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【第一話】3:Caveat emptor.

ちょっとエロ展開注意。直接描写はないですが。

 どうにかならないものかと僕が自分自身に感じるところ。それは第一に押しに弱いところ。

 この12年そんな風に生きてきたんだ。だからすぐに変えられることじゃない。


 「いや、すまなかったね」

 「あ、いえ……こちらこそすみませんでした」


 その角から現れたのは殺人鬼などではなかった。東裏町にいるってことは何らかの商いに携わる人物なんだろうとエルムは思う。

 純血の若い青年。身なりの良さから貴族だろうとは知れる。


(でも……あいつとは全然違う)


 俯いていたせいで出会い頭にその人に衝突してしまった僕に、その人は何を咎めることもなく、逆に此方の心配をしてくれる。それが逆に胡散臭いと思ってしまうのはここがセネトレアという国だからだ。何かしら野損得勘定無しに混血に優しくしてくれる人間なんているはずがない。

 それに気付いたのか青年は小さく笑う。金髪青眼のカーネフェル人。それは彼女の色と同じだったから、つい彼女を思い出してしまった。だからだ。その微笑みがとても優しげに見えたのは。


 「私もこんな色だろう?ここではかなり浮いて困っているんだ」


 隔たった少子化のせいで、カーネフェル人の男は稀少。奴隷としては一部の市場で時に混血をも上回ることがあるとても高価な商品。男はまだ若い。確かにこの街では危険な目に遭うかもしれない。


 「ところで君、時間はあるかい?」

 「……え」

 「使いの者が迎えに来るまで少々心細くてね。君のような子が一緒なら私はそう目立たずに済む。ぶつかったお詫びも兼ねて、お茶でも一杯奢らせてはもらえないかな」

 「いや、でも……」

 「向こうに美味しいケーキの出る店があるって話なんだ。この年で1人でケーキを食べに行く勇気もなくてね。是非是非付き合って欲しい」


 エルムは見知らぬ青年に手を引かれ、ずるずると歩かせられる。そうして辿り着いた先、真新しい店……とは呼べないが、落ち着いた感じの良い店だ。

 店内に香るのが紅茶ではなく珈琲の香りだったから、渋い感じが漂っていた。自分が来るのは場違いのような、大人の匂いの漂う空気。それでもその慣れない香りが彼女や彼を忘れさせてくれるような気がして、少しだけ安堵する。

 椅子に座って運ばれてきたカップに口を付けると、これがなかなか悪くない。あまり飲み慣れていないけれど、それを見越した店主がエルムの口に合うような物を淹れてくれたようだ。


 「珈琲か……」


 確かに美味しい。これを買っていったらあいつは何て言うだろう?悔しいけれど紅茶ではあのフィルツァーには勝てない。貯金全てを投げ出したって手に入るのは去年の茶。嗜好品通りの専門店にでも行けば新茶もあるのかもしれないけれど、貯金で足りる気がしない。フィルツァーはまだ市場に出回っていないと言っていた。店で取り寄せるにも明日には間に合わない。

 それなら同じ土俵で勝負なんてしなくていいはず。一瞬そんな風にも思ったけれど…………駄目だ。あの男は紅茶派だ。ここの豆を買っていっても懲罰部屋送りはまず俺で間違いない。それどころか鼻の穴から口から眼まで穴という穴から珈琲豆を突っ込まれ兼ねない。あの男ならそれくらいやる。あれ……目って穴?まぁ兎も角だ。それはこの豆を作った農家にも流通させた商人にも良い感じに作り上げたここのマスターにも悪い。あまりにも申し訳ない。


(いや、いっそケーキの方を……?)


 珈琲もさることながら、ケーキも美味。これを買って帰れば紅茶にも合う。あいつは喜んでくれるだろうか?


(いや……でも、ヴァレスタだから)


 何かにつけて文句を言うだろう。所詮出来レース。どう足掻いても最終的にいたぶられるのは俺になるのは間違いない。あいつはそう言う奴だ。

 どんなにケーキが美味しくても、あいつは「所詮菓子など消費すればなくなる。形に残らぬ物を買ってくるとは使えない奴め。お前の貢ぎ物は消えて無くなったから敗者はお前だ」とかそのくらいは平気で言うだろう。


 「君は随分と浮かない顔をしているね」

 「あ、いえ……すみません!そうじゃありません」


 自分と居るのがつまらないのかと聞かれた気がして反射的に謝った。これも一種の癖だ。心底腹立たしく理不尽なあいつには発動しないけれど。

 焦るエルムの姿に彼ははははと愉快気に笑った。


 「ああ、そうじゃなくてだね。最初からだよ。だから気になったんだ。君には何か悩み事でもあるのかな?」

 「…………悩み事のない人間なんか、いないと思います」


 つい拒絶するような言葉になってしまった。それでもこれも条件反射だ。引っ張られてきておいて今更のような気もするが、見ず知らずの人間相手にペラペラと自分のことを打ち明けることなんか僕には出来ない。


 「そうだね。だから尚更だ。無関係の赤の他人に話すことで気が楽になることってあるんだと思うけど、どうかな?」


 確かにそれには一理ある。それで何が変わるとは思えないけれど、だからこそその無意味に意味があるような気もした。それで僕の心が少しでも楽になれるのならば……


 「俺……僕には仕えている人がいるんです」

 「うん」

 「その人はとても我が儘で理不尽で自己中心的で利己的で……一言で言うなら最低な奴で」

 「へぇ、それは酷い」

 「そいつが戯れに、僕たちに貢ぎ物を持ってくるように言ったんです。それが一番つまらなかった奴に罰を与えるって言って」

 「うわぁ……それはなかなかのドSだね」


 青年は愛想良く相づちを打つ。それは不思議な感覚だ。これまで此方の話にちゃんと耳を傾けてくれる人なんて皆無に等しかった。僕が常に聞き役。僕の意見なんて気持ちなんてどうでもいいと思っている奴らばかりだったから。確かに誰かに悩みを打ち明けるというのは少しだけ、気が楽になることのように思えた。


 「それで君は、その贈り物が見つからないからそんな困った顔をしていたわけだ」


 青年は小さく頷き、そして微笑む。それが少し寂しげに映る。


 「でも羨ましいものだ。うちの使用人はそこまで私を思ってくれない。そこまで悩むということは、君はその人のことが好きなんだね」

 「え……」


 突然見当違いのことを言い出した聞き手に僕は絶句。相手は相手でそんな反応を予想していなかったのか、面食らったような表情だ。


 「えって……」

 「いや、それはないです。絶対に」

 「あ、ああ……そうなんだ?」

 「はい。あんな奴……大っっっっっっっっっっっっっっっ嫌いです」

 「そ、そんなに」

 「はい」

 「即答だね」

 「ええ」


 エルムの言葉に青年貴族は苦笑い。その後小さく吹き出し本格的に笑い出す。上品とは癒えないが、あいつと違って嫌味のない笑い方だった。笑い一つにまで人の良さが滲んでくるようだ。


 「それじゃあ一つ提案があるんだけれども、それならいっそのこと逃げてしまえばどうだろう?」

 「逃げる……?」


 そんなこと……考えたことがなかった。行く当ても、帰る場所が何処にもないから。


 「もし君さえ良ければ君を私のところで雇いたい。うちも人手不足で困っていた所なんだ」


 身を乗り出してきた男に両手を握られ、咄嗟に身構える。その刹那、耳に響いた鎖の鳴る音。首輪の音。鎖はそう長くない。二、三の輪が首輪に付いているだけ。だからそれは身体の拘束をするものではない。それでも俺に身分というものを徹底的に教え込むための屈辱を視覚化した物。こうして音で、お前は物言う道具だと耳から教え込むための道具。

 あいつをリフルさんの毒から救った俺にあいつがくれたのは、これとそれから一つの名前。

 捨てられていた俺をペットか何かとして飼う気になったのだろう。最初は物、ゴミ扱いされていたんだ。無機物扱いされなくなっただけ、これでも出世した方なのだろう。

 それに甘んじて留まっていたのは他に行く場所がなかったから。必要としてくれる人がいなかったから。唯、それだけ。


(そうだ、それだけだ)


 だから揺れる。こんなに簡単に。

 本心からこの男を信用はしていない。腹の中でどんな企みを隠していることか。ここはセネトレア。甘い言葉に惑わされたら痛み目を見る。そんな美味しい話があるものか。


(だけど……)


 どうでもいいと思う気持ちもある。何もかもがもうどうでもいいんだ。殺すなりバラすなり犯すなり何でも好きにしてくれていい。今の僕はそう思うほどに、自暴自棄になっている。

 この目の前の男が優しい言葉をくれるほど、彼の内面が暗く見えてくる。とてつもないものが彼の内側に隠されている。それがどんどん膨張していくような気がする。それはとても危険な香りだ。関わってはならない。だからこそ、関わりたいとさえ思う。

 もう、何もかもが嫌なんだ。その全てを彼が壊してくれるなら、その言葉に乗せられるのも悪くはないように思える。


 「うちの使用人は給料を支払うとすぐに逃げてしまうんだ。君みたいな真面目そうな子は大歓迎だよ!是非とも私のために生きてはくれないかい?」


 *


 「………うん、まぁ………そうなるか」


 そうだ。僕が僕に対してなんだかなぁと思うこと。それは第二にとてつもなく運が悪いと言うことだ。

 連れて行かれたのは良い感じの建物だ。少々こじんまりとしているけれど確かに屋敷に見えなくもない。妙な看板さえ店の前に出ていなければ。

 休憩何時間何十万シェル、指名なんちゃら何百万シェル………なんともまぁ、いかがわしい看板だ。こういうのは西にもそれなりにあったけれど、もう少し相場が安かったようにも思う。これは酷いぼったくりだ。そして今僕はそこに連れ込まれようとしてるわけだが……


 「どうかした?」


 振り返る青年の優しげな笑顔が怖い。姉さんとの一件を思いだし、思わず身体が強張った。


 「あ、あの……」


 いっそのことどうにでもなれとは言ったけれど流石に入りたくない。可能性としては犯られるかもとは思ったし、殺されないだけマシかもしれないが、不特定多数の人間相手とはそこまで予想はしていなかった。ある意味殺された方がマシかもしれなかった。

 後ずさろうとするも掴まれた腕に力がこもる。腕力で子供の僕が大人の力には敵うはずもない。振り払うには数術でも使うしかない。それでも僕はクレプシドラがいなければそこまで強い攻撃数術を扱えない。制御未完成の数術を、こんな人通りの多い場所で使おうものなら、容易く純血至上主義者に見つかり命の危険に晒される。殺傷沙汰を起こしてクレプシドラを呼ぶという手もあるけれど、それには僕が怪我を負わなければならない。万が一、即死の攻撃を食らったらお終いだ。それに僕だって好きこのんで痛い思いはしたくない。


 「君が贈り物に悩んでいたのは、所持金が問題なんだろう?金が増えれば選択肢の幅も広がる!がっつり!短期!即金!高収入!どうだい?悪い話じゃないだろう?大丈夫君みたいな若くて可愛い子ならすぐに大枚掴めるさ!」


 それでも躊躇うエルムを男はさっと抱き上げて、無理矢理店内へと運び込む。


 「それに君が頑張れば、君を欲しがるお客様も出てくる。その人は君をちゃんと見て、君を愛してくれる。君を心から必要としてくれる。大嫌いなご主人様なんか見限って、新しい人を見つけることだってできる」


 あいつは俺を見ていない。心から必要ともしていない。

 それを第三者の口から語れることで、抵抗できなくなる。……エルム自身そう思っているんだから、それが決定打となる。

 店の中は薄暗いが不衛生な感じはしない。唯何かを掻き消すような甘ったるい香りが少し鼻につく。それに頭がくらくらして、ぼんやりとした気分になっていく。何かの香を焚いているのだろう。それが何かは解らないが、良い物ではないとは解った。それでも良いことが正しいわけではない。良く生きたってろくなことことにはならない。それなら悪いことも、良いんじゃないか?悪ければ悪いほど、僕は今より救われる。僕を救うのはそういう悪に違いない。このまま落ちていってもいいんじゃないか?その香りを嗅いでいると不思議とそんな気持ちになった。


 「それじゃあこれにさっそくこれに着替えて。ああ、下着はこれね」

 「凄いスリット……」


 エルムが通された衣装部屋には沢山の服があった。

 どれも女物に見えるのはたぶん気のせいじゃない。その中から僕へと差し出されたのは深いスリットのチャイナ服。下着が普通に見える深さだ。丈は長いけれどちょっと動けば何て言うかもう捲れて尻とか触り放題だよねこれってレベルのスリット天国。これを着ろと言うのか?男の僕に?

 おまけに何だこの下着。バックが酷い。前はまだ隠せてるけど後ろの方の守備力が低すぎる。パンチラっていうか完全に触り放題じゃないか。違う意味で頭がくらくらして来た。


 「おや、ご不満か。これ以外って言うとゴスロリとメイド服とミニスカ着物と際どい水着くらいしか」

 「普通の服無いんですか?」

 「初日から透け衣装をお求めとは、なかなか素質がある」


 こっちの話を聞いて欲しい。お願いだから。


 「だけど流石にそれは危ない。うちの店は店内でそういうプレイに持ち込むのは厳禁だから。焦らせば焦らすほど奴らは金を落とすからね。商品をそう簡単に食わせるわけにはいかない」

 「え?」

 「あ、言ってなかった?私の店は唯のお触りカフェ。外出、外泊、身受けを別料金をぼったくるのがうちの店のやり方さ!混血指名は高いからねぇ。君たちを指名するようなお客は大枚叩いてくれるからいいカモなわけだ。いや、男の子はいいねぇ。膜がないから実質どうであれ可愛ければ全員処女ってことで売り出せる」


 男は小気味よく笑って扉に向かう。その笑みはもう腹の中を隠そうともしない金の亡者の歪んだ笑みだ。


 「着替えたらまた呼んでくれ。ああ、そうそう。ここの管理体制は万全だからね。逃げだそうとは思わないことだよ」


 本当にこの国ろくな奴がいない。ちょっといい人かもと思ったら、やっぱりこれだ。


 「…………はぁ」


 もうどうにでもなれ。そんな気分でエルムは渡された服に袖を通す。着てみて解ったことだが露出度がまず酷い。

 胸元が空いているし腹の所も空いている。寒い。スリットについては敢えてもう何も言わないで置くが、彼方此方から手を差し込めそうな露出度だ。もし他人が着ていたら自分だって手を入れたくなるようなそんな服だ。これは着ている方が悪い。もうどうにかしてくれとこっちが言っているような物だ。おまけに無駄に上質のシルクでも使っているのか、肌に触れる布の感触がつるつるとこそばゆい。もう既に肌が蹂躙されている気分だ。


 「……着ましたけど」


 扉の向こうに向かって言うと、少し間をおき青年が入ってくる。


 「ああ、とても良く似合っている!やはり私の目に狂いはなかった!」


 男は大喜びで、上擦った声。そいつによしよしと頭を撫でられる。

 こんな事で喜ばれるなんて、妙な気分だ。僕はいつも姉さんの影に生きてきたから、見た目や格好で褒められることなんかなかった。そういうのは姉さんの担当だった。

 混血ってだけである程度は造形が整っているものだけど、僕は影が薄いから姉さんの傍では人の目に止まることもなかった。だからそれにもコンプレックスがあったのかもしれない。

 この男は僕を利用して金儲けを企んでいる。それでもこんなことでこんなに喜ばれて、褒められる。それが少し、嬉しいんだ。自分が本当に馬鹿で、本当に人の心に飢えているのが解る。自分でも本当に馬鹿みたいだとは思うけれど。

 なんとも言い難い気分の僕が黙り込んでいると、男が髪をセットし始める。


 「よし、出来た」

 「うわぁ……」

 「そんな嫌そうな声出さない出さない。ツインテールにしなかっただけ良心的だと思って欲しいものだな」

 「…………」


 そうは言われても。こんな服で髪なんか結って。こんな姿をヴァレスタが見たら何と言うだろう。想像するだけでエルムの口から溜息が漏れた。

 「無様だな」とか鼻で笑われて晒し者にされるだろう図が安易に浮かぶ。

 あいつが俺について褒めてくれることなんてほぼ皆無に等しい。あいつは金と地位にしか興味がない男だ。いっそのこと大金を現金で送り付けるのが何よりの贈り物かもしれない。


(いや……今更あいつのことなんか、どうでもいい)


 僕は逃げてきたんだ。あいつの所から。道具扱いされるのは嫌じゃないけれど、僕には耐えられなかったのだ。

 道具でも奴隷でもペットでも……ゴミでもいいんだ。本当に必要としてくれているなら僕はそれでいい。あいつが今まで僕や姉さんにしたことも全て僕は水に流せる。

 だけどあいつが必要としているのは僕じゃない。僕の心なんかどうでもいいんだ。

 秘密を知ってしまった僕を信頼していないから傍に置く。信用していないから僕を試す。今回のことだって話の根底はそれだ。僕がちゃんと帰ってくるかどうかを確かめるために僕を放り出したのだ。人を馬鹿にしている。僕を一体何だと思っているんだ。誰があんな奴の所に帰るものか。どうして帰らなきゃいけないんだ。あいつは僕を必要としているわけじゃないのに。

 鏡に映るのは着飾って、それでも尚沈んでいるエルムの表情。それを励ますように青年が耳元で優しく囁いて来る。


 「大丈夫。これならすぐに人気者になれるさ。恥ずかしがることはない、君はとっても可愛いよ。女の子みたいで」


 彼はそれを褒め言葉だと思っているようだが、エルムにとってはそうではない。それはある種の褒め言葉でありながら確実に屈辱的な言葉でもある。だから引き起こされるのはやっぱり何とも言えない妙な気分。


 「それじゃあ準備があるから店が開くまで君はそこの部屋で待っていて」

 「部屋?」

 「好きに使ってくれていいから。従業員にはそれぞれ部屋を与えることになっているんだ」


 示された部屋に向かうと、ベッドにクローゼットに鏡に洗面台。棚に机に椅子に……一通りの物は揃っているように見えた。唯気になったのは窓がないことと、内側に鍵がないということだ。

 しかしドアノブを押しても引いても開けられない。内側からは逃げ出すことが出来ないという仕掛け。


 「好きにしろって言われても……」


 監禁されてるような状態で何をしろというのか。こんな仕打ちを受ければそれは確かにすぐに働き手が逃げ出すだろう。外出とかを客に願わせてそれでさっさと逃げ出すだろう。第一ちゃんと給料をくれるのかどうかも怪しい。これまで一度も時給の話がされていない。


 「……まぁ、どうでもいいけど」


 とりあえず真っ先に目に止まったのは豪華そうなベッド。ヴァレスタのところへ人質になってから…牢の冷たい石板とか、あいつの部屋の固い床で寝かせられていたからこの誘惑には耐えがたい。横になってみると暖かくてふわふわでもう最高。寝床一つで幸せな気分になれるのだから、自分が如何に単純な生き物かがよく分かる。しかしこの誘惑には耐えがたい。急激に眠気が襲ってくる。


 「あ……」


 このまま横になったら服に皺が出来る。とりあえず脱いでおくかときちんと畳んで机の上に。だけど脱ぐと今まで以上に寒気が襲う。今は冬場だ。そんな時にこんな格好をしていればそうなるだろう。

 暖を求めるよう布団に潜り込むと、顔がにやけるくらいに優しく、温かい。今は何も考えたくない。ずっとこうして眠っていられたらいいのに。そう思って目を閉じた。けれどそれが誤りだった。

 夢は現実から逃がしてくれるけれど、夢は悪夢からは逃がしてくれない。そしてその悪夢こそが僕の現実でもあった。

 僕は魘される。いつも、今も魘されている。これは姉さんに襲われた日の夢。痛みと嫌悪感とそこからじわじわ身を襲う快楽。それに膨れあがる罪悪感。生きている事への絶望と苦しみを僕に与えるその歪んだ好意。とても罪深い行いなのに、僅かでも快楽を感じてしまった自分自身を恥じて悔いる気持ちで一杯だ。

 もしも僕が女で姉さんが男だったら、完全に悪いのは姉さんだったと言い切れる。そうだ。襲ってきた方が悪い。僕は何も自分自身を恥じる必要はないはずだ。

 だけど姉さんが女で僕が男だ。その違いが僕に苦悩をもたらした。

 思いきりナイフで刺されて、手も足も動かせない。姉さんが身体を揺する度に傷口から血が流れ、痛みが僕の身体を襲うのだ。泣きながら止めてくれと懇願しても姉さんには言葉が通じない。見知ったはずの僕の片割れ。いつまで経っても何も出来ない子供みたいな僕の姉さんが女の顔をしている。それがとても怖かった。壊れたような瞳の恍惚の表情で僕の泣き顔に興奮さえしていた。何処で教え込まれたのか。僕と離れている間に無駄な技術を身につけていたらしく、その手は舌は非常に巧みだ。自分が男だと言うことにあそこまで後悔したのは今までの人生であれが初めてだった。

 彼女を拒絶したいと心も頭も願っているのに、身体は勝手に反応をする。自分じゃ知らなかった、弱いところを徹底的に責められる。訳が分からないまま姉さんが僕に馬乗りになって腰を振る。手が足が痛い。ナイフがまだ身体に刺さっている。その振動でぐちゃぐちゃと何度も肉が抉られる。そんな苦痛の中なのに、身体の中心は熱を帯びる。そんな自分が信じられない。全くもってわけがわからない。

 襲われているのは僕なのに、姉さんを犯しているのは僕なのだ。僕は被害者のはずなのに、感じてしまった時点で僕が加害者、姉さんが被害者と構図が逆転してしまったようで……僕は深い絶望に襲われた。


 「…………っ」


 止めてくれと心の中で叫んだ後、ようやく僕の意識は覚醒。

 荒い息を繰り返し、呼吸をゆっくり整える。それでも眠った気がしない。


 「何やってるんだろう……僕」


 快楽を教えられたから、身体は勝手にそれを求める。だけど、それ以上に嫌悪感が湧き上がる。無心になって手だけ動かそうにも、姉さんを思い出してしまう。だから何時まで経っても妙な気分が振り払えない。だからこんなことになってしまったんだろう。

 真新しい下着を早速汚してしまったのが恥ずかしい。とりあえず洗面台で洗ってみるも、水で湿って肌に張り付いて何だか嫌な感じがする。

 クレプシドラが居てくれたら、蒸発くらい簡単にできるのかも知れないけれど、回復数術と音声数術しか使えない今の僕にはどうやって良いのかわからない。万が一蒸発させるつもりで破壊してしまったらこの衣装でノーパンとか冗談じゃない。その内体温で乾くだろう。


(あいつのところじゃなかっただけ、まだマシかもしれないけど……)


 こんな所をあいつに見られていたら、無様だなどころの話ではない。何日同じネタで馬鹿にされ続けるだろう。

 今適当に腕でも引っ掻いて血を流せばクレプシドラを召喚くらいは出来るだろうけれど、恥ずかしくてこんなこと頼めない。それにこんな姿を見られるのもどうかと思う。

 いっそのことここで働けば、あの悪夢を忘れさせてくれるだろうか?男に犯されて、滅茶苦茶にされたなら……僕は僕の罪を忘れられるのだろうか?それとも僕は死ぬまであの後悔から解放されることは無いんだろうか?


(……だからだ)


 もうどうにでもなれ。或いは……死んでしまいたい。


 「そろそろ開店の時間だ。行けそうかい?」


 外から聞こえるノック音。それに気付いてエルムは急いで服を着る。


 「は、はいっ!」


 返事をすればすぐに扉が開いた。外にはあの青年がいる。


 「それで……僕は何をすれば?」

 「基本はウェイターみたいなものかな。飲み物の給仕をしてくれればいい」

 「あ、そんなことですか」


 それなら慣れてる。僕は今まで何年もそういう仕事をしてきたんだから。


 「ああ、唯その間に多少のセクハラは許容して貰いたい。そういう店だしね」


 思わず吹き出した。そうだ。ここはそう言うところだった。


 「せ、セクハラですか。具体的には?」

 「多少触られたりキスされるくらいかな。まぁ、減る物じゃないしね。それで死ぬわけでもないし、お金のためなら安いモノだよね」

 「は、はぁ……そう……ですね」


 けらけら笑う男に言いくるめられたような気がしたが、確かにそれで即死に至るようなことはないだろう。相手が毒人間のリフルさん辺りでもない限り。


(そうだ。……今更、だよな)


 減るものでもない。順序を吹っ飛ばしいきなり姉さんとあんなこと……恋愛における最終地点まで連れて行かれてしまったのだ。今更触られたり舐められたりする程度どうってことはないはずだ。無機物にキスしたり野良犬に舐められているような物だと思えばそれまで。

 どうにでもなれと言ったのはエルム自身だ。

 中途半端に惨めだから僕は僕を笑えないんだ。もっともっと落ちぶれて、もっと惨めになれば良いんだ。そうすればきっと、もう心の底から笑うしか無くなる。僕はそこまで行けばこの痛みから解放される。悩んで苦しみ、傷つくこともない。


 *


 「…………」

 「…………」


 メニューを運びに言ったテーブルで、僕とそいつはその場が凍るのをひしひしと感じていた。目を見ただけでこの場から逃げ出したい。っていうか人生から逃げ出したい。今すぐ首を吊ってしまいたい。そう思わせるとは、この男の目にも何かあるのかもしれない。リフルさんのそれとは違う何かがあるのかも。

 そりゃ、どうにでもなれとは言った。それでもどうしてこうなった。僕は本当に運が悪い。


 《あー!エルムっ!》


 ふよふよと浮いているクレプシドラが僕に抱き付いてくる。それでも僕は動けない。


 《何だその格好?可愛い可愛い、エルムも中性だったのか?俺とお揃いだなー!》


 いや、違うから。クレプシドラ、そうじゃないから。人間、そんな格好だけで性別変わったりしないから。あくまで僕は男だから。その理論だとリボン付けたらそこらの爺も女って事になっちゃうからね。

 とひとしきり心の中で突っ込みを入れながら、息を整える。こうなれば他人の振りだ。最悪僕は姉さんと双子じゃなくて僕には別の片割れが居て、そうだ僕そっくりの外見でそれが僕の姉か妹かで、詰まるところ僕は女の振りをすればいいんだ。人違いだ。そういうことにしよう。


 「いらっしゃいませ。ご、……ご注文は?」

 「無様だな」


 他人の振りを演出するために空々しくも笑顔を向けてやったというのに、開口一番がそれか。何て予想通りの男なんだこいつは。予想はしていた。していたが、ここまで見事な嘲りの嘲笑を向けられると流石の俺でも沸点を越える。

 せっかく別人の振りをしようとしたのにこの男!俺の正体を完全に悟った上でこの顔である。今すぐ踵落としか何かで脳天打ち抜き蹴り殺したい。

 気が長い方の俺をここまで短気にさせられる人間は世界たった2人だけ。おそらくそれはこの男とフィルツァーくらいなものだろう。


(注文はって聞いてるんだろうがっ!!大体なんであんたがこんな所にっ)

(私は唯の視察だ。東の大組織の長として新参者の店は調査を行うのが常)


 それでも小声で怒鳴る自分はまだ空気が読める方だと思う。


 「なるほど。先回りするとはお前も少しは役に立つじゃないか」


 明らかに嫌味だ。絶対に褒め言葉じゃない。


 「この低脳が。少し目を離せばこの様だ。まんまと騙されこんな店で働くとは。お前のようなゴミを傍に置くと私の品位まで貶められそうだ」


 ペットから道具を通り越してゴミまで格下げですか。そうですか。別に何にも気にしてませんけど。


 「薄汚い発情犬め。私の命令も無視して欲求不満の解消に後尾相手を探しに来るとは。貴様らゴミにはプライドと言う物はないんだな。まるであの那由多王子そっくりだ」

 「…………どうしてそこでリフルさんが出てくるんだよ」


 ヴァレスタと同じ銀髪の人。だけどあの人はこいつとは全然違う。

 名の知れた犯罪者で身軽に動けるような立場でもないのに、リィナさんから教えられた。聞けば彼は僕と姉さんを助けるために、無茶をしたって話。

 出会った頃のあの人は、とても悲しい目をしていた。綺麗なだけの人形みたいな虚ろな目。

 だけどそれがアスカさんの傍で段々人間らしい輝きを取り戻していって、とても優しく笑うようになった。それは最初の綺麗とは随分違って見えた。

 彼を見ていた時間は短かったけれど、彼の人となりを知るにはそれで十分すぎた。彼はあまりに欲がなく、誰かのために何かを行う。彼が現れてから、ディジットの店は妙な新顔が次々現れた。フォースさんも蒼薔薇さんもトーラさんもあの店に足を運んだ切っ掛けは全部あの人にある。

 ヴァレスタは金のために生きているけれど、あの人は人のために生きている。自分を犠牲にして、他人を助けることばかり考えている。たった数日の付き合いの僕や姉さんのために、躊躇いなく危険に身を捧げられるような人。

 あの日、僕は見た。海に落ちるあの人を。そう。見ていた。僕が見殺しにしたようなものだ。

 あの日の僕はどうしてあの人がヴァレスタと戦っているかも理解していなかった。

 ヴァレスタとの戦いで大怪我を負って。血が一杯出ていて……そしてその猛毒の血を食らったヴァレスタ共々2人は崖から落ちていった。それを追って思わず飛び込んだのは、俺を必要だと言ってくれた人を失うのが怖かったから。

 その後リィナさんと再会し、リフルさんが僕らを助けに来ていてくれたことを知った。そして僕は彼についても後悔をした。僕の後悔より先に教会はあの人が……殺人鬼Suitが死んだと発表。僕はどうしてあの日、こいつを助けてしまったんだろう。

 あの日の僕には僕の居場所を奪う悪に彼が映った。だけどそうではなかったんだ。だからその罪悪感がのし掛かる。こんな酷いことを言う男を僕は救って……彼を見捨てた。

 西に戻れないのは姉さんとディジットとの一件。それだけじゃない。どんな顔で彼らに会えばいいのか解らない。リフルさんが死んで、アスカさんもあんな大怪我。生きているかも解らない。僕のせいだ。トーラさんは、ディジットは……どんなに僕を怨むだろう。それでなくても僕は僕を迎えに来たディジット……その手を振り払うための言葉の魔法で彼女を傷付けた。あの日の僕はディジットより、リフルさんよりこんな最低な男を選んでしまったのだ。あの時はそれしかないと信じていた。たった一週間前のこと。あの時は絶対だと思っていた。それでも、それが間違いだったような気がして……この男を憎く思う気持ちも生まれる。


 「あの人は……僕を助けようとしてくれた」


 死人と過去は美化されるものなのだろう。後悔の念が僕の中で彼を大きなものへと変えた。


 「あの人は本当に、いい人だった。だから、そんな言い方……止めてくれ」

 「私が何を言おうと私の自由だ。お前如きに指図などされたくはない」

 「ヴァレスタっ……!」

 「大体、お前が庇ったところであの男が淫売だと言うことには変わりない。恥も外聞もなく女の衣服を身に纏い、何人もの男を誑かしてくわえ込んできた変態だぞあれは。王子が聞いて呆れる」

 「…………っ、……」


 僕も彼が奴隷だったとは知っている。だけどそこまでだったとは知らなかった。

 そんな話彼らはしなかった。それでもあの人は、そんな素振りを見せることなんかなかった。背筋を真っ直ぐ伸ばして歩いているように僕には見えた。あの人をそうやって真っ直ぐに歩かせることが出来る何かが彼の中にはあったのだ。僕にはきっと出来ない。僕の中は空っぽだから。だからあの人が凄いと今なら思える。

 省み慣れることもなく、それでも誰かのために生きるのはとても辛い生き方。かつてはたった2人……たった1人、そのためにも生きて挫折した僕だ。そんな風に生きられているあの人は凄いと思う。心から。

 それをこの男という奴は……人をこけにして利用して散々罵る癖に、そうやって人を汚れた物扱いする。そういう風にし向けた自分には、まるで罪がないと言わんばかりに。

 そもそも姉さんが僕を襲ったのもこいつの仕込み。僕が罪を抱え込んだのもこいつの仕業。それなのにこの男は、汚れているのは僕だと言って罵るんだ。


 「元王族とは思えないほどの転落っぷりと比べれば、元々ゴミのような肥だめ生まれの愚民なお前のことだ。まだマシかもしれないな、五十歩百歩と言うのだろうが」

 「お前なんか……」


 もう嫌だ。こんな奴。これ以上こいつの傍にいるなんて俺の精神が耐えられない。

 どうしてそんな酷いことを言うんだ。人を傷付けることを何も感じないのか?俺にだって……心があること、それもわからないのか?

 逃げるように駆け込んだ、店主の部屋。そこであの青年と話を付けて俺はヴァレスタことクソ男の下へと戻る。

 そしてエルムは店主から渡された重たい鞄を奴へと向かって机に叩き付けてやった。


 「あんたへの贈り物だ!受け取れよっ……」

 「なんのつもりだ?」

 「これは頭金。こっちの小切手合わせて全部で10億だ」

 「金額を聞いているわけではない。これは何かと聞いている」

 「あんたの大好きな金だろ。見て解らないのか?性格だけじゃなくて目まで悪かったんだ?」

 「…………この私を愚弄するとは。そんなに罰されたいのか馬鹿犬」

 「俺が傍にいるとお前の品位が下がるんだろ?俺だって好きこのんでお前みたいな人格破綻者の傍にいたくない。例の件は墓の下まで持って行ってやるから、感謝しろ」

 「秘密保持の信頼を金で贖う、か。お前もこの国のやり方を理解してきたようだな。それでこの金は?」

 「給料の前借り。あんたは金が金ならそれでいいんだろ。どんなやり方で得た金でもいいんだろ?それならなにも文句ないよな?」

 「ああ。無論金は金だ」

 「それじゃあ今日をもって俺は自由だ。俺が何をしようがもうあんたにはもう関係ないことだろ。俺はあんたのペットでも道具でもないんだ!」


 首輪を外してそれも叩き付けてやった。首もとに感じる空気の冷たさが、少しだけ違和感を感じさせるのが嫌だった。今外して正解だった。これが遅かったらもっとその違和感は強まっただろうから。


(そうだ、大丈夫だ……)


 俺はあんたなんか居なくても生きられる。誰が俺を必要としてくれなくても生きられる。今までだって生きてこられたんだ。大丈夫だ、きっと。

 そう自分に言い聞かせる姿が情けない。酷く惨めな気分だとエルムは思う。


 《エルム……》


 嘲笑と涙を浮かべている僕の傍へと飛んでくる精霊。彼は数値の結晶。クレプシドラには人間のような生きている身体はないけれど、抱き締められた場所から温かさを感じた。これはクレプシドラの心の温かさだろう。

 クレプシドラと僕は繋がっている。僕は彼に憑かれているんだ。僕の気持ちを痛いほど理解してくれているのだろう。僕はそれで十分だ。クレプシドラは僕を必要としてくれている。そう思えるのはエルムにとってそれは大きな慰めだった。


(そうだ、こんな奴居なくてもっ……)


 僕はちゃんと生きられるはず。誰かのためとか、そんなものがなくたって、なんとなくただ生きることは出来るはず。明確な目的のない人生だってそこを生きる者に存在理由は在るはずだ。生まれてしまった以上、どんなに無価値でもそこに意味はあるはずだ。


 「もう二度と俺の前に現れないでくれ。……今度会ったらあんたを殺す」

これの所為でサイトの裏頁においてたんだと思い出す。

でも思春期なら仕方ない。夢●くらい仕方ない。


女性恐怖症の描写のためだ、うん。

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