第1話 ブラック転生
君は、罪を犯した時、天井からぶら下がる電灯の紐に救いを求めた事があるだろうか?
下人になりきって老婆の衣服を剥ぎ盗った事は有るだろうか?
俺はある。
優れた物語には、現実に即した“何か”から着想を得たのだろうという痕跡がある。
俺はこの世界のあらゆる“何か”から創造力を貰って、誰にも書けない物語を書き記すと言う夢がある。
だが、現実は非常に非情で、俺は物書き以外の職業に就職させられてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
「はぁ……また設定厨か」
俺は目の前に積まれている1,000枚越えを豪語されたA4用紙の塊に溜め息を吹き掛ける。
ふぅ。
その表紙には『設定集』と書かれていた。
これの執筆者は「小説家になろう」の小説家。
桃太郎や浦島太郎、それからマッチ売りの少女、『荘子逍遥遊』に出てくる鵬がトラックに跳ねられてファンタジー世界へ転生する『童話転生』がランキングを跳ね上がり、書籍化が決まったのだが……。
作品の資料だけ先に送ってきて、肝心の原稿が恐ろしく遅い。
そして、おまけの資料がバカみたいに多い。
送られてきたファイルを文章作成ソフトで立ち上げた時。何も気にせずに「印刷」ボタンを押したら、有線で繋がった印刷機が無限に紙を吐き出すマシーンになった。壊れたかと思ったぐらいだ。
ああ、そうそう。
俺は名も無き編集者。大学卒業後1年経ってからの就職活動で、たまたま採用された零細出版社のラノベ部門を1人で回している。
仕事内容? 簡単だよ。
小説サイトを巡回して売れそうな小説を見つけては、それを書いているアマチュア小説家とコンタクトをとって、その小説を再構成・異次元修正して、イメージにあったイラストレーターを付けて出版する。
そして、アニメ化や映画化出来そうであれば細かく丸めて上司のケツの穴に捩じ込む。そしてその全ての作業を報告書と言う地獄の苦行で表現して提出する。
まぁ要領が良くなれば、徹夜は1週間のうちの5日程度で済む楽なお仕事ですわ。
3日に1日は眠れるって最高じゃない?
酒や煙草は飲まない。と言うか飲む時間がない。そして食事も睡眠も嗜む程度。
~と言う事で、俺は“実に健康的な生活”を送っていた。
「今日も徹夜だな」
俺は難産の末に吐き出された『設定集』を読み込むべく、タールの様に濃いブラック珈琲を片手に頁を捲って行く。
「世界観――地理・宗教・民族・種族・植物・動物・産業・工業・魔法・教育・語学・歴史・音楽・魔物……。こりゃスゲーな」
有りとあらゆる設定が細々と書かれている。……まるで見てきたかのように。
軽く流して読み進めてもちょっとした大手ゲームのアルティマニア10冊分はある。
そして、その全てに表立った齟齬がない。
「このラノベが無事に流行ってくれるなら、このデータもデータブックとして出版出来るレベルだながぁ、データだけで小説が上がってこねーんじゃどうしようもないがな」
ちくたっく!
部屋の時計の音がやけに気になる。何かのカウントダウンの様にコツコツと不安げな音を出している。
◇ ◇ ◇ ◇
「……はぁ」
俺は珈琲を煽る。
んグ……。
ふぅ。
「結局最後まで読んじまった……か」
俺は最後の頁の1文を読むと、頬に鈍い高熱を感じつつ、突っ伏して眠りについた。どうせ2~3時間おきに掛かってくる誰かの着信音に起こされるだろう。
時計の音がとてもゆっくり聞こえる。
ちぃーっく、たぁーっく。
長く眠れそうな予感がした。
◇ ◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇ ◇
頬の熱気は気付くと冷たくなっていた。
「涎か……」
スマホの充電を確認するべく目を開ける。
顔を上げようとすると顔の回りについた赤黒い塊のせいで瞼が動かない。うっすらと開いている目もなんだがボヤける。
あれ……? 身体が……?
結局目を閉じる事なく世界は更にぼやけていき、重くなった身体は地面へと吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇ ◇
すると
突然……。
全身が性感帯になったかのような感覚が俺の全神経を支配する。
あ――これあぶないドラッグかな? 寝てる間に何か注射された? これ人生オタワかな?
強烈な光に身体が痙攣して跳ね上がる。
「オギャア! オギャア! オギャア!」
光がァアアアアアア!
目がァアアアアアアア!
バルゥウウウウウウウス!
「ヒギャア! メギャア! バルゥス!」
俺は全力で身体を強張らせて強烈な快感の濁流に身を委ねる。
再度言わせて貰う。全神経が性感帯。ダメ、絶対。
ああああああああ!
「あぎゃあ!」
……全身を貫く感覚の暴走。それが収まり、ボヤける視覚刺激を遮断して1つの可能性に辿り着く。
俺、赤ちゃんになっちゃったでちゅー。
そう、答えはいつもシンプル。
多分俺はあの夜に死んで生まれ変わったんだろう。
赤ん坊となった俺は、赤ん坊としての仕事に引っ張られる様にして世界の光を学び、新しい手足の感覚を掴んでいった。
母親は俺を優しく抱き締めて、勝手に動く唇へ栄養を注ぎ込む。そして垂れ流しの排泄物を布で拭って浄める。
俺は苦しくなれば泣き、母親は世話をする。頻繁に繰り返される赤ん坊からの呼び出しにうんざりした様子もなかった。……とは言わないが、おおよそ泣き叫ぶだけのナースコールは機能した。
人を育てる親は偉大だ。
◇ ◇ ◇ ◇
両親の話している言葉は日本語や英語ではなく、聞いている分には全く理解出来なかった。しかし、その言葉とシュチュエーションは頭の中で漂いつつ結び付き合い、データベース化されていくのを感じた。
つまり、俺の頭の中で誰かの意識が育ちつつあるのだ。
そいつは外界の光や音や、有形無形の愛情を糧にしてどんどんと大きくなっていく。
それは俺の記憶にも触れる事が出来る距離にいる……そう感じた。
……俺は死んで誰かに憑依でもしてるのか?
それとも守護霊? 多重人格……?
……多重人格が1番近いか。
つまりこれが俺の第2の人生……?
……。
客観的に考えて、色々思い止まった。
そのデータベースに俺と言う異物が入って良いのだろうか?
俺の人生の記憶はこの赤ん坊には必要ないんじゃないか?
そうだ。前世の記憶なんてあったら、まともに成長なんて出来る訳がないじゃないか!
俺の記憶が読めるから、こいつにとって初恋だって甘酸っぱくないだろうし、麻疹や水疱瘡だって成人式だって経験済みで新しい感動が無いだろうし、2度も同じ経験しても仕方がない。
第一、そこまで行くのに俺自身がかったるくて仕方無いだろう。
そうだ、俺や俺の記憶は赤ん坊の成長には不要じゃないか。
……。
……!
そう考えると行動は早かった。
俺は意識を集中して、この赤ん坊の身体を出る。俺が死んだ身……幽霊か何かならばそれが出来る筈だ。
そう、これで良かった。この赤ん坊にはブラック珈琲を飲んで死んだブラック編集者の記憶なんていらない。
俺の記憶があるときっと思考はブラックに引き込まれてしまう。そんな人生を送るためにこの赤ん坊は産まれた訳じゃない。
柔らかい乳首。
あたたかい手。
日々与えられる無償の母の愛を感じてそう思えた。
そんな愛を、俺も死ぬ数十年前は一身に受けていたんだな。それなのに身体を壊して死ぬような親不孝者になるなんて……。
悲しい。
ああ、神様。この親子が幸せになりますように。
俺はゆっくりと赤ん坊をすり抜けて、見下ろした。
すやすやと寝息を立てている。
さらば、名も知らぬ……。
いや、恐らく「グローリア」と呼ばれている赤ん坊よ。
お前と過ごした半年は楽しかったぜ……。
……フッ。
不意に何者かに足首を握られた。
「逃がさねぇぜ“コーデックス”」
不気味な声の後に、振り返る間もなく俺の身体は赤い紐で雁字搦めに縛られた。
その紐の先を見ると、赤ん坊の頭の周りにいつの間にかに3人の男達が立っている。
紐はその男達の“左手の薬指”と繋がっていた。
宙に浮いている俺を見る男達。その目に生気は無く、人形だと言われれば人形の様な姿をしていた。
そして、その背後に……全て右向きの7枚羽を背負った天使がいた。
「逃がさねぇよ」
俺がその姿を確認するのを受けて“天使”の唇が笑顔を作る。
“逃がさねぇよ”
……天使の方からの声は、俺の耳にそう聞こえた。
挿絵は九藤 朋さんからのファンアートです。