様子は見られない。大丈夫そうだと思ったので、僕は最近の楽しみになっている、艦のお風呂に入る事にした。
改修後に作り直された物だが、現在利用しているのは、僕とデルタ隊長ぐらいだろう。洗浄なら基地の行き来で行われているし、アーミーパウンドの装甲は、軽い汚れを弾いてくれる。
僕達のように、新設された個人の浴槽目当てでなければ、行く必要は全くなかった。僕もアナクルさんから、ストレス解消用にと勧めてくれなければ、通う事は無かっただろう。
皆に一声かけた後、和気藹々としている会議室から抜けて、浮かれ気分になりながら、浴室に向かう。洗浄室から浴室へと、名称が変えられた部屋の中に入って、入り口の脱衣所から、奥の風呂場に移動した。
一番近くの所に取り付けられた、室内を区切っている透明な防音フィルムをくぐって、個室として作られている中に入る。設置された浴槽に備わっている、大型インパウンド用と書かれたボタンを押すと、浴槽の下からお湯が出てきた。
飛び散った洗剤が入らないように、縦で置かれている板で蓋をした後、壁のシャワーを手に取って、ノズルの背面に付けられた、お湯というボタンを押す。
すぐにシャワーの頭部分から、暖かなお湯が勢い良く噴き出してきた。付属の洗剤とブラシを使って、全身をゆっくりと洗い流す。
最後に頭を軽く振って、視界の上から落ちてくる雫を振るい落とした後、お湯が溜められた浴槽に、足を踏み入れる。温かい物が少しずつ浸透していく、独特な感触に声を上げながら、全身を湯船に浸けて、足を伸ばした。
静かな場所で、弱い水の浮力を感じながらの、何ともいえない暖かさが心地良い。気持ちよさに声を上げながら、お風呂の良さを堪能していった。
暖かなお湯に浸かって、体温を僅かに上げるだけなのに、気持ちが良くて仕方がない。更に気分を良くする為に、身体を俯せにして、全身をお湯の中に沈めていった。
幸せを全身で噛み締めながら、心地よさから来る溜息を吐く。身体の前面が浴槽の床に当たると、内蔵システムの気圧調整が働いて、全身がお湯の中で固定された。
浮きそうで浮かなくなる状態は、少しだけ、宇宙空間の無重力状態に似ている。何も考えずに宇宙を漂って、気分転換をしていた時の状態にさせてくれた。
湯の中に浸かっているだけで、日頃の疲れが一気に吹き飛ぶような気がする。最近は宇宙が恋しいとも感じていたので、お風呂という物は、僕にとって本当に都合が良かった。
気持ち良さに目を瞑ってしまう。眠っている時と、起きている時の境目を漂っていた時、激しい水の音が聞こえてきた。
「ナナキ上等兵! もしもし!」
「うん」大音量の叫び声に顔を顰めながら、心地よい気持ちと共に、寝ぼけた返事をする。
「大丈夫ですか!? 返事をして下さい!」
「ちょっと声が大きい」眠い目を無理やり開けると、ドラベラー上等兵の、鬼気迫る顔が真正面に表れる。突然の行動に、頭の中が凍りついた。
「大丈夫そうですね。安心しました」ドラベラー上等兵は、何故か心底安心した様子を見せる。「軍医に診てもらった方がいいですよ。あのままだったら、浴槽で溺れ死んでいたかもしれません」
「溺れる?」
「今沈んでいたじゃないですか。大丈夫ですか? 何か変な所はありますか?」
混乱した頭の中で、つい最近タスキー少尉の起こした出来事が、頭の中に思い浮かんだ。「ああ、あのね」以前僕を浴槽の中から引っ張りだした、タスキー少尉のふてくされた様子が、頭に浮かぶ。顔が少しだけ、半笑いになってしまった。「僕達は宇宙用だから、空気が無くても生きていけるんだよ」
ドラベラー上等兵は、驚いたように息を呑んで、目を大きく見開いた。唖然としている姿から目を逸らして、居心地の悪さを笑いでごまかす。
「はぁ、そういえばそうでしたね」
気持ちが細々と抜けていくような、ドラベラー上等兵の情けない返事に、一瞬だけ笑ってしまった。
「と、とにかく無事で良かったです。本当にどうなる事かと、あぁ、本当にびっくりした」
「ごめんごめん」
失礼だとは思ったが、ドラベラー上等兵の慌てふためく姿が面白くて、軽く笑ってしまう。目の前のドラベラー上等兵が、困った表情を浮かべていき、小さく唸りながら立ち上がった。
「本当に止めて下さいよ!」
「ごめんね」
笑いを噛み殺しながら答えると、ドラベラー上等兵は肩を落としながら、僕の隣の個室へと向かっていく。
僕はドラベラー上等兵の背中を眺めながら、明日からの共同生活に、少しの安心感を抱いた。助けようとしてくれたんだから、他人を見捨てるような、冷たいアーミーパウンドではないんだろう。
最初に出会った時の、良い直感は当たりだったのかもしれない。失敗で付いてしまった苦手意識も、一緒に生活していれば、次第に消えてくれるだろう。
嬉しさを噛みしめながら、今度はやや勢いをつけて、浴槽の中で仰向けになった。