なぜ、M-1グランプリの審査は毎年炎上するのか
M-1グランプリの結果が発表されるたび、
SNSにはほぼ同じ言葉が並ぶ。
「審査員の好みだ」
「分かっていない」
「素人目にも明らかにおかしい」
そして必ず、こうした反論が返ってくる。
「プロが決めたんだから黙っていろ」
「素人が口を出すな」
だが、ここには一つの大きな誤解があるように果実は思う。
この対立は、正しさの衝突ではなく、
見ている時間軸の違いから生じているのではないだろうか?
M-1の審査員は、プロである。
それは疑いようがない。
彼らは何十年も漫才を見続け、
失敗も成功も知り、
「この型は長くもつか」「この構造は壊れないか」を
過去から現在にかけての膨大な経験で理解している。
つまり、審査員が見ているのは、
これまでの漫才の歴史の延長線上で、
きちんと成立しているかどうか
という尺度だ。
そもそもが漫才という文化の継承、継続が目的のルールだ。
このルールの中で点数がつけられる以上、
その判断は、大会のルールとしては尊重されるべきであり、
結果として受け入れられる必要がある。
それが大会という装置の理念だからだ。
だが一方で、一般視聴者が見ているものは、少し違う。
多くの視聴者は、
今日いちばん笑ったか
いちばん新しく感じたか
これから先を見てみたいか
という、視点で見ている。
それを素人視点というのならばそれはそれで良い。
だがその視点は
現在から未来に向いた尺度で評価している。
とも言えないだろうか?
それは素人の無知ではない。
むしろ、
文化が次にどこへ行くかを
直感的に感じ取る感度
に近い。
だからこそ、
審査結果と視聴者の感覚が食い違う。
これはどちらかが間違っているのではない。
見ている方向が違うだけだ。
ここで問題になるのが、
「プロなんだから黙っていろ」という態度だ。
それは一見、秩序を守る正論に見える。
だが同時に、
プロの視点だけが正しい
現在や未来の感覚はノイズだ
と言ってしまっている。
しかし、プロの審査とは本質的に、
過去から現在までの尺度
でしかあり得ない。
それは欠点ではない。
だが万能でもない。
文化は、
いつも「正しくないもの」から芽吹いてきた。
最初は粗く、未整理で、
プロから見れば危ういものとして。
もし一般視聴者の違和感や期待を
すべて「素人の戯言」として切り捨てるなら、
文化は安全な場所で停滞する。
だから素人の評価に従え。と言うのか?
その問いの答えは「Yes」であり「No」でもある。
文化継続、継承の理念があるならば今のルールを変える必要はない。
だが、未来の視点も切り捨てない。
視聴者たち(=素人)の評価結果も集計して未来枠を作ってみるのも良くはないか。と果実は考える。
全ての参加者は無理にしても、ラストの5組から10組の一つ一つの結果の平均点で比べてどのコンビが一番視聴者には面白かったのかを未来枠として示しても良くはないか?
大衆の知恵、侮るべからず。だ。
その結果の正しさはきっと時間の流れが証明してくれると思う。
文化とは過去が積み上げたその時、その時代の断面だけでは語れない。時の流れにダイナミックに対応する活動のうねりにもその本質が隠れている。
そのうねりを示す提案、それが未来枠という視点だ。
それは点数ではない。
優勝を左右するものでもない。
ただ、
「これは未来に化けるかもしれない」
「今は未完成だが、次を見たい」
という評価軸を、
大会の外縁に明示的に置く。文化のタイムカプセルだ。
つまり言いたいのはこうだ。
プロは、過去から現在を守る。
観客は、現在から未来を予感する。
この二つは対立ではなく、役割分担。
M-1グランプリの審査が炎上するのは、
審査が間違っているからではない。
一つの大会に、
未来を見たい視線まで
すべて押し込めてしまっているから、なのではないか?
プロの審査は尊重されるべきだ。
同時に、
視聴者の違和感や期待も無視されるべきではない。
どちらも、
漫才という文化を
別の方向から支えている。
炎上とは、
その両方がまだ生きている証拠なのかもしれない。
ま、ぶっちゃけちゃうと、それを毎年楽しんでいるだけなのかもしれませんけどね。
それならそれでれ楽しめばよいのです。
余計なお話でした
お し ま い




