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6 あたらしい旅路を紡いで

評価・ブクマなどしてくださった方ありがとうございます…! めちゃくちゃに更新遅くて申し訳ないんですが、満足いく文が書けるまで永遠に書き直しするのでこれからも鈍足更新です(;'∀')

燃える焚火を見つめて、ノクティカはぼんやりとしていた。

頭の中を巡るのはここ一日のできごと。


ちろちろと闇を溶かす炎の舌から目を離し、対面に片膝を突いて座っているハーセルを見る。


彼女についてノクティカが知っているのは、ハーセルという名前だけ。


出会った晩はとにかく暗黒の森から抜け出すために長距離を移動し、吸血鬼の呪いで体が強化されているノクティカがそれでも耐えきれずに音を上げたところで野宿をした。

暗闇ですら迷わずに歩いていたこの人は、いったいどれほどの技能を身に着けているのだろう。

なぜこれほどに強く、そして脆いのだろう。


そのときに名前を聞いて、それ以来、まともな会話はしていない。


道中で襲い来た吸血鬼は全て一太刀のもとに切り捨て、疲れて足のもつれたノクティカのために下生えを切り払って進み、そしてついさっきは凄まじい手際の良さで焚火を起こし、しかし、そうしている間もハーセルの目は虚ろなままだ。


今も、暗い目で地面を見つめて、いつでも立ち上がれるように片膝立ちでいる。

その姿に安らぎや休憩といった言葉はあまりにもそぐわない。


常に警戒し続けているような、……怯え続けているような。


ノクティカの体の芯にはどっしりと疲労が居座っていて、今にも意識はこぼれて消えてしまいそうだったけれど、何か声をかけなければいけない、と。


「あの、ハーセル…さん」


何を言えばいいのかは分からなかった。

どんな言葉を投げても、湖に張った薄氷よりも脆く、崩れていってしまいそうな彼女だ。

それでもノクティカは、どうしようもなく人間じみていた。善人らしさは消せなかった。それが己の心の平和を守るための利己的行動でしかないかもしれないと気付いていてもなお。


「今日は、その、えっと、ありがとうございました。治癒が必要だったらいつでも言ってください……明日もよろしく、おねがい、しま、す……」






力尽きたように眠りに落ちた少女を見つめ、ハーセルは少女の言葉をゆっくりと反芻する。

感謝の言葉、この先の依頼。

もしかすると、己はこの少女の望みを少しでも叶えられたのかもしれない。


失望されていないのかもしれない。


ただその考えは、また失望される未来がありうるという事実をも意味していて、ハーセルの絶望が減ることはなかった。



夜はゆっくりと更けていく。



青く沈む夜は、魔の者たちの時間。

力を増して襲い来る吸血鬼とて、ノクティカの御業によって万全に近い体調であるハーセルにとっては大した敵ではなかった。


いや、敵にすらなり得なかった。


それは誇らしいことではない。年々、呪いのように力を増していく肉体。鍛えれば鍛えるほどに力は追い付いてきて、それを上手く扱うだけの知能は足りないと自覚していて、でも、もういいのだと教えてくれる人はいなかった。




ハーセルは抜き身のまま握っていた宝剣を汚れた布でゆっくりと包む。


華麗な装飾がされている訳でもないのに、洗練された銀光を放つ優美な(つるぎ)

持ち主と認めた者を癒し、癒し、ただひたすらに癒し続ける神秘の道具。

ハーセルにとってこれはただの呪いだった。ハーセルはそれに気づくことすら出来ずにいるけれど。




そろそろ夜が終わる。遠い地平線が淡く白み、新しい一日が始まろうとしていた。

淡い桃色に霞む空は、さながらノクティカの血の色のよう。


鮮烈に差し込んだ朝の日差しに顔をしかめ、ノクティカが目を開ける。不動の体勢のまま警戒を続けていたハーセルに気付き、目を見開きながらも、ノクティカは寝起きの柔らかい声で挨拶をした。


ハーセルはどう答えればいいかも分からず、ただ礼儀作法的に正しいと教えられた通りに硬い声で返す。


そうしてようやく、二人の彷徨いあるくような旅が始まった。








それは旅の始まりから何日経った頃だったか、小さく緩やかな川のほとりでのことだった。


泳ぐ小魚に気が付いたノクティカは、幼い頃に父から掴み取りを教わったことを思い出し、服をまくり上げ、大胆に小川へ足を踏み入れる。


人に慣れない魚はあっという間に散り、思っていたものとは到底違う結果にがっかり顔を隠しきれないノクティカと、濡れた下衣だけが残る。



そのあともノクティカは掴み損ねた魚を忘れられずに、ちらちらとせせらぎに目をやっていた。

魚影を見つけるたびにそわそわと目を動かし、近づこうとしては、一瞬で消える影に肩を落とす。

吸血鬼に怯えることなく眠れる夜が、年相応の無邪気さをノクティカに与えていた。




ハーセルは何を求められているのか分からないままに行動して、また失望されることへの恐怖に囚われていた。それゆえ、何もせず、何も言わずにノクティカの少し後ろを歩き続けた。

ノクティカが周囲の景色に目移りして歩く速度が遅くなるたびに、ノクティカに気付かれぬよう速度を落として、ただ歩き続けた。






その日の食事はそこらで狩った兎を焚火で焼いたもの。

この日に限らず、旅が始まってからずっと同じような食事をしていた。


ノクティカがどうにか手放さずに持っていた鞄に小刀が入っていたから、適当な枝を拾ってそれで削りだし、ハーセルが投げて小動物を仕留める。


血抜きをして皮を剥ぐのはノクティカが担当した。


真っ直ぐではない木の枝でいともたやすく命中させる癖に、ハーセルはそういう丁寧で細かい仕事がどうにも苦手そうだったから。

だから、絶命した兎の後ろ足を掴んだまま立ち尽くしているハーセルに声をかけて、半ば強引に奪い取り、小刀を突き立てたのだ。


なんとなく知識として知っているだけで解体などしたことはなかったから、皮は綺麗に剥がれず、土がところどころに付き、突き破ってしまった腸から内容物がこぼれ、肉の味はお世辞にもいいものではなかった。


解体も何度目かになり、少し上達してはいたけれど。


せめてもの人間性を忘れないために焚火で焼いて、硬く筋張って獣臭い肉をノクティカは必死に頬張る。

どれだけ勧めても、ハーセルが口にしようとしないことはいい加減分かっていた。あれだけ動き、立ち働いていて、それでもハーセルは何も食べようとしない。そして恐らく、寝てすらもいない。


最初の一日、ノクティカは腫れ物に触るような対応をした。


ことあるごとにハーセルの様子を窺い、表情の変化がないか気にかけ続ける。

どういう人なのか、どういう経歴で暗黒の森にたどり着いたのか、何も分からなかったから。

ノクティカにとって、ハーセルの機嫌を損ねないことは生存の絶対条件だったから。


ずっとそうしていて、ふと気付いたのだ。

ハーセルもまた、ノクティカの様子を静かに窺い続けている。

決してノクティカに気付かれぬように、ノクティカの気を煩わせぬように。


その様子は影の中にひっそりと佇む護衛のよう。

だって、ハーセルの様子を見ようとしても、ハーセルは常にノクティカの視界にいないのだ。

触れてはならない貴重で高貴なものを守るように、常に斜め後ろに立っている。足音もさせず、身動きを最低限にして、ただひたすらに気配を殺そうとしている。



その一日を経て、ノクティカは開き直った。

結局のところノクティカの本質というものは楽観的なもので、ハーセルの気持ちがどこにあるのかと探り続けるのは性に合わなかった。



朝、目覚めれば数歩離れた位置には眠る前と同じ体勢のハーセルがいる。


いつかノクティカが消えてしまうんじゃないかとでも思っているのか、微動だにせずにノクティカを見守り続けているのだ。もちろん、視線には気付かれないように。

ノクティカだって鈍くない、お互いにお互いを見ていると気付いていながら、気付かない振りをしているだけだ。


だからノクティカは、いっそ空虚なくらい朗らかにおはようの挨拶をして。


ちょっとお腹が空いたなぁ、なんて我儘なお嬢様みたいに言ってみて。


ハーセルが狩ってきた獲物の解体に奮闘して。


昼は周りの景色に目を奪われながら歩いて。


一人で食べるにはちょっと多いなぁ、なんてやけに大きな独り言を言いながら朝の残りを食べて。


寒いから近くで寝るね、なんて一方的に言い放ってハーセルにぎりぎり触れないくらいのところで丸くなって眠って。



いつかハーセルの我慢の限界が来てくれるのか、それとも自分を押し殺したままほろほろと崩れていってしまうのか、さっぱり分からなかった。



それでもノクティカの前に広がる景色は広い。


どこまでも続く、風に揺れる草原。

小さく歌いながら流れていく小川。


一人では見られなかったものをこうして生きて見ていられる。

素肌をかすめていく風を感じるたびに、どうにかなるような気がしたのだ。

それはきっと、ノクティカの得難い長所だった。






けれど限界はいずれ訪れる。


吸血鬼は血以外のものを摂取すると体調を崩し、下手すると死に至るが、ノクティカは人間の食事を摂ることができる。


栄養の供給という点では有用で、それでも吸血鬼の本能は飢えたまま。


呪いを中和するには、生気ある人間の血でなければならないのだから。

あらかじめ採取しておいた血であってもある程度は飢えを癒せるが、時間が経てば経つほどに効力は弱まっていく。


だからこそ、皮膚を食い破って直接飲む血液は美味なのだ。

首筋から飲む吸血鬼が多いのは、細く今にも折れそうな首に牙を突き立てることで、より、獲物の生命を感じることができるから。心臓の近くから飲むことを好む吸血鬼もいると聞く。


これまでのノクティカは、父が密かに集めてくる血液を匙ですくって飲んでいた。

父は医者であると身分を偽って、研究のために必要なのだと言いふらし、それなりの金銭と引き換えに少量ずつ血を買っていたのだ。

実際に人体の構造に多少詳しかった父は、正規の手段で学んではいなかったけれど、貧しい者のための簡単な病院を開いていたから。



だからこそ鮮烈な記憶。


初めて肌に牙を突き立てて飲んだあの魅惑の味は、ノクティカの脳裏にずっとこびりついていた。

のんきな笑顔で表情のないハーセルに話しかけ続けながら、その実、ノクティカはハーセルの首筋から視線を外すのに精一杯だったのだ。


ノクティカが付けた傷痕はいつの間にやら綺麗に消えていて、少し破けた襟から覗く白い首筋はノクティカを誘っている。

獣脂の明かりに呼び寄せられて焼け死ぬ蛾のように、ノクティカの視線は吸い寄せられる。



浅ましい、おぞましい。

心の中で吐き捨てる。


だからノクティカはどうしたって化け物で、半端者で、理解者など絶対に現れない。

心の中で必死の自戒を続けていた。




そうやって耐え続けて、始まりから何日が経っただろうか。一週間はきっと経っていない。


先にどうしようもなくなったのはノクティカの方だった。



ある日の明け方、もう駄目なのだとノクティカは気付いてしまった。



吸血鬼は夜行性だから、その時間に眠ることで吸血鬼としての本能を黙らせ、どうにかこうにか耐えてきた。


けれどもう駄目だった。人間らしくいられる時間が終わってしまった。


吸血鬼の体では流れないはずの涙がこぼれるような気がした。



それはまだ一つ目の街にも辿り着かぬまま、草原を進んでいた頃だった。





ハーセルにはどうにも分からなかった。


これまで主として仰いできた人々は、ハーセルへの命令を口にした。ただひたすらに望みを叶えることだけを考えていればよかった。


それでもその望みを叶えきれなかったからこそハーセルはここにいるのだけれど、妙に能天気に振る舞って見せる少女は、これまでの誰とも違って、何も命令をしてくれない。


分からなくて、ただ不安で、どうせ待ち構えているはずの絶望を思えば足が竦む。


恐怖に囚われて、視界は暗い。


どうして自分が今も生きているのか分からない。

これまでどうやって息をしてきたのかすら、気を抜けば分からなくなりそうだった。


乾いている地面はぬかるんだように足に絡みつき、ハーセルが何をするにも妨げる。

こうして座っている間にも、じわじわと泥の中に沈んでいくように錯覚する。



ふと、少女と目が合った。


明け方の光に照らされて劇的な光と影に彩られている少女の表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。


少女は自分の腕を掴んで抱え込んでいて、慣れない小刀を扱って荒れている指は痩せた肌に食い込んでいる。




どうすればいいのか教えてくれる主人はもういない。

誰も自分の存在を望んでいないから生きていてはいけないのに、誰も死ぬように命令してくれないから死ぬことができない。



なぜか、自分のことを親友と呼んでくれた青年のことを思い出した。


彼は自分のことを好敵手と言っていた。

顔を合わせるたびに、すぐに追い付いてやるんだから待っていろ、と肩をいからせて叫んでいた。


スラム街でその日の食事代にありつくため走り回っていたあの頃は幸せだったのに、どうして自分はこんなところまで来てしまったのだろう。


どうしてここにいるのだろう。


あの毎日には変化も成長もなかった。それでも周りには好き勝手言い合える奴らがたくさんいて、ハーセルのひび割れた心が思い描く幸せというのはまさしくその景色なのだ。




そういえば、あの街では、泣いている幼子をよく見た。

捨てられた子供、何日も食事にありついていない子供、放り出されて泣いている子供。


ハーセルもそうだった。

ハーセルの両親はいつだって苛立っていて、何かというとハーセルを殴りつけた。


それでも無駄に体が頑丈だったから生き延びてしまって、気が付けば、気味悪がった両親はハーセルを置き去りにして消えた。ハーセルは両親の望みを叶えられなかった。望まれるような子供にはなれなかった。


そうして孤児を拾い集めていたおかしな男、腹の突き出た酔っ払いだったあの男に拾われて、彼に会ったのだ。


彼は幼い顔をしかめて、傷だらけじゃねぇか、と吐き捨てるように言った。これだから大人ってやつは大っ嫌いなんだ、と言って。



そうだ、それから彼は唐突にハーセルを抱きしめたのだ。


お前を殴るやつはここにはいないんだ、いたとしても俺が守ってやるから。そんなことを言っていた。




大人になったハーセルの腕ならばすぐに届くところに、少女はいる。


薄桃の目を血走らせ、口からは蒼白な牙が覗き、化け物の姿で、泣き出しそうな顔で、ハーセルを見ている。



ハーセルは手を伸ばした。


少女は目を見開いて、瞳を揺らしている。



スラム街にいた子供たちは殴られることが日常になってしまっていて、顔の近くで手を動かすだけでびくりと体を震わせる。大人の手が伸ばされるというだけで怖いのだ。



敵ではないこと、傷付けるつもりはないことを伝えるためにゆっくりと手を伸ばし、少しだけ、少女の髪を撫でる。

過酷な旅の中で荒れて汚れていても、少女の髪は子供らしく、細く柔かった。


それからゆっくりと細い肩に手を回し、抱き寄せた。


痩せた体はハーセルの腕の中で跳ねるように震える。最初はきっと唐突な触れ合いへの驚き。そしてやがて震えは別の意味に変わる。



ハーセルは知らず知らずのうちに小さく笑っていて、体から力を抜いて、空を眺める。


地平線の方は柔らかな桃色に染まり始めているけれど、天頂はまだ深く蒼く、銀色の星が煌めいている。


首筋に感じた小さな痛みは、言葉にならない少女の泣き声のようだった。

少女はハーセルにのしかかり、吸血鬼の膂力でハーセルを地面に縫い留めながら、しゃくり上げるように喉を鳴らす。


ハーセルは薄く目を開けて紺青の空を眺めながら、少女の白髪を撫で続けた。






ノクティカのものよりずっと大きな大人の手がゆっくりと優しく、頭を撫でている。


まだ父が生きていたとき、今となっては遠い昔に感じられるあの頃にはこうやって父がノクティカに触れてくれた。


父が死んで、ただ逃げ続けるだけの日々が始まってからは吸血鬼であるノクティカに触れる人なんていなかった。

懐かしく、そして全く異なる、感じたことのない触れ合い。


吸血鬼の体は人間とは違うから、こんなに暖かくはなかった。

父はもっと髪をかきわけるように撫でていて、こんな風に不器用な頭を包み込むような撫で方ではなかった。


もう父はいないのだということをやっと本当の意味で理解して、ノクティカはこぼれない涙をこらえ、小さいけれど鋭い牙を温かな肌にうずめる。



あんなにも力強く剣を振るっていたのに、今、この人はくたりと力を抜いてノクティカにされるがまま。

ノクティカの空腹が収まり、理性と羞恥が勢いよく戻ってくるまで、ハーセルは何の抵抗もせずにノクティカの頭を撫で続けていた。


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