1 わたしのハーセル
自分の性癖に刺さる百合を書きたい。それしか考えてないです、ご承知ください。自給自足なんだァァァ!
太い根が絡み合う苔むした地面。
見上げても木々に隠されて見えない空。
垂れ下がっている蔦は不気味な色合いで、肉々しい気配を漂わせている。
ときおり、茂みの中を横切る何かの物音が響き、空気は湿って澱み、風も吹かない。
ここは暗黒の森の中、人の住むべき場所ではない。
誤って踏み込んでしまったのならすぐさま森を抜けるべき。ましてや、最深部に向かっていくなど正気の沙汰ではない。
そんなことは先刻承知の上で、ノクティカは必死に森の中を走っていた。
小刻みに休憩を挟んではいるものの、もう朝からずっと動き続けているのだから限界は近い。
いや、とうに限界を超えているのかもしれない。
いま動きを止めれば、追い付かれてしまう。
その恐怖だけが、ノクティカの体を動かしていた。
じっとりと湿っているはずの大気も、とうに息の切れたノクティカの喉を焼くだけ。暗鬱に襲い掛かってくるような木々の枝は、ノクティカの恐怖を際限なく掻きたてる。
ぱさつく白い髪の毛が、べったりとノクティカの額に張り付いている。
滴る汗はノクティカの薄桃色の瞳に突き刺さってくるようだ。塩気のある汗は目に沁みる。
視界を横切る特徴的な枝ぶりの大木。
あの木に見覚えは無いか。
一度、通り過ぎたような……。
走り続けて熱くなった頭ではよく考えられず、まともに食事を取らず酷使した体は悲鳴を上げている。
暗黒の森は人を惑わす。立ちこめる霧が五感を狂わせ、跋扈する魔物が旅人を襲う。白く暗い霧は目を覆い、鼻を鈍らせ、口から体内へと入り込んでくる。
暗黒の森に入ってはならない。
一度入ってしまえば……戻ってこられたとして、元の姿ではいられない。
そんな話を寝物語に何度も聞いた。
ノクティカが父親と育ったあの街は暗黒の森に近いという訳ではなかったけれど。
暗黒の森からお化けがやってくるから悪いことをしてはいけないよ、なんて。親は愛情を込めて子供に語るものだから。
優しい声でノクティカを寝かしつけてくれたあの父親はもういないのだから。
「はっ、はぁ、はぁ、はっ……」
荒い息が頭の内側でわんわんと響いている。
息が熱い。
喉が痛い。
転んだり草にかすったりして小さな切り傷だらけになった手指、足、頬。ぴりぴりと痛み続けていたのは、いまやじんじんと腫れ上がっている。ついさっき派手に転倒して擦りむいた膝からは、血が何筋も垂れていた。
「……めがみ、セル、ドオー、レのみわざに、伏してかんしゃ、を……」
治癒の奇跡を乞おうとしたけれど、口から漏れ出した御言はぷつりと途絶える。
この女神を信仰する人々が、父に、ノクティカに何をしたか。
もう昔のように純粋に女神に祈ることなんてできるはずがない。
気が付けば、ノクティカの足は止まっていた。
頭上には特徴的な枝ぶりを広げる大木。やはりそれには見覚えがあって、ノクティカの心の中に巣くっていた小さな絶望が、一気に花開いた。
「…わかってる、よ」
どれだけ走っても、夜になれば彼らは一瞬の内に距離を詰めてくる。今までノクティカが走っていられたのは、暗黒の森の中で薄暗いとはいえ、太陽が昇っているから。
彼らは姿を変えて闇の中を飛び回る。少女の足でいくら走ったところで、高位存在になれば影を行き来することすらできる彼らにとってはなんてことない。
ノクティカにはもう、逃げのびる道はない。
…でもそんなことではない。
ノクティカの心を絶望に染め上げようとしているのはそんなことではない。
この渇きだ。
喉の乾き、魂の渇き。 ノクティカにノクティカらしくあることを許してくれないこの乾き。
体が死ぬことよりも、息が止まることよりも、ノクティカの心をじわじわと殺していくこの呪いの方が恐ろしい。
「足りな、い………血、が、足りない」
言葉にして吐き出してしまえば、その呪縛にノクティカはいっそう絶望する。
ノクティカの膝から流れ出ている血は、奇妙に透き通った薄桃色。
磨かれた宝玉のような美しささえあるその怪しい色は、到底人の血のものではない。魔の理の下にあるものの、それ。
ノクティカは自分の腕を走る静脈をじっと見つめて、見つめて……気が付けば牙を剥きだして嚙みつこうとしていた。
「……ち、ちがう…っ!」
いかに飢えていたとしても己の血を飲んではいけない。吸血鬼の血には呪いがかかっているのだから、生気溢れる人の血で定期的に薄めなければ中毒を起こして狂ってしまう。自分の血を飲んで呪いをさらに濃くするなどもってのほか。
高い再生能力ゆえに狂っても死ねぬままのたうち回る地獄を味わいたくなければ、断じてしてはならないと、父親に教えられたのだ。
ノクティカの瞳孔は開ききり、指先はかたかたと震えて、本能のままに伸びた爪が自分の腕に深く食い込んでいた。
…少し。
少しだけなら。
舌先を少し湿らすくらいなら。
それでこの乾きが収まるなら、全然問題ないじゃないか。
迫りくる夜の気配の中で、ノクティカはがたがたと震えながらゆっくりと顔を腕に近付けて。
白い牙を剥き出して、腕に深く突き立てるために大きく口を開いて、牙の先端が薄い皮を突き破る快感に身を震わせて、……そこで、もっと濃くまろやかな血の匂いを感じ取った。
ノクティカは顔を上げる。
夢遊病者がさまよいあるくように、ふらふらと足を踏み出した。
白髪を振り乱し、魔の気配に満ちた薄桃色の瞳を見開いて、泥と汗で全身を汚して。
その瞬間のノクティカは完全に魔に堕ちていた。
瞳に理性など無い。
そんなものは渇きが消し去った。
ノクティカは半端者の吸血鬼。
本来なら吸血鬼の血は青みがかっているもので、薄桃色などあり得ない。
日の下を歩ける吸血鬼などいるはずがない。
生者であることを許されない吸血鬼は、汗など流さない、流せない。
だからこそノクティカは半端者。
人も、吸血鬼も、ノクティカを排除しようと襲い来る。
ノクティカにとっての安住の地は父親の腕の中にしかなくて、もうそれは永遠に失われてしまったのだ。
ノクティカの信仰はけがされてしまったから、もう素直に御言を唱えることなどできない。
ノクティカがノクティカであることは、この半端者の血が許さない。
正体が露見してからは、いくつもの街を転々として逃げ続けた。吸血鬼狩りに、純血の吸血鬼、血相を変えた町人たち。
味方などいるはずがない。
昨日までは、まだ子供なのに一人暮らしなんて大変ね、と心配してくれた隣のおばさんは、次の日には綿棒を振り上げ襲ってくる。隣家の子供は金切声を上げて衛兵を呼ぶ。
もうどこの街にも行けなくなってからは、原野を転びながら走り、森へ逃げ込み、とうとう暗黒の森まで追い詰められた。
その間ずっと血を断ち続けていたからこそ、衝動は大きい。
ぜえ、はあ、と荒い息がノクティカの頭の中を侵す。
近づいてくる血の匂い。
濃厚で甘ったるくて、ノクティカの鼻先をくすぐっては揶揄ってくる。
さあ飲んで、腹がはちきれるまで飲み干して、と誘う声がする。
真っ赤な血と泥とでぬかるんだ地面に膝を突き、ノクティカは横たわっているものの顎に指をかけて、力を込めて持ち上げた。
柔い首筋が露わになって、ノクティカを待っている。誘っている。
目は三日月の笑みを描いて、口端が持ち上がって歪な笑みを浮かべて、ノクティカは笑いながら牙を剥きだした。
「…いくらでも、どうぞ」
かぐわしい香りが獲物の肌から立ち上る。
薄い皮の表面を牙でつつけば、ぷつりと切れて赤い赤い血がふわりと零れ出す。
血の玉を舌で舐めて、ノクティカはその味にうっとりと瞳を濡らす。
一度、二度、しつこく丁寧に舐めとってから、少し位置をずらして、まだ傷跡のない新雪の肌の上、ちょうど血管の真上に、思い切り牙を突き立てた。
薄皮の破れる感触、牙が肉の中へと食い込んでいく快感、溢れだす生命の気配。
もう少し。
もっともっと。
まだ足りない。
まだまだ足りない。
ごくごくと喉を鳴らす。
喉を濃厚な味わいがくだっていって、潤していく。
体中に染みわたっていくまろやかな液体がノクティカを乾きから解放して、ノクティカの瞼の裏では赤が明滅する。
薄桃の瞳を潤ませて、ノクティカは獲物の首筋にむしゃぶりついたまま離れない。
こくりともう一口。
豊かな命の味が口中で広がって、ノクティカを酔わせる。
口の端から零れそうになった血を舌で舐めとりながら、ノクティカはまた唇を首筋に寄せて欲望のままに吸い付いては喉を鳴らす。
堪らない味だ、止まりそうにない。
木に背中を預けて座り込んでいた獲物も、いまやぐったりとして動かず頭を垂らしているから、首筋が露わになって吸いやすい。
ノクティカはうっとりとして溜息を吐いた。
口の中で広がる甘やかな血液。
これほどに夢中になれたことなど無い。
「……おいしぃ」
あともうちょっと。
どうせこの獲物だってすぐに死ぬんだから、全部吸ったって何も問題ない。
そう、死ぬんだから…。
そこでノクティカは我に返った。
渇きが薄れたから、やっと。
父は母との約束を守るため、人の命を奪わなかった。
だから父は人に殺された。
そうなると分かりきっていて、父はノクティカだけを逃がして囮になった。
そんな父が、いまのノクティカを見たらどう感じるか…?
失望し、息を吐いて、首を横に振る父の姿が見えた気がした。父が命をかけてまで生き残らせた娘が、吸血鬼の本能に呑まれて人を殺したなんてことがあっていいはずはない。
はっとなって目の前の人を見やれば、ぐったりと血の気を失い死体のようだ。
ノクティカが興奮のままに掴んだから、伸びた爪が腕と肩とに突き刺さっていて痛々しい。
慌てて手を離すと、傷口からはほんの僅かに血が零れた。
なぜ生きているのかというくらいの姿。
そもそも、ノクティカが血を吸う前から既にこの人物は傷付いていた。
片腕は欠けていて、編み上げ靴を履いた足は血と泥に染まっている。足にも腕にも手は出していないから、この負傷はノクティカのせいではない。
濃厚な血の匂いがしたからこそノクティカが気付いたのだから。ノクティカが何もしなくても死んでいたかもしれない。
そして、この人物はきっと騎士や衛兵のような、武力行使することを仕事としているはずだ。
服装からしてそうとしか思えない。
ただの下っ端兵にしてはいい服を来ているから騎士ということにするけれど、この暗黒の森の深部にいるということはきっと仕事などで来ているに違いない。そんな人物を助けたとしてもまたノクティカの追っ手が増えるだけで、下手をすると国家がノクティカを追うかもしれない。
それに、殺しはいけないと言ったって、救う方法はほとんど無いのだから無理なのだ。
ノクティカは癒しの御業を使うことができるけれど、こんな瀕死の重体を救うとしたら、それは相性のいい相手に対して、十分な禊をした上でできること。
血まみれの騎士なんて命をいくつも奪っているに違いないから、女神が微笑みかけるはずはないし、ノクティカ自身も今は穢れてしまっている。
しかも、ここで万一救えたとしても、夜になってしまえば、ノクティカを追う吸血鬼たちがやってくる。そうなれば人間なんてただの餌としか思われないから、ここで救ったところでどうせ死ぬだけ。
ノクティカはとっさに頭の中でいくつもの言い訳を考えて、後ずさった。
幸い、血を飲めたおかげで頭はすっきりとして、体力も回復した。
ここから夜になるまでほんの少し。それまでに自分の気配を隠せるようなところを必死で探して、夜の間は動かずに気配をひそめていればどうにかなるかもしれない。
「…だから、大丈夫。うまくやれば、生き延びられる」
ノクティカは自分を励ます言葉を呟く。
ここで死ぬ訳にはいかないのだ。
母が命と引き換えに産み、父が愛情をかけて育て繋いでくれた自分の命。
こんなところで散らしては、父と母に申し訳ない。
ノクティカは背を向けて歩き出そうとして、ふと、声が聞こえたような気がして立ち止まった。
振り向いて、血に染まったその人を見つめれば、ノクティカの頭の中で何かが引っかかった。
そういえば、襲い掛かる寸前、声を聞いたような気がする。
襲い掛かるなんて野蛮な行為ではなくて、あくまでどうせ死にゆく人の血をもらっただけだから、とノクティカは自分の思考を否定するが、言い訳に過ぎないことなどノクティカ自身、分かりきっている。
まだ完全に渇きが収まった訳ではない。
目の前で地に伏している人の血を吸い切れば、きっと渇きは収まる。
追いかけてくる吸血鬼たちからの逃走も、今よりは少し有利になる。
それが分かっていて、有効活用だとほざいていて、なぜこの人をこのままにして逃げようとするのか…?
僅かにでも息のあるこの人を、吸血鬼がやってくるだろう場に生かしたまま放置しようとするのか?
ノクティカは自身に問いかけて、己の底に矮小な善性を見た。
「もういいよ、どうせ夜になれば気配を隠すなんてできる訳ない! 分かってるよ!」
夜になれば吸血鬼の時間。
身を隠せるはずなどないことは分かりきっていた。
逃げ延びたとて、どうせもうノクティカの居場所など無いのだから。
…ならば。
せめてこの人の体を綺麗にしてあげて、吸血鬼たちが来る前に確実に死なせてやるくらいはやってやろう。絶対に効果は無いだろうけれど、治癒の御業を一回ぐらいは使ってやろう。
そう、自分の命よりも信念を貫いた父と母だ、他人を犠牲にしてノクティカだけが生き延びたところで喜ぶはずがない。
女神は女神、信仰は信仰。
同じ教義を信奉していた彼らから受けた非道にこだわり、信仰をなおざりにすることは、巫女であった母への冒涜でしかない。
ノクティカは息を吐いて、自分の中に渦巻いている幾つものわだかまりを、一旦無視することにした。
ひたひたと夜が近づいてきている。ノクティカは指を虚空に差し出して、神聖と清潔を意味する御言を宙に描きながら、小声で呟く。
「天にまします高潔なる星、治癒と慈愛の女神セルドオーレよ、卑しく憐れな我らに、貴女の清き光を」
指先の痕を辿るように白い光が浮かび上がり、複雑な文様を描き出す。
それはゆっくりと光量を増していって、やがて収束し、ノクティカの指先に集まる、…はずだった。
光は止まる気配を見せず、目を灼くほどに輝きを増していくのみ。
どこまでも膨らんでいく清浄なる光に、ノクティカは焦って意味なく指を振り回す。
こんな光の量は、四肢欠損を再生し、引きちぎれた胴体を繋ぐくらいの大がかりな御業でないとあり得ない。
しかも、いまノクティカが使おうとした御業はあくまで体を少し清潔にするくらいのもの。
治癒の御業を使う前に、比較的簡単な御業で禊まがいのことをしようとしたまで。
断じて、そんな超高位の御業を使おうなどとはしていない。
祈りの言葉も汎用的とでも言うべきか、詩的でもなんでもないありふれた言葉しか使っていない。
それなのに、描き出された御言は膨張し過ぎてもはや文様を読み取れないほどになっていて、それでもまだ膨らむのをやめない。
血の飲んだことでさっきまでの疲労が嘘のように回復していたノクティカだったが、光の渦が力を増していくうちに力を吸い取られるような虚脱感を覚えて、がくりと膝を突いた。
…このままでは暴走する。
何がどうなっているのかはあいかわらずさっぱり分からないが、このまま行けば、強すぎる神力と小さな祈りとが矛盾して、この場を崩壊させてしまう。
ならば。
もはややけっぱちになったノクティカは、最上級の奇跡を乞う御言を、強引に描き出した。
指先に光を絡めて、無理やりに引っ張り、宙に巨大な文様を構成していく。
歪で拙い御言。
神殿の巫女にこんなものを見られたら、半日の説教では足らないかもしれない。途中で祈りの内容を変えるなど聞いたこともない。
それでもノクティカが必死に描き上げれば、文様が一瞬だけひときわ強く光を放ち、霧散した。