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【第一話】5:Panem et circenses.

やっぱり描写は行間だけど、卑猥注意回。

これもひとえに世界観とキャラ背景のためなんだ。

 「あはははははははは」

 「…………何そんなに笑ってるんですか?」

 「いや、うん。初心だねぇ君」


 待機部屋でうがいを繰り返し、ごしごしと濡らしたタオルで手から足から腹から肩から身体を拭きまくっているエルムに店主が忍ぶつもりもないらしい笑いを漏らす。


 「こういう仕事は初めてなんだ」

 「どうでしょうね」

 「その反応見てればわかるよ」

 「…………そりゃ、覚悟は決めてましたけど、あんなに適確に触って来られるとか思ってなかったんで」


 尻でも胸でも触られるとか揉まれる程度どうってことはない。ちょっとくすぐったいだけさ。そんな簡単なことで仕事になるんなら別に減るものじゃないし幾らでも触れば良いんだ。そう思っていた。

 それが何だ?あの客は。ていうか話が違くないか?やけに際どい場所を適確に狙ってくる。

 胸なんか主に突起を弄る方が中心。触る感触を楽しんでるというよりは、それでこっちの反応を見て楽しんでいるみたいだ。そりゃそうか。僕は女じゃないんだ。触ったってそんなに面白くはないもんな。


 「いや別に嘘は言ってないだろう?」

 「……そうですね」

 「でも確か触られるとは聞いてましたけど、舐められるとかは聞いてなかったんですけど」

 「別に減るものでもないだろう?」

 「神経すり減りそうなんですけど」

 「あはは、嫌だな。キスされるくらいはあるって言っただろ?ちょっとその場所が違うだけじゃないか。流石にそこより下にはされないから安心しなよ」

 「警戒しか出来ないんですけど」


 客達の目はどこかあいつに似ている。そのせいであいつから逃げてきたのに、全然逃げられている気がしない。

 みんな誰も信じていない、金がこの世の全てだと信じている濁った目。この世に真実の愛なんてあるとは思っていない。こうして混血の僕をからかい弄び蹂躙させるのも金の力だとその目が語る。そしてそれに屈服させられている僕を見て、それを嘲笑って楽しんでいるのだ。

 この人達は、本当にああいうことがしたいんだろうか?まるで何かに復讐するように、色を求めているように僕には見える。それは他の大きな気持ちや苛立ちを全部それに置き換えて憂さ晴らしをしているようだ。

 店の中を見渡せば、客には男も女もいる。従業員もそれは同じ。男が男を買ったり女が女を買ったり。そんなこともこの店の中では平然と行われている。

 倫理観が狂っていて、常識の物差しじゃ何も計れず、頭が痛い。セネトレアと言う国の異常さはこの数年で学んだつもりだったけど、宗教国のシャトランジア出身の僕にとって……ここまでの背徳感は耐え難いものがある。触られる度に身体に走る震えが感じているのだとでも勘違いしているんだろうか?そうじゃない。これは反吐が出るほどの気持ち悪さだ。

 他の背徳を味わえば、姉さんとの過ちを塗り替えてくれる。忘れさせてくれると思ったけれど、そんなことはない。より深みへと落ちていくだけ。僕が如何に薄汚く罪深い人間かと言うことを自覚していくだけ。そして僕にこんなものを見せるこの世界がますます嫌いになっていく。どうしてこんなにこの国は、この世界は腐りきっているんだろう。

 神がいるならどうして全てを正しく美しく綺麗なままに正してくれないのか。或いはそれこそがは神の不在を証明するものなのか。

 ああ、何もかも壊れてしまえばいいのに。僕が或いは世界が。それかいっそのことそのどっちも。


 「……まぁ、指名入るまでしばらくは休んでいていいよ。今はまだピーク時でもないからね」


 肩を落とした僕を見て、店主はそう言い僕を置いていく。せっかく手に入れた貴重な商品。すぐに潰してしまうのは勿体ないと思ったのだろう。支払った以上の金を吐かせるまで逃してなるものか。優しい言葉からはそんな迫力が感じられた。


 *


 「……り、リィナさん!?それにロイルさんまで……」

 「エルム君!良かった無事だったのね!!」


 飲み物を手に、テーブルにやって来たエルムにリィナが抱き付く。リィナのそれは浮気に入らないんだろうか?いや入らないか。俺自身がそれに苛立たないから。

 いや、苛立つはずもない。エルムの格好はどう見ても男のそれとは思えない。深いスリットの入ったスカート。この時期だというのに腕に腹に胸まで露出しているとんでもない衣装。男だと解っていても、直視に耐える格好だ。変に目を逸らしても凝視してもこっちの方が浮気をしている気分になるから何とも反応に困る。


 「何もされてない!?大丈夫!?何かされたんならちゃんと言って!私が兄さんに同じ事してくるから!!いやロイルにさせてくるから!」

 「あ、あの……リィナさん?」

 「兄さんなんか私のロイルに比べればヒョロモヤシよ。エルム君が協力してくれれば簡単に手籠めに出来るわ!うちのロイルとの力勝負じゃもう兄さんじゃ勝てっこないし!骨へし折ってでも復讐してあげるから何でも言って!あることでもないことでもっ!!」

 「クレプシドラ……君までそんな……」


 エルムは何やら誰もいない方向へを視線をやって小さく溜息。俺やリィナには見えていない精霊というモノの名前を口にしている。それが何を言ったのかはこっちにはわからない。


 「大丈夫ですよリィナさん。大したこと無いです。別に……こんなの今更ですし」

 「駄目よエルム君!あのね、そういうことはね……」

 「別に僕には無くして困るようなもの、何もないですから」


 エルムの明るい桜色の眼。それが酷く暗い色に見えるのは、彼の心のせいだろう。


(あいつに似てやがる……)


 瑠璃椿。いやリフル。出会った頃のあいつにそっくり。酷く虚ろな目だ。今朝までは普通だったのに。それどころか兄貴に食ってかかるときのエルムはとても生き生きしていた。子供らしい、素直な顔をしていた。言葉こそどうだかわからない。それでも怒りや苛立ちを隠さずにそこに映す正直さ。それが今は失われている。

 エルムは不思議な奴だ。

 俺、リィナ、アスカ、そして瑠璃椿。その誰もが全く別の人間で、そんなに似ているところもないはずなのに、エルムはその誰にも似ていないのに誰にでも似ている。どこどなく誰とでも似通う点があるのに、その実誰にも根本的なところで全く似通わない。それはつまり、それだけ自分というモノをこいつが持っていないってこと。それに気付いてロイルは愕然とする。

 そんなことってあり得るのだろうか?


(どうしてこいつ……生きてるんだ?)


 此奴の中には守るべき自分というものがない。殺されたくない自分というものがない。だからだ。何故死ねないのか。それはどこを殺せば死ねるのかが自分でわからないからなんだ。だから誰かに殺されなければ、止まれない。


(何でそんなんで生きてられるんだ?)


 今、自分とこいつは戦っていない。得物を互いに携えてもいない。それなのに……背筋に走る震えと恐怖。目の前の少年から、得体の知れない何かを感じる。

 その薄ら寒さ。それを冬場の寒さのせいにして納得させようと、掌で腕を抱え擦って暖を取る。


 「もう!兄さんったら本当最低っ……!!ごめんねエルム君……うちの馬鹿男のせいで」

 「リィナさんのせいじゃないですよ。それに……もう良いんです。こうして混血の僕でも働ける場所が見つかりましたし」

 「エルム君……貴方、駄目よそんなっ……ロイル!貴方からも何か言ってあげて!」


 頑なな態度のエルムに痺れを切らしたリィナが助けを求める。


 「…………」


 考えてみよう。馬鹿な俺も馬鹿なりに。

 エルムは本当に何もないのか?仮に今はそうなのだとしても、そうなる前までには何かがあったはずだ。それを無くしたから、エルムはこんなに虚ろなんだ。

 西にいた頃のエルムは、確かに影が薄かった。それでもこんな目はしていなかったはず。

 俺はこの虚ろを城にいた頃の自分と重ねたが、本当にそうなのか?


(いや……違う。そうだ、これは……あの時の俺だ)


 エルムは今誰から逃げている?俺はあの時誰から逃げた?それは同じ人間。……ヴァレスタからだ。

 兄貴がリィナを傷付けていたと知った時、俺は今まで信じてきた全てに絶望した。兄貴は凄い人だと思っていた。俺に出来ないことが沢山出来る。剣も強ぇえし頭もいいし、毒舌が半端無い。口喧嘩でだって誰にも負けない。俺にとっての憧れだった。

 そんな兄貴が、俺を苦しめてきた他の人間と同じ……そういう人間だったと知ったとき、俺は今まで何のために頑張ってきたのか解らなくなったんだ。

 会う度リィナがいつも傷だらけだったのも。よく腹を空かせていたのも。俺の顔を見る度抑えきれないように涙が溢れていたのも。それでも何も言わなかったのも。その全部が兄貴のせいだったなんて……信じたくなかった。それでもリィナを疑うことなんか俺には出来なかった。それを兄貴に問い質す勇気もなくて、俺は……唯、逃げたんだ。リィナと一緒に。


(……エルムは、あの頃の俺と同じなのか)


 対話から逃げる。逃げて自分の心を守ろうとする。エルムはアルムと話したくないだろう。それだけのことをされたんだ。ディジットとも会いたくないだろう。だから西には帰れない。

 それでもここに帰って来ることが出来ないのは、……兄貴との対話から逃げるためだ。兄貴の言葉で傷付けられるのが嫌になったんだ。だけど逃げているだけじゃ、ずっと傷ついたままだ。ずっとその傷を引き摺ることになる。


 「エルム……俺とリィナもレスタ兄ぃのことは嫌いだ。リィナは兄貴が死んじまえばいいのにって思ってる。……俺は兄貴が嫌いだけどよ、……それでもまだどっかで兄貴が好きなところもあるんだ」


 そう簡単に割り切れる関係じゃない。兄弟っていうものは。


 「だから俺はお前のことが他人事とは思えねぇ」

 「………ロイルさん?」

 「俺はずっと兄貴から逃げてた。二度と顔も見ないだろうし話もしないだろうと思った。それでも俺は兄貴に会ったし話もしてる」

 「それって……僕に、姉さんと会えってことですか?」

 「そうじゃねぇ。別に逃げても良いんだ。俺は兄貴が居なくても十分楽しくやってこれた。俺にはリィナがいたし、居場所もあった。……俺が言いてぇのは、エルム。お前の逃げるべき場所はここじゃねぇってことだ」


 唯今の俺は、リィナがいなければこうしてこんな風に生きていたかもわからない。とっくの昔にどこかで野垂れ死んでいたんじゃないか?だから俺はリィナという人間に感謝している。エルムが立ち直るには、それはエルム自身の力だけでは不可能。他人に拒まれ拒んだからこそ、エルムはそこまで追い詰められて行ったのだ。

 俺にとってのリィナが、お前にとってのレスタ兄なんじゃないか?……そう聞いてもエルムは絶対否定する。なら言うだけ無駄だ。話の流れ的にはそう言われていることをエルムは感じ取っているはずだ。わざわざ否定の言葉を引き出すより、エルム自身に考えさせた方が良い。


 「……会ってみるとさ、意外と大したことなくて。ああ、こんなもんかって俺は思った。兄貴は相変わらず全然変わってない。俺の好きだったところも嫌いなところも昔のまんまだ」


 自分のことを話す振りで俺は兄貴のことをエルムに教える。

 だから戻ってきても、ああ、こんなもんかってきっとこいつも思える。兄貴は最低だって分かり切っているだろ?だからこれ以上失望すること何かなかったんだ。そんな最低な人間だって、未だに完全に嫌いにはなれていないのだ俺も。子供の頃の憧憬っていうものは未だに俺の中に息づいていて、殺すことは出来ていない。それが良いことなのか悪いことなのかは馬鹿な俺にはわからない。今でも嫌いになれないってことは、かく言う俺も兄貴に支配されてるってことなんだろうとは思う。


 「いや、でも一つだけ変わっちまった。それは俺が今まで兄貴から逃げていたからだ。俺が逃げ回らなきゃ、兄貴はあそこまで面倒臭ぇ人間にはなっていなかった」

 「……そんなことないわ!兄さんは元々最低よ」

 「ああ。だな。でも……何だかんだで昔は俺には優しかったんだよレスタ兄ぃは」

 「想像できないけど」

 「出来ませんね」


 リィナとエルムにあっさり否定される過去の兄貴像。まぁ兄貴は2人には全然良いことしてこなかったからその認識は仕方のないことか。

 身内が酷い言われようだと言うのに俺は、それに怒るどころか笑いを覚える。俺は兄貴が最低だと言われることが嫌いじゃない。無駄に外面だけは立派な兄貴の本当のところを共有できているみたいで嬉しいのかもな。

 ここでどうして俺が吹き出すのか2人はわからないようだ。でもそれでいい。たぶん2人に言ってもわからない。


 「……兄貴はお前と居ると本当に楽しそうに笑うんだ」

 「あれが……、楽しそう……?愉しそうの間違いじゃないんですか?」

 「そこが変わっちまった所だ」


 信じられないといった様子のエルムに俺は小さく笑う。


 「兄貴は元々性格最悪だし口も悪いし金に汚いしケチなところはあったけど、利用価値のある奴を傷付けるような奴じゃなかった」


 昔のヴァレスタは分かり易かった。利用価値がないから傷付ける。利用価値があるから守る。俺への優しさもリィナへの酷さもその損得勘定に支えられているモノだった。


(だけど……今は……)


 利用価値があると認めたらしいエルムを傍に置きながら、優しくもなく守りもせず傷付ける。正体を明かすことも出来ないグライドを可愛がるのは……一体どんな心情からなのか。

 離れていたからなのか。それとも元から解ってなどいなかったのか。今では兄には見えない点が多すぎる。勿論わかっていることもあるにはあるが……


 「俺は兄貴に裏切られたと思ったけど、そんな俺に兄貴は裏切られたと思ったんだろうな」

 「ロイルさんが……あいつを?」


 呟いた言葉は自覚のない懺悔。エルムがそれを察して、その言葉に興味を持った。そこでロイルはああ、そんな風に聞こえていたんだなと知る。


 「ロイル……あれは貴方は何も悪くないじゃない」


 その場の流れを察したリィナがそう言ってはくれたが、それで事実は変わらない。少なくとも兄貴の中での本当は。


 「いいや、悪いんだよ俺が。少なくとも兄貴の中ではそうなってる」

 「…………何があったんですか?」

 「俺が裏切ったのは期待って奴だ」

 「期待?」

 「兄貴は期待してたんだ。俺が王になれば、俺を育てて来た兄貴がその補佐として実質上の王となる。それが兄貴の夢だったんだ。俺は城から逃げることで兄貴のその夢をぶっ壊しちまった。兄貴がそれまで俺に費やした時間は全て無駄になった。その時間があったら他にももっと別のことが出来たはずだろ?」


 俺と過ごした時間。俺が兄貴を裏切ったその瞬間から、全てが無駄で無意味なものへと変わった。他のやり方で王を目指すことをしていたなら、もっと違う場所にいたかもしれない。こんな無意味と関わっていたせいで、出遅れてしまった。

 兄貴は俺が王になるという前提で俺に関わった。俺が王にならないのなら兄貴は俺を助けることも話しかけてくることもあり得なかった。

 与えられた優しさも、俺を守るための厳しさも、全ては有償の愛。見返り欲しさの言葉と行動。


 「兄貴は知ってしまったんだ。時間も人も自分を裏切る。裏切らないのは金だけだって」


 時は金なり。時間のある限り金を生み出す事を企め。その金で味方を増やせ。その金で人を利用しろ。金、金……金。金さえあればこの国の玉座だって手に入る。入らないのは単純に金が足りないだけなのだ。


 「兄貴が人を信じないのは、人が裏切るって知ってしまったからなんだ。俺みたいな馬鹿で兄貴を本当の兄弟みたいに慕ってた奴でさえ裏切るんだ。だから金以外の何も信用しない人間になっちまった」


 俺は馬鹿だったから。馬鹿正直に兄貴に何でも話して、そうして理解されているような気になった。兄貴だけが俺の味方で俺の理解者なんだと思ってた。そして俺も兄貴の味方で理解者に……なりたかった。そんな風になんてなれるはずがなかったのにな。兄貴は俺を人として弟として愛してくれていた訳じゃないんだ。利用価値のある道具、駒として欲しがっていただけなんだ。

 それを知ったとき、俺はなんのために頑張って……なんのために生きてきたのか、目的を見失ってしまった。どうして生きているのかわからなくなったんだ。そこで俺も変わっちまった。だからこんな風な生き方しか出来ない。


 「…………兄貴は理不尽で偏狭でいてそれで自分が常に正しいと思ってる人間だ。だから自分が俺やリィナに何をしたかをまるで理解しねぇで、その癖自分はしっかり傷ついてやがる。自分も人を傷付けてるってことを思い出しもしないまま」


 ヴァレスタはそういう人間。人の痛みがわからないんじゃない。知る必要がない。そう思っている。だから理解できない。


 「なぁエルム、確かに兄貴は最低だ。それでも兄貴も人間なんだ。言葉ではああ言ってるが……お前が居なくなったら兄貴は寂しいと思うぜ」

 「あいつが……?そんなことないですよ」

 「お前は兄貴が間違ってるって言って認めて責めてそれでも傍に居てくれただろ?それは俺やリィナには出来なかったことだ」


 兄貴のそういう生き方を知れば、周りから人は消えていく。普通は耐えられないんだ、それが間違っていると気付いてしまったら。

 兄貴は強烈だ。だから惹き付けられる。心酔する。でも、我に返ったら何かがおかしいと気付いてしまう。兄貴の言うこと、することそれが正しいんだって心の底から信じなければ、傍になんていられない。

 でもエルムは違う。それが間違っていると文句を言いつつ、それでも兄貴の傍にいた。俺はそれは才能だと思う。それが兄貴を良い方向に変えてくれる、何かなんだとそう思う。

 こうして連れ戻しに来たのはエルムのため……それが全てじゃない。完全に嫌いになれていない兄貴のために。そんな気持ちも多少はあるのだ。


 「兄貴は自分で気付いてないだけで、認めてないだけでお前に救われてる部分があるんだ。それをこの俺様が保証してやる」

 「…………わかりません、そんなの」


 そう言ったきりエルムは俯く。ロイルはそれに溜息一つ、顔を上げ天井を見上げた。


 「なぁ……エルム、お前は何も悪くねぇ。だけど兄貴の中でお前は悪いことになってるんだ。兄貴はお前にも期待してたんだと思うぜ。だからお前が裏切ったって兄貴は思ってる」

 「何が言いたいんですか……?」


 俯いていたはずの彼から向けられる、責めるような鋭い目。キッと此方を睨み付けてくるエルム。バトル中にこんな目向けられたらぞくぞくするが、今は全然何とも来ない。今のエルムは弱り切っている。同じ弱っているのでもあの時とは違う。あの時のような底知れぬ何かなどなく、唯駄々をこねている子供のようにしか思えない。本当にエルムはヴァレスタが絡むと途端に子供らしくなる。


 「お前が消えたことで兄貴はあれでも傷ついてるんだ。それでお前がせいせいするってんなら俺は何も言わねぇ。好きに生きていいと思うぜ。お前がここで本気で働きてぇってんなら邪魔しねぇ。勿論やっぱ辞めたいってんならここで大暴れでもして連れ出してやる。お前は俺とは違ぇし、いろいろやれることあんじゃね?別にここでなくてもさ」


 何時でもお前のために暴れてやるよと笑みかける。そういう物騒事は俺も大歓迎。前は東で暴れるなんて出来なかったが兄貴っていう後ろ盾があるだけでこっちでも基本好き放題が許可されているようなもの。書類整理に追われるグライドに多少小言を言われるくらいだが、それも眠ってしまえば聞こえなくなるから問題ない。だからその点は何も恐れることはない。


 「……だがもしもお前が兄貴の理不尽で勝手な被害者面に、ほんの少しでも引け目を感じるなら…………俺はお前に兄貴の傍にいて欲しいと思う」


 エルムは確かに悪くない。悪いのは兄貴だ。それでもそんな仕方のないあの人に惹かれる心があるのなら、そうしてやって欲しい。崇めるでもなく心酔するでもなくそんな風に兄貴の全てを許してやれる人間が、兄貴には必要なんだ。兄貴にはお前みてぇな奴が必要なんだ。俺じゃ戦う以外兄貴にしてやれることって……何もねぇから。


 「ロイルさんは……どうしてあんな奴のことを……そこまで……」

 「あんなのでも俺の兄貴だからよ。性格最悪でも血ぃ繋がってなくても俺に取っちゃ家族なんだ。好き好んで不幸になってもらいてぇわけじゃねぇからな」

 「ロイルさん…………」


 家族。その言葉に僅かにエルムの心が揺れる気配を感じ取る。あともう少し。もう少しで折れそう。そう思った時だ。エルムの口から妙な悲鳴が上がったのは。


 「……ぁっ、ひゃっ!」

 「エルム君、そろそろ素直になった方が身のためよ」

 「り、リィナさん!?」

 「ロイルも良いもの頼んでくれたわ」

 「……何だそれ?」

 「当店自慢のつまみセットでございまーす!」


 リィナが手にしているモノ。エルムに悲鳴を上げさせたモノ。その正体を通りすがりのバイトの子が答えてくれた。


 「つまみって……食いもんじゃねぇの?」


 本当につまんでいる。洗濯ばさみやクリップで、際どい衣装の上からなんかもうあれな場所を。


 「いや、暴れないように手枷まで付けてくれるとは思わなかったわ。サービスいいわねこの店。あ、糸まであるのか」

 「や、ちょっと……っ、そこは……嫌っ、リィナさんっ、ほんと駄目です!そんなことっ……ロイルさんの前ですよ!?良いんですか!?」


 括り付けたモノを引っ張ったりつついたりしてリィナがけたけた笑い出す。目がちょっとあっち側に行ってしまっている。


 「リィナって……こういう所だけレスタ兄ぃに似てるよな」

 「兄さんに虐げられるのが苦痛だったのが今なら解るわ。いっそMに目覚めれば何もかもが楽になるんじゃないかと思ったこともあったけど……そんなの無理だったのよ!そうよ私もSだったのよ!母さんの血はドSの血だったんだわ!うふふふふ!ああ!良いわその表情っ!今の声っ……いいっ!!もっと鳴いていいのよエルム君!?さぁっ!」


 リィナが楽しそうで何より。


 「ロイルさんっ!止めてくださいよっ!ロイルさんは……あっ、ちょっ……やめっ……うぁっ……」


 助けを求められたので、一応リィナを止める言葉を掛けてみる。しかしリィナはけろりとした顔。やめるつもりはないらしい。


 「リィナ、そんなことやって連れ戻せんのか?警戒されて嫌われるんじゃね?」

 「え?エルム君は言葉で説得するより身体に教え込んだ方がてっとり早いと思って。徹底的にいろいろ弄って教え込めば、また弄って欲しくて嫌でも帰って来るでしょ。今までの経過

から見てまどろっこしいやり方にはうんざりだわ」


 あ、本当に兄貴に似てる。ペットの躾けみたいなもんだと思ってるわこれ。発情期に蒸発した犬探しに来た飼い主みたいなノリだ。


 「こんなの、おかしい…ですっ!リィナさんは……ロイルさんが……好きなん……じゃっ……な…ぁっ、あうっ、だめっ……嫌っ」


 完全にリィナがエルムを男扱いしてないから別に何とも思わない。嫉妬って人間相手じゃないと確立されないものなんだな。


 「ふふっ、ロイルに助けを求めても無駄よエルム君。ぶっちゃけロイルもSみたいなものだから」

 「まぁな。あ、酒お代わりー!いや、悲鳴があると酒が進むなー」


 闘争本能と性欲って精神的には同じ物なんじゃないか?相手を打ち負かしてやりたいっていうのはちょっと似ている。だからだ。エロいことにもぞくぞくするのはそういう理屈に違いない。


 「嫌ぁああああああああああああああああ!!!誰か助けてぇええええええええええええええええええええ!クレプシドラぁああああああああああ!どうして助けてくれないんだぁああああああああああああああああ!!」

 「あらあらぁ?この程度で駄目なの?それじゃあこんなお店で働けないわよエルム君?さっき店員さんに確認したらこんな事とかっ!」

 「ひゃっ……」

 「この位までっ!」

 「ぁっ……やぁっ……やめっ……」

 「……ならオッケーって聞いたわよ。この程度であんあん言ってるようじゃ働けないわよエルム君?」

 「ぼ、僕は……」

 「まぁ、本当に意固地ね。まだわからないっていうならたっぷり教えてあげましょうね?ちゃんと手洗ってるかもわからない脂ぎった中年親父に体中まさぐられても同じ口の利き方が出来るかしら?服の上から手が当たるのは事故よね、えい」

 「そ、そんなところ……駄目ですっ!そんな……ぐりぐりされたら……ぅっ……んんっ……駄目っ」

 「あ、そこの姉ちゃんー!酒の追加頼むー!あと食いもん!え?デザートしかねぇの?んじゃそれでいいや」

 「ナイスロイルっ!それこっちにぶっかけて盛るからちょっとわけて!」

 「ちゃんと食えよー、勿体ねぇから」

 「あら?それを私に言うの?私は食べ物に関しては五月蠅いわよ?エルム君覚悟はいいかしら?このぶっかけたクリームを一つ残さず丹念に舐め取ってあげるから」

 「……い、嫌ぁああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 精神的に限界が来たらしいエルムの拒絶の声が、店の灯りを落とさせる。それで俺とリィナはやってしまったことに気がつく。


 「……あっ、しまった!」

 「げっ……だったなそういや!!」


 エルムは混血。そして数術使い。そしてそれは兄貴が手元に置きたがるほどの逸材、音声数術の使い手だった。封じるべきは手ではなく、彼の口の方だった。


 「…………うっかりしてたわ。やらせるならロイルにやらせるべきだった」

 「え、俺?」

 「途中まではいい反応だったんだけど……精神的に負荷が掛かったんだわ。エルム君はアルムちゃんとの一件で、女性恐怖症になってるのかもしれない」


 実の姉との望まない行為。それをリィナに迫られて、思い出してしまったのだろう。


 「面倒くせっ……」


 兄貴のこと、アルムのこと。エルムは2つも爆弾を抱えていたのか。これでは迂闊に触れない。


 「一体なんだったんだ!」


 店中から客達の不満の声。それに大急ぎで灯りが戻されたが、そこにエルムの姿はない。


 「兎に角早く探しましょう!?ロイル!エルム君の匂いを追って!」

 「……わり、無理」

 「ええっ!?」

 「あいつ、気配消すの上手過ぎ。匂いの痕跡もねぇ」

 「そんなっ……」

 「リィナがぶっかけたクリームの匂いもわかんねぇ……多分俺らに見えない奴が味方してんじゃね?」


 悲鳴の直後だ。足音も匂いも一瞬で掻き消されてしまった。


(数術使いか……)


 こればっかりは凡人の俺たちでは太刀打ちできない。


 「追え!すぐにだ!!遊んだ分はきっちり金を支払わせなければっ!」


 まだ若い店主がなにやら吠えている。エルムを探しているのかと思ったがどうにも様子がおかしい。


 「ロイル……」

 「ああ。エルムのせいじゃねぇかも」


 あの暗闇の中、金を払わず逃げ出した客が居るらしい。それとエルムの失踪。それは本当に偶然なのだろうか?


 「…………仕方ねぇ。あいつ探すぞ」

 「あいつ……?」

 「埃沙だ。兄貴なら居場所知ってんだろ?」


 兄貴が抱えるもう一人の数術使い。あの混血の少女なら、俺たちに見えないものが見える。

 セネトレアは危険な場所だ。今は一分一秒でも惜しい。今のエルムは身の安全の保証すらされていないのだから。

この回も問題回だった。

リィナもやはりヴァレスタの妹だったんだな。

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