飛燕の剣
飛燕の剣
もはやこれまでか――堀口伝右衛門はそう覚悟した。
相手方は十人ほどで、冷水流剣術を極めた伝右衛門にとってはさしたる数ではないはずだった。が、一人、非常に手強い男がいた。名を片平風雪という。父は片平雪斎といって、もともと伝右衛門とは剣術を競い合う仲であったが、十年ほど前の藩のお家騒動が起こる前に病死している。その後、藩の派閥が二分化し、雪斎の子、風雪とはたがいに敵味方となった。
雪斎は死ぬ前に、嫡子である風雪に彼の剣術のすべてを伝えていたらしい。風雪のもつ剣からは、一部の隙もない研ぎ澄まされた威圧感が放たれていて、それがおそらくは彼がまれにみる使い手であろうことを示していた。
――これは、今の儂では勝てぬ。
目の前に立ちふさがる風雪の姿を見たとき、もはや伝右衛門には己のたどる運命がわかってしまった。若い時分であれば、悪くても五分五分に持ち込めただろう、けれど今の自分は若い風雪の剣を受けるにはあまりに老い過ぎていた。
「伝右衛門、若君をどこへかくした? 言わぬなら斬る」
「ほう、儂を斬るか、風雪よ。そんなお前を見て、亡き雪斎はなんというであろうな」
「あくまでとぼけるか。ならばすぐに父に会わせてやるゆえ、本人に訊くが良い」
血のように赤い夕陽の中に、風雪の大きな体躯が影のように揺らめく。その頭上に構えた剣が鮮やかに光り、そしてひるがえった。
――若様、どうかご無事で。弥兵衛、あとをたのむぞ……。美弥、美弥……。
遠くなる意識の中で伝右衛門は、元服したばかりの若君と己の息子、それに幼い孫娘を思った。
十年ほど前に藩主、堤直定が急死し、嫡子である堤直慶と妾腹の長男、定広との跡目争いが起こった。
正室である八重の方は若く、息子の直慶を抱えてうろたえるばかりであったが、定広の母の倉の方は直定より二つほど年かさである分老熟しており、直定急逝の報にも動揺することなく、すぐに自身の子である定広を世継ぎにすべく手を打ったのだ。
直慶親子を亡き者にせんとする動きが目に見えて感じられるまで、数日とかからなかった。八重の方を支持する家老をはじめ、古参の臣たちは次々に失脚、あるいは切腹においこまれ、どっちつかずの中立派は我先にと倉の方の派閥についた。さらに、倉の方の背後には若年寄の臼井近胤がついている。臼井は若輩の身でありながら、その俊才ぶりをかわれてのし上がってきた新参者である。下士の生まれではないかという噂もあるが、近年は藩主の絶対的信頼を得、家老と同等、あるいはそれ以上の権威をふるっていた。そんな臼井が定広を擁立している以上、もはや直慶は孤立無援も同然だった。頼みの綱であった家老はすでに隠居させられ、母の八重は寺に預かりの身となっていた。
「若殿、もうまもなくでございまするぞ。まもなく萱野の里につきまする」
若殿、と呼ばれた堤直慶は、疲れ切った顔に必死に笑みを浮かべて声をかけた相手を見返した。
「おお、そうか。弥兵衛の縁者の家であったな。世話をかける」
「とんでもございません。もとは亡妻の実家でしたが、はやり病で皆亡くなり、今は無人の破れ屋でございます。むさくるしゅうございますが、お気遣いは無用です。前もって、娘の美弥に掃除と飯を申しつけてございますゆえ、すぐに腹ごしらえもできるかと存じます」
「そなたの娘か、それはありがたい」
「娘といっても、まだ十になろうかという子供ゆえ、あまり期待はできませぬが」
「なに、食えればよいではないか」
自分もいまだあどけない少年は、ははは、と目を細めて愉快そうに笑い、笑った先からぐうと彼の腹が鳴った。
――大したものだ。
そう弥兵衛は思った。
ここ数日の激動に、のまれそうな心を保つのは若い直慶には容易なことではなかったはずだ。ましてやあらかたの重鎮が敵にまわった中、母の身を案じながら、数少ない支援者とともに生き延びねばばならない不安と心痛は、察して余りある。
それでも腹を鳴らすというのは、物を食う欲があるということだ。生きようという気力があるということだ。
この生白い痩せた少年が思いのほか豪胆なことに、弥兵衛は驚き、そして安堵していた。
――この若君ならば、きっと藩を正しき方向へ導いていくだろう。ならばなんとしてもお守りせねばなるまい。
弥兵衛はあたたかな眼差しを直慶に送ったが、すぐに頭に浮かんだ別の考えに表情をこわばらせた。
倉の方の息子の定広は、どちらかといえば暗愚で、もしも定広が藩主の座におさまれば、側近として臼井近胤がすべての実権を掌握するであろうことは明確だった。
もともと倉の方と臼井は、前藩主の直定が存命のころから通じているとの噂があった。ともすれば、臼井の異例の立身出世も、おそらくは倉の方が関わっているかもしれず、もっと悪くすれば、定広の実の父親は臼井かもしれなかった。
そう考えたほうがつじつまが合う。直慶をこれほどまでに追い詰め、亡き者にせんとしているのは、定広が倉の方と臼井近胤との子だからではないか。
そこまで思い至り、弥兵衛が面をあげると、彼らはすでに萱野の里に入り、亡き妻の家の目の前に来ていた。
着きましたぞ、と弥兵衛は若君を振り返ろうとしたが、静まり返った古屋に妙な気配を感じる。直後、どこからともなく刺すような殺気が漂ってきた。
「おそかったな、堀口弥兵衛」
不敵な笑みをうかべた大柄な武士が、ゆらりと弥兵衛の目の前に立ちはだかる。その背後には頭巾で面をかくした武士らが数人ほど控えていた。
「お主は、片平風雪」
「ほう、憶えていたか」
「無論だ。我峰流のお主とは、御前試合で何度かやりあったな」
「もう二十年ほど前になるか」
相槌を打ちながらも、弥兵衛はすばやく頭をめぐらせる。
――まずい、もうここを嗅ぎつけられたか。
落ち着かねば、と自身に言い聞かせながら、弥兵衛はあたりに視線を走らせた。娘の美弥が先に来ているはずだった。とらわれたのだろうか、しかし、それなら風雪が黙っているはずはない。となればうまく逃げたか、あるいは隠れているのか……。
「弥兵衛よ、あいにくだが思い出話をしに来たのではない。残念だが直慶どの共々、ここで死んでもらわねばならぬ」
風雪が言い終わるやいなや、待ちかまえていた覆面の者たちがわらわらと弥兵衛らを取り囲む。ともかく美弥は無事にちがいない、そう踏んだ弥兵衛は、背後の直慶を後ろに下がらせ、剣を抜いた。
「気をつけろ、この男はさきほどの伝右衛門より手強いぞ」
風雪の言葉に、弥兵衛は一瞬耳をうたがった。
「きさま、もしや父を!?」
「ふふふ、伝右衛門はわが剣に敗れたのだ。冷水流の奥義など、しょせん我峰流の敵ではない」
「くっ……」
弥兵衛のかみしめた唇からぷつりと赤い玉が浮かび上がる。
「弥兵衛!」
怒りに動揺する弥兵衛を案じて直慶が声をあげると、それを合図に覆面武士の数人が、二人めがけていっせいに討ちかかってきた。
「若殿! お下がりください!」
弥兵衛はすぐさま直慶の前に立ちふさがり、門柱の陰で直慶をかばいつつ、二人を斬った。続けて向かってくる覆面をさらに三人倒すと、剣をふって血糊を落とし、あらためて正眼に構えた。
視線の先には八相に構えた風雪がいた。
「弥兵衛、いざ覚悟」
稲妻のごとくふりおろされた風雪の長刀をはじいたとき、弥兵衛はその力に押されてよろけそうになった。
なんと重い剣だろうか。かつて御前で立ち会った時よりも、風雪は数倍も強くなっている。
――父、伝右衛門を破ったという我峰流の奥義……勝てるか、己に……。
「弥兵衛、奥義を使うがいい。きさまの父が姑息な手で体得した、薄汚い奥義をな。だが伝右衛門の奥義はすでに耄碌しておったぞ。きさまも同じか」
口をゆがめて嗤う風雪、しかし弥兵衛は黙っていた。
その昔、弥兵衛の父、堀口伝右衛門と、風雪の父、片平雪斎は、同じ冷水流剣術の高弟で、互いに一二を争う腕だった。どちらも優れた使い手で、勝負はついに決するには至らなかったが、当時、師には娘がひとりいて、その娘と堀口伝右衛門が恋仲になり、結果、伝右衛門は娘婿として道場の跡継ぎとなった。
その後雪斎は伝右衛門に対し、奥義欲しさに娘に取り入った卑怯ものと言い捨てて道場を去り、新たに我峰流の剣を極めたのだ。
雪斎は、息子の風雪に、冷水流を離れた経緯を話していたにちがいない。
だが真実は違う。弥兵衛は伝右衛門からすべてを聞いていた。真実は、雪斎が思いこんでいたものとはまったく違うのだ。
風雪がじりりと間合いを詰めてくる。弥兵衛は手に汗がにじむのを感じた。
そのとき、あっと声がして振り向くと、隙をついて後ろに回った一人の覆面武士が、直慶に剣を振り下ろすところだった。
「若!」
弥兵衛はとっさに身をひるがえし、直慶へと討ちかかる男に向かって己の剣を投げた。
「ぐっ……」
剣が男の腕に刺さるのと同時に、自分の背に焼けるような痛みが走り、弥兵衛はうめき声をあげて膝から崩れ落ちた。
「弥兵衛!」
「若、との……」
懸命に立ち上がる弥兵衛の背を、風雪は無残にも再び斬りつけた。
「うぐぅ!」
「きさま、武士でありながら、なんと卑怯なことを!」
怒りに身を震わせる直慶を、風雪は愉快そうに嘲笑った。
「直慶様、人の心配をしている場合ではござりませぬぞ。次はあなた様の番です。気の毒だが、あなたには死んでいただく」
「そう、は、させ、ぬ……」
荒い息を吐きながら、再び弥兵衛が立ち上がった。その足元には赤黒い血が滴っている。
「弥兵衛、休んでいろ。私とて剣なら使える」
臆しもせずに言う直慶に、なんと勇敢な少年だろう、と弥兵衛は思った。だが、勇敢と無謀は紙一重でもある。
「いいえ殿、ご案じなさいますな。それがしは大丈夫でございます」
苦しい息の下でかろうじてそう告げ、足元に倒れている武士の剣を拾った。
「ははは、無様だな、弥兵衛。だが旧知のよしみですぐに楽にしてやる。ありがたいと思え」
「おのれ、風雪め」
「いくぞ!」
ぶん、とうなりをあげて振り下ろされる長刀を、残る力で受けようとする。と、ふいに風雪の剣が横にうねり、次の瞬間、刃が弥兵衛の右腕に深々と食い込んでいた。
「弥兵衛!」
直慶の声がやけに遠く聞こえる。
――くっ……もはやこれまでか……。
ひたと目の前で足音がとまった。黒い人影が大岩のように弥兵衛をのみこむ。
「これで終いだ、弥兵衛」
風雪が高く掲げた刃に、きらりと陽光が反射した。
――無念……。
だがそのとき。
「父上!!」
不意に彼方から悲鳴に似た声が響きわたった。
――その声は、美弥?
弥兵衛がおどろいて目を見開くと、突然のあまりに、その場の全員が意表を突かれ、でくのように立ち尽くしている。弥兵衛もまた、にわかに信じがたくて、幾度も眼をしばたたいて辺りをみわたした。すると、広い庭の向こう端から小さな人影が疾風のごとく駆けてくるのが見えた。
「美弥! 来てはならん!」
しかし美弥には聞こえないようだった。
美弥は、いまだ残っていた二人の覆面武士に向って駆け寄ると、彼らが構える隙も与えず、そのまわりを踊るように旋回した。と、ぐらりと男の体が揺らいだかと思うと、どうと地面にくずおれた。
――あの剣は。
弥兵衛は声も出せず、ただ見守るしかない。
「なんだ、あのガキは。妙な技を使いおって」
風雪はチッと舌打ちすると、長刀を握りなおして美弥へと体を向けた。
美弥はぴたりと動きを止めて、風雪を、そして父、弥兵衛を見た。
「美弥、この男は手強い。無理はするな」
弥兵衛が満身創痍で言うと、美弥はこくりと素直にうなずいた。
「はい、父上」
「おいおい、ガキが俺と本気で立ち合うつもりか」
風雪は、はなから相手にするのもばからしいと思っているようで、あからさまに嘲笑していた。
「子供を虐げるのは俺の好むところではない。娘、お前だけなら見逃してやるからどこへでも行け」
払うような手振りをして、風雪がふたたび弥兵衛に顔を向けると、
「片平風雪、いざ、尋常に勝負」
背後から幼い声がかかった。
「は、まだいたのか。そこまで言うならやむを得ん。かわいそうだが手加減はせぬぞ」
風雪ももはや覚悟を決めたようだった。
ハァ、と気合いの一刀で、斬り捨てた、と風雪は思った。
しかし、剣はむなしく空を斬り、力技で振りきった自身の剣の重みに、風雪は一瞬バランスを崩した。刹那、ひゅるひゅるとカミソリに似た薄刃が、自分の太ももを切り刻むではないか。
「な、なんだこれは!?」
「冷水流奥義、飛燕」
子供の口から出たその言葉は、風雪には信じがたいものだった。
「な、なんと、奥義だと!? こんな子供が!?」
驚愕のあまり、隙を見せた風雪のまわりを、脇差しを両手にした美弥がくるくると旋回する。その動きはさながら燕のように速く、しなやかで美しかった。
息を乱し、立っているのもやっとの風雪がついに膝を落とすと、突如、最後に一人だけ残っていた覆面武士が、脱兎のごとく背を向けて走りだした。旗色の悪そうな風雪を見て、逃げ出したのだろう。
「美弥! あの者を逃がすな! だが殺してはいかん」
とっさに直慶が叫ぶと、美弥は瞬く間に駆け出して追いつき、男の腱を斬った。
直慶は、足を抱えて転げる男に近寄り、その顔を覆っていた頭巾を取った。
「やはり、お前か」
苦しみに顔をゆがめて、憎々しげな目で直慶を見上げている、その男こそ、臼井近胤であった。
「冷水流の奥義を伝授されたのは、それがしの母でした」
城の中庭に面した広縁に腰掛け、弥兵衛は直慶に語った。
「なんと! では堀口伝右衛門は?」
「父も体得しようとしましたが、できませんでした。飛燕の剣は二刀の脇差を用いて、その名の通り、飛ぶ燕の羽のごとく敵を切り刻む疾速の技です。ゆえに、体躯の大きい大人の男にはもともと不向きな技なのです」
「……そうであったか。では弥兵衛、お主も」
「はい、それがしも元服したころまではできたのですが、大人になり、体が筋肉で重くなると、できなくなりました」
弥兵衛の母も、もともとは自分に娘ができたら伝承するつもりだったのだろう。しかし、生まれた子供は弥兵衛のほかにも男子ばかりであった。幸い、弥兵衛に娘が生まれたため、自分の死期を悟った母が、早々にいまだ幼い美弥に飛燕をたたきこんだのだ。
そしてその母もまた、昨年亡くなっている。
「では、片平雪斎親子は思い違いをしたまま死んだのか」
「思えば哀れな者たちでございましたな」
あのとき、風雪はまだ息があったのだが、その場で自ら腹を斬ってしまった。
生き残って責められることを怖れたか、あるいは生き恥をさらしたくなかったのかもしれない。
ふいに直慶が、すくっと立ち上がって言った。
「美弥、私にも飛燕の技ができるだろうか」
「え、若殿に、ですか?」
「うむ。私もまだ体が小さいゆえ、ぜひとも習得してみたいと思ってな。美弥に教えを乞いたい」
「え、教えなどと、私には……ねえ、父上?」
戸惑い、助けを求めるかのように美弥が弥兵衛を見上げてくる。やれやれと、弥兵衛は苦笑しながら、軽く咳払いをして口を開いた。
「若殿には、これから藩主として学ぶべきことが山ほどおありでしょう。ですから、ここはひとまず政のほうにお力を注いでいただき、剣のほうは私どもにお任せください。この弥兵衛、美弥ともども力の及ぶ限り若殿をお守りいたします」
弥兵衛の言葉に、直慶は残念そうな表情を浮かべたが、すぐに力強く笑って見せた。
「……そう、だな。うむ、そうだな。私は何も知らない若造だが、藩主として、国のために、皆のために、出来うる限りの努力をしよう。弥兵衛、美弥、これからもどうか私を支えてくれ」
「は。心得ましてございます」
数刻ほど前、臼井近胤と倉の方は断罪となり、その首はいまだ中庭に置かれている。
取り調べの結果、臼井はもとは商家の三男であったことが判明し、倉の方とは同郷の出で、かつては夫婦同然の間柄であったことがわかった。
さらされた二つの首を見て、弥兵衛はむなしさを感じずにはいられない。
全てはここから始まったのだ
だが今、一つの時代が終わり、また新しい世が始まろうとしている。
見上げれば、大きな夕陽が山の彼方に沈みかけていた。その陽に頬を赤く照らされた直慶と美弥を、弥兵衛はいつまでも見守っていた。
―終―
お読みいただきありがとうございます。
本作品は完全なるフィクションであり、史実とはまったく関係ございません。
時代考証もとくに配慮しておりませんので、目に余る点も多々あるかと思いますが何卒ご了承くださいませ。