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「おはよう、待ってたぞ」
日の登り切らないまだ薄暗い朝、いつもより疲れの残る身体を引き摺るようにしてシャワーを浴びに部屋を出ると、そこには笑顔の王太子様が立っていた。
「夢だな。うん、きっと夢だ。だって未婚女性の部屋の前で王太子様が待ち伏せストーカー行為なんてするわけないもん。だからきっとこれは夢」
ブツブツと呪文のように唱えながら見えないことにしてシャワールームに滑り込む。
寝間着を脱いで、軽く魔石スウィッチに魔力を流してお湯を出す。
「ストーカーってなんだ?」
ガチャっていきなり扉が開いた音と同時に馬鹿王太子が入ってきた。ぎゃーーーーーっ。
「すけべ、変態、馬鹿、すとーかー、最低、でてけぇぇぇ」
「「…大変、申し訳ありませんでした」」
扉を開けたら、王太子ともあろうものが腰から90度に曲げて謝っていたけど、勿論許しはしない。そのまま前を通り過ぎる。
よく見ると、もう1人見覚えのある人が一緒になって頭を下げていた。
「ムーアさん? …もしかしてムーアさんまで」
まさか、一緒になって覗きを?
「い、いえ、違います。まさかいきなり女性が入っていったばかりのシャワー室に殿下が入っていくとは思わず。お止めする事ができませんでした。申し訳ありませんでした」
頭を下げたまま、「もちろん私は見てません」というので、ムーアさんは許してあげた。
「いいんですよ、まさか王太子があんな痴漢行為を堂々とするなんて誰も思いませんもの。ねぇ」
最後の「ねぇ」は腹の底に力を込めて、圧力を掛けて王太子に向かって声を掛けておいた。帰れよ、もう。
自分の部屋の前で立ち止まり、ゆっくり振り返った。
王太子とムーアさんがぞろぞろついてきて疲れる。おもわずため息が出た。
「…王太子様、私は日々遊んでいるわけではありません。今日も朝食を食べ終えたらすぐに仕事です。昨日は途中で貴方方に強引に連れ出されたので、サボることになってしまった。なのでお給金は出ないでしょう。家族もなにもない私は、自分で働いて稼がねば、すぐに食べるものも手に入れることができなくなり、住むところも無くすでしょう。その私に、付き纏ってどうしたいんですか?」
民が働く邪魔をする、その意味が、本当に分かってますか? ──じっと目を見た。
「しかし私の話を…」
王太子がまた自分の都合で話を進めようとしてきたので、ため息が出た。意味ないな、これ。
その時、ムーアさんが王太子の肩をそっと止めた。
「殿下。出直しましょう」
「しかしだな。私はこの国の王太子なんだぞ? いくらなんでもこの女の態度は酷すぎではないか」
………あったまきた。
「私の国の…、元の世界での陛下のことはちゃんと尊敬してました。その方は、皇太子だったころからきちんと国民を愛して、尊重して下さる方で、尊敬に値する方でした。自ご自分から尊重しろとかいわなくても尊敬も愛情も、国民から一身に受けてました」
「…それは、私にはその価値がないといいたいのか」
ムッと言い返されたけど、事実だから引かない。
「私はこの国に来たくて来たわけじゃないし、無登録な訳でもないし、なにより光魔法を使えると自分から売り込みにいった訳でもないです。真面目に働いて、この国で暮らしています」
「……まじめに、働く、ね」
目線で、住んでいる場所と働いているこのお店を馬鹿にされた気がする。むっかつくーーーー。女将さんも料理長さんもいい人だもん。真面目に生活してるんだぞ。
「殿下、その辺にしてください。そもそもあなたは未婚女性のはだ……覗き行為に及んだばかりなんですよ? その謝罪も受け入れて貰えてないのに。それで尊敬しろといっても無理があると思いませんか」
「そんなことない。あんなの大したことないだろ。だってまっすぐだったぞ。ストーンってストーン」
王太子がストーンと両手をまっすぐ落とす仕草を繰り返しているのを、後ろからおもいっきり足蹴にしたけど、私は悪くない。絶対だ。
「カ、エ、レ!」
バタン、と派手な音を立てて、私は部屋の扉を閉めた。
「ふぅ」
あぁ、もう。女将さんたちはすでに起きて仕事を開始している時間だろう。でも、こんな朝早くに大騒ぎしてしまった。追い出されちゃうんじゃないかと不安になる。
その時、すりんと足元にタイガの身体が擦り寄ってきた。温かい毛皮の安心感。思わず抱き上げてぎゅっとした。
「うん。一緒ならなんとかなるよね」
「女将さん、おはようございます。今朝は…昨日もお騒がせしてしまってすみません」
どんなに気まずくとも挨拶は人間関係の基本だ。ぐっと心を決めて声を掛けた。
学校の道徳の時間とか生活指導って結構役に立ってるなぁ。受験に関係ないってスルーしかけてたけど。実際に働くとなると人間関係ってやっぱり重要なんだよね。ご近所様にかならず挨拶しなさいって練習させられてなかったら、今みたいに気まずいなって時に声が出ない気がする。
「りん、その…大丈夫なのかい?」
いつもなら忙しなく動く女将さんの手が止まっていた。
「ご迷惑をお掛けします」
深々と頭を下げる。別に私がなにか悪いことした訳じゃないと思ってるけど、目を付けられたのは私だし。…まぁ異世界人なんてややこしいのがいけないって言われたら本当に『ごめんなさい』しか言えないんだけど。
「ふっ。そんな顔しないでいいんだよ。おはよう、りん。昨日も、今朝も止められなくて悪かったねぇ。さすがにお貴族様とか王太子様に帰ってくれって言えなくてさぁ。仕事、しばらく休んでもいいんだよ?」
うっ。これは、クビを仄めかされているのかしら。
「…おしごと、もう、辞め……雇っ…て、もらえない、ですか?」
泣きそう。ここをクビになったらどうしたらいいんだろう。まだ貯金と言えるほどの額は貯まっていない。次の仕事が決まるまでまた孤児院にお世話になれるだろうか。でもそうしたらタイガは?
ぐるぐると頭の中でマイナス思考が渦巻く。この1年、なんとか積み上げてきた生活がこんなにあっさりと壊れてしまうかもしれないものだなんて思わなかった。
「馬鹿だね。あたし達がこんな事で、りんを手放したりする訳ないでしょう?」
ぐりぐりぐりっと大きな手が頬を掴んでを撫で繰り回した。
涙で滲んだ目で見上げると、笑顔の女将さんがいた。
「女将さん~!」
うわーんと抱き着いた。大きくって、ふわっとして、あったかかった。
「ホントだよ。そんな見くびるなよ? お前がいなかったら、俺はまた一人で仕込みしなくちゃいけねぇじゃねえか。逃げられると思うなよ」
頭には、ばふんと大きな手が覆いかぶされた。
「料理長~。う゛れじいですぅ~~」
いかん。乙女なのに、鼻水も出てきた。いろんな意味でやばすぎる。
「おい、俺はオーナーとか親仁さんじゃないのかよ」
豪快に笑って突っ込んでくれる。
女将さんは苦笑しながら腰に挟んでいた布巾で顔を拭ってくれた。甘やかされてるなって思う。こんな時なのに、嬉しい。
こんなに温かい場所、生まれて初めて手に入れたかも。幸せっていうのかな。そう思ったのに。
「……なんで王太子様、まだいるんですか?」
視界の端でおろおろしていたその人が、私の言葉にビクンッと飛び跳ねた。
「あの…その……、すまない」
「…王太子様はこの世で一番不快だと言われることってなんだと思いますか?」
「え、…そうだな。何度言っても嫌いな人参を食事に組み込まれること、かな」
人参嫌いって子供かよ。
「私は、誠意の篭っていない、自分がどんな間違いを行ったのかも理解しないまま言われる謝罪を聞かされること、だと思ってますよ。特にいま正に!」
くわっ。と威嚇してみる。
「だから出直しましょうって言ったんですよ」
ムーアさんが頭を抱えている。うん、そうしてくれたらよかったのに。
「ムーアさんには申し訳ないけど、出直す、ではなくて二度と来ないでくれる方が嬉しいんだけどな」
にこって、全力の笑顔で言ってみる。じりじりと笑顔のまま睨みあう。帰れよ、ほんとにもう。
「…誠意は込めてる。謝罪した理由は、その、私たちの行為が、りんの仕事を奪うかもしれないというのが、本当には判っていなかったなって、思って…思ったので申し訳ないな、と」
もう一度勢いよく頭を下げられた。おぉ、吃驚。ちゃんと分かってたんだ。というか、王太子様が本当の意味で謝ったこと自体にも吃驚だ。
「…私からも謝罪を。王太子様には判らないと思って見くびってました。失礼しました」
深々と頭を下げる。うん。私ったら偉い。
王子様は「見くびってた…」といって絶句してたけど気にしないことにする。これで終わり。うんうん。お仕事がんばろー。
「料理長、女将さん、私は何をすればいいですか?」
今日もはりきってお仕事がんばるぞー。
「人参とセロリをみじん切りにしておくれよ。あんまり細かくなくていいよ。食感を残したいから5mm角くらいで。それが終わったら、じゃがいもは揚げるから櫛切りにして一旦水に晒してからよく水を拭きとっておいておくれ」
人参は、金だわしを使ってよく洗って薄皮を剥いてから懸命に切りそろえる。バラバラのサイズになると見た目も悪いし、火の通り方にばらつきが出るから食べても美味しくないんだって教わった。
セロリは、みじん切りなら筋は取らなくても大丈夫。下のまっすぐ平なところはともかく、葉に近い部分は茎がくるっと巻きつくような形で変則的だからまっすぐには切れないけど、セロリを横にして、端っこをちょこっとだけ残す感じで、斜めに切り込みを入れてから、上下を逆にして、クロスするように包丁を入れると結構きれいにみじん切りになる。ちょっとだけダイヤみたいな菱形になるけど包丁を入れる角度さえ気を付ければそんなに斜めにならない。
料理長に教わった時は手品に見えたもんだよ。長ネギのみじん切りも同じ手順で切ると、みじん切りが素早くできる。私はまぁ、それなりだ。あんまり素早くはない。
素早さより正確さ。今日もそれを一番に作業を続ける。
「真面目に仕事しているんだな」
「……帰ってください」
開店前の清掃も終わり、ちょっと一服お茶の時間。そんなホッと一息つける幸せの時間なのに。なんでまだいるんだろ。
「トモキ・リンにお願いがあるんだ。仕事が終わってからでいい。話を聞いてほしい。お願いする」
きちんと頭を下げて要請されたら、もうこれは受け入れるしかないだろう。ここいらで譲歩しとくべきよね。
「日曜日のお休みまで待って頂けたらいいですよ。すぐ済むというのなら、今日15時のランチタイム終了時から1時間くらいなら時間は取れます」
本当は、家に帰って掃除とかいろいろしたいし、日曜日のお休みには普段できない家事をしたいところなのだがここで突っ張っても無駄だろう。私はしぶしぶながら頷いた。