ペット
久保は齋藤から郵送された毛を分析していた。スンプ板という無色透明の円状の板に毛を乗せテープで固定し、溶剤をつけたマニュキュアのような刷毛でその上を薄っすらとなぞる。ゆっくりと毛を剥がすとそこに毛の表面の模様、いわゆる小皮紋理がコピーされている。肉眼では線傷がついただけに見えるそのスンプ板を生物顕微鏡で観察する。そして、毛をカバーガラスにのせ、直接顕微鏡で観察する。珈琲を飲みながら、パソコンで文献検索サイトや、研究者のサイトを行き来きする。
カランコロン。店のドアのベルが鳴る。久保は店奥の分析室から店内に戻ると、コートを手に持ったスーツ姿の斎藤が立っていた。
「こんにちは。髪の毛、郵送ですみません」
「別に。早く分析できるし、ありがたいです。今、珈琲淹れますね。コートは掛けとくんで、預かりますよ」
久保は、ポットに火を掛け、斎藤のコートを預かり、ブラッシングしてからコート掛けに掛けた。ブラシについた毛やホコリを取り除いた。
「もしかして、もう見ていただけたんですか?」
齋藤は少し驚いて久保に聞いた。
「はい。ちなみに、 浮気候補者の中に、ペットを買っている方っています?」
「ぇ、、はい。私の高校からの友人の小野加奈子が、確かに猫を飼っていたはずです」
「猫ですか、、、ふーん。ちなみに皆さんのご職業は?」
「加奈子は、会社員です。後の2人は、トリマーと主婦です。確かに2人はペットは飼っていません。でも、それがどうかしたんですか?」
「例の毛ですが、人のものではありませんでした」
「えっ?それって、まさか動物の毛ってことですか?」
「はい」
「そんな、、私、てっきり見た目から、女性のものだと思っていました」
「確かに斎藤さんのおっしゃる通り、やや細いですが、一見すると色合いや緩やかに湾曲した形状は人毛にも見えます」
「それで何の毛だったんですか?」
「申し訳ないんですが、まだ判定できていません。でもその3人は、浮気相手じゃないと思います」
「えっ、どうしてですか?」
「斎藤さんから受けとった毛は、いずれも似ていて、同じ種のものでした。犬の中でも、柴犬とプードルだと毛質違いますよね?だから、色んな種の動物(犬)と触れ合うトリマーの方が浮気相手だったら、もっと色んな種の毛がついている方が自然です。そして、例の毛は、猫の毛ではありませんでした」
「なるほど。でも、どうして猫の毛じゃないと分かるんですか?」
齋藤は安堵の表情を浮かべている。
「毛の種の判別は、主に外観、それと小皮紋理と髄質形状でします。小皮紋理っていうのは、毛の表面の模様です。時々シャンプーのCMとかで出てくるヤツです。人毛は普通、横行波状というギザギザしたボーダーの模様ですが、獣毛は、種によって特徴的な小皮紋理を示すものもあります。猫の毛は通常、太さは0.01mm強程度、ロケットのように太さが変化した形状で、髄質が太くその縁がノコギリの刃のようにビザギザしたものが典型的です。しかし、例の毛は、太さは0.08mm前後、太さは比較的一定で、小皮紋理は横行波状から鱗様の山型模様に緩やかに変化しているものでした。小皮紋理だけなら猫と言えなくもないですが、髄質も獣毛にしては非常に細く、全く似ていません。」
久保は斎藤を分析室に案内し、例の獣毛が映ったパソコンのディスプレーを見せた。
「これが毛の拡大映像です」
「すごい、、これが小皮紋理、、確かにこの猫の毛のサンプル写真とは似ていませんね」
斎藤は、なぜ珈琲豆焙煎店の奥に分析機器が詰まったこのような部屋があるのか聞きたいようだったが、一応、久保に応えた。
「はい。この獣毛は髄質が全体の1/4の細さしかない。一般に髄質は、獣毛は太く、人毛は細いんです。まぁ、獣毛でも細いのもなくはないですが、この小皮紋理でこんなに細い髄質の獣毛は、今まで見たことがない」
久保は無表情ながらも悔しそうに言った。久保はこれまで、ハムスター、猫、犬等のペットはもちろん、牛や豚等の家畜、猿や熊等の野生動物、毛皮に至るまで、多くの獣毛を観てきた。しかし、今回の毛は今まで見てきたと全く当てはまらないし、文献を探してもヒットしなかった。
「ちなみにご主人は毛皮が好きにとか剥製のコレクションとかの趣味はないですよね?」
「はい。特にそういった趣味はありません。逆に、最近は毛皮やウールは動物虐待だとか言って、着なくなりました」
「そうですか、、、。ちなみに齋藤さんのお宅にペットはいます?犬や猫などの」
「熱帯魚は飼っていますが、それ以外はいません」
「そうですか。まぁ、少し時間をください。それに、獣毛だったってことは、浮気相手がおるかどうかも怪しくなってくる」
「はい」
斎藤は小さな笑みをこぼした。
「ということで、悪いんですが、少し旦那さんの周辺を調べさせてもらいます」
「えぇ、構いませんけど、、、」
「安心してください。怪しまれないようにしますんで」
「でも、夫はほとんど職場の大学に籠りっきりですよ?そこに行くんですか?」
「はい、大丈夫です。俺はその大学に通っていた卒業生なんで。ついでに影山も」
久保はシラっと言った。