淡い恋心
恋心、というものは、どうしてここまで心をかき乱すものなのだろうか――。
恋。
僕の最近の悩みは、これで持ちきりである。
いつからだったのか、それすら覚えていない。
だが、気がつけば、頭から離れない。
「ろくろー、ね、聞いてるの?」
「ああ、ごめんごめん。何だったっけ」
「窓の外見るのこれで十七回目だよ?」
どうしたの?と、彼女は言葉の後に続けた。
『ろくろー』
それは僕の名前。
いや、あだ名というのだろうか。
本名は花房六郎。
変わった名前だが、別に僕は六男というわけでもないし、六月に生まれたわけでもない。
ただ、父親が『六』という数字が好きだったから。
それだけである。
「この問題なんだけどね」
僕の向い側に座る彼女が、教科書を左手に持ち、ノートを僕のほうに向け、分からない問題を指差した。
「ああ、これね。僕も難しいと思うなぁ」
「言ってないで教えてよ」
「ねぇ、ろくろー。あたしの問題も見てよ」
「ろくろー、秋谷に彼女できたんだぜ」
わいわいと僕の近くに寄って来る子達は、僕の大事な生徒だ。
正確には、僕は教育実習生だから、本当に生徒、というわけではないのだが。
歳が他の先生よりも近いからか、それとも僕が親しみやすい人物なのかはわからないが、生徒はみんな僕をまるで友だちのようにあつかう。
僕も別にそれで構わないのだが、
「ろくろーもそろそろ彼女つくらないとやべぇんじゃねぇの?」
もう少し『先生』あつかいしてくれても良いのではないか、と僕は思う。
げらげらと笑いながら彼が言うと、その場は一瞬で恋愛の話の持ちきりだ。
「ろくろーは好きな人もいないの?」
「って言うか、ルックスは良いんだからもっと積極的にいかないと!」
「そうそう。女の子って、結構『オシ』に弱かったりするよ?」
「はいはい、わかったから。飯嶋さん、この問題はね」
「あー話変えた」
「ねー、ろくろー」
高校生は、勉強に行事に恋に、凄く楽しそうだ。
みんながみんな、キラキラと輝いているように見える。
『好きな人もいないの?』
その言葉が出た時、少し僕はドキリとした。
これは好きな人なんだろうか。
いつも会えるわけではない相手。
たまにみかけただけで、彼女に釘付けになってしまった。
彼女が美しかった、ということもあったが、その理由は別にある。
初めてこの高校で教育実習生としてやってきた時、彼女がかけてくれた言葉だった。
校舎が若干古びた、ごく普通の学校。
「ちょっと早く着過ぎたか…」
初めてということもあり、僕は緊張していた。
そのせいで早く学校に着いてしまったのだ。
最初は時間つぶしのつもりだった。
そのつもりで、僕はあの、
彼女のいる花屋に立ち寄ったのだ。
綺麗な花屋だった。
赤い薔薇やチューリップ、カーネーションにパンジー。
色とりどりの花たちが店にならんでいた。
…だが、僕の目がとらえたのは、それではない。
「あら、おはようございます。今日は良い天気ですね」
にこにこと小柄で優しそうな女性が、店の奥から僕に話しかけながら出てきた。
少し茶色の入った長い髪を右側の後ろで束ね、前髪はピン止めでしっかりと止めている。
いかにも、『働く女性』というカンジが僕にはした。
「は、はい」
とっさに、僕はそう言った。
こういう時に僕は思う。
どうして僕は、こんな時、もっと気の利いた言葉が見つからないのだろうと。
「何かお探しでしょうか?」
彼女は笑う。
「あ、いえ。そういうわけではないんです」
「?」
「この近くに用事があるのですが、ここにある花が目に入って…、只見に来ただけなんです」
「まあ…」
彼女は驚く。
「嬉しい。オープンしたてであまりお客さんが来なくて…。でも、そう思ってもらっているのなら嬉しいです」
「そ…そうですか」
「あの」
彼女が言いかけ、僕に近づいた。
僕は若干どきっとして、少し後ずさりをしてしまった。
だが、僕は「はい」とこたえた。
「このお花、どうぞ」
スッと僕の前に花を差し出す。
僕はそれを手に取ろうとするが、少し焦った。
「え、あの…」
「お礼です。あ、それと初めてここに来て下さったので」
「いや、でもこんなに丁寧に包んでるし…」
「いいんです。貴方にお似合いだと思って。買ってもらえない花たちも可哀想ですし、もらってください!」
そう言われ、僕は彼女から花を受け取った。
「ありがとうございます」と、僕は頭を下げた。
いや、彼女の笑顔をまともに見れなかった。と、言うのが正しいのかもしれない。
僕は店を出ようと、ドアの前に立った。
すると、彼女は「ありがとうございました。また来て下さいね」
と、僕に手を振った。
それからだ。
僕が、この彼女が見えるはずもないこの教室の窓から、彼女が通ったりしないか、なんて少し期待しているのは。
花屋にはたまにいく。
が、最近はバイトが二、三人入ったらしく、彼女と店で会えることは少なかった。
たまに会うと、彼女は僕を見て、
「あ、来て下さったんですね。ありがとうございます!」
と、あの笑顔で言うのだ。
彼女の名前は美紀。
初心な僕が彼女から名前を聞き出すことなど出来るわけもなく、名前は店に居た客に聞いたのだった。
だが、「おはようございます」くらいしかロクに言えない僕にも、彼女と話せる絶好の機会は、意外とすぐ近くにあるものだ。
「花房先生、すみませんが明日、離任式の先生用の花束を用意してもらえませんかね?」
「花束、ですか」
「ええ。小阪先生が用意してくださる予定だったのですが、先生のお子さんが体調を崩されたらしくてね。明日も来れそうにないとかで」
確かに、最近はインフルエンザがはやっている。
「はい。わかりました」
新任でもない僕がコレといって理由がないのに、拒否することなど出来なかった。
そして僕は、
「あ、いらっしゃいませ」
あの花屋に来た。
「今日は二回も来て下さって…。少しずつお客さんが増えてきているんですよ」
「そうですか、良かったですね」
「本当にありがとうございます」
「あの、今日は離任式に使う花を探していまして…」
「そうですか。それなら…」
美紀さんは、嬉しそうにいくつか花を僕に見せた。
「このお花はどうでしょう。このお花は先ほど咲いたのですよ。綺麗でしょう」
「はい」
「この花、好きですよね。 あ、でも今日は貴方のってわけではないんですよね」
はははと笑う。
つられて僕も笑うと、彼女は僕に質問した。
「私、山本美紀です。貴方は?」
「ぼ、僕は花房六郎です」
やっと、
「名前が聞けたわ」
「え?」
僕が思っていたことを、彼女は先に口に出したので、僕は思わず聞いてしまった。
すると、彼女は
「毎日来て下さるのに、ずっと名前も何も聞けなくて。初めての常連さんだったから」
また、はははと笑った。
「きっと、歳も近いですよね。私は二十四歳なんです」
「僕も二十四です」
「まぁ、本当ですか」
そして、僕は少しだけ長く美紀さんと話すことが出来た。
「ごめんなさい。忙しいところ。つい話し込んでしまいましたね」
「いえいえ」
彼女が苦笑いをする。
僕は両手と首を振って否定した。
そして、ちらりと腕時計が目に入り、僕は目を見開く。
「うわ。もう二時間も過ぎてましたか!」
僕は、美紀さんと選んだ花を手に持ち、ぺこりと頭を下げて店を出た。
幸せだった。
彼女と会え話をすることが、こんなにも心が温かくなるのか、僕は知らなかった。
何を話したか、なんて舞い上がってしまい、覚えていない。
彼女の笑顔を見ることが、こんなにも嬉しいことを、僕は知らなかった。
やはり、これは恋だ。
そう、初めて確信できた気がする。
あれから、少し時間が過ぎた。
美紀さんとは、思いを伝えることもなく、ただの知り合いよりも少し友達に近いような存在だった。
このままでいいと思った。
彼女の笑顔が毎日のように見れて、話すだけで幸せで。
それだけで良いと思ったのに
終わりを告げる日は、着々と近づいていた。
「もうすぐ、田舎に帰るんです」
彼女は、下を向いて、僕に言った。
寂しそうに、悲しそうに。
美紀さんの父親が五年前にがんになったことは聞いた。彼女から。
その父親が亡くなり、そのショックで、母親がうつ病になったらしい。
どこか、病院に入れたほうが良いのかもしれないが、自分がみていてあげたい。
そう彼女は口を動かした。
はじめてみた表情だった。
あんなに笑顔の眩しいひとが、あんなにも暗い顔をしている。
つられて、僕も悲しくなるほどに。
「多分――」
もう、会えなくなる――。
少し肌寒い、冷たい風が僕たちを通りぬけた気がした。
「いままで、ありがとう。花房さんとお話したり凄く楽しかった」
彼女は、いつもと違う笑顔を見せる。
「僕もです」
こんなとき、どうして僕は、
気の利いた言葉の一つも思いつかない?
大切な人が、苦しんでいるというのに。
これで最後だというのに。
気がつけば、僕は、彼女を抱きしめていた。
彼女の小さなからだが、少しだけ震えていた。
だが、やがてその震えは止まり、彼女も優しく抱き返してくれた。
「また、お会いしましょう」
「はい」
その時がくれば、
僕は、彼女に、この気持ちを伝えてみせる。
『美紀さん』の名前は、
中谷美紀さんからいただきました。
美紀さんは、中谷さんのような美しい人だと思って読んで下さい。
って、あとがきにかいても遅いですかネ☆(笑