71.生贄を捧げる湖(3)
その夜、フジノはサーシャと共にそっと宿を抜け出した。
雲のない満月の夜で、辺りは明るいとすら感じる。
湖までの道を少し回り道で進み、昼間の儀式の場所より少しずれた湖畔へと向かう。そこには小さな舟が準備されていた。
「今回の儀式を通報してくれた人々が用意してくれたものです」
「信用していいんですか?」
「通報してきた時点で信用していいと思いますよ。何も言わずにそっと行うのが一番利にかなっています」
「それもそうか」
「あ、始まりましたね」
祭壇の方へ目を向けると昼間と同じようにかがり火が焚かれていた。
「こちらが本物のドラゴンへの儀式ですね」
サーシャがぽつりと言った。
昼間も聞いた気味の悪い唄が歌われだす。夜に聞くと余計に気持ち悪い。しかも昼間より気合いが入っている。
(ほんと、昔も今も気持ち悪い村だな)
フジノはげんなりした。
かがり火に照らされている人影が昼間の三分の一ほどしかいないのが救いではある。
「昼間よりは人が少ないですね」
「そうですね。閉鎖的な村ですし、付き合いで仕方なくの方もいると思いますよ」
「だといいですね」
気持ち悪い合唱の中、今回の生贄だと思われる少女が抱きかかえられて連れて来られた。
少女の体はだらりとしていて意識はないようだ。
「サーシャさん、行きますか?」
少女の様子にフジノは体を硬くした。
「まだです」
「でもあの子……」
「薬で眠らされているだけのはずです。彼女が舟に乗せられて湖に送りだされてから湖面で保護します。こんな夜中に意識のない少女を湖に放置したらさすがに言い訳出来ませんからね」
フジノはじりじりと儀式の様子を見守った。少女が傷付けられるようなら無視して飛び出すつもりだ。
「フジノ、落ち着いてください」
「分かってますよ」
イラつきながら答えるフジノにサーシャはため息を吐いた。
少女が舟に横たえられる。何人かの男達によって舟が力強く湖へと押し出された。
舟は何の抵抗も受けずにすーっと湖面を進む。舟には細い縄が繋がれていてそれを手繰って回収は出来るようだが、こんな夜中に少女が誤って湖に落ちでもすれば助けることは不可能だ。今確認したこの行為だけで既に真っ当な人間の行為ではない。十分だろう。
祈りの唄は最高潮になった。
「行きましょう。彼女を保護します」
サーシャが静かに言う。
「はい」
フジノは低く返事をしてサーシャと共に舟に乗り込むと、湖面の生贄の少女を目指した。
❋❋❋
今夜は満月だ。空気は澄み、雲一つない絶好の儀式の夜。
村長のヤシモはなんの落ち度もない素晴らしい儀式の様子に恍惚としていた。
ブルードラゴンに捧げる少女を乗せた舟が送り出され、舟が湖面を滑る。
(良かった、無事にやり遂げた)
ヤシモは充足感で胸がいっぱいになった。
自分の代で十年に一度の最も大切な伝統ある儀式をやり遂げたのだ。
監視役の騎士達は昼間の儀式を見て満足したようだった。今頃宿でぐっすりだろう。
何の憂いもない。
ヤシモが祈り唄の最後の部分を穏やかな気持ちで口ずさんだ時だった。
月を映し出す美しい湖面を横から進む影が目に入る。
それは舟だった。
月明かりの下、その舟に今ここに絶対に居てはいけないはずの者達が乗っているのが見えた。
「そんな! 何故だ、ひどい」
二人の騎士の姿を認めてヤシモはわなわなと震えた。
ヤシモは祈りの唄を止めて声の限りに叫んだ。
❋❋❋
「騎士さまあっ、騎士さまーっ、駄目です、なりませんっ、その娘はもうドラゴン様のものですっ!」
湖畔で村長のヤシモが絶叫しているのをフジノは聞いた。
昼間の穏やかな様子からは想像できない取り乱しようだ。
「騎士さまあっ! 聞こえてますかっ、駄目です、せっかくの儀式があっ、十年に一度の特別な儀式があっ」
叫びながらヤシモは髪を振り乱して祭壇に駆け寄ると、そこにあった儀式用の短剣を投げてきた。
だが、素人の鍛えてもいないおじさんが投げた短剣である。それはフジノ達の元まで届くはずもなく、ぼちゃんと夜の湖に吸い込まれていく。
フジノはそれを冷めた目で見つめた。
ヤシモの指示で少女の舟に繋がる縄が手繰られるが、フジノは風魔法の鎌鼬でその縄を切った。
水面がさざめく中、フジノとサーシャは生贄の少女が眠る舟に自分達の舟を付けた。少女の舟よりはこちらの舟の方が大きい。フジノはすぐにそっと少女をこちらの舟へと移した。
温かな体にほっとする。
サーシャが少女の様子を確認した。
「問題ないですね。薬で眠っているだけのようです。さて、今あちらの岸まで戻るのは危険ですかねえ」
フジノはサーシャの示した方向を見た。
村長のヤシモが相変わらず「騎士さま!」とか「お止めください!」と叫んでいる。
「すぐに少女を元に戻してくださいっ、ドラゴン様の逆鱗に触れますぞ!」
ヤシモは短剣の後は、燭台を投げ、椅子を投げ、果物を投げてきた。そして今、果物を積んでいた篭を投げようとしてシャーマンに取り押さえられている。
周りの村人達はおろおろしていた。
「あそこに戻れば、村人全員で向かってきたりしますかね。この子を守りながら手加減するのは難しいかもしれないです」
相手は普段は平和な村で日々の生活を送っているだけの人達なのだ。殺すわけにはいかない。
「そうですねー、こちら側だとはっきりしてるのはシャーマンの彼だけなんですよね」
「えっ、あっ、そうなんですね」
フジノは驚いて声をあげた。
シャーマンの男は真っ当な人物だったらしい。フジノは彼を主謀者と疑ってしまったことを申し訳なく思った。
「そうなんですよ、目つきは悪いけど誠実な人ですよ。他にも協力者はいると聞いているので全員が攻撃はしてこないと思いますが、このまま戻れば混乱しそうですし反対側の畔に降りた方がいいですね。明日の朝には近隣の第十四団の小隊が到着する予定なので、そこに合流しましょう」
「分かりました。じゃあ、あっちを目指しますね、うわっ」
フジノが風魔法で舟を押そうとしたその時、舟が大きく上下に揺れた。
湖が中から波打ったのだ。
「!」
フジノは湖の底を見据える。
大きな魔力がせりあがってくるのを感じた。知っている魔力だ。
「サーシャさんっ、おそらくブルードラゴンが来ます」
「そのようです。困りましたね」
サーシャは少女を船底へと隠す。
フジノとサーシャは舟の前方の湖が大きく盛り上がるのを見た。
「これはこれは、もてなすべき客人達のようだな」
低く朗々とした声が湖に響いた。




