72.生贄を捧げる湖(4)
どうっと下から突き上げられるように舟が揺れた。少し離れた湖面が盛り上がり巨大な蛇のような半身が姿を現す。
月がその身を照らした。
現れたのは長い蛇のような体を持つドラゴンだった。
長い胴体はうっすら青みを帯びた白い鱗で覆われており、それが月明かりにキラキラと輝いている。
水色の鬣が広がり、頭部には二本の細い角。
目は爬虫類特有の瞳孔が細長いもので、それはフジノとサーシャを捉えて笑っているように見えた。
「サーシャさん、ブルードラゴンです」
「そのようですね」
構えるフジノ達にブルードラゴンは軽い殺気のようなものを放ってきた。
攻撃してくる、とフジノは思った。
殺す、というより遊ぶつもりのようではあるが、こちらが死んでも構わないのだろう。
ドオンッ、ドオンッ
ブルードラゴンの周囲に複数の水柱が上がり、それらがぐるぐると渦巻きながらこちらに向かってくる。
あれが当たったら乗っている舟は木っ端微塵だ。水中に落ちてドラゴンと闘うのは避けたい。
(僕の竜巻をぶつけたら相殺できるか?)
迫ってくる水柱を見ながらフジノは瞬時に考える。
(いや、全部は無理だな)
何よりこのままでは圧倒的に不利だ。
足場の不安定な舟の上で、眠ったままの少女までいる。
今向かって来る水柱を砕いたところで、すぐまた新しいのが来るだろう。
応戦するのは舟を陸に付けてからだ。
フジノは衝撃を覚悟で攻撃を凌ぎ、陸に戻ることだけ考えようと決めた。
「サーシャさん、船にシールドを張りま」
そう言って魔法を練り出した時だった。
ドオオオッッ
轟音がして舟の前方に水の壁がせり上がった。ブルードラゴンの水柱はそれに阻まれる。
「っ……!」
水の壁にも驚いたが、フジノは背後に現れた異質な気配に息を呑んだ。
ブルードラゴンとは別の人ではないものの気配がしたのだ。
(嘘だろう、まさかの新手か?)
「サーシャさんっ」
慌ててサーシャの方を振り向いてフジノは目を見開いた。
「サーシャさん?」
サーシャの様子が変わっていたのだ。
その右手が異形に変化していた。元の五倍くらいの大きさになった右手は白く光る鱗に覆われ、尖った爪が延びている。
髪色の疑似魔法は解かれて水色の髪が輝き、眼鏡も無くなっている。青灰色の瞳の瞳孔はブルードラゴンと同じように細長い。
「え?」
(これは、何だ?)
フジノはサーシャの右手を凝視した。それはもはや人間の手ではない。その右手を覆う白い鱗はつい先ほど見たドラゴンの鱗と同じように月明かりを受けて輝いている。
「すみません、こうなるなら事前に説明しておくべきでした。フジノ、アレに攻撃できますか? 私の水魔法では相殺はできてもダメージは与えられないんです」
呆然とするフジノにサーシャが言った。声も口調も紛れもなくサーシャのものだ。
「…………」
フジノは固まった。頭に体が追い付いていかない感じがする。
「フジノ、攻撃、出来ますか?」
サーシャが強い口調で再度聞いてきた。
「出来ます」
フジノは静かに答えると、炎の魔法に集中した。
サーシャの異形については後だ。今はこっちだ、自分達と遊ぶ気満々のブルードラゴンだ。
フジノはすぐに右手の上に頭の大きさくらいの炎の塊を出現させた。それを青色からオレンジ色へと変えてゆく。
前にアレクセイが見せてくれた指先の花火と同じものだ。まだあそこまで凝縮する事は出来ない。今のフジノにはこの大きさが精一杯だ。
「いいですね、短期間でずいぶん成長しています。本当に可愛くないですが」
「ありがとうございます」
どこまでもサーシャらしい物言いに少しほっとしながらフジノは言った。
「では、壁を解きますのでよろしくお願いします」
サーシャがそう言って水の壁が崩れる。
フジノとサーシャと楽しむつもりのブルードラゴンはもちろんそこに嬉々として立っていた。
フジノが炎の魔法を解き放つ。
それは真っ直ぐにブルードラゴンへと向かった。
「ほう、魔法の腕をあげたのだな」
ドラゴンの声が響く。
ブルードラゴンは全身を湖から出すと、とぐろを巻いて炎の塊を抱え込んだ。
ドオンッ
炸裂音が響いて、光と熱が炸裂する。フジノは舟をシールドで覆った。
舟が大きく揺れて、熱い風が吹き抜けた。細かな水しぶきが降り注ぐ。
「なかなかの威力だ。以前のお前はただ炎の壁を作るだけだったはずだがな」
満足そうなドラゴンの声が響いた。
フジノは次の魔法を準備する。
「サーシャさん、水を操って舟を岸に戻せますか? このままでは不利です」
「その必要はないぞ」
「え?」
光と熱が収まると、湖面からブルードラゴンの姿は消えていた。
「ふむ」
視界が開けるとフジノ達の舟のへさきに一人の美しい男が立っていた。
男は舟の先端に立っているのに舟は全く傾いておらず、その体重は舟にかかっていないようだ。
長い水色の髪の毛が足元まである長身の男で、異国風のゆったりした服をまとっている。
露わな胸元は透き通るように白く滑らかで、全身から匂い立つような色気を放っていた。
青灰色の目を細めてフジノとサーシャを見つめる様ですら色っぽい。
ブルードラゴンの人型の姿だとフジノは理解した。人語を操るレベルの高位の魔物や魔獣の中には人間の姿を取ることが出来る者も多い。
ドラゴンから殺気は消えていた。
顔には不敵な薄い笑みが浮かんでいて、こちらに興味津々の様子だ。
「何だよ」
「何ですか?」
フジノとサーシャのドラゴンへの声が被る。
「それはこちらの台詞だろう? 何をしている? すごい組み合わせではないか。憎い男と身内とはな」
ドラゴンは呆れた様子で返してきた。
フジノはここでドラゴンが古代語ではなく帝国語を話しているのに気付いた。
いつの間に帝国語を習得したのだろう、と不思議に思うが今はそこに突っ込む時ではない。
「こっちは生贄の儀式の阻止だよ」
フジノはつっけんどんに答える。
「ふふ、人の恋路を邪魔するなど相変わらず野暮だな。俺は未だにお前にエルフの花嫁を横取りされたのを根に持っているぞ。あの娘とはよろしくやっているか?」
「はあ? する訳ないだろ!?」
エルフの花嫁とはラグノアのことだと分かった。
ルドルフの時に生贄にされそうになったラグノアをめぐって、このドラゴンとやり合ったことがあるのだ。
「何故だ? ああ、お前は人間だしな、寿命が釣り合わないな。そういえば姿も以前と違うか……だがあのエルフの娘はまだ生きているだろう。あの時はほんの小娘だったが、今頃は私に相応しい成熟した女になっただろうな、本当に惜しい事をした。もう会ったか?」
「会わないよ、きっと森へ帰っている」
「どうだろうなあ、あれはかなりの跳ねっ返りだったぞ、森には居れんだろう。もし会えれば私はいつでも歓迎すると伝えてくれ。さて」
ドラゴンはサーシャへと視線を移した。
「イレーナは息災か?」
「亡くなりました」
「……そうか、惜しい事だ。愛い娘であった。おまけに私の子を宿すとは類い稀な素質の持ち主でもあったはずなのだ、なあ、息子よ」
“息子よ”の言葉にフジノは驚かなかった。
それしかないよなあ、とサーシャを見る。
目の前のブルードラゴンとサーシャは明らかに似ていた。サーシャからは匂い立つような色気はないけれど、それでも似てはいる。
サーシャの右手と眼はもう元に戻っていたが、先ほどの異形の手にはドラゴンと同じ鱗が光っていたし、瞳も同じだった。
そしてあの水の壁、ドラゴンの住処の湖の水をあんな風に自在に操れるのは同族だけだろう。
(ドラゴンとの混血か……初めてお目にかかるな)
息子と言われたサーシャは冷たく一言だけ返した。
「私の親は母一人だけです」
「ふっ、それもいいだろう。私はお前と会えて良い夜だった。そろそろ失礼するがいいか?」
ブルードラゴンは楽しげに笑い、人型の輪郭がじんわりぼやけ出す。フジノは慌てて止めた。
「ちょっと待て! あんた正直、そこら辺の女の子なんか要らないんだろ? あいつらにそれ言ってから帰ってよ」
言いながら湖のへりで腰を抜かしている村長達を指差す。
ドラゴンの輪郭が再びはっきりしてきた。
「儀式は奴らが勝手にやっていることだぞ。それに稀に当たりが来るのだ、イレーナのように」
「当たりって、あんたなあ」
「きちんともてなしたぞ?」
「……もしかして帝国語を話せるようになってるのは女の子としゃべるためなのか?」
「もちろんだ、最近は例え賢い女であっても古代語を解さないからな、百年ほど前に習得した」
ドラゴンが得意気に胸を張る。
「プライドないのかよ、ドラゴンが帝国語なんて」
フジノは呆れた。
「プライドでは女と話せないからな。帝国語のお陰でイレーナとも話せた。あの時はこの儀式も悪くないと思った」
「あのなあ、生贄に頼んなよ。ドラゴンだろ! 最高位の魔獣だろ! 女くらい自分で見繕えよ」
「じゃあ、エルフの娘に待っていると伝言してくれ」
「伝えても来る訳がない」
「伝える事が重要だろう? ではエルフの娘への伝言を頼むぞ」
「あっ、ちょっと、おい、そもそも森に帰ってるから会えないっ……人の話聞いてないな」
ブルードラゴンは明らかに嬉しそうにいそいそと人型から巨大な蛇に戻ると、滑るように湖のへりへと向かった。
集まった村人達の悲鳴が聞こえてきて、彼らが地面にひれ伏しているのが見える。ブルードラゴンはちゃんと生贄は不要だと伝えているようでひれ伏した村人達は、がくがくと頷いていた。
フジノ達の乗っている舟が岸へと動き出す。
フジノがサーシャを見るとサーシャは首を振った。
「私ではありません、アレが運んでくれているようです」
サーシャがブルードラゴンを指差して答える。
岸に着くと、村長のヤシモは既に泡を吹いて気を失っていた。
「小僧、約束は守れよ」
ブルードラゴンはそれだけ言うと姿を消した。




