黒の老人
十二月も末に差し掛かりこの前までクリスマス一色に染まっていた町は正月を迎える準備で大いに賑わっている。年末に向けた買い出しを急いで終わらせた園田伊蔵はシルバーの指輪を薬指につけた皺だらけの左手でビニール袋を握り直す。
『保険の事なら江東保険にお任せ下さい! お客様一人ひとりに合わせた保険をスタッフがご案内させて頂きます』
町で一番背の高い『江東保険タワー』から流れる保険のCMに一瞥をくれ、舌打ちをするといそいそと家路を急ぐ。
町から出るバスに二十分ほど乗り、少し歩いた人気のない田舎道の先に伊蔵の家がある。
「寒いの……」
はーっと、かじかんだ手に吹きかける息は真っ白に染まりやがて消える。いつも通りの帰り道も、外が寒いと遠く感じる。
トボトボと雪が積もった畦道を歩いていると、視界の先に黒い物体を見つけた。
「また誰かが捨てよったか?」
冬風に吹かれバサバサと騒音を上げるそれは一見ゴミ袋にも見えたが近づくと生き物であることが確認できた。
「なんじゃ、カラスか……」
羽から血を流し、雪を鮮血で染める一羽のカラスが罠にかかり倒れている。
「わしにできるのはこれ位じゃが……」
伊蔵はカラスの足に巻き付いた金具を取り外し、雪のない歩道に置いた。自力で立ち上がったカラスは伊蔵の方を向き「ガァー」と酷く濁った鳴き声を出し、その場に羽ばたく。
「気味悪い鳴き声だなお前。ほら、ワシはもう帰る。お前もどっか行け」
カラスに背を向け歩き出す。数歩歩いたが、背後から羽ばたく音が聞こえない。心配に思った伊蔵が振り向くと、先ほどまであったカラスの姿はもう無くなっていた。
首を傾げた伊蔵は指で耳をほじりながらまた歩き出した。
※ ※ ※
その日はやけに寒かった。伊蔵一人しか居ない寝室がより寒さを強くさせている様な気にさせる。
腹に入れた湯たんぽもすぐに冷め、布団だけでは寒さに耐えきれず、湯たんぽのお湯を入れ替えようと起きあがった時、玄関のドアを叩く音が聞こえた。
「……誰だ?」
ゆっくりと玄関に向かうとドンドンッと拳でドアを叩く音が響く。
ドアを叩く音は次第に強くなる。伊蔵がドアの鍵を開ける頃には恐怖を覚える程だった。
震える手で鍵を開けた時、強引にドアノブが捻られ、バンッと音を立ててドアが開く。
その瞬間、凍えるような風が伊蔵の体にぶち当たり、とっさに身を縮め、腕で目元を守る。
開けられたドアには黒いシャツに赤のチェックが入った黒いネクタイを巻き、黒いスーツを羽織った細身の男が立っていた。
「誰だ……?」
「園田伊蔵だな」
「そうじゃが……」
「お前に用があって来た。失礼する」
そう言って一歩進み、ようやく男の顔を確認できた。
黒い長髪を後ろで纏め、浅黒い地肌、黒ぶちのスクエア眼鏡の奥では深紅の光彩が光る。とても日本人とは思えないその男はまた一歩進み、玄関に侵入する。
「だ、誰だ! 動くなぁ! 警察に……警察に通報するぞ⁉」
腰の抜けた伊蔵はその場にへたり込み、男を見上げる。忠告を無視し、ゆっくりと伊蔵に近づいた男は、目の前で膝を折り、目線を伊蔵に合わせる。
「落ち着け。悪さなどする気も無い。老いた人間一人殺したところで何の得も無い」
そう言った男はまた立ち上がり辺りを見回す。
「どこか話が出来る所はあるか?」
伊蔵はたまらず震える声と指でリビングまで案内した。
※ ※ ※
「一つ質問してもええか?」
「なんだ」
いまだに声の震えが収まらない伊蔵は単刀直入に聞く。
「お前は誰じゃ」
質問をした後少しの静寂が訪れる。伊蔵にとって居心地の悪い時間は、ほんの数秒だったが、不安を駆り立てるには十分な時間だった。
「私は、カラスだ」
まっすぐに伊蔵を見る双眸は男の言う通り鳥類のそれを彷彿とさせる。
「カラス? お前何言っとるんじゃ」
「この通り」
男は座ったまま右腕を真横に広げる。広げた右腕は真っ黒い羽が無数に生えた翼へと瞬時に変わる。その翼の中心辺りに羽が抜けた部分がある。
「今日私を診てくれたではないか。もう忘れたか?」
「あぁ……あぁ! あのカラスなのか⁉」
椅子から飛び上がり、目の前で起きていることが夢か現実かの判断がつかず混乱をする頭の中に、今日の帰道に倒れていたカラスが浮かび上がる。
「そうだ。驚くのも無理は無いかもしれないが、現実として受け止めてくれ」
「わ、分かった」
カラスの静かで落ち着いた声と、伊蔵を睨む目線に気圧され伊蔵は椅子に座ることしか出来なかった。
「それで、私なりに人間について調べた。どうやら人間の世界には『鶴の恩返し』とか言う物語があるのだな? 伊蔵は知っているか?」
広げた翼をもとの腕に戻し、カラスは足を組みなおす。
「あ、あぁ」
目の前のカラスが、何を言いたいのか分からないがとにかく頷くことしか出来ない。
「それなら話が早い。私はその鶴の真似をしに来たのだ。あんな奴の真似事など考えるだけでも虫唾が走るがな」
「つまり、お前がわしに何かをしてくれるってことか……?」
「あぁ、そうだ。伊蔵からは何か面白い空気が漂っているからな」
腕を組んだカラスはニヤリと笑う。
「何をするんじゃ……」
「契約を結ぼうじゃないか」
前のめりになったカラスは握りこんだ右手を伊蔵の前に伸ばし、開く。黒い靄がかかった一本の羽が掌の上で浮いている。
「契約? 恩返しでは無さそうじゃな……」
「誰が恩返しをすると言った? 私はカラスでもあり悪魔でもある。恩を押し売るだけの小汚い鶴とはモノが違うんだよ。私が求めるのは代償。伊蔵、お前は今、力を求めている筈だ」
不気味に赤く光るカラスの瞳は伊蔵を睨みつけ、心を透かしている様だ。
「お前の心に渦巻くものは……復讐。それも強大な……。誰を殺したい?」
「お前に何が分かる!」
バンッとテーブルを叩き立ち上がった伊蔵はカラスを睨む。
「全部。今見た」
「は?」
カラスはもう冷めてしまった茶を飲む。
「お前の全てさ。言っただろ? 私は悪魔。お前が江東とか言う保険会社に恨みを抱いている事は知っている。誰だ。江東の誰を殺したい?」
「わしを知っている、か。江東の事まで」
「契約をすれば私の力を譲ろう」
一層低く響くカラスの声は、抗いがたい誘惑があった。このまま誘われてしまえば戻れなくなりそうな底知れないドス黒い誘惑。
「江東隆弘……江東保険会社の会長」
「ほぉ、なぜ恨む? この街を賑わわせている大企業じゃないか」
「そんな訳あるか。それはあの会社の表の姿に過ぎない。影で邪魔者を殺している。元社員の妻も会社を辞めてすぐに殺された。情報を持っていたからな」
テーブルの上に置いた伊蔵の拳が強く握られ、震えている。
「カッカッカッカ。最高じゃないか。ただの枯れた老人かと思ったがしっかり人間だったな」
伊蔵の怒りを見て大笑いするカラスは掌に乗せた羽を握り、立ち上がって伊蔵に歩み寄る。先ほどまでテーブルの表面を覆っていた靄は瞬時に消える。
「なんだよ……」
カラスは立ち上がり身を引く伊蔵に向き合い、肩に手を置く。
「一つ、私の力を譲ろう。これは助けてくれた礼だ、代償は要らん」
カラスの肩から腕へと黒い靄が伝わる。途端に心地の良い温もりが伊蔵の全身を包み込む。カラスの手から伊蔵の肩へと伝わりそうになった時、伊蔵は底知れぬ恐怖を感じた。
伝わる靄がスローモーションに見える。ねっとりと背筋を伝う冷や汗を感じた時、一歩引いてその場から逃げようとするが。
「……っ!」
全く体が動かない。いくら力を入れようと空気を殴るような感覚に陥る。
「触る前に振り払うべきだったな。もう遅い」
伊蔵の肩にそれが伝わった瞬間全身を一気に包み込む。
「ぐッ! あぁぁっ……ぁ……」
ドクンっと全身が波打つ衝撃を感じた途端、頭が割れそうな程の頭痛が伊蔵を襲う。
「カッカッカ。お前の体を弄らせてもらったぞ」
カラスの笑い声が遠くで聞こえ、脳内に反響する。
「さて、頃合いか」
床をのたうち回る伊蔵を見下ろすカラスは一度指を鳴らす。
「……っは‼ はぁ……はぁ……」
パチンっと突然現実に意識を呼び戻された伊蔵は、四つん這いになり息を切らす。
「どうだ、若返った気分は」
カラスの言葉を聞いた伊蔵は自分の掌を見る。皺だらけだった手はハリのある若々しい手に変わり、重たかった体も綿の様に軽い。
「こ、これは……」
「私の力でお前の時を戻した。枯れた老体では復讐を願っても泣き寝入りするしかないだろう? 伊蔵、お前には諦めるということを諦めてもらう」
「若返らせたから、お前との契約を結べ、と」
伊蔵は這ったままカラスを見上げる。
「そうだ」
ゆっくりと立ち上がりカラスの前に立つ伊蔵。曲がっていた腰はまっすぐに伸び、目線が同じになる。
「どうだ。少しは殺る気になったか」
ニヤリと笑うカラス。対する伊蔵は睨みつける。
「ああ。いつかは命に代えても殺すつもりだった」
「いい顔じゃないか」
※ ※ ※
「で、復讐する前に死ぬなんて事は無いだろうな」
リビングのテーブルを壁に寄せ、確保したスペースに伊蔵とカラスは立つ。
「お前は体の一部を私に捧げる。私はお前に力を授ける。それだけの事」
「本当か?」
伊蔵はカラスを睨み問いただすが、カラスは肩をすくめる。
「どうだろうな。俺は悪魔だ。始めるぞ」
「おう」
カラスは伊蔵の前方二メートルに立ち両手を伊蔵に向ける。
『我が声に呼応せよ其の魂。汝の血肉は我が供物となりて悪魔の力をもって還す』
カラスの詠唱が終わると伊蔵の左手に黒い靄が出始める。
「さぁ、左腕を私に向けろ」
カラスの言われるままに左腕を前に差し出す。
その途端、靄が炎に変わる。肘から発火した黒い炎は次第に燃え広がり肩から先をすべて飲み込む。上げたままの腕は戻そうと力を入れても全く動かない。
「な、なんだよこれっ!」
「別に熱くもないだろう。おとなしくしておく事だな」
カラスは伊蔵の腕に向かい息を吹きかける。すると炎が一気に消えて無くなる。腕と共に。
「ひっ……腕が……」
「契約終了だ」
先ほどまであったはずの左腕を見つめる伊蔵を無視し、背中を向け話し続けるカラス。
「さぁ、殺しに行こうか」
玄関に向かい歩くカラスを追いかける伊蔵は戸惑いを隠せないが、とにかくついて行って説明を求める。
「聞きたいことが山ほどある。わしに譲った力ってなんだ」
「外に出れば分かる」
そう言ってカラスは玄関のドアを開ける。冬風がパジャマの隙間へと流れ込むが伊蔵は全く寒さを感じない。
「……寒くない、力ってこれか?」
「私の力はそんなモノじゃない。感覚の消失はただの副産物さ」
カラスに続き闇が広がる外へと進む。
「……見える⁉」
暗闇が覆っている筈の景色はまるで昼の様に鮮明に見える。
「人間では見えない世界も私たちは見えるのだ。行くぞ伊蔵、左腕に力を入れろ」
伊蔵の方を振り向いたカラスは肩から先がない左腕を指差す。
「カラス、何を言っているんだ。わしに左腕なんて無いじゃないか」
「さっきまであっただろう。無いから意識することも出来ないのか?」
カラスに睨まれ、無い左腕に力を入れる、意識をする。
「こうか? うおぉぉっ⁉」
意識をすると左腕の変わりに黒い靄が出る。それは瞬時に全身を包み込む。
「うまく操るじゃないか伊蔵。その靄は『フォグ』。上手く使ってやれ」
フォグが晴れ、視界が開けると伊蔵はカラスと同じスーツを纏っていた。驚きながらも伊蔵は超常的な現象に慣れ始めていた。
「服が……」
「パジャマで殺しなぞ恰好がつかんだろう。似合うじゃないか」
庭に出た二人は横並びに立つ。
「もう一度フォグを出せ。江東タワーまで飛ぶぞ」
「お、おう」
再び力を入れフォグを出す。発生したフォグは伊蔵を包む。
「翼をイメージしろ。そうしたら跳べ」
「翼?」
目を閉じ翼を使い飛ぶ想像をする。次第にフォグが背中と左肩に集中していくのが分かる。それは暖かくもあり冷たくもある。目を開き伊蔵は右足に力を籠め飛び出す。
「おぉ⁉」
ゆっくりと体が浮き上がり、その場に漂う。
「いいじゃないか。さぁ行くぞ。進みたい方角を意識しろ」
隣に居たカラスはいつのまにか鳥の姿になって羽ばたいていた。
「分かった。こうだな」
江東タワーがある街を頭の中で描くと伊蔵の体は闇夜に消えていった。
※ ※ ※
「おっとと……」
江東タワーの正門を飛び越えタワーの中腹にあるベランダに降りた伊蔵とカラス。ガラス張りの室内を除くと数人の警備員がサーチライト片手に歩いている。
「ちょうどいい。伊蔵、力の使い方を教える。あいつらを排除するぞ」
そう言いガラスを破って侵入したカラスは室内に入ると同時に鳥の姿へと変わり、警備員の目線とサーチライトは破られたガラスの先、伊蔵へと向いた。
「何者だ‼」
「嘘だろ……」
中腰になりたじろぐ伊蔵にカラスは声をかける。
「フォグを出せ。翼と同様だ。お前がどうやってこいつらを排除するか想像しろ」
「なるほどな」
フォグを出した伊蔵は目を瞑り想像する。目の前にいる警備員には何の恨みもない。出来る限り殺さず制圧する必要がある。
「捕らえろ‼」
警備員の声が響き、一斉に警棒を片手に襲い掛かる。その数四人。
「っおら!」
フォグを纏った伊蔵は向かって一番左の警備員に向かい走る。
「止まれ!」
警備員の警告を無視しそのまま突っ込む伊蔵。警備員との距離まであと二歩ほどに迫った時、伊蔵の体は靄へと変わる。
「うおっぁ……」
衝突に備え足を止め、腕で顔を覆う警備員。その背後に伊蔵は居た。
「なるほど。飛ぶのと同じか」
そのまま伊蔵は警備員の後頭部をフォグで出来た左腕で殴ると警備員はその場に倒れる。
それを見た残りの警備員は懐から銃の様な物を取り出す。それを見た伊蔵はカラスに叫ぶ。
「おいおい、このフォグ銃になんのか⁉」
近くのテーブルの陰に転がり込む伊蔵の目の前にカラスがとまる。
「お前のイメージ次第だ。どうしたい? 殺すのか?」
「そんな訳ないだろっ!」
テーブルから顔を出し三人いる警備員にそれそれ左腕の親指、人差し指、中指をを向ける。
「あそこだ!」
「おらぁぁ‼」
警備員の声が響くと同時、伊蔵の指から放たれたフォグの塊は警備員に直撃、顔を覆い視界を奪う。
「うわ!」
「なんだこれは!」
警備員は各々声をあげ腕でフォグを払おうとする。
「なるほど」
呟くカラスをその場に置き去りにし、伊蔵はテーブルから飛び出す。フォグに姿を変えた伊蔵は警備員一人ひとりの前に現れ、掌底を食らわせていく。
声を上げる間もなく倒れていく警備員を見下ろしフォグの中から現れた伊蔵は笑う。
「ははは……これは凄い。この力を使えばわしは江東を……あっはははははは」
天井を見上げ笑い続ける伊蔵に人の姿に戻ったカラスが近寄る。
「ここまで手慣れた使い方をする奴はお前が初めてだよ」
「カラス。本当に感謝しているよ。あの時わしが助けた鳥が鶴じゃなくて本当に良かった」
カラスの方を向いた伊蔵は笑いを堪える様に言う。
「さて、どうせ人間の事だ。江東隆弘は最上階なのだろう?」
オフィス内を一通り見て回る伊蔵にカラスが声をかける。
「そうみたいだな……行こうか」
伊蔵が見つめるデスク上の資料には『極秘事項 殺処分名簿』と書かれたファイルが置いてある。パラパラと捲ると「園田 多佳子」の名前もあった。その欄には「社外秘漏洩の恐れ」と添えてある。
ファイルを閉じた伊蔵は目を閉じ、右手を握り込む。
再びフォグに姿を変えた伊蔵とカラスはエレベーターホールに行きエレベーターのドアの隙間から一気に最上階に向かっていった。
※ ※ ※
「ここが最上階……」
先ほどまで居た乱雑なオフィスとは全く違い、無機質な白を基調とした何もない大きな広間は仕事をするための部屋というより体育館と言った方がまだ納得できる気がする。
「ここに江東隆弘が居るのか?」
円形の部屋の真ん中まで歩いた頃カラスが話しかける。
「知らん。だがここがあいつの部屋なのは間違いない」
当たりを見回しながら話す伊蔵はそっけなく答える。
「しかし、保険会社の会長とは思えないセキュリティーだとは思わんか」
「確かに伊蔵の言う通りだな」
カラスが返事をした時、部屋のライトが一斉に切れる。
「わざわざ誘い込んでいるからなぁ⁉ お前たちは返さん。絶対にな」
部屋に響く声は前方から響く。歩いて近づく男は白のスーツに見を包んだ男だった。
「お前が江東か‼」
「そうだと言ったら?」
挑発するようなその声に伊蔵は震えた。全身に力が入るのを感じると共に、ふつふつと込み上げる怒りに狂いそうになる。
「殺す……お前を殺してやる」
「何故だ? 私はこの街を再建した。邪魔なものを排除することに命を、財産を賭けたのだよ。誰にも恨まれる謂れは無いではないか」
なおも挑発するように語る声は更に近づく。
「それが社員を殺し、市民を殺し、自分の利益の為だけに動くお前の言い訳か?」
怒りを抑え、静かに話す伊蔵に、江東の声は明るく返す。
「言い訳だなんて……そんなことを知る人間なんてこの世には居ないからねぇ、そもそもそんな質問されたことないな?」
その一言に伊蔵の怒りは限界を迎えた。
「江東ぉぉぉぉぉぉぉ‼」
フォグになった伊蔵が江東の目の前に姿を現し拳を振るう。
しかしこの拳は空を切る。
「ほぉ……お前も悪魔との契約を……愚かな男だ」
伊蔵の視線の先、先ほど居た場所から十メートルほど離れたところに現れた江東は指を鳴らす。すると部屋の明かりが一斉につく。
伊蔵の前に立つ江東の体は、陶器の様に無機質な肌に覆われていた。
「そ、それは……」
その姿を見て声を上げたのはカラスだった。
「悪魔との契約……? 私もしたさ。随分前にな」
江東はスーツを脱ぎ、下に着ているシャツも脱ぎ捨てる。
「だが私は満足しなかった。もっと欲しくなったのさ。だから……」
現れた江東の体は純白で人の肌とは思えない光の反射の仕方をし、腕の関節には球体の様な物がはめ込まれている。まるで操り人形の様に。
「お前……悪魔を食ったな?」
カラスの問いかけに江東は笑う。
「そうだよ。そうだとも。僕と契約した悪魔はもういない」
それを聞いたカラスは伊蔵の隣に立つ。
「伊蔵、お前の復讐この目で見るだけに留めようと思っていたが私にとっても戦う理由が出来てしまった様だ」
両拳を握り、力を込めたカラスからは大量のフォグが溢れる。
「あぁ、わしもあいつを殺す」
目を閉じ、隣のカラスがまっすぐに江東に向かって行ったことを感じた伊蔵は飛び上がる。
「おぉ、二人が相手か。楽しくなりそうだな」
口角を上げながら江東はカラスの攻撃をいなす。
「その姿、お前が飲み込んだのは鶴だな?」
「そうともさ、キミはカラスだね? 白の悪魔に黒の悪魔。とても欲しいよ!」
すべての攻撃が読めるかのようにいなし続ける江東を眼下に捉えた伊蔵は空中から急降下する。
「伊蔵! あいつは鶴だ! 私の力とは違い攻撃的な力ではない。だが未来予知に等しい観察眼だ!」
左の指からフォグを打ち出す伊蔵は江東の背後に着地、奪った視界の外側から拳を振るう。
「どうすれば、こいつに、勝てる!」
「一撃与えればこちらの勝ちだ!」
二人分の攻撃を躱し続ける江東はフォグから抜け出す。
「与えれたら、の話だけどね!」
笑いながら江東は両腕を振る。白いガラス片のような刃が伊蔵とカラスを襲う。
「っぶね!」
フォグ化し何とかよけた伊蔵はカラスに叫ぶ。
「カラス! 俺に案がある! 江東を頼む!」
「任せろ」
返事をするとカラスは一気に距離を詰め殴りかかる。
「何度やっても同じだぁ!」
すべての攻撃を躱しながら江東は再び飛び上がり距離を取る。
「ならこれはどうだ!」
着地と同時、伊蔵が上空から襲い掛かる。
「全部見えてんだよ!」
また飛び上がった江東は伊蔵からも距離を取る。
「そこだ!」
その江東に再び伊蔵が襲い掛かる。
「高速で移動したか……無駄だ! そのまま力を使い続けて力尽きろ!」
今度は地面を転がりよける江東。
転がった先には伊蔵が立って江東を見下ろしている。
「なっ⁉ 二人だと」
江東が振り向いた先にはもう一人の伊蔵が立っている。
「これで終わりだっ!」
伊蔵が振りぬいた拳は江東の体を砕き、残ったのは粉々に砕けた江東の体だった。
伊蔵の足元に散らばった江東は、割れたガラスをぶちまけた様な音をたてる。
「多佳子の四十年分の恨みだ」
※ ※ ※
地面に敷き詰められた雪が日光を反射し、墓石の間を歩く伊蔵を照らす。
「伊蔵、ここでいいのか?」
「あぁ、ここ以外にない」
伊蔵が立ち止まったのは多佳子が眠る墓の前。慣れた手つきで蝋燭と線香に火をつけ、目を閉じ手を合わせる。
カラスは伊蔵の背後に腕を組んだまま立つ。
数秒後、息を吸い込み目を開けた伊蔵は立ち上がる。
「もういいのか」
「十分すぎる時間じゃった」
「そうか。じゃあな」
伊蔵の言葉を聞き、背を向け歩き出すカラスは軽く右手を上げ、黒い靄になって消える。
次の瞬間、伊蔵の体に異変が起こる。
ドクンっと体が波打ち、一気に体が重くなる。
ついに自重を支えられなくなった体は膝から崩れ落ちる。
「あぁ……多佳子。お前はあの世で笑っておるかの……」
膝をついて燃える線香を見つめる伊蔵は、老人の姿に戻り、身体がゆっくりと靄になり薄れていく。
だんだんと視界もぼやけ、意識が遠のく。
「わしの勝ちじゃな……」
伊蔵はゆっくりと笑い消えた。
誰もいなくなった墓地にはカラスの酷く濁った鳴き声が響いた。
久々に中二病みたいな話で楽しかったです。
感想いただけましたら幸いです。
またお願いします。