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最終話 契機

「これでいよいよ卒業ってわけだけど、そこんところどうよ」

 最後の通学路。

寒さの残る朝の空気をかき分けながら、歩きなれて――それでいて、もう二度と歩かない道のりを二人で歩いていた。

留学から帰ってきた友人――香川文人は俺の横を歩きながらそんな風に聞いてきた。こいつは数か月前まで海外にいたはずだ。それなのにこの日本語の乱れ、どうとるべきだろうか。

「どうって言ってもな……、文人はどうなんだ」

「僕に聞いちゃいます? たった一年とはいえ、高校生活の最後の一年をこの学校で過ごさなかった男に?」

「それもそうだな」

 俺としてはてっきり、向こうの高校を卒業してくるものだと思っていた。ここで一緒に卒業すること自体予想はしていなかった。

「――まあ、それでも言うのなら」

 軽口をたたきながらも、こいつなりの考えがあるらしい。少し悩んだような表情をしながら、選ぶようにして話す。

「どっちでもいい、ってことを学んだかな。僕は海外へ行く道を選んだけれど、きっと別の道を選んでもなかなかに楽しかったんだと思う」

「…………それはよかった」

 俺としては、そう答えるほかはない。

まったく、そんな結論を出されるなんて思っていなかった。あの悩みを……あいつに相談しに行ったことが、その重みが、すべて杞憂であるかのようだ。

「それで、親友。君のほうはどうだったんだ? この三年間」

 次は俺の番らしい、期待に満ちた目線をこちらに向けながら一緒に歩いていく。

三年間、長いようで短かった。特に最後の一年間は一陣の風のように過ぎていったように思える。

あれから彼女とは会っていない。彼女のことを意識の外に置いていたからこそ、受験勉強は捗ったのだろう。その点では感謝することができる。

「妹に振り回されていた三年だ」

 まとめてしまえばそれだけのことだ。ありふれているわけではないが、それでも変わったものではない。

そう思ってしまいたい。

「妹がいたなんて知らなかったよ。それで――」

 俺のそんな答えに、文とは何かを感じ取ったらしい。数瞬、空を仰ぐようにしてみて、そして聞いてきた。

「楽しかった?」

 ………………。

楽しさ、か。

俺は彼女といて、それを感じていたのだろうか。

彼女は感情を極めていて、だか彼女の言葉はあまり信じる気にはなれなかった。そう言う意味では、あまり深く踏み込もうとはしていなかったように思える。

彼女の手のひらで踊らされたこともある。俺のほうから利用しようとして、看破されたこともあった。

そこに楽しさは、あったのだろうか。

「――――まあ、答えにくいならいいさ。今度聞かせてね」

 俺の答えが現れないことに我慢ならなくなったように、文人は言った。そして、さわやかな表情とともにつづけた。

「今日は卒業式、こんな時でなかったら決着のつけられないことだってあるはずだよ。覚悟しておいたほうがいいかもね」

「……はっ、お互いにな」

 気が付くと、視界に高校の正門が見えてきた。『卒業式』と書かれた看板が門の柱にかけられていて、否が応でもそれを意識させられる。

正門を確認した文人は駆け出していった。俺はそれについていこうとはしなかった。

おそらく、これがあいつとの高校生活最後の会話だったのだろう。あいつは卒業式が終わってしまえば、向こうの国へとまた戻るからだ。

キザな別れも、しんみりした離別も俺たちには似合わない。

また会えるのだから、と。



高校の卒業式では、いまだに進路が決まっていない生徒がいたりするので無暗に喜んだりはし切れない。

どことなく気を使った雰囲気が流れているのを感じてしまい、感情がある程度盛り上がりきらない生徒が多く、全体的に淡々とした印象が強い。

『僕たちは、この学校の卒業生としての誇りと、信条を持ち続けて、この先も正しい道を歩んでいきます。先生方、今まで――――』

卒業生答辞は全く知らない生徒が読み上げている。

ある程度決まりきった言葉を、適当に並び替えてあたかも本心のように語られるそれは、全く記憶にも残らないということがすぐに分かった。

誇り、信条、正しい道。

そんな言葉を耳にして、不思議と思い出すのは彼女……「趣」のことだ。

彼女はそんなものを持ち合わせていないのだろう。正しさなんてものなんて、部屋のゴミと同じようにしか思っていないに違いない。

けれども、少し考えてしまうことがある。

もしも彼女はそういったものを持っていたとしたら、今のような関係にはなっていないのではないか、と。

馬鹿な想像に過ぎなくて、現実逃避でしかないそれは、ひどく魅力的に見えなくもなかった。

文人は言っていた。

どっちでもいい、あいつのような考えを俺が持つことができればよかっただろうか。騙されたような関係であったとしても、そのまま続けていくという選択肢もあったのではないか。

それならば、今も考えさせられるような目には合ってないはずだ。

 それでも俺が関係を終わらせたかった理由は何だったのだろう。今の俺には、そして当時の俺にもそれは分かることはない気がした。



文人は既に学校を出てしまっているようだった。

まあ、良い。別れは今朝済ませたところで、おそらく文人が学校を出ていなかったとしても何かを話す気にはなれないだろう。

だから、校内でするようなことは特にない。

けれども、人生の濃密な三年間をくれてやった場所には何とも愛着がある。意味もなく、俺の体は教室へと向かっていた。

多くのクラスメートは校門や、中庭へと移動をして両親や友人と写真などを撮っているようだ。あいにく、俺の両親は仕事でここにはいない。いつものことで、特に違和感はない。

教室には誰もいなかった。黒板には寄せ書きが大量に書かれていた。きっと、新年度になる前に消されてしまうのだろう。そう思うと少しだけ悲しい。

窓際の席、数時間前まで俺の席だったその場所になんとなく腰かける。

「ふう…………」

 一息ついて背もたれに体重をかける。

冷たい空気を吸い込むと、心まで冷静になるようだった。卒業の興奮もどこか温いものへと変わっていく。

特にやることもない。ただ、この心の冷静さを取り戻したかったのかもしれない。そういうことにして、少しだけここにいることにした。

窓の外から聞こえる喧騒を耳に挟みながら、気を抜いていた。

驚いたことがある。

この机を最後に使うというのにこれといった感慨は沸いてこないことだ。思い出も何も、どこかへと置いてきてしまったようだった。枯れてしまったような、そんな気持ちにさせられる。

と、そうしていると。

「…………脇内」

 見覚えのある女子生徒……クラスメートだった脇内楓が、俺の席の前に現れた。短く整えられた黒髪が、窓から差し込む日光で輝いている。

「お互い、卒業おめでとうっ」

「ああ、おめでとう」

 予想外の人物に少し驚きながら、俺は対応する。

それにしても、わざわざ声をかけてくるような関係があった覚えはなかった。教室に用があるなら、互いに虫を貫いてもおかしくはない関係だったはずだ。

「……どうした? 感傷に浸りに来たのか?」

 そういった思いが、つい言葉になってしまう。まあ、卒業して合わなくなるのだからこれくらいは気にしないでもらいたい。

 俺の質問に、迷わずに脇内は答えた。

「お礼を言おうかと思って、ね」

「お礼って」

「恋愛相談のお礼だよっ。忘れちゃったの?」

 そこまで言われて思い出す。

目の前の脇内は俺の依頼人の一人だった。ここ最近、相談事は誰にも持ち掛けられていなかったのですっかりと忘れていた。相談事自体が記憶になかった。

「相談、確か……先生のことが好きだとか――」

「わーっ! 言わないで、他人に言われると恥ずかしいよっ」

 顔を羞恥に歪めて、取り乱したような表情をとる脇内。あざといようなその仕草は、半ば赤の他人の俺にも少し可愛いと思えてしまった。

「そうそう、その相談。それでお礼を言おうと思ってさ、探してたんだよ」

 気を取り直すようにして、説明する脇内。

しかし、その説明をされても「礼」とやらの理由はよくわからない。見覚えのないことでほめられることは気分がよくない。

彼女の、脇内の相談は妻子のある先生へ思いをどうすればいい、といったものだ。

あの時はあいつと相談した結果、名無しのラブレターを書かせることで解決した。そんな話だったはずだ。

「特にお礼を言われるようなことをした覚えはないぞ」

「いえいえ、そんなことは無いよ。そんなつもりがなくても、助けられたんだから」

 上機嫌で脇内はそんなことを言う。俺としては、そんなことを言われても何も疑問は解決しない。

俺の反応の鈍さを見て、彼女は言葉をつづけた。

「例の先生……佐山先生っていうんだけど、今年で転勤だったんだ」

 そういえばそんなことを知らされていたような気がする。公立高校の教師なんて、数年で転勤になることも珍しいことではない。

「もし、手紙を出さないで、ずっと気持ちを抱え込んでたらさ。私は今日告白してたと思う。振られるって、わかっててもね」

 だから、彼女は言う。

「今日、しっかりと、ちゃんとね。さよなら、って言えて良かった! 相談して、本当に良かったって思ってるっ」

 花が咲いたような笑顔で脇内は言った。

きっと、佐山先生との離別は彼女にとっての大きな契機だったのだろう。

そんなことを考えたからだろうか、彼女の姿はとてもまぶしく見えた。



「……寝てた、か」

気づいたら俺は眠りについていたようで、気が付いたときには中庭からの喧騒も消えていた。時刻は昼過ぎ、そこそこの間俺はここで昼寝をしていたようだった。

卒業式の日に、教室で昼寝をする。こんなことを成し遂げたのはきっと俺だけだろう。

どうでもいいけど。

「ん――――」

 帰るために立ち上がると、体中の関節から乾いた音がする。そして、ずっしりと体を倦怠感が襲ってくる。

重い体を引きずっているような気分で、俺は教室を後にした。高校でした最後の出来事が昼寝というのは、なかなか無いことだと思いながら。

教室を出て、階段を下っていた時。なんとなく、頭をかすめることがあった。

朝の……文人の言葉だ。 


 ――――こんな時でなかったら決着のつけられないことだってあるはずだよ。


キザな言葉で、だからこそあいつには似合っていると思う。しかし、先ほどの脇内との事もあり、なんとなく心が頷いている気がしていた。

階段を下りていく。

もしかしたら、だが。

何かが俺にもあるのかもしれない。加えて言えば、その予感が確信めいていることを感じていた。


人気の少なくなった正門に、二つの人影があった。

一つは女性用のビジネススーツに身を包んだ二十台前後に見える女性。

もう一つは小学生程度の背丈をしていて、深くかぶった帽子はどこか薄暗い雰囲気を与えている。

そして、その二人に共通していえるのはどこか疲れ果てているように見えることだった。

遠目にそのことを確認して、俺は自分の体が倦怠感以外に抑え込まれているように感じた。

予感はできても、覚悟だけは簡単にできない。

それでも、俺はその人影へと近づいていった。

やがて、視認できる距離になると向こうもこちらを見つけたようだった。女性のほうは、安心したように表情を少し緩め、もう一人は目線を少しこちらへ向けたようだ。

女性――「趣」の担当編集はこちらへと速足で駆け寄ってくる。表情は、安堵と苛だちとほかの感情が混ざったようで、複雑怪奇だ。

「遅かったですねっ、何時間待ったと思います?」

 久しぶりに見る姿は以前と変わりなく、加えて言うならば原稿を回収できずに焦っているのだろう、そんな焦燥感のにじむ表情をしていた。

「……すいません」

 そもそも出会う約束なんてしていない……とは言わなかった。

彼女の必死の様子に、冷たい言葉を吐くことが憚られていた。

「それで、なんでここに」

「先生が原稿を人質に、私を小間使いのように使うんですよっ。信じられませんっ」

 彼女はどうやら都合がいいように扱われていたらしい。社会人とはそこまでしなければならないのかと思うと、身の毛がよだつようだ。

ともかく、わかったことがある。この待ち伏せは、この小間使いの主……「趣」の意志によるものだということだった。

彼女……「趣」のほうを見る。

俺は今まで、彼女は外へ出ることを見たことがなかった。こうやって、実際に見てみると違和感ばかりが生まれるだけだった。

表情を伺うが、いつものような冷たい表情を貫いている。

最後にあった時と何ら変わりのない姿だった。

「まあ、車は用意してあるんで話はそこでお願いします」

 


運転席には担当編集の彼女が座って、運転していた。

助手席には彼女のの持つらしいキャリーバッグが置かれていたが、その目的は女子席を封鎖することにあるようだった。

軽自動車のこの車では、それをされてしまうと残った俺たちは並んだ後部座席に座らざるを得ない。

俺の隣には、「趣」が座っていた。

ここで何かを話せ、と言いたいらしいが俺たちの間には会話がなかった。俺から話しかけるには、覚悟が足りない。彼女は……計り知れない。

無言の時間。ただエンジン音や、地面を踏みつけるタイヤの音だけが耳に残った。


「ご卒業、おめでとうございます」


「…………おう」

 不意の彼女の言葉を、窓の外を見つめながら俺はそう返した。おそらく、彼女のほうを見ても目と目が合うことはなかったと思う。

 久しぶりに聞いた彼女の声は、記憶に残っているそれと重なっていて、どこかに冷たさを含む声色をしていた。



「外、出るなんて珍しいな」

「お兄ちゃんの門出の日ですから、感謝しているということで、お祝いでもしようかと思いまして」

「人嫌いじゃなかったのか?」

「そうですよ。だから、どっと疲れた気分です。できればもう二度と外へは出たくはないですね」

「それは……お疲れ様」

「本当ですよ、もっとねぎらってくれてもいいんですよ」

「はいはい、小柄な体で長い運動をさせて悪かったよ」

「むぅ。…………そういえば、受験はどうでした?」

「無事、志望校に合格できたよ」

「それはそれは、おめでたいですね。もし失敗してたら連れ出すことも、あんまりよくないでしょうしね」

「そうだな。それで、この車はどこに向かってるんだ? 待ってたんだから、何かしらの用事があるんだろう」

「…………さあ、どこでもいいんじゃないないですか」

「どこでもーーって、誤魔化してるよな」

「さあ、どうでしょうか」

「別にどこでもいいけどな。お前が隠すようなことは大抵嫌な予感がする、がそれに乗るのも悪くない気がする」

「見えている地雷を踏むなんて阿呆のすることですよ」

「……自分で地雷とか言うなよ」

「それはともかく、後悔させないような場所……だといいですね」

「…………そうだな。一生で一回きりの、高校卒業だからな」

「私は一回も卒業していませんよ」

「お前はまず人嫌いを治せよ」

「治せたらいいと思いますけど、きっと治せませんよ」

「……そうかもな」



 不思議な気分だった。

思ってもいない言葉はこんなにも軽く、彼女に言うことができる。会話も傍から見ればいつもよりもずっとはずんでいるだろう。

だけど、少なくとも俺はこんな会話に意味なんて無いと思っていた。

本心なんて決して見えず、言いたいことは胸に秘めて、顔も合わせずに、上っ面のさらに上っ面の部分を合わせたような会話。

嫌いだった。

こんな会話に耐えられるというなら、そうだ。

自分の相談が小説の制作に利用されたとしても、

依頼人が自分ではないという偽りを看破されたとしても、

恋愛感情が知りたいがためにもてあそばれたとしても――――俺はそれを受け入れられるはずだ。

そして、そんなことは当然できない。

契機とはこんなにも薄情なものではないはずだ。

進むべき道は幸運にも見えている。あとは、そこを歩む覚悟だけが必要なのだろう。

思い出す――――脇内の相談を受けた時のことを。彼女は正面から告白をするような度胸もなく、妻子のある教師へと告白するような、他人を自分の都合だけで動かすことのできるほどの器用さも持っていなかった。

だけど、匿名の手紙を渡すには覚悟が必要だっただろう。

思いを伝える、それはきっと簡単なようで難しい。

けれど、俺は。

 今のままでは――――嫌だった。



「そう言えば、卒業と言えば――」

「もういいよ」

 さえぎるようにして俺は言う。

 何かの岐路を踏み越えたことを確信した。ここから先に失敗をすれば、きっとそれは決定的な未来をつくることになるだろう。

彼女のほうを見る。すると、「趣」のほうも俺に目を向けた。

目と目が合う。

こんなことすら、久しぶりで……新鮮な出来事だった。

「真面目な話をしよう。そのために、迎えに来たんだろう?」

「そうですね」

 彼女の声色が切り替わった気がした。先ほどよりも感情が露出しない。冷血で、淡々とした人間味の無いものへと変化している。

そんなことにすら、少し安心感を抱いてしまった。

「…………ああ、何を話そうかな」

 言葉はなかなか出てこない。水流の淀みに陥ったように停滞してしまいそうになる。それでも、自分の感情を何とか言葉に下ろそうとする。

大口をたたく割に、俺の脳はうまく働かず、落ち着かない。

すると、彼女が口火を切った。

「あの日、お兄ちゃんが来た最後の日です」

「……、おう」

 こちらを見つめて彼女は言った。

あの日、真夏の一夜。

俺と彼女の関係が張りぼてだと、どうどうと告げられた日。

「あまり謝罪になるとも思いません。けれど、一つだけ」

 一旦、区切って。

「私は……お兄ちゃんに好かれているなんて思ってもいませんでしたよ」

 そう言った。

冷静に、淡々と告げるその言葉。しかし、それではまるで……俺の好意に気付いていたら何かが変わっていたような口振りじゃないか。

ちょっと待て、そう口を挟もうとした。

しかし、彼女は話し続ける。

「義理とは言えども、兄妹だから……なんてことは言いませんよ。でも、好かれるわけないって考えるのは当たり前ですよ。

「だって、言っちゃいましたから。

「『自分は感情を極めた』って、だから人の心なんて手に取るようにわかる、って。

「普通、そんな人間嫌がられますよ」

 彼女が長々と何かを話すことは、初めてのことだった。

そして、彼女は自身について語ることも、おそらく初めてだった。いつも自分には無頓着を貫いているような彼女。それが俺の中での「趣」だった。

確か、初めて出会った時のことだ。

その時俺は何か重大な決断を迫られるようなことがあって、選択を決めあぐねていたはずだ。そして、そんなときに彼女と出会った。

その時の俺は彼女の性質については何も知らない。だからこそ、彼女の示す答えを平然と信じて――それに従った。

そんな俺の様子を見て、彼女が何を考えたかはわからない。しかし、憐れんだのか、彼女なりの罪悪感があったのか。

自分の感情についてを教えてくれたのだ。

彼女がした選択は、彼女自身に利益を与えるための物であり俺のことを思った選択ではなかったと、そう言った。

「今……いえ、ここ数年後悔していることがあります」

 後悔、というと彼女は何かを失敗したということだろうか。

感情を手玉に取るような、そんな彼女が。その事実は俺にとっては意外なことだった。

「感情を極めて、人を思いのままに操れるなら後悔なんて、ないんじゃないか?」

「ありますよ。わかりませんか?」

 そう言われても俺にはわからなかった。

いや、とだけ言って返す。

すると、彼女は言った。

「あなたに自分の異常性を説明してしまったことですよ」

 と。

「最初は後悔からでした。初対面と言えど、頼まれたことを自分の利害だけで判断してけつだんさせてしまってよかったのかと。

 だから、自分の本当のことを言えばそれも軽くなると思いました。

自分の言う言葉は全て疑って欲しい、それか私とか変わらないでほしい。

そう言ったんですよ。

これを言えばあなたが私のことを信頼せず、近寄りもしないと思いましたから」

でも、と彼女は言う。

「これで何年ですか? 私はこんなに長く付き合うこともないと思ってました。

「最初にあった時、『この人も自分のことを知ればすぐにいなくなる』と思ってましたから。

「でも、何だかんだでずっと一緒でした」

ああ……。

言われて、改めて実感させられた。彼女と一緒に過ごした時間の長さを。小学校の頃だったか、そのあたりからだから六年以上過ごしてきたことになる。

色々なことがあって、特にこの一年は多忙だった。

「もし私が自分の異常性を言わなければ、きっとあなたは何も警戒せずに……細い付き合いをしてくれたと思います。

「でも、これを言ってしまったばかりに警戒させて、それでも離れるような的愛ではなかったです」

もし彼女から、感情を極めたなんて世迷いごとを言われていなかったら、彼女の言う通り今もこうして出会うことはなかっただろう。

俺は彼女の異常なところにひかれていたところもあるのだと思う。

 俺は言葉を挟まなかった。


「……だから、夏のあれは賭けでした。

「私は感情が手に取るようにわかるはずだけれど、自分の本当のことを知ったうえで付き合ってくれるような人の感情なんて、知らなかったから」

 そして、

「関係をやめよう、そうやって言ってくれた時。私はきっとうれしかったです。

「そこまで真剣に自分のことを見てくれていた、と思えましたから。あなたはその時に私を嫌いになったと思いますけど――私はその時にあなたを好きになりました」

そうやって自分を語る彼女は、真剣な瞳をしていると、俺は思った。

「同時に自分のことを嫌いになりました。好きな相手を、自分の思うままに傷つけられるなんて、と。

「この感情も初めてでしたよ。自分を嫌いになれるなんて思ってもいませんでしたから。それに、ここまで自分を嫌いになって……消えてしまいなんて思えるとも思ってませんでしたから。」

 だから、と彼女は言った。


「私のことをどうか失恋させてください。そして、忘れてください」



 

「……昔から、お前の言葉を素直に信じられなかった。だから、今言われたことを鵜呑みにはできない」

 彼女は全てを告げた。

それが本当かどうかはわからない。けれども、彼女は何かを変えるために俺にすべてを話した。

それでも俺は、彼女の言葉を疑っていた。

「あんなことをされて、その時に好きになった。そんなことを簡単に信じられないよ。お前の、そんなしおらしい所なんて見たことがない。

「今でも俺を誘導するために話してるんじゃないかって思ってる」

 そう伝えられた彼女は、驚いたような様子は見せずに弱く笑った。見たこともない表情で、触れたら崩れそうだ。

「……本当、言わなければ良かった」

「……かもな」

 そこで初めて彼女は目線を逸らした。窓の外を見つめてしまう。なんのためか、それを考えるのは無粋だ。

 もし彼女のことをなんの色眼鏡も持たずに見ることが出来れば、どうなるかはわからないけれど、こんなことにはなっていなかった。

彼女はそう言っていた。俺だって同じように思う。

けれども、

「お前のことは信じられない。騙されているとも考える、けど」

 伝えなければいけないことがあった。

契機とはそういうことだ。

脇内は自分の好きな相手に、直接でもなく、正面からでなくても自分の思いを伝えた。

文人も言葉で伝えることはなかったが、俺たちなりの別れを伝えてくれた。

次は俺だった。それだけのことだ。



「騙されて、傷ついたこともあった。でも、結局俺は一緒にいたいと思えたんだ。

「だから、信じることはできなかったけど――――それでもお前と一緒にいたい」


 この言葉をずっと抱えていた。

最初から、彼女の本性を知った時からわかっていたことだ。俺はずっと警戒していた。それでも、一緒にいたのだ。

なんて、理屈で割り切った結論は……俺を嫌に落ち着かない気持ちにさせた。

「……顔、真っ赤ですよ」

「お前が、冷静すぎるんだ」

「私だって恥ずかしいです」

 なんて、言って笑った。

彼女の笑顔を見るのは初めてだろう。俺が彼女の前で笑ったのも、もしかしたら初めてだったかもしれない。

ここまでくるのに、六年以上だ。

 それだけ経って俺はついぞ、彼女に「好き」の一つも伝えられずに……また、恋人になったらしい。




「じゃあ、原稿のほうお願いしますね」

「はい。わざわざ付き合ってくれてありがとうございます」

 まったくですよ、と編集さんは言い、そのまま車に乗って帰って行った。

今思い返せば、あの恥ずかしい……青臭い会話のすべては編集さんに聞かれていたのだ。そう考えると顔を合わせにくくなる。

俺たちは何度見たかわからない場所、例の豪邸にいた。

久しぶりに見たこの家は真夏のあの日から何も変化がないように見える。庭は荒れたまま放置されている。この調子では彼女の部屋も散らかっているのだろう。

「久しぶりですね」

「そうだな。でも、今度からはもう少し来るようにする」

「別に、良いですよ」

 彼女は微笑みながら言った。

「一週間とか、一か月とか。それくらいかけて部屋を汚くして、それをあなたが掃除してくれる。そういうのが……良いです」

 この野郎、意図的に汚くしていたのか。

そう言葉にする気はなかった。なぜなら、

「……そうだな。また、掃除しにくるよ」

 そんな生活のほうが、俺も好きだったからだ。

結局この一年で俺と彼女の関係は変わった。が、ほかのことは何も変わっていない。すべてが一周して戻ってきたようだ。

また、彼女と離別して会わなくなることもあるだろう。それでも、彼女と一緒にいることになる。そんな確信があった。

 門を開けて、視界を豪邸が埋め尽くす。

この場所が俺たちを歓迎している気がした。


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