2 あなたはノクティカ
光が晴れると、そこには空虚な瞳があった。
さきほどまで赤く黒く汚れていた鎧は、今は夕暮れの鈍い光を反射している。
絡まりほつれて何色かさえ定かではなかった長髪は、銀色の筋となって肩の上を流れ落ちている。
欠けていた腕は綺麗に元通り、その部分の武装は戻らないから、露出した肌が変に白く見えた。
どうやら女性だったらしいこととか、その顔つきが怜悧とでも言うべき美貌だったこととか、そういった驚きは、そのあまりにも空虚な瞳を見た衝撃を上回らなかった。
暗いほらあなを覗いているような、されこうべの眼窩のような、伝説にある死の湖の深みはこんな風なのか。
生きる気力など欠片も感じさせない、意志の失せた瞳の色だった。
人と見つめあっているとは思えないほどで、おそらくは絶望に満ちていた。
「…あ、の、…吸血鬼に、追われてまして。体調とか大丈夫でしたら少しでも逃げた方が…。たぶん、…たぶんあなたの方まで追いかけないと思うので、距離を稼げれば彼らに殺されないで済む可能性が…」
しどろもどろになりながら、ノクティカはどうにか言葉を紡ぐ。
この人に吸血されていたときの記憶があるのかどうかは分からないまま。
がらんどうの瞳はそのままに、氷のような風貌のその人が薄い唇を開いた。
「…死んだ方がいいですか」
理解が追い付かずにノクティカは慌てる。
発言の意味があまりにも分からない。
「…え? その、い、生きてほしいから逃げてほしいな、と…。わたしが全力で逃げれば、ちょっとくらいは両方生き残れる可能性がなきにしもあらず…?」
可能性など欠片も無い。
自分が囮になろうなどとは思っていないが、二人とも死ぬ運命と、この人が生き残る運命ならば、まだ後者の方がいいとノクティカは考えたから。
こんなにも死にたくないのに、とノクティカは心の中で自嘲する。
さっきまではこの人を見殺しにして自分だけ生き残ろうとしていたのに、いまさら善人ぶろうなんて虫のいい話だな、と。
だから。
「生きたいのですか」
あいかわらず抑揚の無い声でそう言われた瞬間に、ノクティカは反射的に頷いたのだ。
「生きたいに、決まってるよ! わたしが気持ち悪いから、なんていう理由で殺されてたまるもんかって、思ってる!!」
ノクティカの心にあるそれは、憤りだった。
なぜ自分だけ、自分たちだけがこんなに虐げられなければならないのか。
父は高潔な人だった。
人を獲物としてしか見ない残虐な吸血鬼たちとは比べるべくもない。
母のことをノクティカは直接知らないが、吸血鬼狩りに追い詰められて神殿に逃げ込んだ父をおのれの信念にのっとって助けたのだという話を何度も聞いている。
信仰に目をくもらせることなく、神に寄り添いながらも己の正義を貫ける人だったのだ。
ならば、なぜ。
神がいるというのなら、なぜ。
それとも、吸血鬼である自分は、半端者の自分は、救いの対象にならないのか。
暗い思い出がいくつも脳裏に去来し、ノクティカは怒りと憤りに震える。
その刹那のことだった。
銀閃がきらめき、暗闇を切り裂いた。
数瞬遅れて、闇の気配が膨れ上がり、ノクティカは背筋を凍らせて一切身動きも取れずに立ち尽くす。
まだぎりぎり夜ではないのに。
痺れを切らした吸血鬼たちが襲ってきたのだとノクティカは理解する。背を向けたままただ殺されるのではあまりにも無念だ。
最後に残った虚勢を必死に貼り付けて振り返ったノクティカが見たのは、奇妙な光景だった。
銀色の人影がノクティカの前に立っている。まるで、ノクティカを守るかのように。
さっきまでノクティカの前、木の根元に寄りかかるようにして座っていたはずなのに、いつの間にそこまで移動したのか。
そして、腕を抑えて後ずさる吸血鬼が、地に這いつくばっていた。
状況を理解できずに硬直するノクティカを置いて、事態は急転する。
手負いの獣のような咆哮を上げて襲い来る吸血鬼に対して、その人はだらりと下げていた剣を気負いなく振り、一閃のうちに切り捨てた。
あの恐ろしい吸血鬼が、苦痛にうめき声を上げている。
だが、その吸血鬼はあくまで眷属だ。それを従えている高位の吸血鬼が存在する。
それに気が付いたノクティカは慌てて、前にいるその人に警告しようと息を吸い込む。
だがノクティカが声を発するよりも早く、その人が動いた。
気が付けばノクティカは力強い腕に抱き寄せられていて、すぐ鼻の先に、あの魅惑の肌がある。思わず喉がこくりと鳴って、そんな自分があまりにもいたたまれなくて、ノクティカは目をつぶった。
ノクティカが腕の中で必死に衝動を抑えていることなど気にも留めずに、ハーセルは素早く周りを見回した。
吸血鬼が三体。
その内一体はそこそこの高位存在、二体は眷属。
思考は恐怖と絶望に汚染されていても、鍛錬を重ねた体は実直に動く。
手元にあるのは吸血鬼にとっての天敵である聖なる気配を帯びた剣であり、護衛対象がいるとしても、三体の吸血鬼を相手にするのはそう難しいことではなかった。
眷属を二体再起不能にされ、一体を失い、自身も大きく傷付いた時点で、高位吸血鬼はすみやかに撤退した。
この吸血鬼の少女は襲ってきた吸血鬼たちの殲滅を望んでいる訳ではないようなので、それは見逃す。
闇の気配が完全に遠のいてから、ハーセルは少女を放した。
疲労に呑まれた頭で思うことはただ、果たしてこの少女の望みを叶えられたのだろうかという恐怖だけ。
恐怖することにすら疲れ果て、ハーセルはただただ消えたかった。
叶うことならば、今この場で自我を消滅させたいとだけ願っていた。
名も知らない少女は、あたりを見回し唖然としている。
年端もいかない少女がなぜ暗黒の森の深部になどいるのか、吸血鬼でありながら吸血鬼に追われていたのはなぜか。
そんなことはハーセルにとってはどうでもよく、少女の表情からするとどうやらまた失敗してしまったらしいと、ただそれだけを思う。
既に壊れ切っていた心を絶望が侵略して、ハーセルは指を自分の喉元に伸ばした。
この剣は傷を癒してしまうから、これで死ぬことはできない。
ならば。
爪を突き立て、頸動脈まで潜り込ませれば死ねるだろうか。
あそこにある蔦を取ってきて、あの枝にかけて首を吊れば死ねるだろうか。
自分の手首をちぎり取って呑み込めば、息が詰まって死ねるだろうか。血が止まらずに死ねるだろうか。
どこでもいいから足首や手首をちぎれば死ねるだろうか。
足元の土をひたすらに呑み込めば、魔素に侵されて、もしくは息が詰まって、死ねるだろうか。
そうだ、死ねる。
死ぬこと自体は、そう難しくないのだ。
ハーセルは多くの命を奪ってきたから、どうすれば効率的に殺せるかはよく分かっている。
化け物と恐れられる自分のことだって、きっと簡単に殺すことができる。
ただただ難しいのは、人々の望みに反せずに死ぬこと。
愛しているのにどうして、と詰られたって、何を求められていたのか分からない。
お前さえいなければと怒号を上げる人がいるのに、あなた様がいてくれて本当によかったと泣く人がいるから、もう何も分からない。
高潔な騎士様だと崇められたと思えば、汚して穢し地に堕としてやると迫ってくるから、自分にどう在ってほしいのかが分からない。
熱っぽく顔を寄せて囁かれた言葉、吐き捨てるように投げつけられた言葉、目を怒らせて怒鳴られた言葉、いくつもの言葉が、願いが、ハーセルを縛り付ける鎖と化す。
「お前のことを誇りに思う」
「愛してる」
「一目惚れですの」
「本当に助かった」
「愛してる」
「恋に落ちたのよ」
「それなのに、どうして」
「あなたの心の中にわたくしはいないのですね」
「愛してる」
「なぜ」
「この世の誰よりも愛している」
「お前だけが」
「あなただけを見ているからわたしだけを見つめて」
「だから俺ばかりがこうして」
「どうして愛してくれないの」
「あなたしかいないの」
「わたしのことが、好きなのですよね?」
「他を見ないで。私だけを見て」
「この世の誰よりも愛している」
「許さない。絶対に許さない、あなただけは許さない」
「あなたのことを日夜考えている。夢のあわいに、朝の風に、昼の眩しさに、夕の暗がりに、夜の月光に、あなたの足音に、あなたのその全て、全て、全てに心を狂わせ、あなたを思う涙に褥を濡らし、愛憎に胸は張り裂けて血の涙に溺れているのに」
「だって、そうでなきゃ」
「お前は罪を感じないのか、こうしてお前が生きているだけで俺のような人間が苦しみ、お前を憎み、恐れているのに」
「死ね、化け物が」
「愛している」
「わたくしはこんなにもあなたを愛しているのに」
「愛して」
「……え、え、っと、ありがとう、ございますっ?」
ノクティカは呆然としていた。
あれほど強大で、追い付かれたら即座に殺されてしまうと怯えていたあの吸血鬼たちが、この銀髪の女性が剣を数振りしただけで弱者へとなり下がったのだから。
父親以外の人から守られたという経験が初めてで、これが現実とも思えなかったから。
そして、それだけの暴力を行使したこの人は、ことが終わればすぐにノクティカから離れ、虚ろな瞳のまま、死体のように立っていたから。
抱き寄せられていたときに感じたこの人の持つ強大な力に対して、罅の入った硝子のような瞳は、あまりにも弱々しかったから。
ノクティカの中に浮かび上がった疑問は一つ。
何が、誰が、この人の心をこうまで壊したのだろう、と。
けれど、何はともあれお礼を言うべきだと思い、ノクティカは詰まりながらも感謝を言葉にした。
生気の失せた表情のまま、女性がぎくしゃくと、小さく頷いたのを見て、ノクティカは少しだけほっとする。
どうして助けてくれたのかなどさっぱり分からないが、とりあえず感謝を受け入れてくれたらしいな、と考えたから。
そうしてノクティカは、頭の中で素早く計算をした。
この人は自分が吸血鬼だと知っているのか?
さきほどの吸血鬼が増援を呼んでくる可能性は?
暗黒の森で夜を越すことができるのか?
このさき少しでも長く、自分らしく生きるには?
ノクティカはまだ幼く、父親を失った悲嘆に暮れる少女でしかなかったけれど、過酷な日々は、生に貪欲で大胆な性格へとノクティカを育てていた。
だから、ノクティカは交渉をするために口を開く。
「あの、さきほどは助けてくれて、本当にありがとうございました」
小さくお辞儀をして、ノクティカはどう発言するべきかせわしなく考えを巡らす。
「わたし、実は、…半分だけ吸血鬼なんです。だからたまに血を飲まなくちゃいけないんですけど、吸血鬼としての力はよわよわで、普通の人間よりちょっとだけ腕力が強いくらいでしかなくって。見た目通りで、まだ十三歳なんです。ずっと街中で人間として暮らしてたので、戦い方とかさっぱり分からないですし、半端者だからって殺そうとしてくるあの吸血鬼たちに対しては逃げるしかできなくって」
一気に言い切って、ノクティカは女性の顔を窺う。
そもそも表情が欠落しているので、女性の感情はさっぱり読めなかった。
半分だけ吸血鬼というのは嘘だ。
吸血鬼というのは呪いであって、種族ではないのだから。
出産の際に命が危うくなった母を救うため、父は母を吸血鬼にしようとした。
母は聖なる巫女であり、父は下位の吸血鬼。
相性が悪かったのかどうか、母は吸血鬼と人間の間をさまよう異形となり果て、そのまま儚くなった。
ノクティカは母の胎内で吸血鬼の呪いを受け、そのまま生まれたのだから、紛れようもなく吸血鬼だ。
日差しには強く、神の聖なる御業までも使うことができて、定期的に血を吸わねば気が狂い、吸血鬼の格としては下位も下位。
どうにも矛盾した半端者。
それがノクティカという少女だ。
だがそんな事情を話している暇など無いし、神殿の巫女と吸血鬼の純愛など信じてもらえるはずもない。
「それで、…それでですね。さっきは無理やりに血を吸ってしまってすみませんでした。本当にすみません。で、ですが、わたしは、セルドオーレ女神の巫女なので、その、癒しの御業が使えるんです。さっき見てもらった通り、かなり高位の御業も行えるので、もしよろしければ、その、一緒に行動させて、もらえませんか…?」
弱みをさらけ出して同情を出来る限り引き、少しは役に立つことを主張する。
あの超高位の御業も、本来のノクティカには使えないのだが、それには触れないでおく。
この女性が持っている剣からはなんだか尋常ではない聖なる気配がしているから、この人自身、聖騎士のような役職に付いているのかもしれない。
だから、あれだけの神気が発せられたのだろう。
つまり、この人に対してならば先程のような御業だってまた使える、はずだ。
ノクティカの中の計算高い部分が、この作戦を立てた。
ノクティカは善人でありたいけれど、それよりも生きていたかったから。
泥をすすってでも生き抜きたかった。ただ、ノクティカとして生きたかった。
この人は、絶望しかけたノクティカの前に垂らされた一本の救いの糸なのだ。
「…どこまで、ですか」
何も分からなかった。
ハーセルは、分かろうとしたくなかった。
おのれが察そうとしたところで、ただ失望されるだけだから。
ただ唯々諾々と、言葉にされた望みを叶えるためだけに全てを捧げて、用済みになった暁には死ねと命令してもらいたかった。そうしたら喜んで死んだから。
この少女はきっと護衛任務を望んでいるのだろう。
それだけは理解しても、どこまで、どうやって、誰から、そんな詳細は全て言葉にしてもらえなければ、ハーセルには理解できない。
ただ、この少女に付いていけば、幸せな死を与えてもられるような気がした。
「あ、暗黒の森をひとまず抜けたくて、……そ、それで、できたらアムディシアン魔境を目指したいなって、思ってたんですが…」
この世には光の神々と闇の神々がいて、どの陣営にも属さない中立的な神々を巻き込んで、盛大な勢力争いをしている。
そんな端的にまとめてしまえば敬虔な信徒は怒るだろうが、つまりそういうことだとノクティカは理解していた。
アムディシアン魔境は闇の神々の恩恵を受けた種族が住まう領域。
淫魔や夢魔、水魔などの様々な悪魔、妖の類に、吸血鬼といった、混沌を泳ぐものたちの住処だ。
この暗黒の森はセレリス聖境の中にあり、川を二つ渡って街を五つ越えれば、アムディシアン魔境との境界に着く。
十三歳の少女が歩いて向かうような距離ではないし、旅路は険しい。
でも、もう人間として生きていられないなら、魔境を目指すほかない。
新しく就いた王が魔境を統一して、様々な種族が生きていけるように改革しているという噂を聞いたから、きっと、…きっと、そこまで辿り着ければノクティカにも未来があるはずだから。
ノクティカはせめて、目的が欲しかった。
いくら必死で頑張ってもその全てが泡となって消えていくなんて、もう耐えられない。
たとえ実際に報われなかったとしてもいいから。
ただ、自分がこれからほんの僅かでも希望を持って歩けるように。
ノクティカが見上げた先でハーセルは小さく首を縦に振った。
だから、ノクティカは一歩踏み出して、ハーセルの手を掴んだのだ。
そうして、まだお互いの名すら知らない二人はぎくしゃくと握手をした。