第5話 ハイパワー・ナグルス先生
あれからまた1週間が過ぎた。聖別幼育園は食事にさえ目を瞑れば現代日本の経験がある俺でも楽しい場所だった。子供の好奇心を満たす教育に御遊戯に歌に、同年代の子供と一緒に過ごす時間。それは同年代の幼児にとってかなり幸せな事ではないのかと思う。村で育てば3歳4歳とはいえ、水汲みや洗い物等の家事はしないといけなかったし、5歳6歳からは農作業だってあった筈なのだ。その雑事から解放されて楽しく遊べる。なんと素敵な!
ともあれ、楽しい日々は続き、友達も出来た。
ゲロゲロ=ソフィエル大天使とチロリ=ツンパカブリエル天使だ。ここでの呼び名は名前の後に=が付いて天使名が付く。名字のある奴はその名字も付くが、こいつら揃いも揃って無戸籍の農民だから名字何てのがなかった。
仮に俺が天使ならばグローリア・ヤマダタロウとでもなるのかと思うと萎える。それとも例の謎の呼び名のコーデックスを取ってグローリア・コーデックスになるのか?
そもそもあの7枚羽の天使は何だったのか? ここの生活にも慣れてきたので、そろそろ探してみても良いかもしれない。俺のひだりての薬指に巻き付いている赤い糸の一端がハイパワー・ナグルス先生にも付いてるのだが、それを知られたからと言ってどうこうする悪い人ではないと確信出来る位の見極めは出来たし。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、そんな事を考えていたつい先日の事。まだ天使名が付いていない……思い出せないと言う子供は俺とあと1人の子だけとなった。
ここが動き時かも知れない。
俺は天使様の名前を覚える授業の時に、教鞭を持っているハイパワー・ナグルス先生に尋ねた。
「ハイパワー・ナグルス先生。天使の力の象徴は羽の数と仰いましたが、7枚羽の天使様はいらっしゃるのですか?」
その質問にハイパワー・ナグルス先生は眼に力を込めてこう答えた。
「奇数の羽を持つ天使様はこれまでに殆んどいらっしゃらないとは思います。少なくとも、ここにある書物にはその記録はありません。……あなたの中の天使様は7枚羽なのですか? グローリアさん」
ヤバい、藪蛇だったか?ハイパワー・ナグルス先生の目線が明らかに変わった。
「いえ、それは分かりません。聞いてみただけです。ハイパワー・ナグルス先生」
「そうですか、早くお憑きの天使様が現れになると良いですね。グローリアさん」
「はい、ハイパワー・ナグルス先生」
……。うぬう。正直不味った。ここでの生活が楽しすぎて浮かれていた。ハイパワー・ナグルス先生のあの目は7枚羽の天使の事を知っている。間違いない。
その上で「これ迄には殆んど居ない」「少なくとも書物には」と言う誤魔化しをした。ハイパワー・ナグルス先生は“聖職者は嘘をつかない”とどこぞのインディアンと似たような事を普段から言っているからな。嘘はつかない範囲で誤魔化したと言う事は「知っている」と言う事だ。
うーん。
ハイパワー・ナグルス先生は本当に信用出来るのか……?
先程の甘い判断が、疑念となってハイパワー・ナグルス先生を疑う。多分、いい人の筈なんだ。日頃から清貧をモットーにして厳格に生きている感が見て取れるし……。
前世の現代日本での宗教の立ち位置からあまり聖職者には信頼が置けないが……。信じて話すべきか、このまま押し黙るのが正解か……。
結局こちらも笑顔で誤魔化しつつ時を過ごした。
お遊戯室の机の上には活けたたんぽぽが首を傾けている。
◇ ◇ ◇ ◇
昼の時間は時と言う風に吹かれて去った。
そして、星をきらびやかに着飾る夜を迎えた。
自室の木の寝台の上で1人、目を開けて預言者の絵画とその周囲に群がる天使像を眺める。天使像はともかく、預言者とか言われている奴は非常に胡散臭い。あまり顔が認識出来ない。油絵の特徴なのか何なのか、見れば見るほど吸い込まれるようにモザイクが強くなる。偶像崇拝を禁じる為か? そもそも天使像があるから違うか。……ああ、これはどうでもいいな。
グローリア自身はもう眠っており、意識としては完全に俺だけが覚醒している。
念のために今日だけは俺は寝ないつもりだ。
身体に巻き付いていた赤い紐が今日は寝るなと言っている気がする。
すると、廊下をコツコツと進んでくる足音が聞こえてきた。
普段の見回りとは違う。明らかな意思を含んだ足音だ。
コンコン。
乾いたノックが硬い響きを部屋の中へ伝える。緊張感的には就活の時の面接の空気だ。いや、そこまで堅くないか。
「はい、どうなさいましたか?」
「ハイパワー・ナグルスです。入ってもよろしいですか?」
「お待ちしておりました。お入りください、ハイパワー・ナグルス先生」
そう、結局俺はハイパワー・ナグルス先生を信用して、全てを話すと言う選択の覚悟をして、恐らく今夜来るであろう先生を待っていた。
回らないドアノブが押され、木製のドアが何の軋みも無く開かれる。いつもはギーギー五月蝿いドアの癖に生意気だ。
そこには、いつもの白い神官のローブを着た先生が立っていた。
「グローリアさん、私が来た理由はわかりますか?」
「ええ、7枚羽の天使の事ですよね」
「そうです。……いきなりですが、あなたの中のいらっしゃる天使様が7枚羽の天使様で間違いは有りませんか? それとも別な天使様ですか? わかる範囲で構いませんので、是非ともお話下さい」
「まず……俺が7枚羽の天使かどうかと言う問いに対しては恐らく違うと言っておきましょう。俺は何故かグローリアの中に閉じ込められているが、多分“天使なんかじゃない”。ただ、恐らく俺をグローリアの中に閉じ込めた奴が7枚羽の天使なんだ。ハイパワー・ナグルス先生はその事をご存知ではないですか?」
「はい。知っています。ではあなたのお名前を伺っても宜しいですか?」
「ここの世界の発音では聞き取れないと思いますが、一応お答えします。俺の名前は○○○△△△……です。7枚羽の天使は俺の事を“コーデックス”と呼びました」
『○○○△△△……! コ……コーデックス!』
ハイパワー・ナグルス先生は2・3歩後退って、日本語で呟いた。