1
どうしてこうなった
「タイガ、ただいま。いい子にしてた?」
足元にすりよる柔らかな背中をそっと撫でる。タイガは、この新たな生活が始まってできた最初の友達だった。
一年前の春、高校の入学式が終わり、期待に胸を膨らませ教室に移動していたはずだった。皆と一緒に廊下を曲がったところで景色が一変したのだ。
真新しい制服に上履き。そしてポケットに入っていたハンカチとチリ紙。
それだけを持って、私、友木りんは月が二つある世界、このラノーラ王国にやってきてしまったのだった。
元の世界の私が死んでしまったのか、ただこちらに迷い込んできてしまっただけなのかは判らない。だから、もしかしたらまたどこかの角を曲がったら、元の世界に戻れるんじゃないかと思う時がある。また違う世界に迷い込む可能性だってあるのだけれど。
──まぁね、元の世界に戻ったって、会いたい人がいる訳じゃない、そうとも思った。
りんの家族は、幼い頃に両親が離婚した後、りんを引き取った母が再婚をしたことでいないも同然になった。10歳の時に弟ができたことでそれはもう完全に。ちなみに実の父は、母と別れてそう経たないうちに海外に移住して、今となってはどこに住んでいるのかも、生きているのかも判らない状態だ。
だから、家族と暮らしていた頃から、天涯孤独だと自分では思っていた。
屋根裏の物置を改造した小さな部屋。この部屋は、りんにとって自らの手で手に入れた安住の地だ。
「いまご飯の用意するからね」
分けて貰った硬くなったパンを細かく千切り、ミルクで浸して軟らかくする。青と黒のブチ模様の猫は、りんが差し出したお皿に頭を突っ込むようにしてがつがつと食べだした。
「おいしい? よかった。私も何か食べよう」
何かもなにもないんだけどね。貰ってきたパンに冷たいゆで卵、そしてタイガと半分こにしたミルクで入れた紅茶。そろそろお野菜も食べたいけど、お店のまかないで出る分以上はいまのりんには手が届かなかった。
手に持つミルクティーの温かさと、食べ終わったと自慢げに報告してくるタイガの温かさ。りんは今日という一日がまた平和に終わることに感謝した。
町はずれのちいさな教会の前で、何が起こったのかまったく判らないまま、りんは泣きだしていた。周囲を見回してもまったく身に覚えのない街。すれ違う人は皆、現代の服と違う古めかしい中世の西洋風のものを着ていたし、髪の色はピンクや水色、緑などカラフルすぎる。でもなぜか話している言葉も、書いてある文字も日本語だったのでより混乱が深まった。
なにこれ、どうなってるの、私どうしたの?
混乱してぼたぼたと涙が溢れてきたところで、教会の扉が開いてシスターが出てきて、りんを保護してくれたのだった。
シスターの着ている服は、りんが知ってるそのままで、それだけでホッとして更に泣いて迷惑かけたっけ。
そうして私は、この世界が元の世界と少しズレたところに存在する、いわゆる異世界なのだと知ったのだった。
古い教会の記録では、ごく稀に他の世界から落ちてくる人のことが残されているらしい。
言葉が通じる時もあれば、まったく通じない時もあるそうで、「りんは通じてよかったね」と笑って言われた。確かに、これでまったく通じなかったら泣いただけでは済まないだろう。怖すぎる。時間とか距離の単位も一緒。めっちゃ気楽だけど、たまに本当に異世界にいるのか、実は盛大なドッキリイベントに紛れ込んだのかと考えてみたりもする。
窓の外、空を見上げると異世界なのだと思い知らされる。
ふたつ並んだ双子の月。
空を飛んでいく大きな竜。
街中を大きな荷物を載せて走るのは巨大なトカゲや足の沢山ある牛っぽい動物達だ。
目につくすべてが、ここは日本ではないのだと思い知らせてくる。
「こんなの、漫画とかゲームの中の話だと思ってたのにねー」
ベットの中に潜り、枕元のタイガに頬を摺り寄せると、うざいとばかりにするりとそこから脱出して足元に移動された。まぁいい。春と呼ばれる季節にはなったけどまだまだ日が暮れると寒い。足元が冷える季節だ。これもありだ。
そうなのよね、生活はそんなに変わらないのよ。人の形も。色が違うだけ。
薄い布団を掻き寄せる。今年の冬はいつもより暖かかったらしいからなんとか風邪もひかずに越せたけど寒い冬もあるだろう。それもいつかなんとかしないといけないな、そう思いながら、りんは眠りに落ちていった。
まだ外が薄暗い中、タイガに起こされる。毎朝のこととはいえ、ちょっと辛い。あと30分でいいからベッドの中にいたいと思うけれど、戻ったが最後、仕事に遅刻してしまうだろう。
日本と違い、就職するのに学歴とか言われないのはとても楽だ。勿論、面接と紹介状は必要だった。それは教会の神父さまとシスター、街の世話役が引き受けてくれた。
1か月、教会に併設されていた孤児院でお世話になった。そこで調理や掃除洗濯の手伝いをして過ごし、これなら一人で暮らしていけそうだと太鼓判を貰って仕事を探すことにした。
一人暮らしをできるだけの賃金を貰えるアヤシゲじゃないお仕事を探すのは結構大変で、住むところを探すのも大変だった。
結局、街の世話役さんの伝手で住み込みで雇ってくれる今の仕事を見つけることができた。
裏庭の井戸で水を汲み、顔を洗って、ついでに昨日着ていた服を洗濯する。
石鹸などは高くて手に入らないので、フィルという草を揉みだした液を使って押し洗いする。ぬめりが出て、水だけで洗うよりちょっとだけ汚れが落ちる。それと布地がちょっとだけ柔らかく干しあがる。
それが済んだら、水に漬けてあったオートミールに火にかける。焦がさないようにかき混ぜながら蜂蜜を溶かし入れて出来上がりだ。本当はこれもミルクで煮るのが本当だし、シナモンとかスターアニスとか、ちょっとした香辛料があったらもっと美味しいのにとか、ほんのちょっとだけでもお塩を入れたらずっと美味しくできるのにと思いつつ、これも半分をタイガのお皿に分けた。でもタイガと半分こするのに塩は使えない。
「まだ熱いから、気を付けて食べるのよ」
一応声は掛けるけれど、タイガが熱いものに怯んだことはない。ハフハフしながらもあっという間に食べ切っている。
「ごちそうさまでした」
器を洗い、歯を磨き、髪をとかして纏め、その場を簡単に掃き清めてから、りんは1階の、仕事場に向かった。
「おかみさん、おはようございます」
厨房ではすでに女将のエリーさんがその日の朝、仕入れてきた野菜や肉を前に種類と量を確認していた。
仕入れ担当のお店のオーナーで料理長のジャンさんはかなり気分屋で、市場で目に付いた素材をぽいぽい買い集めてきてしまうので、効率よくメニューを組むのはなぜか女将さんのお仕事だ。
「この人に任せたら単価無視して日替わりメニュー組まれちまうからね」そう女将さんは豪快に笑った。
夫婦でやっているこの食堂は近隣ではかなり流行っているお店で、安くて量が多くて旨いと評判だ。ただし、メニューは極めて定番的なものがいくつかと、あとは日替わりだけというシンプルさだ。
夜は酒も出すが、女性が酌をするような店ではないので、私は裏に回って皿洗いやこの家の掃除や洗濯など雑事をして夜まで働く。
夜に街中を出歩かなくて済むのは本当に助かる。りんはこの世界ではかなり幼くみえるらしい。身長150センチ。体重は40キロ。日本ではちょっと背は低くてもほぼ標準だったはずなのに。
夜間に外をひとりで出歩いていたら補導ではくて、親のいない子供だと思われて人攫いに連れていかれること間違いないだろう。住み込みで本当に良かったと思う。
「おはよ、りん。昨夜下茹でしておいたジャガイモの皮を剥いておくれよ。それが終わったら半分は潰して、残りは厚めのイチョウ切りにしておいておくれ」
さっそく指示を受けて仕事に取り掛かる。
下茹でして完全に冷めてから皮を剥くと、ジャガイモが煮崩れたりしないし、水気も飛んで味が濃くなるのだ。ねっとりした食感になっておいしい。
ちいさなナイフで皮を軽く引っ掛けるようにして皮を剥ぐ。するすると薄く剥けていくのが楽しい。大抵は芽の部分や黒くなっている部分も一緒に剥けてしまうのだが、たまに残ってしまうので注意が必要だった。
家庭料理ならともかく、お店で出すもので「気が付かなかった」はいけない。
「それが終わったら玉ねぎ剥いて、こっち3分の一はみじん切りにして飴色になるまで炒めておいて。残りは剥いただけでいいよ」
「トマトの皮を剥いて、煮込んでソースにしておいておくれ」
「キャベツは全部千切りにしておくれ。濡れ布巾で包むのを忘れないでおくれよ」
次々に指示が飛んでくる。焦らずにひとつずつこなしていく。
平行して作業なんかしたら絶対に失敗して、材料を無駄にしてしまうからだ。ゆっくりでも確実に、失敗しないこと。それが一番大事なことだ。
玉ねぎは最初強火で炒め、軽く色がついてきたら火を落としていく。
そうそう。こちらのコンロは魔法で火を起こすのだ。調整も念じるだけである。
つまりなにがいいたいかというと、友木りん魔法少女デビューということだ。
初めて魔法を見た時は吃驚したが、すぐに慣れた。よく考えたらりんはスマフォの中がどうなって通話ができたり動画が見れるのか知らなかったし、車だってガソリンや電気でエンジンやモーターが動くとか概要は知っていても、本当の構造を知っているわけではなかったし、飛行機が空を飛ぶのは知っていて羽の構造で空気を掴むとか揚力がという言葉は知っていても、実際に空を飛べる飛行機の模型すら作れないのだから。
何が言いたいかというと、魔法も科学も、りんにとっては大差なかったのだ。
あぁ、便利だなーで終わりだった。
玉ねぎの色を料理長に確認して貰いOKが出たのでそのまま鍋を手渡した。
次はトマトソースだ。トマトを湯剥きして、六割りにして中の種を取り出す。大蒜1個分を刻んでオリーブオイルで炒め、香りが立ったところで刻んだトマトと赤ワインと月桂樹の葉も入れて煮詰めていく。
初めての時、炒めるのにバージンオリーブオイルを使おうとして怒られた。炒めたら香りは飛んでしまうので3番絞りくらいのもので十分なのだそうだ。バージンオイルはソース用なのだそうだ。一度教えてもらったことをまた失敗する訳にはいかないのでちゃんと覚えていかないといけないのだ。りんは、学校の勉強より真面目にやっていると自分で思った。
すこし煮詰まってきたトマトはとぽんとぽんと鍋の中で跳ねるので火傷をしないように気を付けながら底の方から鍋をかき混ぜる。木べらの筋が鍋底に残るまでが、出来上がりのサインだ。
その頃には段々と肩と腰が辛くなってくる。そこで、木べらを持つ手と反対側の手で、そっと痛い場所を押さえた。
『楽になれ楽になれ。痛いの痛いの飛んでけー』
子供のころからのおまじないを心の中で呟くと、それだけで本当に痛いのが収まる気がするから不思議なものだ。たしか、手で押さえる事が重要で、それだけで神経の伝達が激しい痛みを伝えるのを押さえるとかなんとかTVの健康番組でやってた気がする。
「これの次はキャベツの千切りか」この後に続く作業を思い出しながら、トマトソースを焦がさないよう火加減を落とし、りんは木べらで混ぜ続けた。
「いらっしゃいませー。3名さまですか? 奥のテーブルへどうぞー」
お店に入ってきた3人組に声を掛ける。あまりこの辺りでは見かけない高そうな服を着た偉そうな人達で吃驚する。見かけたことないけどお貴族様ってこんな感じ? いや、お貴族様はこのお店にはこないわね、そんなことを考えながら、りんは店内に案内した。
しかし、そのお貴族様は返事もせずに店内を見渡すと、りんを見つめ返してきた。
「黒い髪に黒い瞳。予言どおりだな」後ろの2人が頷く。
「来い」ぐいっと、前に立っていたチョビ髭お貴族様に、いきなり手を引かれる。吃驚して、ついその手を強く振りほどいてしまった。
「痛いっ。小娘、なにをする」いきなり怒られて混乱する。怒っていいのはいきなり手荒な真似をされたりんの方じゃないのか。
「すみません、お貴族様。この子は異世界から来たのでいろいろと判っていないのです」
料理長と女将さんがやってきて焦った様子で取りなしてくれた。
やはり貴族なんだと思いつつ、あまりの横暴さに反感が募る。
「ふん。やはりお前が異界の娘か。手こずらせおって」チョビ髭貴族が睨みつけてくる。
つい、睨み返してしまった。それがよくなかったのだと思う。
私はあっという間に後ろにいた2人に取り押さえられて、縄を掛けられた。更に「反抗されると面倒だからな」という声と共に頭に衝撃が走る。
そのまま意識が暗い底に落ちた。
『女将さんと料理長に迷惑かけちゃったな。タイガのごはん、どうしよう』
頭の中にあったのは、それだけだった。