第四話 転機
見慣れた道を歩き続けていると体から汗が漏れ出しているのを感じる。冬が完全に過ぎて、夏を意識し始めるような季節になっていた。
もはや町にマフラーや手袋の出番はない。見渡すと、係争の人々が歩いているのが目に入ってくる。
しばらく同じような道を歩き続けると、その先には豪邸があった。一目見れば目の留まり、次にその外観の荒れように目が留まる。そんな家だ。
こんな家、自分のバイト先じゃなければ行くことはないだろう。しかし、残念ながらバイト先なのでいかなければならない。
インターフォンを押して、返答を待たずに中へと入ってゆく。カギをかけていないことが多いのは、防犯的にはどうなのだろう。何度言っても直してくれた試しはなかったが。
玄関へと向かう途中、周りを見渡す。何一つ変わったところのない、そんな景色だけが目に映っていた。
初めてこの家へ訪れた時と何も変わらない。
その家の主も、きっと何も変わっていない。
けれど、そんな時間もだんだんと終わりへとにじり寄っているように感じていた。
「んんんん」
大きく、そして汚い部屋。それが「趣」の暮らしている部屋だった。床はゴミでおおわれてみることができず、そこへ足を踏み入れたものの嗅覚は悪臭によって破壊される。
そんな異空間の源となっているのが、汚い毛布で構成されたバリケードのようなものだった。形容しがたい形と、匂いと、汚れで出来ている。そして、くぐもった声がその中から響いていた。
「掃除しに来たぞ」
「んんんんんーーーーこんにちわ」
バリケードからそんな声が返ってきた。もし話しかけられても唸り続けているようだったら、心配するところだった。
彼女がバリケードから出てくる気配はなかった。その代わりに再び唸り続ける。何事か、と思ったが聞くようなことはしない。
持ってきていた鞄からビニール袋を取り出して、掃除を始めることにした。
自分の部屋を掃除するよりも、この部屋を掃除するほうが慣れてしまっていた。優先して捨てたほうがいいものもわかる。よく捨てられているものもわかる。
バリケードの近くは、悪臭になれていない、部屋に入ってすぐの時間に近づくと辛いので段々とゴミを捨てながら時間をかけて近づいていくことが重要な手順だ。
床を踏むことができないので、必然的にゴミの上を歩く必要がある。できるだけ足元に被害が及ばないものを選んで歩いていく。
そのため床ばかりを見てしまう。そして、落ちているごみの傾向もつかめるようになっていた。
やはり「趣」の書いた小説が多く置かれていた。作家というのは自分の著書を出版社から大量に送られているというのを聞いたことがあった。
苦々しい思い出の「名もなき手紙」など、見たことのあるタイトルが多く並んでいて……ふと、気付いた。
「……もしかしてお前、最近小説書いてないのか?」
そう、目新しいタイトルがなかったのだ。
ここまで考えて、一つのことに気付く。彼女は一冊本を出版すれば、ニュースに特修されるような作家だ。それにも関わらず最近そんなことを聞いた覚えがなかった。
そして、彼女は専業ということや、彼女自身の才覚によって刊行スピードがとてもも早かった。
つまり、新刊が出ていないということは、小説を書いていないのだろう。
「んんん―――ー、……はい」
「おいおい、この前……一か月と少しくらい前に書き始めたんじゃないのか」
「短編だったんで本にはなっていませんよ。……でも、それ以降書いてないのは事実ですね」
それを聞いて、少し落胆する。
この前の俺と、編集さんの努力はいったい何だったのか。これは問いたださないと我慢ならない。
掃除をする手も止めて、彼女のいるであろうバリケードのほうを見て話す。
「この前みたいに、金が足りてるから……か? だから書かないのか」
「違いますよ」
バリケードが縦に大きく裂かれる。そして、その隙間から一人の小柄な人影が這い出てきた。伸びている黒髪から除く肌は、青白く死人を連想させる色をしていた。
わざわざ出て来て話すなんて……彼女なりに真剣なのだと理解した。
「なんというか、その、書けないんですよ」
そう言った彼女の言葉は嘘には見えなかった…………やろうとすれば、彼女は「嘘に見えない」ように嘘を吐くことができるのだろうけれども。
そんなことを考えていても彼女と付き合うことはできない。
彼女信じて会話をつづける。
「つまりスランプってことか」
スランプ、自分で言っておきながら目の前にいる彼女との乖離に驚いてしまう。似合わない、そう思ったからだ。
そもそも彼女が作家として大成しているのも、彼女が「感情を極めている」からだ。彼女にとっては一足す一の計算と人に自分を好かせることも大きな差はない。
その才能、性質が彼女の小説を多くの人にとって共感できる存在にしている。そして、同時に彼女を人嫌いにもさせていた。
だから、彼女は生きている限りそんな小説を量産できる存在のはずだ。
けれども今はそうではないらしい。
「初体験です」
「……だろうな」
消して邪な言葉ではないのに、俗な聞こえ方をしてしまう。特に表情には出さないようにして俺は返答した。
それにしても「趣」がスランプなのは本当らしい。
文句も、説得も関係ない。事情もない。ただ単に書けなくなっているらしかった。
「何を考えても……ピンときません。面白くなるイメージがない。ピースのかけたジグゾーパズルを解かされている気分です。」
小説を書くことに全く縁はない。
しかし、その気持ちはどこか共感することができた。俺が目の前の彼女と会話しているときも、きっと同じような気分になっていることだろう。
何を信じればいいのかがまるで分らないような。
「……でも、良いんじゃないか?」
俺の口から、不思議と言葉が出てきていた。意図は分からないが、きっと本心による言葉のはずだ。
「はい?」
「スランプなんてお前には体験できないような感覚だ。けれど、今こうして体験してる。これってさ、つまり」
続けて俺は言った。
「――段々と普通の人間に近づいているってことなんじゃあないか」
「…………っ」
俺がそう言うと、彼女の表情が紙粘土のようにたやすく変わった。彼女が人の言葉で表情を変えるのを、俺は久しぶりに見た気がする。
その表情は驚愕と、ほかの冷たい感情で混ぜられた表情をしていた。どこか瀕死の小動物を連想させるような目だった。
そこに俺の言葉が差し込める隙間がまるでないように見えて……俺は掃除に取り掛かることにして背を向けた。
掃除は順調だった。
いつもよりも早く作業が進み、三時ごろにはバリケードを除いて掃除を終わらせることができた。
バリケードの掃除はしない。いや、させてくれないだろう。そこをどうにかしなければこの部屋はいつまでたってもきれいにはならないが、頼まれては仕方がない。例え半紙に墨汁をたらすような行為も見逃そう。
「…………まだ出てこないのか」
彼女の姿は俺には見えない。もちろん部屋の外へと出ていったのではなくて、先ほどの会話をしてからバリケードの中へとこもり続けてしまった。
掃除の途中で、腹が減っていないかを聞いたが反応はなかった。
用事自体はすでに終わっていた。だからこのまま帰って行ってもいいのだけど、このままこの家を離れるのはどこか落ち着かなかった。
そう思ってこの家へと残る要件を探す。何かないかと思ったが、特別何かがあるわけでもない。それでも帰る踏ん切りがつかずに、なんとなくその場へ座り込んでしまった。
「……あー」
力のない声が口から洩れる。
普段、数週間会わなくても何とも思わない。それにもかかわらず、彼女の見せた表情一つがここまで心残りになるなんて思ってもいなかった。
だが……特に用件は見つからなかった。
しかたなく帰ることにする。このままずるずると居座っていても彼女の反応が変わるとは思えなかった。そういう奴なのだから。
「じゃあ、今日の所は帰るぞ」
意識があるかもわからない、バリケードの住人にそう告げて立ち上がった。そして、きれいな更地になった床を歩いていこうとしたその時。
「……相談」
「…………何か言った?」
バリケードの中から声がした。短く区切られたその声は用件を伝えるまでにはとても至っていない。
聞き返すと「趣」はいつものように体を這ってバリケードを割ってきた。
「相談ですよ。何か依頼受けてきてないんですか?」
「えーと……、うーん……」
俺は返すべき言葉を失ってしまっていた。それは質問の内容によるものではなく、彼女の行動についてだ。
先ほどのこともそうだが「趣」がとってつけたような用事で俺を留まらせていることに驚かされる。
今日の彼女はどこかがおかしい。まるで、なんというか、――――普通のようだった。
寂しさを素直に感じて、それを解消するために他人を求めるような彼女の姿は、枯れ木にしがみつく朽ち果てた葉のように感じられた。
「依頼、依頼ね。そう言えば最近受けてないな……俺が断っているとかじゃなくて、あまり頼まれすらしない」
「……不景気ですね」
まったくだ、そう言って俺は彼女の近くに座り込んだ。
どうやら腰を落ち着ける理由が互いにできてしまったようだ。心のどこかが少し踊ったのは気のせいだろうか。
「俺も三年生になってさ……これは話したか」
「はい」
高校三年生、それは人生における一般的な転機と言えるだろう。俺にとってもそうだ。普通はそのはずで……それは依頼人の多くを占める同級生にとっても同じだ。
「俺に依頼をしに来た奴らは大体が三年生で、つまり受験生だ。人生の岐路に立たされている奴らだからむしろ悩みが増えそうだけど……」
まさか受験のことを知り合い程度の同級生に聞くわけにもいかないだろう。
「受験関係は教師とかに聞くものだから、俺のもとへは何も来ないんだよね」
そう考えると少しのさみしさを覚えなくもない。
俺の高校生活は相談事と、ここへのバイト、その二つで出来ていた。三年生になってどちらも今まで通りにはいかなくなることだろう。きっとすべての物事は足踏みをしていて、たまたま足踏みから歩みに変わったということだと思った。
「……そうですか」
と、言い切ることはせず。彼女は意外なことを言い出した。
それこそ本当に「らしくない」言葉を。
「だったら私の相談を聞いてください」
「……は?」
相談があるならば腰を入れて聞こう。そう思って、何度か使った覚えのある折り畳みテーブルを収納から取り出して組み立てた。
そのテーブルを挟んで俺と「趣」は向かい合っていた。
珍しいことに彼女も寝転がりながらではなく、真っ当に座っていた。これで悪臭が抜ければ外見だけなら普通の人間だろう。
「まさかお前から相談をされるなんて思わなかったよ」
「誰にだって考えとか、悩みはありますって」
嘘だ。
何時もの彼女を見ている俺には彼女の言葉がとても信じられないものに聞こえる。自分で「感情を極めた」なんて言える彼女がそんな「青い感情」に苦しめられるなんてとても思えなかった。
けれども、今の彼女を見ているとそうとは言い切れない。
何かが変わろうとしているのだ。
「……ま、そんなものか」
「はい」
素早い返答。その声に俺は落ち着かない気分にさせられた。
何かがかみ合ってない感覚が止まらない。話せば話すほどに不愉快な音楽が脳内で駆け巡っているようだった。
それでも会話をやめない。
義理の妹のために働こうという心は少しくらい持ち合わせているのだ。
「それで、何の相談なんだ? やっぱり小説が書けないことについてか」
思い至ることと言えばその程度、ほかの原因は俺には見当もつかなかった。妥当なところだと思う。
しかし見当はずれのようで、彼女は頭を横に振ると
「違いますよ」
といって俺の瞳を見つめるようになった。必然的に目が合う。彼女は俺を見ているはずだが、その瞳は虚空だけを見つめているように感じた。
俺の思考を置き去りにするように話は進んでいく、彼女は続けて俺に告げた。
「私の悩みは……お兄ちゃんについてです」
「うん?」
意外な答えだ。想定外すぎて背筋が凍り付くような感覚が体を襲っている。思えば、それは続く言葉への怯えだったのかもしれない。
なぜそんな風に感じるかはわからないけれど。
「それってバイトのことか? 三年生になったから止めにしようとか、そういう」
「それはどうでもいいです」
そして一息吸ってから彼女は言葉をつづけた。
「私お兄ちゃんのことが好きです。異性として――――だから、恋人になってください」
言葉の意味が分からなかった。
その短い言葉すら受け入れられないほどに、その瞬間の彼女を俺には理解することができなかった。
ただ、ひとつ。彼女の意志の強さだけはいたいほどに伝わってきていた。だから俺には彼女と見つめ合うこともできずに、嫌にきれいになった部屋を見渡すことしかできない。
薄汚れたカーボン色を見つめる。無機質なその色は俺の心に一切の干渉をせずにゆだねているように感じた。
迷う心から、直感的に言うべき言葉を引き抜いた。
そして言ってしまう。
「……こちらこそ、お願いします」
ガキン、と。
何かが切り替わる音がどこかから聞こえたような気がした。