第九条は守る条約ではない ――それは、掲げる勇気を問う条文である
憲法第九条は、しばしばこう問われる。
「守れるのか」「現実的なのか」「抑止力になるのか」。
だが果実は、この問いそのものが、どこかずれているように思えてならない。
第九条は、守れるかどうかを試すための条文ではない。
それはむしろ、掲げる勇気があるかどうかを問う条文なのではないか。
世界は今、再び「力」に傾きつつある。
力による秩序維持、力による抑止、力による安定。
それらはどれも、かつて植民地主義を正当化してきた論理と、構造的には驚くほど似ている。
歴史は直線ではなく、螺旋だと言われる。
理念が掲げられ、制度になり、疲弊し、やがて「現実」の名のもとに力へ回帰する。
私たちは今、その一周を目の当たりにしているのかもしれない。
そんな時代にあって、第九条は、ひどく不器用で、ひどく弱々しい。
守れないかもしれない。
裏切られるかもしれない。
嘲笑されるかもしれない。
それでもなお、「戦争を正当化しない」と宣言する。
それが第九条だ。
よく言われる。
「力のない平和など夢想だ」と。
だがこの言葉は、「例え自分が平和を求めても力をもって攻めてくる者がいる、だから力で対抗する」と宣言している。
それは合わせ鏡の論理だ。
守る自分と攻めてくる他者は綺麗に重なり一つになる。
だから、裏を返せばこう言っていることになる。
――人間は、力を持てば必ず使ってしまう存在だ、と。
もしそれが事実なら、人類はすでに詰んでいる。
核を持ち、技術を持ち、破壊する能力だけを際限なく高めてきた私たちに、未来はない。
だから第九条は、
「人間は善良である」という前提に立つ条文ではない。
むしろ逆だ。
人間は弱く、欲深く、恐怖に駆られれば簡単に力に頼ってしまう。
だからこそ、それでも踏みとどまれ、と命じる条文なのだ。
確かに、日本国憲法は、太平洋戦争の敗北と占領の中で生まれた。
自分たちで選び取った理想だと、胸を張りきれない気持ちは、今も残る。
それでも。
押し付けられたかもしれないその理想を、
80年近く、変えずに、問い直しながら、守り育ててきた。
世界が何度も力へ傾く中で、
「それでも、戦争をしないと言い続ける」という選択を、何度も選び直してきた。
それなら、少しくらい誇ってもいいのではないだろうか。
声高に自慢するのではなく、静かに。
もちろん、現実は理想通りにはいかない。
だからこそ、自衛隊が存在する。
彼らは理念を裏切る存在ではない。
むしろ、理念が破られたときの最悪を、自分たちが引き受ける覚悟をした人たちだ。
戦争を望まず、
それでも起きてしまったとき、前に立つ。
そんな人たちに肩身の狭い思いをさせる社会は、
理想にも、現実にも、どちらにも誠実ではない。
第九条を掲げることと、
自衛隊の存在を認め、敬意を払うことは、矛盾しない。
第九条は、世界を縛る条約ではない。
日本を守る盾でもない。
魔法の平和装置でもない。
それはただ、
力を持ったままでも、自制できる存在であり続けられるか。
人類は、そこまで成熟できるのか。
その問いを、国家という最も暴力に近い装置に刻み込んだ、静かな挑戦だ。
守れるかどうかは、分からない。
破られる日が来るかもしれない。
それでも、掲げ続ける。
それは勝利の宣言ではない。
正義の証明でもない。
ただ、
人類がまだ完全に諦めていない、という証拠である。
第九条は守る条約ではない。
これは、掲げる勇気を問う条文なのだ。
そんな理想論を語っても戦争は終わらないよ、とあなたは言うかもしれない。
でも、
世界中の戦争を止められないからといって、
戦争をしないと宣言する意義がなくなるわけではない。
世界中のおぼれている人を助けられないからといって、
目の前でおぼれている人を助けない理由にならないのと、同じだ。
いつか、
世界中の国が、
この条文を自らの憲法に掲げる勇気を持つ日が来ることを、
果実は静かに期待したい。
理想は掲げなくては始まらない
お し ま い
2026/01/31 初稿
本文を書くにあたり、
思考の整理や表現の検討に
対話型AIの補助を用いました




