【第一話】2:Noli equi dentes inspicere donati.
「リゼカ……」
ヴァレスタは扉の開く気配に顔を上げる。
何処へ行っていた?それから茶のお代わりを持ってこい。そう言おうと思ったのだが。
「エルム君なら出かけたけど」
入ってきたのはあの奴隷ではなく1人の女。此方の思考を読んだかのよう小さく笑った顔は実に嫌味だ。
「……珍しいな」
「あら。それはどっちの意味かしら?」
「両方だ」
この愚妹が俺に給仕をするなんて、明日は雪の代わりに槍でも降るのだろうか。そんなことを考える。嗚呼、他にもこれに思うところが無いわけではない。
「俺を毒殺でもする気か?」
「残念だけど、私の持ってる毒薬じゃ兄さんを殺せそうにないから」
普通のお茶よと仕事机に置かれるカップ。
「……痴れ者が。緑茶をティーカップで出すとは。緑茶は湯飲みで出せ。そして俺は緑茶よりも紅茶派だ」
「そこはわざとに決まってるじゃない」
私、兄さん大嫌いだもの。くすとリィナが微笑する。
「でも、本当エルム君遅いわね。エルム君が帰ってこないんじゃ、夕飯作るの私1人だしメニュー何品か減らすことになるけど仕方ないわね」
「何故それを俺に言う?」
「別に。それで私に文句言われたら堪らないから」
「……その時はあれを罰すればいいんだろう?お前が奴のせいだと言うならそれもよかろう」
「そういうことじゃなくて……どうして兄さんっていつもそうなの?」
詰め寄る妹。その顔は不満げだ。何が気にくわないというのか。自分が打たれるのが嫌だからあれに責任をなすりつけようとしているのは明白だろうに。
「私は最近、兄さんは変わったと思った。そしてそれはエルム君のおかげだと思ってる」
「……?それは何の寝言だ?」
此方が怪訝な顔をしたのを見て、愚妹は小さく吹き出した。
「そんなに打たれたいか?」
「ほらね」
変わったと言えば、お前の方だろう。ヴァレスタは口にこそ出さないがそう思う。妹はこんな風に俺に微笑むことはなかった。いつも泣き顔で脅えて視線を逸らして部屋の隅に丸まっていた。そんな態度も気に入らなくて、彼女に暴力を振るった。
それで今ではこの態度。
(…………ロイルの奴め)
異父妹を変えたのはあの異母弟だ。馬鹿で愚鈍で単純で、気品も誇りもない……王としての品位も力量もない。それでいて、つい先日までこの国を継げる地位にあったあの男。
自分ならそれを手放すことなんかないのに。あの弟はこの女のためにそれを投げ出した。この俺を裏切ったのだ。傀儡を失った俺がまたあらたな策を練り、実行し……今日へと至るまでどれほどの苦労をしたかも知らずにへらへらと笑いながら奴は戻ってきた。未だに俺を兄と呼び、微笑んで……
思い通りにならないあの駒。王の器を持つ俺に従わないその飄々としたあの無気力な態度こそ、俺を凌駕する者なのだと俺に語るようで気に入らない。
その顔を思い出し、嘆息。あれくらい上手く扱えなければ到底王へは至れない。今日もまたその辺りで食べるか破壊しているか寝ているか。奴の人生はそんなもの。1人では金を稼ぐことも出来ない。だから誰かが上手く使ってやらなければならないのだ。
「昔の兄さんなら私が何かを言わなくても勝手に打ったし蹴ったし殴ってた」
口答えに溜息一つで返したヴァレスタに、リィナは笑う。
確認なんかしない。猶予も与えない。そもそも正当な理由さえないことも多かった。理不尽の権現。それが自分の知る兄だったとリィナが語る。
「下らん……」
妹の戯れ言には、唯の気まぐれだと答えてやる。同じく気まぐれという理由で。
「お前は時は金なりという言葉を知らないのか?お前などに構う暇があったらこの商談をまとめるための書類を作る方が余程有意義だ」
「兄さんは、彼を何だと思っているの?」
「あれは唯の奴隷だろう」
「そうじゃなくて……」
「あれは私の飼い犬だ。毛並みも悪く躾けも不十分で血統も底辺。愛でるに値しないが掃除くらいは出来るだろうモップ犬。それ以上でも以下でもない」
「相変わらず最低ね……」
でも私が言いたいのはそういうことじゃなくてと、妹は続ける。
「彼はまだ子供なのよ兄さん?その辺ちゃんと解ってあげられているの?」
「ある一点に置いてだけはガキではないがな」
「そう言う意味でもなくて…………私が言いたいのは、おかしいってことなの」
「おかしい?」
「彼は混血。そしてここはどこ?セネトレアじゃない。そんな子が1人で外に出かけて危なくないと思わないの?」
それは初耳だ。あのガキめ。俺に断りもなく勝手に外出するとは奴隷の分際で生意気だ。これは罰する理由がまた増えた。新種の商品の実験台にでもなってもらうか。あれの回復数術があれば、多少の無理は利く。
「何だ。外まで出かけていたのか」
「兄さんがそうさせたんでしょ!?」
勝手な外出を咎めずにくくくと忍び笑いする私に、妹は粗方察したのか声を荒げる。その行動を誘発した張本人が何を言っているのだと愚妹が咎める。
誕生日の貢ぎ物。それを持ってこいと言ったのは確かに私だ。しかしあんなガキにそもそも期待などしていない。体良くいたぶる理由があればそれでいい。その方があれは悔しそうな顔をする。無表情や無気力、無反応をいたぶるよりそういう方が愉しめる。そう言った意味では、あの奴隷と愚妹は他の道具達の中では奴隷才能に秀でている。
奴隷属性同士気が合うのか、それとも元々顔見知りだったからなのかリィナはあの子供を心配しているようだ。
「エルム君、私が止める間もなく出て行っちゃったんだから。……もっともクレプシドラが憑いてるから大丈夫だとは思うんだけど……ちょっと、遅すぎない?」
「何だ、無価値女が一丁前に人間面で駄犬の心配か?偉くなったものだな」
「兄さんっ!!」
今日一番の怒りを宿したその声は、机の書類を吹き飛ばす勢いの両腕と共に振り下ろされた。机に両手をバンと置き、リィナはそのまま此方を睨む。それを見て考え改めた。ロイルのしたこともそう悪くはない。
「吠えるな、喧しい。そんなに騒ぐならお前も躾け直しやろうか?」
妹は変わった。成長した。より、母に似てきた。憂さ晴らしには丁度いい相手。死人は殴っても何も言わないが、生きた人間は違う。
俺は聞きたいのだ。これから母の声を。悲鳴を。そして謝罪を。呪わしい生を俺に贈った忌まわしいあの女。その面影を宿したこの女。死ぬまで泣き叫べ。許しを請い続けろ。それでも絶対に許してなどやらん。
母と妹への憎悪は今もこの胸に深く根付いている。妹も俺のことを恐れ憎んでいるだろう。
けれど妹は変わった。俺に媚びない。俺に謝らない。俺にこうして向かい合う。いたぶり甲斐が出てきたというものだ。
「最近お前には構ってやらなかったからな。私が恋しくでもなったか?そんな顔するな、書類が片付けばお望み通り打つなり蹴るなり吊すなりして可愛がってやる」
もっとも、これに手を出せば今度はロイルが怒り出す。ことこれに関してのみあれは無気力ではないのだ。それが厄介。バレるようにいたぶれば……またあれは姿をくらますか、今度は俺を殺しに来るか。そのどちらかだろう。あれは馬鹿だから行動パターンも自然と読める。
それでも商人組合と深い関わりがある請負組織gimmick。今はタロックの姫との諍いが原因で目立てない故、組織をグライドに任せてはいるが、実質あの組織は俺の思い通り。つまりは俺という後ろ盾を失えば、ロイルは謀反罪で国から追われる。その場合死刑に処せられることになる。それがわかっているからこの愚妹もここに留まっている。
その隙を突けば多少いたぶることは出来るのではないか?そのための理由付けでもある。もしあの奴隷が素晴らしいものを持ってきたなら、この愚妹が負けると決まっている。馬鹿も商人も悪魔も契約、約束事には弱い。
ロイルがそれでも引き下がらないなら、それはそれでもいい。ここで寛大な処置を施せばあの馬鹿は俺をまた深く信頼する。その積み重ねであれは使える駒になる。そう。だからどう転んでも構わないのだ。少なくとも俺が損をすることはないのだから。
明日を予見し笑うヴァレスタ。それにリィナは怒りで震える。或いは過去を思いだしたのか。
「結構よ!暴力振るわれて喜ぶ人間いるわけないでしょ!?そんなこともわからないの?!最低っ!兄さんはいつもそう!殴ったことはあるけど殴られたことがないから、人の痛みを知らないんだわ!」
「当然だ。私はお前のような屑とは違う」
王は絶対支配者。全てを虐げる権利が与えられた唯一の存在。それが隷属者にそうするのは息をするよう自然なことで、そうされる奴らのことなど考える必要などはない。
王から与えられるものはそれがどんなものであっても喜び。それこそが民という名の隷属者。例えそれが死だとしても、涎をたらして餌を待て。王の褒美に待ち焦がれるものだ。
それでも目の前の緑の眼は、真っ直ぐに私を睨むのだ。再開した日に向けられた、磨がれた矢の切っ先のように鋭く光る。それを見て思う。まだまだ躾が足りない。昔は完全に降った妹がこうも刃向かうとは。
傍にはいる。行動の命令には従う。それでもこれは私の人形ではない。糸を断ち切り、私には向かう。道具風情が物を言う。
「……兄さんは何も解ってない!兄さんはエルム君以下だわ!兄さんが子供なんだわ!!」
「…………この俺を愚弄するか?」
「兄さんが母さんの影を引き摺っているように、子供の頃の心の傷は、一生ついて回るのよ!?それがわかっているのにどうして兄さんはそんな風でいられるの!?私には理解できないわ!!だから私は一生兄さんを許さないっ!!」
大声で兄さんと連呼する愚妹。グライドは組織に返していて良かった。そして抜かりのない自身の防音対策についても自画自賛。
カーネフェル人は感情的だと言う。普段は大人しそうに猫を被っているこの愚妹も一枚剥がせばこんなもの。だから愚かな感情で道を誤る。少なくとも城から逃げ出さずにいたならば、西裏町などというゴミ溜めのような社会最底辺で暮らすこともなかっただろうに。
呆れて物も言えないのを良いことに、この愚妹は尚も小五月蠅く喋り続ける。誰がそれを許可したというのか。
「本当は、エルム君だってそうなってもおかしくない。それなのにどうしてあの子が兄さんの傍にいるのか少しは考えてみたら!?」
「……何故そこであれの名前が出る?」
「本気で、言っているの……?」
見開かれた緑。浮かぶのは信じられないという驚愕。
「エルム君はしっかりしてるけど、本当に……子供なのよ!?あの子の生い立ちくらい、兄さんだって知っているんでしょ!?」
「知らん。興味がない。唯単純に」
愚妹は再び絶句。それでも長い髪を馬のように振り乱し、此方を仰ぎ見る。
「あの子が兄さんを裏切らないのはあの子が子供だからなのよ。そうでなきゃ、自分を攫って殺そうとした男なんかに仕えるわけないでしょう!?兄さんが彼に植え付けたトラウマの数知っててそんなこと言えるの兄さんは!?」
「さぁ、数えたこともないな。俺にはどうでも良いことだ」
力なき者が搾取されるのは自然の摂理。それを怨むのは自らが弱者であり負け犬であり愚か者だと主張しているに等しい。あれはこの愚妹より僅かに本能的に頭が回る。それだけだ。
噛み付きはするが、噛み付いた腕を引き千切ろうとはしない。甘噛みのようなものだ。この私の躾が成功している証拠だ。
(俺も腕を上げたな)
深く俺を憎んでいたあの子供。あれほどいたぶってやった相手が駒になるとは。
王としての貫禄が増したのだろう。俺の策が良かったのかもしれない。俺は復讐者さえ従える。素晴らしいじゃないか!
那由多王子……殺人鬼Suitのように怪しげな術を使わなくとも、誰もが俺に平伏す!
俺は人として人を従える王になる。ならなければならない。だからと言って策以外で民草を甘やかすようなことは行わない。それは王の威厳に関わる。
いずれ腐れ民共を躾けてやらなければならない。誰が飼い主か、誰が支配者か徹底的に叩き込む必要がある。そのためにも飴と鞭の度合い、割合……その間隔を。今後の参考のためにも、あの子供は実験台になって貰わなければ。もっと憎まれるようなことをする。それでもあいつはどこまで俺を殺さずに生きていられるのかを確かめる。
俺は俺の力量。その天井を知らなければならない。
「夜まで戻らないようなら……捜索はさせよう。あれはまだ利用価値が幾らでもある」
「兄さん、本気でそんな風に思っているの?」
此方の考えを見取ったように、愚妹が眉をつり上げる。
「馬鹿はお前だ。大体あれは混血。数術使いという化け物だ。その辺りの破落戸も変態も一蹴できるだろう」
「それでもあの子は子供でしょ!?力があっても強がっていてもまだ10年ちょっとしか生きていない子供なのよ!?」
精神面の弱さ。そこに付け込まれたなら、危ないのだと愚妹は語る。
多少持ち直したとはいえ、あの子供が危うい精神状態になるのは間違いない。まだあれから一週間しか経っていないのだ。軽口を返せるようになったから、調子を取り戻したと思い違いをしていた点は認めてやらないこともない。
「あの子が兄さんに懐いてるのは、兄さんが言う兄さんの魅力(笑)とかカリスマ(失笑)とかそんなものじゃないのよ」
愚妹は俺を罵りながら、もう何度目かになる言葉を繰り返す。
「あの子は子供。父親も母親も……片割れもいない。あの子は本当の愛を知らないのよ。欲しがったもの全てが奪われてきたから!だから寂しさを抱えている!そこを兄さんが必要としてあの子を拾い上げた。だからあの子は兄さんの傍にいるのよ!?」
家族として愛してくれるはずの姉からは禁断の愛を向けられ襲われて、姉と慕った他人に抱いた慕情は弟みたいなものだからと相手にもされずに切り捨てられ、……捨てられた。そこを拾い上げたから慕われているだけなのだと妹は言う。
彼はあの日一度死んだのだ。そして殻に閉じこもった。そのまま窒息して死んでしまおうとしていたその雛の殻をたたき割ったのがお前だ。懐かれているのはその刷り込みに他ならない。それがお前の王の力だと勘違いするのは滑稽だ。そんな言葉で愚妹が俺を嘲笑う。
「あの子には兄さんしかいないから、だから兄さんの傍にいる。私にはロイルがいた!でもあの子にはそういう相手がいない!!あの子が私と違うのはそこよ!だからあの子は何をされても兄さんを許せるだけなの!!そこを見誤れば、兄さんはその内何もかもを無くしてしまうわ!」
「仮にそうなのだとしても、お前はそれが望みだろう?俺が転げ落ちていく様を見るのは愉快だと顔に書いてある」
お前に忠告される義理はない。そう継げれば愚妹も言い返す。義理はない。自分はお前を憎んでいるのだからと。
「ええそうね!私は兄さんが大嫌い。一日でも早く死んでくれればいいのに。お願いだから私より先に死んでよね。じゃないと私が余生を愉しめないから」
その言葉は予想の範疇。付け加えられる言葉を除くなら……
「だけど、兄さんはエルム君より先に死んじゃいけないのよ」
兄さんが不幸になるのは大いに構わないけれど、あの子が不幸になるのを見るのは忍びないのだと愚妹は語る。
「…………だから何故そうなる」
「兄さん、何かを飼うって意味ちゃんと解ってる?それって結婚よりも重いのよ?」
結婚ではないから離婚は出来ない。それを捨てることは許されない。それを殺すことは許されない。それが自然死するまで傍に置く。それが飼い主と愛玩動物という存在の関係だ。
愚妹はそれを指摘する。
「兄さんがあの子に人権はなくて、唯の犬だと言うならそれでもいいわ。だけど、それならそれなりの覚悟と態度ってものがなきゃ、そんなことを言うのは許されないこと。それが兄さんには本当に解っているの?あの子の気持ちが分からないようじゃ、王になんかなれないわ!それも解らないならやっぱり兄さんは大馬鹿よ!兄さんがあの子の飼い主だって言うんなら、ちゃんと飼ってあげなさいよ!世話も出来ずに飼い主名乗れる権利があると思うの!?」
*
「…………ふん、あの愚妹も言うようになったではないか」
ヴァレスタはリィナに言い返せずに、腕を引かれて外へと追い出されてしまった。
そろそろ夕暮れ。冬場ということもあり日が暮れるのは本当に早い。タロックやアルタニアほどではないとはいえ、この第一島ゴールダーケンも冬はそれなりに寒くなる。口から吐き出す息は白くこの眼に映った。
「まったく……なんのために身を潜めていると思っているのか。大体私はまだ病み上がりだというのに」
此方は城から指名手配されているようなもの。東裏町ならまだこうして歩くことも叶うが、あの馬鹿犬が表通りまで出向いていたら探しようがなくなる。タロックの姫がセネトレアに巣くうようになってから、本当に動きづらい。
(埃沙の奴がここにいれば楽に探し当てることが出来たのだが……)
あの奴隷には別の命令をしていたため生憎今日は不在だ。いざというときに役に立たない使えない道具ばかりで呆れてしまう。
(もっとも大方の予想は付くがな)
まぁどうせ押しに弱いあれのことだ。精霊に連れられるまま肉屋にでも行ったのだろう。
《うぁあああ、美味しそうぅうううううう!おっちゃん!そこの血まみれの肉試食させろよー!後でちゃんと金払うからヴァレスタが。くそぅ、俺の声聞こえないのかよー!!》
「…………」
とりあえず近場で売っていた焼き栗を投げつけてやった。これは水の精霊だから熱あるものとは相性が悪い。ぎゃあと醜い悲鳴を発し、それは此方を振り返る。
《痛っ!何するんだ……ってお前ヴァレスタ!!》
小柄な少女ほどではあったが、それまで人間の大きさがあったそれがみるみる縮まり、絵本の中に出てくるような小さな妖精のような姿へと変わる。
(様を付けろ低俗精霊)
空中にふよふよ浮いているそれを引っつかみ訂正を迫るが精霊は小憎たらしい笑みを浮かべるばかり。これは基本的に憑いているあの奴隷の言うことしか聞かない。その奴隷の主が誰かを知ってもこの態度。精霊というものには脳味噌というものが皆無らしい。
《死んでもお断り!》
(ならば死ね)
はたき落として革靴で地面にぐりぐり押しつけ踏みつければ足下から奇声が生じる。しかし周りの通行人共はそれに気付く様子もない。当然だ。これはある種の才能がなければ目にすることも出来ない稀な存在。こんなんでも数値に敏感な精霊だから、ある種の才能さえあればそれと口を開かずに会話を行うことも出来る。その才能を認めることこそ自分が人間ではないと認めるようなことなので、ヴァレスタは基本的にはこの精霊を見えないし居ない者だとして扱っている。それでも度が過ぎる非礼は見過ごせない。
《ぎゃあああああ!土で水分奪われるぅううううう》
これ以上醜い叫きを聞いているのも不愉快なので、足をどけてやるとゆっくり空中に浮かんでくる精霊。
《そうだ、今日の晩飯は?血まみれステーキとか出るのか?》
(お前に食わせる飯などあるか。第一、あいつはどうした?)
子守りの一つも出来ない者に与える食料などあるはずもない。働かざる者食うべからず。この世の常識も精霊などという俗物には通用しないのだろうか。流石は脳無しの心臓無しだ。
《エルム……?あー……あいつ迷子になったのかー》
敢えて何も言うまい。明らかにそれはこっちだと思うが。
《でもなんかあったら血流せって言ったのにな。俺はエルムの血の匂いがすればすぐにわかるし》
なるほど。少なくとも血生臭い事柄には巻き込まれては居ないらしい。
「……そうなれば、自ずと行き先も限られてくるな」
《どういうことだ?》
小五月蠅い精霊に答えてやる義理もない。思考のシャットアウト程度朝飯前だ。無視してそのまま歩き出せば後方で数術の気配。発動前にもう一度精霊を踏みつぶす。
(何をする気だった?えぇ?あれか?頭から水をぶちまけるつもりだったのか?このまま第五島の砂漠砂に埋めてやろうか?)
《じょ、冗談だ!冗談んんん!!》
また心にもない嘘を。もっとも弱体化させている以上大した害にはならなかっただろうが念には念を。こんな場所で万が一姿がバレる事があったら雨が降るぞ。血の雨が。それこそこの精霊が喜びそうな展開だ。
第一今は身を潜めていなければならない次期だ。あまり目立つような行動も出来ない。この精霊のせいで十分おかしな行動をしている自覚はある。突然不機嫌面で地面を踏みつけている奇行。これ以上何かを起こして生存が判明してみろ、手柄欲しさに傘下のはずの商人達に城へと売り飛ばされるだろう。
「まったく……」
ヴァレスタは重いため息。精霊を連れ物陰へと身を潜めることにした。
「お前も流血沙汰くらいには役立て。行くぞ」
《何処に?》
「あれには首輪を付けてある。この俺の物だと手知り、事を企てる奴などそう何人もいるものか」
万が一攫った奴が居たのだとしても、あの首輪を見……東裏町を束ねる組織の所有する奴隷だと知れば、すぐさま組織に連れ帰るだろう。迷子になっていたところを保護しましたという偽善面で金をせびりに来るくらいの厚かましさはあるだろう。ここは仮にも東裏町だ。
「お前があれと別れたのは何時間前だ?」
《うーん……昼頃だと思う》
今はもう5時。日が沈んだのは30分前。この精霊を見つけた頃だ。
「ならばあれはもう5時間も何処かを彷徨っているわけだ。その間出血事件も起こしていないというのは些かおかしい」
もし仮に何者かに捕まったのだとして。混血に目が眩んだ奴隷商に見つかったのだとしても、あの首輪に気付いてすぐさま届けに来るだろう。うちの商品に手を出したと知られれば自分の店を潰されることにも成りかねない。そこまでのリスクを冒すような愚かな商人はまずいない。となれば商人という線はない。
(……純血至上主義者にでも捕まったか?)
確かにああいう連中は猪突猛進。勢いで人を殺すような大馬鹿者だ。殺した後に首輪の存在に気付くくらいの低脳だ。
しかしその場合純血至上主義者はあれをすぐさま殺そうとするだろう。あれもこの精霊に助けを求めるなら何らかの手段で血を流すはず。5時間の間も一滴に血も流れないというのはおかしな話。
となれば要は消去法。
「つまりあれを攫ったのは変態貴族となるわけだ」
《おおー!そうなのか!!で?俺は誰を殺せば良いんだ?》
ヴァレスタが導き出した答えに、わくわくとした上機嫌面で聞いてくる精霊。本当に血生臭い話がこいつは好きらしい。
「まだそこまではわからん。変態貴族などこの国には大勢いるからな。まぁ直にわかる」
《そうなのか?》
「小娘の細い指ならいざ知らず、変態貴族の小汚い物でもぶち込まれたなら血など何滴だって流れるだろうからな」
《だ、駄目だ!!そんな展開俺は認めないっ!!》
脳無しの能無し癖に一丁前にあれの保護者気取りか。
しかし叫かれたところで居場所が分からないのは仕方がない。もっとも物は考えよう。あれもたまには役に立つ。これで貴族共を揺するネタを手に入れられるかもしれない。別に俺からすれば痛くもかゆくもない話。損をせずに特をするかもしれないわけだ。
「楽して居場所が知れるではないか。それまで茶でも飲みながら待つとしよう。そこの通りのあの店は、俺が寝込んでいる間にできた店だな。投資をすべきかどうかを見るためにも、視察にでも行ってくるか」
《待て、ヴァレスター!!》