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三章 叶えたい者たちの声

 三年間で初めて朝食を食べに、伊月は食堂へ下りる。

「綿谷くん!」

 朝食を皿に盛っていると、後ろから小宮の声がした。

「朝ごはん、食べてくれる気になったんだね」

 寝ると機嫌が戻るのか、翌日に持ち越さない主義なのか。やはり、説得し続けられていた、朝食に参加した効果か、小宮の声は朗らかだった。下手に謝るのはパンドラの箱を開けることかもしれない、と伊月は黙って頷くだけにとどまった。

「おはよう……」

「ねえ、離れて」

 小宮の後ろには、明らかに声の張りがない寮長と、纏わりつく寮長を必死に振り払う都が続いた。華奢な都に一九〇センチの大男が絡んでいて、迷惑極まりない様子が伝わってくる。

「重いって!」

「どうしたの?」

 伊月に続いて、小宮も皿に朝食を盛りながら、不憫そうな声を投げかけた。心霊動画の鑑賞が終わって以来、風呂やトイレさえこんな感じだと、都は呆れ顔で答える。菅崎の部屋の前で門前払いされているのに遭遇したところ、そのまま泣きつかれてしまい、都から離れないらしい。

「申し訳ございません……」

 寮長はどうしようもないといった様子だ。伊月が近くのテーブルに座ると、全員がぞろぞろと同じ場所に続いた。朝食を食べていると、やや遅れた頃に、眼鏡をかけた菅崎もおぼんを持って同じテーブルに着いた。

「なんかちょっと怖いな」

 情けない寮長を見て、菅崎がぼやっとこぼすと、お前が無視するから! と、すぐさま都の悲痛な声が飛んだ。

「俺の部屋に、大男が寝れるスペースない」

「僕の部屋にもないって」

 寮長は、ありがとうな、画材をよけて寝るスペース作ってくれて、と片手で都の服を掴んだまま悲しそうに言った。つまり、床に寝かされているのだろう。

「怯えすぎて、俺は人生に支障をきたしている」

「一番怖いのは、生きてる人間だろ」

 うんざりした顔で都は、はっきりと言った。

「理解しているつもりでも、のみ込めないこともある」

「もう黙って」

「都、今日も一緒に風呂入ろうな」

「下の名前で呼ぶな」

 昨日、ほとんど喋らなかった都が饒舌だった。一晩の出来事が都をそうさせたのなら、寮長の垣根を越える力は本物だろう。感心するのと同時に、テーブルを囲む面々は、都に同情せざるを得ない。

「じゃあ、綿谷――」

「無理」

「まだなにも言ってない……」

「菅崎、お味噌! お味噌汁こぼれてるよ!」

 菅崎は、あー、と気のない声を漏らすばかりで、どう見ても半分寝ている。すぐに慌てて拭くものを差し出してくる寮長や、寮長の反射神経にぎょっとしている都、綿谷くんは大丈夫だよね? と隣に座って、半信半疑の顔を向けてくる小宮。

 伊月が目を背けていた仲間との関わり合いは、少し面倒でうるさい。それでいて、思っていたよりもくすぐったかった。

「やっと朝ごはんに、綿谷が来てくれたな」

 寮長が嬉しそうに笑った。

 

 文化祭準備に勤しんでいる受験組を心配した迚野は、二日目にして対策を講じた。というのも、午前中に受験組は演習、受験終了組は自習という、文化祭終わりの学習日程が前倒しで始まった。

 伊月と小宮に加えて、都も既に進路が決まっているらしい。談笑交じりの空気感の中、各々が作業を進めている。伊月はぼんやりと今にも眠りそうだ。

 なんだかんだ、三人は並んで座った。小宮は保健室件の後から、より遠慮なく伊月に付いて回り、伊月と都は行動が人より数歩遅いため、自ずと行動が重なるのだ。

「春から藤美(ふじび)の美大生なら、東京で会うこともあるかもね」

「ほんと? 小宮はどこ大?」

 小宮が、羽沢(はざわ)だよ、と答えると、東京の有名私大じゃん、お坊ちゃまだ、と言って、都はデッサンしていた手を止めたが、もう少し下向いて、と自習をしている小宮にお構いなく、顔の角度を調整させると、迷いのない線を描いていく。

「あ、ごめん」

 伊月はいつも通り机に伏せていたが、小宮の声と同時に、なにかが足に当たった感触があり、目を開ける。資料が自分の足元に落ちていた。拾い上げると、表紙に薬学部と書かれているのが目に入り、小宮が理系であるのを初めて知る。

「本当に上手だよね」

 小宮は、ありがとう、と伊月から資料を受け取った後、都を指して小声で続けた。都の手元に視線を落とすと、この短時間で既に小宮を描き終えている。今は机に文房具を並べて、どの角度で描くか決めているようだ。

「相浦くんはいい子なのにね」

 都のおでこには未だ絆創膏が貼られており、傷が深かったのがうかがえた。なに、悪口? と言った後、都は視線を小宮に向けないまま、口を尖らせる。

「F15号を背負って走ってると、絡まれるんだよ」

 小宮が、なにそれ? と尋ねると、都は両手を大きく広げて、このぐらいのキャンバス、と答える。

 伊月も何回か、豆腐が廊下を走っているような光景を見たことがあった。美術室は第三校舎の三階にあり、地元の学生を集めるために用意されたクラスの前を通ることになる。特進コースのS組とは違い、ガラの悪い生徒も多いのだ。

「お前が羨ましいんだろ」

 伊月が口を開いた。

「どういうこと?」

「自由そうで」

「悪口じゃん」

「そういう、意味じゃない」

「はあ?」

 小宮は二人の間に挟まれて、顎を引き首を左右に動かした。

「二人は、前から仲良かったの?」

「こんなやつ知らない」

 都がきっぱりと言った。伊月は口の端を上げて、煽るような表情を浮かべて応える。

「強いよね、二人って」

 小宮はシャーペンをいじりながら、こぼすように続けた。

「他人に興味ないところ、一人でも生きていけそうな強さがある、みたいな」

「突然、どうしたの?」

 都は眉をひそめるが、変なこと言っちゃったかも、と小宮は笑って誤魔化す。それ以上、追求するのが許されない気がした。伊月は喉に言葉を詰まらせるが、そもそも、自分が小宮になにを言おうと、救えるわけではなく、何かしてやれることがあるわけでもない。

「綿谷くんは、平瀬台大学の文学部だってね」

 小宮が、菅崎から学部を聞いた、と話題を変えるので、そう、と伊月は短く答えた。

 内部進学で大した受験もしていないし、消去法で決めた進学先だった。数字がすべての理系は選択肢にも入らず、教育や経済もきれいごとのようで、残るは文学だけだったのだ。

 伊月は、これがしたい、こうなりたい、といった夢を持ったことがない。小宮と出会って、本能的に体質からの解放を望むようになったが、それも理性で願っている訳ではく、三か月間限定の例外的な不具合だ。

 夢に心を躍らせる以前に、自分にできないことを知るために、十代のほとんどを費やした。

 高等部に上がってからは、進路や将来について考えさせられる機会も増えたが、自分に矢印を向けたとして、空虚を確認するだけである。

「小説、好きなんだね」

 伊月は答えられなかったが、記憶の蓋が少しずれたような気がして、少し考えを巡らせた。

「父親の部屋に、たくさん本があった気がする」

「お父さん、先生だったりする?」

 小宮の質問に、伊月はまた黙る。記憶に残る父の顔は霞む映像だ。怪我をしないように、記憶の蓋をゆっくりと開けていくが、手が大きくて温かかった、それ以外、なにも思い出せない。

 伊月は平瀬台に越してくる前後の記憶が、ほとんど欠けている。現在の保護者である祖父に、連れられて行った先の医者が言うに、無理に思い出そうとせず、記憶の欠落は伊月を守ることだと説明された。

「死んでるから覚えてない」

 伊月の一言に、小宮の顔が一瞬にして崩れた。なにも知らないくせに、ずけずけとごめん、と続ける。そんな顔をさせるのは不本意であったが、小宮の顔に陰りが落ちる。

「うちのママさ、俺が産まれたときから、入退院を繰り返してて」

 ぽつりと雫を落とすように話した小宮に伊月は視線を向けるが、小宮の視線は手元に落とされたままだ。

「だから薬学部。努力しないとね」

 資料をひらひらとさせ、小宮は眉を下げて笑った。伊月は、小宮にかける言葉を持ち得ず、目を逸らした。偉いね、すごいね、頑張ってね、幼い頃に伊月が大人から向けられた、無機質な言葉だ。同情は救いではないのを知っているし、小宮の努力を不幸と決めつけたくなかった。

 会話は途切れ、不規則なシャーペンの音が、やけに耳につく。

 父が死んでから、もう八年は経っただろうか。母は今、どこにいるのか知らないが、ごく普通の家庭であった時期も、あったような気がする。

 部屋の隅で自分を見てくる黒い靄のような塊はいつも視界に入っていたが、話しかけられるのも少なかった。母にそれらと会話するのを禁止されてもいたし、なにより話を聞いてくれる両親がいた。

 父の包み込むような大きな手が好きだった。母はよく笑う人だったと思うが、自分を拒絶した声や暴力を振るう手が発作のたびに鮮明に思い出されるので、今は痛みや恐怖の方が濃く染み込んでいる。穏やかな記憶は、自分が勝手に作り出した都合のいい妄想と解釈する方が、腑に落ちてしまうほどだ。記憶と妄想の区別さえ、もう、ついていない気がする。

――強いよね。

 小宮は勘違いをしている。記憶の蓋から漏れだす母の声に囚われている自分が、強いはずがない。小宮が多くを語らないのと同じで、伊月も自分の話を小宮にするつもりはないのだ。


 二日目の午後からは、各班でそれぞれ制作が開始した。今から買い出しに行くらしく、外出届を言われるままに書いて、寮長に渡す。

 駅前には古い商店街が二つあり、地元住民の生活を支えていた。裏門側の道が国道に面していて、そこに平瀬台学園前のバス停がある。バスに乗ると十分ほどで駅前に到着した。

「段ボールは、スーパーでもらえる」

 寮長が、買い出しのメモを手に持ち、軒を連ねる店を見渡す。

「コスメってどこに売ってる?」

「百円ショップにあるぞ」

「流石、末の弟だな」

 菅崎が、姉ちゃんたちが前に買ってた、と続けるので寮長は心強そうだ。二人の後に、伊月も付いて歩く。すごく雰囲気あるね、と年季の入った商店街を小宮は珍しそうに見渡しており、伊月は隣で相槌を打った。

「あれ、都は?」

 菅崎が後ろを振り向いた。

「北口の画材屋さんに行った!」

 小宮がはつらつと答え、自由だなー、と菅崎は陽気に笑う。続けて、お前が都に迷惑かけるからだぞ、とじゃれるように後ろから、寮長を蹴っている。

 数分歩くと大型の百円ショップに着いた。戦力外として、伊月は買い物かごを二つ持たされる。ペンや絵の具、大量のラップ、ガムテープ、カラフルなフリル――なにに使うんだ。買い物かごはたちまち重量を増していき腕が疲れる。

 その上、小宮とは別行動になってしまい、やや体がだるい。作業を分担した方が効率いいと、小宮はスーパーに段ボールをもらいに行く係りを買って出たのだ。

「菅崎、メイクしたことある?」

 躊躇いなく、かごに商品を入れ続けていた二人の手が止まったのは、ピンクや白が基調としてある売り場だった。

「あるわけないだろ」

「肌色のコスメ多すぎね?」

「そういや、ずっと肌色を肌に塗ってたかも……」

 コスメ売り場にしゃがみ込んだ男子高校生が二人、どうして……意味不明すぎる……と、頭を抱えた。伊月は立ったまま後ろから二人を眺めるが、商店街に染みついた古い記憶の念が濃く、既に体の重たさが限界だった。小宮は帰って来ないし、もう、ほっといて帰りたい。探検してくるね、と意気揚々と小宮が去っていったので、三人は快く送り出してしまったのだ。

「まだ?」

「まだ? じゃないのよ」

 伊月を見上げた菅崎は、今にも端からすべて商品をかごに入れそうな勢いだ。

「こっち来て、選ぶの手伝え」

 伊月はため息をつき、重いかごを体の後ろに置いて、菅崎と寮長の間にしゃがんだ。

「伊月の好きな色は?」

「ない」

「じゃあ、ピンク」

 菅崎は、このスティック状のやつはピンクにしたぞー、と伊月を挟んで寮長に伝える。

「綿谷はこれとこれ、どっちが好き?」

 寮長が平たい形状のものを二つ見せた。

「どうちがうんだよ……」

「悩んだときは、最初に右手で取った方にしろ」

 菅崎が言い放つと、ちゃんと考えろよ、と注意して、寮長はじっくり悩みながらコスメをかごに入れていく。

「綿谷ぁー」

「なに、押すな」

 座ったままの寮長が体を突然ぶつけてくる。伊月が菅崎の方によろけると、菅崎も負けじと押し返してくるので、二人の間で伊月はペットボトルの水がちゃぷちゃぷと揺れるようだ。

「文化祭にどうして参加しようと思ったんですかっ」

「なんとなく」

 寮長をあしらう伊月に、小宮のおかげだろ、と菅崎は含み笑いを浮かべる。

「上手に綿谷を巻き込むよなあ」

「寮長も上手だろ、人を巻き込むの」

 寮長は、上品に口元を押え、えー! と野太い声でわざとらしく震える。

「綿谷が俺を……褒めるだなんて初めて……」

「ともあれ嬉しいんだよ、俺たちは」

 菅崎が、な! と続けて、体を寄せてきた。

「残りの二か月半、一緒に思い出作ろう、な!」

「つぶれる」

 二人に挟まれて、伊月は身動きが取れない。与えられる感情が増えるほど、自分には受け取る資格がない気がした。それでも、二人の間で揺れるのは温かくて、嫌ではなかった。

「芋虫……?」

 都が引いたような顔で、くっついてうねうねしている三人を見下ろした。今にも手に持っている段ボールで、潰されそうだ。

「お待たせー! 相浦くんが手伝ってくれた!」

 段ボールを持ってほくほくした様子で、小宮の声も後ろから続く。同時に伊月の体も重力から解放されたようにすっと軽くなった。

「え、お取込み中?」

「不潔だな」

 小宮と都が口々に続けるが、急かすように店内のアナウンスが午後四時を知らせるため、伊月たちは急いで会計に進んだ。寮長がレジでまとめて支払い、後で料金を割ることにする。

 膨らんだ手提げ袋や段ボールを持って、長い商店街をぞろぞろと歩く。

「なんか、お腹すいたね」

 興奮しすぎたのか、小宮はぐったりとした様子で足取りが重たそうだ。伊月が振り向いて声をかける前に、見かねた都が、貸して、と隣でだるそうにする小宮から段ボールを受け取る。

「寄ってくか」

 寮長が、商店街を抜けた先の横断歩道を隔てた場所にあるコンビニを指さすと、小宮はやったー、と目を輝かせた。コンビニに入るなり、元気を取り戻したように店の中をあちこち見て回るので、伊月はやや胸をなでおろす。なんとなく、保健室で見た小宮の目元のクマが気になっていた。

「ピザまんと肉まん、どっちにしよう」

 コンビニのレジ前で、小宮はうなりながら伊月の隣に立つ。

「俺は肉まん」

「じゃあ、ピザまんにする」

「半分、やるよ……」

「俺が思ってることが分かるの?」

 目をまんまるにして聞いてくるが、小宮が肉まんを見ながら決めるからだ。コンビニを出ると、他の三人は先に外で待っていた。それぞれ選んだものを片手に、コンビニの前で少し休憩する。

「俺、コンビニ初めてでさ」

 小宮は全員の視線を集めると、へへ、と照れるように笑った。

「父親が、いいものを食べなさい、いいものを着なさい、付き合う人間は選びなさい、みたいな感じでさ」

「だいぶ、お坊ちゃまってこと?」

「まさかあの大企業の小宮グループじゃないよな?」

 都と菅崎の質問に、小宮は言いよどむので、全員の視線が集まる。

「その小宮だね……」

 伊月を除いた三人が、各々絶叫しながら嘘のように膝から崩れていく。都はイチゴみるくのパックを握ってしまい、噴射する始末だ。

「お前、どうして、こんな辺境の地に来ちゃったの!」

 菅崎が、小宮の肩を掴んで振るので、愉快にぐらぐらと小宮の首が揺れる。

 小宮グループは、情報サービス産業が始まった一九六〇年代から、IT業界のトップを走り続ける日本の大企業で、世界的にもIT技術の進歩に大きく貢献している。数年前に、研究開発の拠点を海外に移した際には、全国ニュースで取り上げられた。平瀬台学園では社員による講話が多く開かれており、伊月でさえ知っている大企業だ。

「人間くさい反応もできるんだな」

 剥きだしで羨ましがる菅崎に対し、純粋な言葉となって、伊月の感情が漏れた。

「俺は天才ではない」

「そりゃそう」

 寮長がテンポよく相槌を打つので、都は手を拭きながら、やや笑う。

「こいつね、小宮んちのマーケティング部を狙ってんの」

「羨ましいぞ……跡継ぎ息子」

「直球に羨ましがられるのは、悪くないね」

 小宮は、ふふ、と口元を緩め、菅崎に肩を掴まれたまま、ピザまんを頬張り食べきった。

「まー、小宮にとっては生まれた家がそうで、たまたま、俺の目指す場所だった。それだけだな。媚は今から売っとくけどな」

 菅崎は、小宮の肩から手を離したかと思えば、騒いでごめんな、と小宮をきつく抱き寄せて、きゃーと笑わせている。黙っててごめんね、と小宮も続けると、てか、伊月の反応が薄いんだよ、と菅崎から思わぬ火の粉が飛ばされた。

「家の話だし、別に……」

 小宮から目を逸らして答える伊月に、菅崎はやれやれといった表情を浮かべるが、伊月にとって小宮の放っている気の方が、今世紀最大の驚きであり、しかも、自分の体質と相性が良いときている。伊月は、口を付けていなかった肉まんを半分に割って小宮に渡した。

「ピザまん全部、食べちゃった……」

「いっぱいお食べ」

 菅崎の声を無視して、小宮は申し訳なさそうだ。動揺していたのだろうか。小宮グループの息子ともなれば、こんな田舎であっても容易に素性を明かさない方が身のためだ。

「あ、バスが行った」

 都が顔を上げた先に、乗る予定だった十六時半のバスが遠ざかっていく。平瀬台学園行のバスは一時間に一本しか走っていない。

「歩いて帰るか」

 菅崎は先頭を切ってすたすたと歩き始め、行くぞー、と寮長も続いた。

「疲れているお坊ちゃまがここに……」

 小宮がわざとらしくコンビニの前で座り込み、伊月の方へ腕を伸ばす。引っ張り上げると、思いのほか小宮が軽く持ち上がってしまい、お互いによろけた。小宮はふざけたように笑って、そのまま歩き出す。

「周知のように、菅崎はアメリカの大学を受けるんだけどさ」

 全員で固まって帰路についていると、寮長が、知ってたか? と小宮に話しかけた。菅崎の第一志望の研究室に在籍する教授が、小宮グループマーケティング部のプロジェクトマネージャーであることを歩きながら説明した。そんなことを言ってたな、と伊月もぼんやりと思い出す。

「羨ましいぞ」

 菅崎は後ろを振り向いて、親指を立てた。

「後ろを振り向いて話しかけてくるの、菅崎って多いよね」

 都が不意に言うので、小宮が噴き出した。伊月と小宮が、俺の後ろの席だからだ、と反論するが、都から指摘されているので立つ瀬がない。

 たわいない話を咲かせながら、文化祭で使う材料を揺らして歩く。西日が照らし、学園へと戻る道に伸びた彼らの影も、足元でだんだんと色を濃くしていった。

 今日もまた、一日が終わろうとしている。

「羨ましいかあ」

 隣を歩く伊月だけが聞こえる小さな声で、小宮は独り言のように呟いた。性格ゆえに、クラスにも、自分たちにも馴染んでいるが、本当に小宮のことをなにも知らないのだ。知ったところで、遠く感じるのは変わらないのだが。

 伊月だけでなく、全員が小宮を知らない――高校三年生の十一月に転校生――なにか訳があるに決まっている。だから、なにも詮索しない、とS組には暗黙の了解があった。分別のあるクラスでもあり、単純に受験も控える中で余裕がないのだ。長い人生のうちの、たった三か月を共に過ごした転校生の存在など、記憶に残る方が難しいだろう。

「帰り道って、なんか新鮮だったな」

「二十五歩で正門だしな」

 前を歩く寮長と菅崎の会話が耳に飛び込み、伊月は突然、刺されたように冷や汗を浮かべた。もうすぐそこまで、学園の正門が見えている。帰りは裏門に面した国道ではなく、途中から近い中道を歩いていたのだ。

 小宮が隣にいるだけで体が軽いのもあるが、自分が浮かれていたことに気が付く。驟雨のように過去の自分が、腑抜けだ、自業自得だと、罵声を浴びさせる。

 正門を通れない。

 遠くからでも分かる。白い靄となって大きな塊になって見えた。今日も、女だけではない。開放的な正門に、玉が置かれたように気が溜まるのは不自然であったが、伊月にそれを確かめるすべはなかった。

 三年間、通れなかった正門を、都合よく通れる訳がないだろう。今、足を止めなければ、どれほど体に影響が出るか分からない。確実に文化祭の参加は無理だ。

――修学旅行さえ、結局来なかったのに?

 また、自分は菅崎を裏切るのか。踏み出す一歩が重い。なのに、どうしてか、みんなの背中を追ってしまう。今までできなかったことが、突然、都合よくできるわけがないのに。

 四人の後ろ姿が、少しずつ小さくなっていく。頭から離れない叫び声も、悲しみも、すがるような顔も、全部嫌だ。もう、見たくない。聞きたくない。怖い。

「綿谷くんどうかした?」

 小宮の声に、伊月は体をこわばらせ、足を止めた。

 自分は小宮を利用したくて近づいた。体質がばれたら、二度とこの関係には戻れないと恐れたが、そもそも、三か月後に別れは決まっている。小宮たちと過ごす時間を失うよりも、この環境に腑抜けて元の環境に、独りに、戻れなくなる方が怖いんじゃないか。足元がぐらつき、途端に穴の中へ落ちた気がした。

 自分の居場所は、決して這いあがることのできない、孤独な穴の中だ。

「なんでもない」

 やけに、冷静な声が自分から出る。小宮が、そう? と聞いてくると、目頭が急に熱くなり、伊月は下を向いた。自分が情けない。弱い。風明館の大きな門が左目の端をかすめた。

 あと二十五歩。

 友達と初めて商店街を歩いた。友達と初めて買い食いをした。バスだっていつぶりに乗っただろう。

 あと二十歩。

 朝食も今朝、初めて食べたんだった。自分がいるだけで、嬉しいと言ってくれる友達がいる。与えられる感情が、どれも温かくて戸惑った。どう受け止めていいか、分からないだなんて、贅沢な悩みだったと胸が締めつけられる。

「綿谷くん?」

 伊月はうつむいたまま、なにも答えない。未だに寂しいといった感情が、自分の中にあるのかと思うと、ひどく惨めだった。体質を隠したい衝動と、ここで全てを終わりにしたい衝動がせめぎ合うも、体と心がばらばらになったように、正門へ進む足は止まらない。

 あと十歩。

――キモチワルイ。

 伊月は体を強張らせた。怖い。でも、単純な自暴自棄ではなく、これが今の自分にとって正しい選択のはずだ。

「寒いね」

 肩の上に横たわる重みを感じ、伊月は思わず顔を上げた。小宮の腕が自分の肩に回されていて、触れた個所から体がほぐれるように熱が巡る。小宮は吐き出した白い息を追って、上を見上げると、なにかに気づいたように声を漏らした。

「綿谷くん、彩雲が出てるよ」

 太陽が沈みかけた十一月の高い空に、カラフルな雲が一つ浮かんでいる。

「みんな、空見てよー!」

 小宮が上げた声に、前を歩く三人も足を止めて空を見上げた。

「すごいな」

「これはだいぶ縁起いいぞ」

「初めて見たかも」

 気づけば伊月も、正門を通っていた。小宮と彩雲を目で追っている間に、先に前を歩いていた三人に追いついていたのだ。

 正面から見た平瀬台学園は厳かで、堂々とした風格がある。玄関の整備された植え込みには、創立百年と彫られた立派な記念碑と、赤く燃えるような紅葉が彩っていた。

 左奥にはあの時計塔があって、同時に目に入ったのが戦没学生の追悼碑だ。風明館からは正門の壁で死角になった。

 道からは白い靄になるほど、気が溜まって見えたのに、まるで幻覚のように澄み渡っている。そこには変わらず、自分にだけ感じるモノたちが居るには居るのだろうが、なにも見えず、なにも聞こえない。伊月の体にも異変は起きなかった。

「すごいね」

 肩に腕をまわしたまま、小宮は伊月を見て笑い、そのまま先へ促すように進んだ。爪を立てた手のひらがほどけて、体の力が抜けた。正門を通る、たったそれだけのことが、自分一人ではできなくて、小宮が肩を組んだ、それだけのことで、いとも簡単に叶えられてしまった。

 今までどれほど願っても変わらなかった、もはや、祈りに近い望みを叶える相手が、伊月の手の届く範囲にいる。それはあまりにも幸運で、ほとんど狂気じみた奇跡だ。

 後戻りができる選択肢なんて、初めから存在しなかったかのように、伊月は入ってきた正門を振り返れないまま、昇降口へ向かった。


「じゃ、青春しろよ」

 HRを手短に終わらせ、迚野は嵐のように去った。文化祭準備三日目は中日のため、朝から丸一日、文化祭準備をする許可が出た。というのは、分かりやすい大義名分で、迚野がなにやら忙しいらしい。

「トッティー目の下にクマできてない?」

 小宮が小首をかしげると、目ざとい女子高校生みたいだな、と菅崎は笑って、繋げた机の上に、買ってきた材料を広げていく。トッティーってなに、と言った、伊月の質問にも、迚野ティーチャーだろ、一年の頃からそう呼ばれてる、と菅崎は、眉毛を上げて答えた。S組の担任は三年間、変わらず迚野であるが、伊月の高校生活は卒業間近にしてその程度なのだ。

「絵の具で事足りたかもな……」

 寮長は、段ボールの次に場所を取っている華奢なプラスチックの数々に視線を落とす。まあまあ、逆もしかりな、とコスメを半狂乱でかごに入れていた菅崎が、おためごかしを披露しながら、段ボールを寮長にも渡した。

 風明館の朽ちている階段に井戸を作って置くこと、その後に、お化けの仮装を考えることなど、さまざま決めながら帰っていたので、二人は迷いなく大きさを測っては段ボールに線を引いていく。伊月も付き合わされ、段ボールに付いた余分なガムテープを黙々と剥がした。

「相浦くん、顔貸して」

 小宮が、慣用句ではなく物理で、とコスメを持って微笑むと、えー、と言いながら、都は悩んだような顔をする。

「絵の勉強にもなるんじゃない?」

「ラメとかちょっと気になるけど……」

 菅崎は、手を動かしながら、いつものように都を口車に乗せた。

「キラキラにしちゃおう」

 嬉しそうに小宮も答え、そのまま都を椅子に座らせると、少しだけお時間いただきますね、と全員に向かって投げかけた。楽しんでくれたらなんでもいいんだよ、と寮長がにかっと笑って答える。作業の人手が減るのは明白ではあるが、小宮と都は正に楽しそうだ。

「残りの段ボール、切ってな」

 菅崎は、伊月にハサミを差し出し、英文がびっしりと書かれたプリントを広げた。そのまま、灰色の絵具をハケにつけ、裁断済の段ボールの上で動かし始める。

「こっわ、お前、勉強しながら色塗りすんの?」

「凡人は時間の使い方が、重要なんだよ」

 菅崎の意識はプリントに吸い込まれていくが、左手は器用に色を広げ続けた。

――俺は天才ではない。

 菅崎の言う通り、睡眠を必要としなかったり、一瞬で何百文字をも暗記したりするのが天才なら、菅崎は凡人なのかもしれない。菅崎の目指す場所は、常に日本のトップを走り続けていて、世界をまたにかけた天才たちが蠢く場所だ。

「諦めるって、一番怖くないか?」

「お、どうした」

 寮長は、唐突に響いた菅崎の声に手を止めた。

「諦めたものに一生、囚われるのは、生きながらの死だって話」

 菅崎の声に耳を傾けながら、伊月も飽きたようにハサミを置いて、椅子に座った。

「伊月もさ、俺と同じで諦めは悪いだろ」

「そんなことはない」

「悪いって」

「しつこいな」

「悪いんだよ」

 菅崎の声に感情が混じり、伊月は思わず菅崎を見た。泣いているのかと思ったのだ。

「菅崎の努力は、漠然とした不安の裏返しって話かね」

 寮長がなだめるような声で、二人の言い合いに割って入った。

「菅崎の弱音は、分かりづらいぞ」

「悪かったな」

「お前らって、静かに喧嘩するんだな」

 寮長は、するならなんでも派手にだろ、とふざけるように、二人を交互に指さした。

「俺たち、喧嘩してんの?」

 伊月が思わず確かめる。菅崎からこんな風に、感情を押しつけられたことは、今まで一度もなかった。

「今日は俺と伊月の、二回目の喧嘩記念日」

「一回目、覚えてないけど」

 菅崎は、プリントを見たまま喋らなくなった。すごい速さで読んでいるのが、目の動きで分かる。左手も器用に動いており、機械のようだ。下に敷かれた新聞紙は全く汚れていない。大半の人間は、そんな器用にできないだろうが、菅崎はさも当然のような顔をしている。

「なに、笑ってんの」

 不服そうに菅崎がぼやく。笑ってはいけないと思うほど、伊月の口元が緩んだ。

「菅崎は天才だと思う」

「俺も思う。本当、天才だぞ?」

 菅崎は、否定も肯定もせず、ふん、と鼻を鳴らすと、ハケを置いて、別のプリントを解き始めた。

 単に当たられた訳ではないと、伊月は分かっている。修学旅行の約束を破ったときでさえ、菅崎は理由を問いただすこともせず、いらないだろ? と笑いながら、渋くて小さい木彫りの熊を渡してきた。

 特別、居心地がいいと言えるほど、お互いのことを知っているわけではない。同室だったのもあり、中等部、高等部と、孤立している伊月のお目付け役が菅崎で、なにかと教員たちにセットにされていた。

――伊月もさ、俺と同じで諦めは悪いだろ。

 こんなこと、言うやつじゃなかった。菅崎と腐れ縁なのは、伊月が引いた線を超えず、その線を否定せず、会話にしろ、行動にしろ、伊月に変化を求めてこなかったからだ。

「なに?」

「なんでもない」

「伊月が、黙って見てくるときは、なにかあるときだ」

「がんばれ、菅崎」

「――え?」

「え、まって都」

 菅崎の裏返った声をかき消すように、寮長の戦慄した声が響いた。間髪をいれずに、菅崎がぎゃーははは、と汚く笑うので、伊月はぎょっとしたが、視界にとんでもないものが入り絶句した。

「小宮、正気か?」

 寮長がすべての筋肉で笑いを抑えたような、真剣な声で聞く。小宮は無念といった様子で頷いた。ある意味、正解だろ。お化け役が、かわいくなって、どうすんのよ、と菅崎はお腹を抱え、息も途切れ途切れだ。

「誰か鏡貸して」

「――ふ」

 直視したらだめだ、笑いが漏れてしまう。伊月の耐えた顔を見て、とうとう寮長が噴き出した。どう真面目に取り組んだらこうなるんだ。

 男子高校生が手鏡だなんて持っているわけがなく、都はまだ、自分の顔を確認できていない。不満気味の様子から、ある程度は、自分が置かれた状況を把握しているようだ。

 教卓の前に固まって騒いでいる伊月たちに、周りの班も目を向けた。不機嫌そうに立った都を中心に、練習したかのように綺麗な波を描いて、クラスメイトたちが大笑いしながら倒れていく。

「うるさーい!」

 階段を挟んで同じ階にある、二年S組の担任が走ってきて、教室のドアを開けた。

「小宮、ちょっと来て!」

 都は小宮を拉致して、舌打ちしながら教室を出ていく。早く帰って来いよー! と、寮長の朗らかな声が二人を見送ると、クラスで笑い声がまた大きくなった。二年の担任が二回目の雷を落として、ドアを閉める。

「やばいな小宮。もう、最高だろ」

菅崎は笑いが止まらず、お腹が痛いと続けると、寮長が息を整えながら、もう笑ってやるな、と菅崎を否めた。

「なあ中本、聞いて。さっき、伊月が俺に『がんばれ』って言ってくれた」

「妄想」

「俺も聞こえてた」

 寮長は二人を見て、柔らかい顔をするが、嘘だろ、と菅崎は、都の惨状を思い出したかのようにまた笑う。

「がんばれな、菅崎」

「がんばるのは、中本も一緒だろ」

「アメリカって、日本から何時間で行けるっけ」

 寮長がぽつりとこぼした。

「約十一時間ぐらい?」

「遠いようで近いか」

「おう」

 突然、寮長が肩を震わせた。

「寮長!」

「中本!」

 伊月と菅崎は同時に声を大きくする。

「三年間、お前らを見てたのは俺なんだよ……」

 寮長の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。

「二人が喧嘩してんの、初めて見てなんか嬉しかった。都と小宮もめちゃくちゃだし。本当、感情が忙しすぎて、感極まった。受験頑張れそうって思ったら、寂しさも込み上げてきた。情緒不安定かもしれない」

 すらすらと話す寮長に、伊月は隣の班が置いていた、ティッシュの箱を渡す。

「寮長もがんばれ」

「がんばろうぜ」

「今日の綿谷は特別かわいいな」

「俺はよ」

「あー、寂しいなー。寂しいって気持ちも、あったけー」

 菅崎を無視して、寮長が目を潤ませたまま伊月にハグを求めるので、流れに任せた。伊月の身長でも、すっぽりと腕の中に収まる。泣いてもらえるようなことを、なにもできたとは思えないが、点呼に間に合うように起きろ、朝食を食べろ、としつこくて、菅崎が止めに入ったことさえあるほど、伊月を気にかけていたのは、間違いなく寮長だ。

 壁を作って拒絶して、孤立した気になっていたが、独りではなかったのだと、気づかされる。伊月が見ようとしていなかっただけで、手はいつも差し伸べられていたのだ。

「ありがと」

 寮長は照れたように、伊月の背中を軽く叩いてそっと離れた。やるかー、と言って再びハケを握る。

 伊月はなんとなく作業を再開する気になれず、椅子に座り教室を見渡した。午前の陽が差し込み、床に長い影を落としている――あと、二か月半だ。永遠と思えた学園生活だったが、本当に終わりが来るのだ、この時間には限りがあるのだ、と反芻する。

 見上げ慣れたに空は、今日も秋晴れが広がっていた。教室で窓の外を眺めながら、授業を受けることがもうないように、一つ一つ終っていくのだ。

「寝ていてもいいぞ」

 寮長は、伊月が置いたハサミを握って、昼には起こしてやるからな、と胸を張った。伊月は頷き、目を閉じると、交わされる冗談、笑い声、お祭り前の浮足立った空気感に包まれる。思いきり手足を伸ばして力を抜くと、体がふわりと緩んだ。

 今朝もなんとなく、朝ごはんを食べに食堂へ下りた。約束こそしていないが、自然と全員が同じテーブルに集まって、食べ終えて、そのまま一緒に正門から登校した。

 起き抜けに、自室の窓から正門を覗いてみたが、昨日からやはりなにも見えない。突然クラスにやって来た転校生によって、霊感は鎮まり、慢性的になっていた倦怠感や疲労もほとんどない。仲間と一緒に過ごす、なんでもない日常が続いている。

 夢なら一生、覚めてくれるな、と伊月は身勝手に願った。

 

 肩が揺らされ、伊月は目を覚ました。

「今日は購買にするけどいいか?」

 菅崎が、おーい、起きろー、と続け、伊月は黙って頷く。教室が眩しくて、目を細めた。

「都たちも行くぞー」

 寝起きのだるさを抱えつつ、伊月もみんなの後を付いて歩く。廊下とスリッパが、パタパタと不規則な音を響かせた。購買でどのパンが食べたいか選べず、眺めていると、寮長がやきそばパンを勧めてきたので、同じのを買った。

 教室に戻るとき、第一校舎の廊下から正門の時計塔が見える。今までとは違い、今朝、自室から確認したときと同じように、なにも感じないままではあるが、確かめるように視線を向けてしまう。

 この普通はいつまで持つのだろう。小宮の体の一部は未だ手に入っていないし、文化祭準備という、小宮に近づくお膳立てされた状況はあと二日で終わる。先の自分の身を案じれば、のんきに居眠りをしている場合ではなかったな、と止めどない焦燥感に駆られる。保健室のときのように、小宮の体の一部を盗める機会は何度もあったのに、今はいいか、と先延ばしにしていた。自分を慕ってくる小宮を裏切るようで、躊躇ってしまったのだ。

「小宮は?」

 教室でパンを片手に、昼休みも制作を続ける中、伊月は班のメンバーが不自然に静かなことに気づいた。小宮が居ないし、都は肩を震わせて、どうやら笑っている。

「どうして、無視するの?」

 小宮の声がして横に振り向くと、隣に女が座っていた。固まった伊月を見て満足そうに、僕ってメイクのセンスまであったのかな? と、都は嬉しそうにする。

「伊月、寝ぼけてるか?」

 菅崎が、パンをかじりながら言った。小宮はずっと伊月の横に居たし、購買まで一緒に行ったぞ、と続け、僕をクラスの笑い者とした罰だ、と都は誇らしく腕を組んだ。

「寮長が生徒会で使ったセーラー服まで出してきたんだよ」

 女は、小宮の声を出した。

「綿谷くん、大丈夫?」

 この学園にいる女は、生きていない。

 そう、刷り込んでいたのだ。男子校である平瀬台学園には、女性の教師さえ居ない。女の気配を感じた場合は、声に引き寄せられないよう、伊月は決まって無視した。加えて正門の件から、学校全体の気にも体が重くならないほど調子がいいため、伊月は、女装した小宮を視界から無意識に外し、隣に居るのにも、全く気づいてさえいなかったのだ。

「誰……」

 聞かずにはいれなかった。小宮とは分かっている、でも、小宮に見えない。血の気が引き、冷や汗が滲む。伊月は容赦なく、嫌悪感を露骨に浮かべ、小宮から視線を逸らした。

「綿谷くん、俺のことよく見てくるくせに!」

 唐突に爆発したのは伊月ではなく、罰とはいえ、寮長も加担して本格的に女装させられ、その上に購買まで歩かされた、小宮の方だった。

「好きなのは顔だけだったのかよ! 顔だけで判断してたのかよ! 顔しか見てなかったのかよ!」

 あまりの剣幕に、伊月も顔を上げる。小宮は立ち上がり、被っていた黒髪ロングのウィッグを床に投げ捨て、自分の前髪をかき上げた。

「顔がいい自覚はあんのな」

「良質な顔面キャンバスすぎた」

 菅崎と都は、暴走した小宮に驚きもせず、痴話げんかを見ている、といった雰囲気で見守る。

「ずっと無視してさ! 俺が居ないみたいに!」

 小宮の怒りが収まらない。伊月は委縮して下へ視線をおろすと、スカートを履いた小宮の脚が見えた。ひらひらした服、化粧品の匂い、床に落ちた長い髪、どれも体が拒絶する。背筋を逆撫でされたような不快感と、小宮の迫力に、喉が縮み込んで声が出ない。

 母親を彷彿させる女性というカテゴリも、呼び水となり、過去に引きずり込まれるのだ。

「ごめんなさい」

 気づけば謝っていた。めまいがして、視界がゆがむ。

「もしかして、お前、女が苦手?」

 ガタンッと椅子が後ろに倒れた。ずっと黙って様子をうかがっていた寮長の一言に、伊月は勢いに任せて立ち上がっていた。女性をこんな風に恐怖する自分は、おかしいのだろう。俺がみんなに隠していることはもっと――。

「綿谷くん」

 声の方へ顔を向けると、目があった。

「俺だよ」

 小宮だ。なにをそんなに怯える必要があったのかと思うほど、今は小宮にしか見えない。伊月は椅子を立て、座り直す。まだ体は震えていたが、確認するようにもう一度、小宮を見た。教室は静まり返っている。

――ちゃんと、いやなことはおしえてね。

 どうして今、思い出すんだ。

――おしえてね、約束。

 本音をこぼしたところで、なにが変わる。小宮は、俺に自分で言ったことを、覚えているだろうか。考えるよりも先に、伊月は、バッと勢いに任せ、寮長に向き直る。

「――じゃないと……」

 歯の隙間から、息が漏れるような声しか出せなかった。

「田舎の男子校で、しかも寮生なんか、してない……」

 握り締めた手で、体が震えるのを抑え込む。女が苦手、男なのに。女が怖い、小さな子どもが幽霊を怖がるように――俺は、普通じゃない。

「いや、ごめん。言葉が足りなかった」

 寮長が申し訳なさそうに続ける。

「実は俺も、女の人が苦手なんだよなーって話だった」

 伊月はぱくぱくと口を動かしながら、すらすらと話す寮長の話を聞く。

「俺の家って昔から、母親と別居してるから、ほとんど父子家庭で、弟二人に俺だろ。遠くから眺めるのはいいんだけどさ」

「もう俺、二度と綿谷くんの前で女装しない!」

 小宮は、寮長の身の上話を遮り、そのまま教室でセーラー服を脱ごうとした。傍観しているだけのクラスメイトも焦ったように、落ち着けと止めに入る。

「約束二つ目」

 小宮は乱れたセーラー服を直さないまま、恥ずかしげもなく、伊月に小指を差し出した。教室の視線を集める中、伊月は下を向いて自分の指を絡める。小宮は満足そうに、教えてくれてありがとう、と笑った。

「まぁ、綿谷は顔でも洗ってきなよ」

 都はポケットから、ヒョウ柄の手鏡を出して、伊月の顔を映す。

「おい」

 伊月は、自分の顔を確認すると同時に、自分を囲んでいる仲間たちを見渡した。空気は一変して、彼らは自分の反応をうずうずして待っている。いたずらが成功した喜びを、四人は隠せていない。

 菅崎が静かにしていたのは、笑いを堪えていたからだと、今なら分かる。

「――JK小宮の犬役」

 自分の顔に横断して書かれた文字を、手鏡越しに読んだ。

「大丈夫! リキッドアイライナーで書いたから! お湯で簡単にオフできるから!」

「小宮は、女子高校生語を話してる?」

 全員がじわじわと、伊月と距離を取る。秋の変わりやすい天気のように、感情がうねった。どいつもこいも、俺が引いた線を簡単に飛び越えてくる。どうやったって、自分じゃなにも、変えられなかったのに。ばかみたいだ。

 毎日、新しいことで疲れる。知らない感情ばかりだ。

 こんなの、初めてだ。

「ああー!」

「うっわ、伊月が壊れた」

 菅崎が驚いたように声を上げ、様子をうかがってくる。顔に落書きだなんて、初等部のときでさえ経験していない。寝ていいって、言ったくせに、と伊月が小さくぼやくと、寮長がごめんな! と声を張った。

 伊月は井戸を塗っていたハケを握り、筆あらいバケツの中に絵具を絞り出した。

「綿谷くん、それ、どうするの……」

 セーラー服を着ている小宮を三人が盾にして、教室の隅に固まり、今にも爆発しそうな伊月を見ている。どくん、どくんと、心臓の音が聞こえた。なんだろう。ムカつく。グルになって、いい加減にしろ。風船がパンッと弾けたような気がした。

 伊月はバケツに浸したハケを握りなおし、思い切り引き抜いて四人に向け、大きく振りかぶった。かの有名な画家である、ジャクソン・ポロックも顔負けだ。

 目の前の世界が、カラフルに染まっていく。色の少なかった自分の世界が、小さな点によってたくさんの色を得るように。

「おいー! 変人班なにしてんだよ! 誰か止めろって!」

 叫んだ村上の声も虚しく、伊月の大躍進は止まらない。お化け屋敷に向けて、禍々しい作品の数々が生み出される間を、笑いと悲鳴が駆け抜け、教室に満ちていく。

「ぎゃー! 綿谷、落ち着けそれは犯則!」

「君も絵具、散ってるんだからね!」

「うるさい!」

 走りながら振り向いてくる、寮長と都に言い返す。息を切らしながら、極彩色に染まっていく教室の中を走り回った。きれい。たのしい。世界が自分の力で、自分の意思で、染まっていくのが新鮮だった。

 絵具に塗れた四人が、教室を走って出ていく。持っていたバケツやハケを投げ捨てて、伊月も走って全力で追いかけた。

 気持ちが昂っているのが分かる。俺は女が苦手だ。でも、それを変だと否定する理由はもういらない。人に言えないことがたくさんある。別に言いふらしたい訳ではない。でも、今なら叫びだしてしまいそうだ!

「こらー! 廊下は走るなー!」

 職員室のドアから、迚野が覗いて叫んでいる。

「は? 待て、お前ら! 虹色の魚になるんじゃなーい!」

 伊月は不意に迚野の声で走る足を緩め、息を整えながら職員室前を通り過ぎる。思考が勝手に点と点を繋ぎ、脳裏によぎった音を反芻した。

 あのときも、椅子が倒れた。

 そうだ、小宮と俺が、部屋を明け渡すのが嫌で――女の気だ。それも、顔まではっきり見えるほど強く濃かったのに、不自然に消えた――。

 伊月は渡り廊下にしゃがみ込んだ。心臓が小さく震えるように鼓動を打ち、違和感が一つの答えに行き着く。

 小宮の女装が怖かったのは、見たことがあったからだ。あの日、小宮から感じた女とあまりにも似ている――まるで、あれは母親じゃないか。

 伊月は地面に拳を振り下ろし、短く声を漏らした。これだけそばにいて、なんで今まで気が付かなかった。ちがう。自分にとって都合のいい選択をして、見て見ぬふりをしたからだ。小宮だけは、ちがうと思いたかったからだ。

 衝動的な自傷行為を抑え込み、冷静に状況を把握しようと考えを巡らす。自分の直感が間違っていなければ、小宮の母親は既に亡くなっているだろう。小宮の話しぶりからすると、小宮本人には知らされていない。親子関係が悪かったようにも思えない。だったら不自然すぎないか。

 それに、あのときの一回限り、一瞬だったとはいえ、念が強く濃い気だったように思う。小宮の浄化体質と相殺しているのか。霧散するように消えた――違う。小宮にだけ向けられている、だとしたら――呪い、か。

 伊月は力なく座り込んだ。誰か特定の者に向けられた念は、呪いと表現する方がもはや正しい。不慮の事故、突然死、年間何万人もの行方不明者。すべてが目に見えない力のせいとは言わないが、呪いは霊障となって顕現しやすい。ましてや、親子の縁ともなると、伊月に入り込む隙など、無いに等しいのだ。

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