序幕 1
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序幕
1
乾ききった風の哭く音が、雲の多いわりによく光る月と共に、カイアスの感覚に触れて来た。
嫌な予感がする。
風の知らせ、とでもいえばいいのだろうか。使い古された言い回しだとしても、そうとしか表現できない、奇妙な感覚だった。
だからなに、というようなことではなかった。カイアスは今、小さな傭兵団に雇われるしがない用心棒にすぎないのだ。もう一年は優に超すほど長い付き合いになるとはいえ、所詮は雇用者と雇用主である。こちらからは何も主張しないということは、カイアス自身が決めた線引きの一つだった。
そこかしこでたむろしながら獲物を観察していた傭兵たちが、頭目の号令の下ぞろぞろと動き出した。獲物を包囲しようとしているらしい。
魔術による結界はおろか、城壁や土塁すらも無く、木の柵で囲われただけの、孤立した村。それが今日の獲物だった。
冬の足音に追い立てられて前の戦場を後にし、動乱の噂に釣られて山を抜ける間道や桟道を伝ってこの国――この最果ての国『マグノリア』へとやってきた傭兵団の目の前に、突如現れたその村は出来過ぎなほどにお誂え向きな獲物だった。そして、傭兵たちは獲物に飢えていた。
文字通りハイエナのように闇に紛れて動く傭兵たちに背を向け、カイアスはいつもそうするように獄車の屋根に飛び乗った。今は中身が少なかったが、無理をすれば中に十人以上の『商品』が詰め込める獄車である。長すぎるほどに長いカイアスの得物を持ち込んだとしても、一人でくつろぐには十分なスペースがあった。おまけにここを見張り台にしようとした奴がいたらしく、屋根の上には東屋のようなものまで造られているのだ。下から聞こえる怯えたような物音にさえ耳を塞げば、ここは最高の休憩スペースだった。
少しして、村を包囲していた傭兵たちが動き出した。
月が雲に隠れてあたりが闇に沈んだのを見計らって動く場慣れしたやり方で、数人前の断末魔が闇を裂くまで大した時はかからなかった。
村のすべてが停止し、何もない、すべてが止まったような静寂が訪れる。
勿論、それを破るのも傭兵だ。
手近な家のドアを蹴破ってリビングまで押し入り、彼らは必ずこう言うのだ。
「冬の心配をしなくて済むようにしてやるよ」
瞬く間に、静寂のすべては混沌へと引き擦り戻された。
錯乱した村人が逃げ惑う姿も、目についた人間を遊ぶように殺す傭兵たちの姿も、略奪の光景はいつも寸分も変わらない。傭兵の騒ぐ声は獣の鳴き声でしかなかったし、女の悲鳴は人間の声でしかなかった。
恐慌の前線は見る間に村の中心へと移っていき、角を曲がってカイアスの視界から消えた。後に残された抜け殻は、もはや家と呼ぶにはふさわしくなくなっていた。断続的な悲鳴だけが仕事が順調に進んでいることを告げている。今夜の稼ぎも上々だろう。苦々しい気分でカイアスは思った。
「勘が外れたのが悔しいのかな」
殆ど寝そべるような姿勢のまま誰にともなく呟いた声は、口から出るよりも早く風の哭く音に呑まれて消えた。
カイアスは、略奪というものが嫌いだった。
無論否定する資格などない。或いは嫌いということすら許されないのかもしれない。
それでも嫌いなものは嫌いなのだ。それは理由も根拠もあいまいな想いだったが、九年もの間カイアスを律し続ける程度には強い想いでもあった。だから、自分で略奪をやることはない。
それでいいとカイアスは思っていた。
どれほどの時間がたったのか。カイアスが気まぐれに立ち上がったのと、それは同時だった。
音が消えた。
風に、騒乱の全てを吹き飛ばされたかのように、消えた。
一拍遅れて帰って来た騒乱は、もう全く別のモノに姿を変えていた。
何が起きた。それを考えるより先に体が動いたのは、それが生業だからなのか。
自分でも解らないまま、カイアスは空を舞っていた。
着地したのは、村の入口だった。
転がりながら進むことで着地の衝撃を殺し、起きる勢いでそのまま曲がり角を駆け抜けた。
広場に飛び込んだ時最初に感じたのは、鼻に刺さるような血の匂いだった。
両手に剣を持った男を取り囲むようにしている傭兵たちが見えた。
カイアスは得物のヅヴァイハンダーを担ぐようにして構え、包囲の輪に割り込んだ。
ほとんど同時に月が雲を抜けたのは、或いは必然だったのかもしれない。
村の中心の、猫の額ほどの広場。
血の海と、そこら中に転がる屍体。
中心、独り立つ、二刀流の男。
全てが赤く、そして黒い。
血で、染め上げられていた。
目が遇った。
赤黒く、長い前髪の隙間。
赤黒く染まった顔。
蒼い瞳。まるで別のもののように、美しく澄んでいた。
不意に放たれた殺気が、カイアスの肌に突き刺った。
「ちっ」
圧力に抗うように小さく舌打ちをして、カイアスは考えを巡らせ始めた。
得物は重く長いヅヴァイハンダー。
一対一では不利。
相手は、同じ長さを二本使う二刀流。
確実に手数型。
不利に不利が重なっていた。
そして、この殺気。
間違いなく手練れだった。
あるいは自分以上の遣い手かもしれない。
どうするのか。
焦りを悟らせないように、カイアスはヅヴァイハンダーを握る手に力を込めた。
迷う間に、傭兵たちが後ろへ集まってきた。
数を数える余裕こそなかったが、結構な人数がいるような気がする。
何よりも、一年以上共に戦った戦友だった。次に彼らが何をするのかはなんとなく読めた。
カイアスの思った通り、傭兵たちは槍衾を造り始めた。
それなりの人数が生き残っていたようで、槍衾は敵を牽制するのには十分な厚みになっていた。
これならいける。カイアスはそう思った。
如何に強くても所詮は独り。
槍衾に突っ込んでくるようなマネができるはずがない。
敵の圧力が一気に軽くなったのを感じながら、カイアスは半歩後ろに下がった。
敵は動かない。いや、動けないはずだ。
このまま陣形を維持しつつ下がっていけば敵は攻撃してこない。
その確信が警戒を緩ませるのを自覚しながら、カイアスはもう一歩後ろに下がろうと脚を動かした。
その動きに合わせて、槍衾もじりじりと後ろに下がり始める。
それを見てとってのことなのか、小さく息をついた二刀流が、突然奇妙な構えをとった。
右腕を大きく後ろに引き、体を大きくひねり腰を落とした構え。
まるで、何かに変身しようとするかのような。
その奇妙なポーズのままで、あの蒼い瞳だけが、カイアスを射抜くように見据えていた。
また、嫌な予感がする。
カイアスは何がどうとは言えない嫌な予感の正体を探ろうと、足を止めて敵を観察した。自然、槍衾も後退の脚を止めた。
深く引かれた右手に持った剣。
あからさま過ぎるほどに、『この剣で斬りますよ』という気配を放っている。
フェイントや小細工を弄する気など毛ほども感じられない。
逆に、左の剣はおとなしい。
ともすれば隙とも見えるほど、静かに、自然に構えられている。
無論、それは隙ではない。誘いだ。それには、乗らない。
何を狙っているのか。
何かを待っているのか。
それが肝心だった。
いくら月が明るいとはいえ所詮は夜で、どんな剣なのかがよく見えない。
それでも、その剣に派手な装飾のようなものが一切ないことは十分に見て取れた。
魔導具の類とは考えにくい、シンプルでありふれた形状の、剣らしい剣である。
そもそも魔法の気配すら、いや、それどころか魔法の源である、大気中の〝エル〟がそよぐ気配すら感じられないのだ。
魔法であるはずがない。
ならあの構えは何を。
読めない。
カイアスは、いつの間にか肩で息をしている自分に気が付いた。
どれほどの時間、対峙しているのか。
右の剣が咲いたのは、あまりにも唐突だった。
咲いた。そうとしか言いようのない動きで剣が変形し、蒼いオーラが噴き出した。
一瞬前まで静まり返っていた大気中のエルが、渦を巻いて剣だったもののところへと集まっていく。
何が起きたのか。
理解する間もないままに、カイアスの躰は動き出していた。
虚空を斬る。そのはずだった手に残ったのは、金属を斬ったような重い感触だった。
斬ったらしい。
何を?
カイアスがそれを認識するより早く、エルの塊同士がぶつかり合う独特の爆発音が、あたりに響いた。
爆風と共に突っ込んで来る、影。
左の剣。
舞のような、流れるような動きで、剣らしい剣のまま、それが閃いた。
カイアスは、静かに目を閉じた。
暗い世界で、誰かが何か短く唱えるのが聞こえた気がした。
死んだ。
……と、思っているということは死んでいない。
そう気が付いたのは、強烈な爆風に晒されてからだった。
たまらず目を開けると、目の前にいたのは二刀流とは別の男だった。
「味方だ。君の」
目の前に立つ乱入者が言ったということは、混乱気味の今のカイアスにも理解できた。しかし、それが誰なのかはわからない。
不意に別の影が三つ現れ、二刀流に飛び掛かった。
それを確認したのか、乱入者は二刀流に背を向けた。自然、正面にいるカイアスと目があう。
「逃げるぞ」
言い終わらないうちに、乱入者は動き出していた。
ほとんど反射でカイアスも振り向いた。が、一歩目を踏み出すより早く足の動きが止まった。
放心した数人の傭兵、その左右、二つのひき肉の山。
それが何だったのかを理解するより速く、真横から半ば殴りつけるような勢いで頭をつかまれた。
不意を突かれ一瞬反応が遅れる。
抵抗するより早く、全身の力が抜け去った。
抗いがたい睡魔の隙間に、大きな舌打ちが聞こえた。乱入者が術をかけたことだけは、それでなんとなくわかった。
勘は、やっぱり当たっていたのか。薄れ行く意識の中で、カイアスはそう思った[newpage]
飛び掛かって来た、三人つの影。
三つの斬撃を、全身を捻るようにして躱す。
クロードはすれ違いざま、敵の一人の頚椎に左の剣を叩きつけた。
必死だった。
首は、斬れずに折れた。
魔力が切れかけていることに、その時初めて気が付いた。
返す切っ先に集められる限りのエルを集め、もう一人の喉元へと向ける。
血が、別のもののように噴き出した。
三人目。
右に回り込まれた。
上手く急所が狙えない。
三人御揃いだった短い剣が、鋭く突き出される。
躱した時、遂に限界が来た。
膝が崩れ、無理な体勢のまま、地面に転がり込んだ。
視界が回る。
頬から地面にぶち当たる。
動くのは、左腕だけ。
両脚の感覚はほとんどなかった。
一撃目。
短い剣が打ち下ろされた。
這いつくばるような姿勢のまま受けた。
普通の剣よりずっと短い剣なのに、その打ち込みは今のクロードにとって鉄槌のそれよりも重かった。
二撃目。
跳ね上げるように、下からの斬撃。
受けた。が、剣が飛ばされた。
握力が切れたのかもしれない。
大きく剣を振りかぶる敵の、勝ち誇った顔が見えた。
不思議と死ぬ気はしなかった。
こんなものか。そう思っただけだ。
不意に風を切る音がして、敵が動かなくなった。
大きく振りかぶった右手に握る短い剣のわずかな重さに引っ張られ、仰向けに倒れていく。
石か何かのような音を立てて地面にぶつかった。
腕だった部分だけが折れ、別のもののように地面を滑ってクロードの目の前に転がった。
いや、確かに別のものだった。
それが氷であることをクロードが確信したのは、見慣れた、小柄な執事服が駆けよって来るのが見えた時だった。
乱入してきた男と長剣使いは、いつの間にか消えていた。生き残った数人の傭兵も一緒に消えている。
それをどこか惜しいと感じている自分に気が付いて、クロードは少しだけ驚いた。が、その驚きは氷塊と化した腕と共に、黒いブーツに蹴り飛ばされた。
「…ご無事ですか」
相当怒っているらしい。シザリオがようやく口をきいたのは、血の海からクロードを引き上げた後だった。
もちろんまだ立つことはできない。上半身だけ起こして背中をシザリオに支えてもらうことで、ようやく顔を血に浸けずに済んでいるという体たらくだった。
「無事だよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「立てないだけです?」
「立てないだけです」
「右腕……」
言いながら、シザリオはクロードの右袖をナイフで切り裂いた。
「……ご無事のようですね?クロード様?」
「……相変わらずお前のジョークはいいセンスしてるよ、シザリオ」
無事なはずもない。剣こそ元の姿に戻っていたが、クロードの右腕は内側から破裂したようになっていた。長い間まともな訓練をしていなかったのに、突然莫大なエルを操作して強大な魔法を紡ぎ、ひき肉の山二つを生み出した代償がこれだった。
ほとんど自分の腕という感覚がない。強張った手がいまだに剣を握りしめていることすら目で見るまでは気が付かなかったし、腕全体にわたる怪我の痛みすら曖昧なものだった。
「それはどうも…」
口とは裏腹に、シザリオの動きは速かった。クロードの背を抱いたまま引きずり、適当なところに立て掛けて自力で座らせたかと思うと、小脇に抱えていた布のようなものを細く裂いて肩口をきつく縛り右腕全体からの出血を抑え、次いで回復の魔術を起動するための呪文の詠唱を始めた。
「魔法はやめろシザリオ。手当も後だ」
クロードの命令に反応して口の動きをを止めたシザリオが、理解できないという顔でこちらを見た。
束の間、視線が合う。無言のせめぎ合いは一瞬で決着がついた。
「後だ。荷物を持ってこい」
「……承服できません」
束の間逡巡したシザリオが、視線を合わせないように俯いたままで答えた。
「本当なら村を出ることでも反対したいところですが、今は敢えて反対いたしません。しかしクロード様、この腕は…」
「わかっている。急を要する怪我かもしれないんだろ?」
「ならっ!」
「だめだ。時間が惜しい」
「でしたらせめて簡単な血止めの術だけでも…」
「それもダメだ。敵がさっきのやつらだけじゃなかったらどうする?」
「それは…」
敵がさっきの一団だけではない可能性。それはシザリオも十分にわかっているはずだ。仮に最初の一団が見た目通りに只の盗賊であったとしても、最後のところで乱入してきて長剣使いを庇った男と、その男の脱出を援護するためにクロードに攻撃してきた三人は明らかに前者とは別組織の人間だった。
任務があった。
それも、父である現王から直々に拝命した任務だ。
その為にこの村に来ることがあらかじめ決まっていたというようなことはなかったが、少なくとも任務の一貫としてこの村に来たのだ。
何らかの手段で敵対勢力に察知され、攻撃を受けた可能性は十分に考えられる。
そういった経緯の全てを、シザリオがちゃんと理解していることをクロードは知っていた。
解った上で、従者として主人である自分のことを心配してごねていることも。
「やはり、それでも承服できません」
俯き加減になってたシザリオが言った。クロードは答えず、従者の次の言葉を待った。これ以上何か言えばシザリオはそれに従うということはわかりきっていた。
長くは待たされなかった。数秒、というところだろう。シザリオは顔を上げなかった。
「とりあえず今ここで手当をして、それから出立するとういうことではいけないのですか?」
「……もう俺は、これ以上冷や飯だけを食い続けるのはごめんだ。」
クロードは、一度言葉を切った。
「この任務を果たしたところで何かが変わるというわけでもないのはわかっている。それでも何もしないよりはましだと思う。違うか?」
それで、シザリオはまた黙り込んだ。
いつからか主従という関係になったとはいえ、幼いころからずっと、兄弟のようにして過ごしてきたのだ。シザリオは自分が何を考えているのか、何も言わなくてもわかる。そうクロードは思っていた。
「…わかりました、すぐに持って参ります」
それだけ言うと、顔を上げずに立ち上がり、荷物を取りに走った。
月は、まだ広場をあまねく照らしていた。
クロードは広場中に散らばる屍を眺めた。今更込み上げて来た吐気は無理やり抑え込んだ。おびただしい数の屍を生み出したことに、罪悪感が湧かなかったといえば嘘になる。しかしその感覚は、クロード自身が手に掛けた綺麗な屍体に紛れ込む滅多突きの遺体を見るたびに薄れていった。
「俺は必要なことをしただけだ」
何かを捨てるような気分に後ろ髪を引かれたまま、クロードは声に出して呟いた。
「必要なことを」
クロードはもう一度声に出して呟き、後ろ髪を引く何かを振りきるように空を見上げた。
目が遇った。
子供だろうか。クロードが背を預けている家の窓からちらりと覗いた二つの眼は、この場にふさわしくない澄んだ色をしていた。
「ねえお兄ちゃん」
ほとんど囁くような声で言う。昔から他人の性別の判断が苦手なクロードには、それが女の子の声なのか男の子の声なのかの判別がつかなかった。
「お兄ちゃんは、セイギのミカタなの?」
「…なんで、そう思うの?」
「ワルイひとたちをコロシてくれたから」
躰の芯に微かな痛みが走ったのは、やっと存在感の戻ってきたの右腕の伝える痛覚の所為だけではなかった。
「……そうだよ。」
束の間、言葉を選んだ。これ以上見たくなくなって、クロードは子供を見上げることをやめた。
「俺は正義の味方。」
頭上で子供の目が輝いたことがはっきりとわかった。
「じゃあワルイやつはもういない?」
「…うん」
「ほんと?」
「全部、俺が斬った。」
クロードは胸に広がる嫌悪感を圧し殺したまま上を向き、笑顔を作ってみせた。多分、笑えていたはずだ。
一瞬だけ目が合って、子供の眼が窓の隙間から消えた。
笑えていなかったのかなと考えるより早く、家から飛び出してきた子供がクロードに小さな手を差し出した。下手くそな紐細工が握られている。
子供が立ったのはクロードから見て右側だった。感覚の曖昧なままの右手を剣から離す無駄な試みを何度か繰り返した後、クロードは無理やり左腕を伸ばし、なんとか紐細工の報酬を受け取った。
「あげる!」
元気に言う子供の笑顔が妙に眩しかった。
「ありが…」
「エイラッ!」
悲鳴の主と思しき中年の女が、家の中から猛然と突進してきた。子供を突き飛ばすようにして勢いで抱きしめ、自身の体を盾にするべく、ほとんど土下座をするような姿勢でうずくまった。殺すなら私を。申し訳ありません。まだ子供なんです。御赦し下さい。訛りのきつい下手くそな公用語で必死に喚きたてる。
彼女が決死の覚悟で、動けない自分に向かって並べる言葉の一つ一つが、その言葉が元々の意味とは全く異なるものとなって突き刺さる。自分の思考が、酷く散漫になっていることをクロードは漠然と感じた。今頭の中で渦を巻いているのは子供の性別のことだ。顔を見ても名前を聞いても、判断が付かなかった。
我ながら。いくらそう思っても、思考は、錯乱気味の母親を落ち着かせる方向へと向くことは無かった。
まだ、喚き続けている。殺されたのか元々居ないのか、村人が広場に出てき始めても父親らしき影は現れない。
クロードは、村人たちの集団が微かな殺気を孕んだものに変質し始めたことに気が付いた。敵ももうもいないのに。そんな悠長なことを考えていられたのは、その殺気がクロード自身に向けられたものであると気付くまでだった。
クロードやシザリオの服装は、旅人の旅装の平均値よりは多少良いかもしれないという程度だった。しかしシザリオに準備させている荷物一式は、かさばるので一切ごまかしができない。
安価な鳥馬ではなく、高級品である本物の馬に引かせた屋根付きの馬車。荷物はそれだけで、中身は多くなかった。それでもある程度の金銭や銀の粒は入っていたし、そもそも論として、襲う側には中身などはわからないのだから、問題になるのは屋根のある馬車と本物の馬という外見的な情報だろう。
それの持ち主がどれくらい金を持っている人間なのかを、持ち主自身が明らかにしていない段階でも見分けることができるのかどうか、クロードは知らなかった。
だが、少なくとも屋根付き、つまり居住能力のある馬車を、体力があり移動能力も高い本物の馬に引かせて旅をしているという限られた条件を満たす旅人が、ジプシーや旅芸人や行商人など、『全財産を持ち歩いている人種』と思われうるということくらいは世間知らずのクロードにも容易に想像がついた。
つまり、クロードたちは村人たちに、それなりの財産を持ち歩いていると思われているのだ。
おまけに主人のクロードは動けず、従者のシザリオは小柄でとても強そうには見えない。
要するに、略奪で受けた被害の補填に丁度いいのだ。
馬も馬車も、ちょっと手を入れれば農耕に使えるし、そのままとしても売ってもそこそこ以上の金になる代物であることは明白だった。
集団で行動したのなら再分配の段階でもめそうなものだとクロードは思ったが、たぶん今の彼らにはそんなことは全く問題ではないのだということも、頭のどこかでわかっていた。そもそも合理的な計算をしているのかすら怪しい。
「困ったな…」
言ってみてもどうにもならない。
さっきまで喚いていた母親も立場の逆転を察したらしく、いつの間にか静かになっていた。
村人は、血に酔っていた。素人である分だけ酔いやすい、というところはあるのだ。
何人かが、傭兵が遺した武器を拾った。
それきり誰も動かない。タイミングを計っている。最初の一発が来たら、あとは雪崩をうって続きが来る筈だ。それに、間に合うのか。
「貴様らッ!」
闇を割る、透き通った声が響いた。
村人が一番集まった所を敢えて掻き分け、シザリオが馬と馬車を曳いてきた。
威圧のつもりなのか、わざとけたたましく足音をたて、屍を蹴り飛ばし、血を撥ねさせている。
「恥を知れッ!盗賊から救ってもらっておいて!」
再度響いた声に場が呑まれ、村人たちが怯むのがわかった。
まるでどこぞの教官と新兵のような光景だ。クロードは吹き出しそうになるのを何とか堪えた。
「貴方も貴方です!なぜ静かに待っているということもできないのですか」
クロードの目の前、村人の集団とクロードの間に割り込む位置で馬を止めたシザリオが、馬車の横腹にあるドアを開けながらまるで子供に説教をするような口調で言う。
図星を突かれ答えに窮する間にも、シザリオはぶつぶつ小言を言いながら強張ったままだった右手を解きほぐし、握りしめていた剣を取り上げた。
「解りましたか?」
パチン。という鯉口の音に合わせて締めくくるように言ったシザリオが、微かに得意そうな表情になった。
どうやら怒りは、とりあえずは収まったらしい。
そこに至るまでの過程を全く聞いていなかったが、とりあえず首を縦に振っておく。
剣と一緒に抱き上げられ、馬車の中に整えられたベットのようなスペースに丁寧に寝かしつけられた時にはもう、クロードは完全に抗弁する気をなくしていた。
「奴隷の癖に偉そうに!」
今頃になって気を取り直したらしい村人の一人が、まるでシザリオのクロードに対する言動を糾弾するかのようなタイミングで叫んだ。一体なにをもってシザリオのことを奴隷と断じたのかクロードには理解し難かったが、少し離れたところまで飛ばされていた左の剣を回収していたシザリオの、よどみない動きが一瞬停止したのをクロードは確かに見た。
シザリオは怒っている。
それはさっき自分に怒ったときとは全く違う質のものだ。
それでも今は、自分の為に耐えてくれているのだろうとクロードは察した。
「けっ、男娼かなんかだろアレは」
シザリオが何も言い返さないことに調子づいたのか、別の村人が浴びせたその罵声は、彼らの望み通りシザリオを心底怒らせるのに十分な効果を発揮することが、クロードにはわかりすぎるほどにわかった。
「…いいですか?」
ドアを閉め、小さな窓越しにちらと顔をのぞかせたシザリオが、呟くようにして言った。表情にこそ殆ど現れていなかったが、薄く血のにじんだ唇と冷え切った瞳は、忠実な従者の心の内を明朗に代弁していた。
「やめよう。シザリオ」
「………それは、」
「違う。わかってるだろ?」
シザリオの言葉を遮り、クロードは言った。
視線が合う。
無言のせめぎ合い。
やはり、始めから勝敗は決まっていた。
シザリオは黙ったまま馭者台の方へ向かった。
「待ちな」
そう言ったのは村人だったのだろうか。一瞬と開けず鈍く響いた何かを潰す音が、遮った者の末路を知らしめた。
「大丈夫か?」
馭者台に座ったシザリオに、クロードは問うた。
馭者台は馬車のハコの外側にあったが、壁板は厚いものではない。会話くらいはすることができた。
「睾丸を、蹴り潰しました」
壁の向こうで、シザリオが答えた。
抑制された、起伏の小さいいつもの声で。
「……そういうことを聞きたかった訳じゃないんだけどな」
クロードの呟きが聞こえなかったのか、シザリオは何も答えず馬に鞭を入れた。馬車が動き始める。村を出るまでほとんど時間はかからなかった。
結局村を覆ったのは、先刻盗賊がもたらしたのと殆ど同じ静寂だった。
遮ったのだから、向こうが悪い。馬蹄が地面を叩く音と車輪の軋む音しか聞こえない中で、クロードはそう思い定めることに決めた。
ついさっきまで風が哭いていたことを、なぜか思い出した。