第三話 ストライキ
今更ながら、俺の義理の妹……「趣」というペンネームを名乗っている彼女の特殊性には慣れることができない。
感情を知りすぎた、そう彼女は言う。
それがどんな状態を生むのかはわからない。ただ、彼女が言うにはどんな状況でも適切な言葉や行動をすることで自分の望む結果へと持っていくことができるとかなんとか。
それを知ってから俺は、彼女の言葉を信じ切ることができなくなった。
今の俺が言えることは一つ。
どうしてそんなことを俺に教えやがった、ということだけ。
「先生が原稿を出してくれませんっ! どうにかしてください!」
ある全国チェーンの喫茶店。その一角でそんな声が飛んだ。
俺はその声の発生源に目を合わせずに、遠くのほうを見つめていた。頭の中では「なぜこんなことになったか」について考えている。
俺がいつも通り「趣」の家にバイトをしに行った時のことだった。家の前に、スーツ姿の女性がいたのだった。セールスかと思ったので、一応応対しようとした。いや、しようとしてしまった。
「趣」はこういう手の人間に限らず人間嫌いだ。だから、うまい断り方もわからないだろう。ここで、俺がきっぱりと断るのがベストだと、そう判断して話しかける。
「あのー、この家の住人に何か用ですか?」
そう声をかけると、そのセールス……いや、「趣」の担当編集は振り向いた。彼女の表情には、焦りの色が透けて見えていた。目の下の隈は彼女の苦労を思わせるだけのものだった。
今思い返せば、その時の彼女の瞳には何かに期待しているような、藁にも縋ろうとする意志があった。
地雷を踏んだ、そんな気持ちだった。
「私がいくら電話しても、インターホンを押しても無反応なんですっ。いつもは三回に一度くらいは反応をしてくれるし、原稿の締め切りも守っているのに!」
締め切り、守ってたんだ。
初めて知ったその事実に驚いた。私生活はまったくのずぼらな癖して、締め切りを律儀に守っているとは思っていなかった。
だからこそ今回の行動が異常なのだろう。目の前の……二十代半ば程度の風貌の編集の反応から見て取れる。
「それで、俺に原稿をとってきてもらいたい、と」
「はいっ」
力強く首を縦に振る。彼女の本気が伝わってくるようだった。社会人とはここまで何かを背負わなければいけないのだろうか、嫌な話だ。
「でも……俺は彼女の仕事に関してはノータッチです。そんな人間に渡してくれるでしょうか?」
「……う」
返ってくる言葉は弱弱しかった。彼女自身も、そううまくいくとは考えていないらしい。ここまでしなければ給料はもらえないのか、俺まで少し悲しくなってくる。
そんな気持ちが伝播したのか、担当の彼女は下を向いてうつむいてしまった。
むむ。
「絶対にできるとは、限りませんよ」
「え、それは」
ついつい言ってしまった。人を無責任に喜ばせるのは余りいいことじゃないと思っているというのに。
けれどもこんんな様子の人を見過ごすのは、なんだか心に悪い。
どうせついでなのだ。快く引き受けるのが人間という奴だ。そう納得することにして、前向きになる。
「まあ、なんとか説得してきます」
「ありがとうございますっ」
そう言うと、彼女は鞄を探りはじめる。十秒くらいたつと、手入れされている黒色のプラスチックケースから名刺を取り出して俺に渡してきた。
「これを見せれば先生も信用してくれるはずです」
「……はは」
一応受け取っておくが、「趣」に対して使うことはないだろう。
あいつはそう言ったことで人への信用の度合いを変えない。そもそも人を信用していることすら怪しい。おそらくあれだけ家へ通い詰めている俺のことさえ、警戒しているというのだから。
「じゃあ、そういうことで」
「あっ、奢りますよ」
ありがとうございます、と言って立ち上がる。
給料がコーヒー一杯というのは安いのか、高いのか。そう思いながら手元にある名刺を見つめる。
「関原社 海原 葵」
そう書いてあった。
「まぶしいな……」
店を出ると、日は天辺に位置していた。
空腹を覚える時刻で、それは「趣」も例外じゃないのだろう。よくわからない地方の特産品を食い散らかされないように買い物をしていこう。
そんなことを考えながら歩き出すと背後から声が飛んできた。
聞き覚えがある。もちろん、担当編集の女性の物だ。
「そういえば、あなたは先生のなんなんですかー?」
当然の疑問だろう、そう思う。
あの人嫌いのベストセラー作家の「趣」が家へと入れる青年だ。そうそういないだろう。おそらく世界で俺だけだ。
けれど、その質問に答える言葉は……不思議と見つからなかった。無難な言葉は多く思いつくというのに。
人の心とはままならないものだ。
「兄貴分ですよ」
聞こえたかはわからないが、振り返ってそう言い切り、再び俺は歩き出した。
豪邸の前に来ると体が強張らずにはいられない。何度来ても慣れないもので、中身が古アパート以下の惨状と知っていても格式を感じてしまう。
そんな家にも、門にはインターホンがついていることに少し安心感を覚えてしまう。こんなことを考える時点で、俺は将来豪邸に住むようなことはなさそうだった。
インターホンを押す。
押したところで「趣」は気にも留めないだろう。だから返答を待ったりはしない。ただ、これから行くという意思を伝えられてればいいな、と思ってのことだった。
期待はしない。
ビニール袋を持つ腕に力を入れて、門を開けて豪邸へと入っていった。
「相変わらずの荒れようだな」
門を開けて、玄関までは少しだけ距離がある。その両端には本来は爽やかな草原の庭が広がっているはずだった。しかし、僕の腰くらいの丈まで草が伸び切ってしまっている。その草も緑色なら雅と言えるが、残念ながら風化した古紙のような色をしていてみすぼらしい。
ここも掃除しようか、と思ったが口には出せなかった。冗談じゃない。もはや業者のレベルの問題である。
死体の一つ程度が草の茂みに隠れていても、もしかしたら誰も気づかないんじゃないだろうか。そんな冗談も思いつく。
そんな荒れた草地を横目に、玄関にたどり着く。
合鍵を差し込むと扉は開き、腐った生ごみのようなにおいがほのかに香っている。
「うえぇ」
バイト代の五万円を思えば、俺の足は動いてくれた。匂いをできるだけ考えないようにして彼女の部屋まで階段を使って登って行った。
「臭い」
「…………んんぅ」
部屋を開けて早々、鼻にこびり付くような悪臭が部屋の外へと逃げ出していった。それが止まる気配はなく一種の生物兵器を思わせる。
心なしかいつも以上の悪臭な気がする。どこが違うということを言えるわけではないが、規模が大きいような、そんな気がしていた。
毛布のバリケードが不自然に膨らんでいるので、そこに籠っているのだろう。
「いつも以上に臭いような気がする。くさやとか食べたりしたか?」
「一口だけ、確か残っていたような気がします」
もぞもぞとバリケードの中から這い出てくる「趣」。肌の碧白さは相変わらずで、死人のような色をしている。
もしかしてくさやを探そうとしているのだろうか。
「……いらないよ」
「なんだ」
俺がそう言うと動きを逆再生をしているかのように、毛布の塊の中へと引き換えして、やがてもぐりこんでいった。
あのバリケードだけは気に入っているのか、一度も掃除をさせてくれないので匂いがこの世の物とは思えないものになっているはずだ。しかし、その中へと潜るということは嗅覚が鈍っているのだろうか。
人間の適応力の奥深さを垣間見たようだ。
そんな風に挨拶代わりの会話を一通り終えると、腹が鳴っていた。「趣」は決して口にはださないので、腹が減っているかわからない。
「とりあえず二人分作ろう」
そう小さくつぶやいて、台所へと向かった。
台所にも目をそむけたくなる汚れがある。流さない水はすぐに腐るとか、なんとか。そんなことを実験した後のようになっていた。
気合を入れて、料理ができる程度に掃除をすることに決めた。
「美味しいか?」
「無難です」
掃除を終えて、焼きそばをつくってやった。大目に作っておいて余った分はラップをかけておいておいたが食べてくれるかはよくわからない。
掃除をまだしていないので、匂いもおさまらない。床から加わるごつごつとした衝撃も体にとても悪そうだ。
しかし、食べながら掃除をするわけにもいかないので、時間つぶしに雑談でもすることにする。
話題はもちろん、原稿のことだった。
「なあ」
「なんでふは」
焼きそばを口に含みながら「趣」は言葉を返してくる。汚い、他人様が見れば可愛いと思うこともあるかもしれない。
寝転がって食べているので非常に見るに堪えない。
会話をする分には困らないので、いっそ聞いてしまうことにする。
「お前の編集さんが、原稿を出してくれないとか言ってたぜ」
「…………あー」
食べる手を止めて、「趣」は言葉をこぼした。様子を見るに少し真面目な理由があってのことなのだろうか。
「スランプとか、そういうやつなら少しは融通も聞くだろう。話を聞かせてくれれば」
「うぇ……、そういうのは何度も言われたんでいいです」
聞き飽きた言葉だったらしい。首を横に大げさに振って見せて、満足すると焼きそばへと再び手を伸ばした。
まともに取り合ってはくれているようだが、彼女のリアクションがまじめな雰囲気をぶち壊している。俺は少し強引に取り合うことにした。
「ストップ」
「あー」
焼きそばの盛られた皿を彼女の手からひったくる。当然、食べていた手も止まってしまう。そんな俺のことを少し不満げに見つめている。
それが演技なのかはわからない。
そうだ。彼女はそういう奴で、こんな会話にもあまり意味はない。彼女は俺を納得させようと、思ってもいないことをまくし立て、最終的に俺を丸め込むことができるのだから。
けれど、頼まれたからには頑張ってみよう。
「真面目に話をするまでお預けだ」
「いやいや、真面目に話してましたから。くださいよ」
下半身を引きずりながら這いよってくる「趣」を手で静止させる。強硬策ともいえるだろうが、しかたがない。恨むならば担当編集を恨め。
「……で、何で書かなくなったんだよ」
「言ったところで、解決される問題じゃあないですよ」
意味ありげな言葉を彼女は言う。しかし、何も教えてくれなければ全くの無意味。聞くだけ聞いてからあきらめるかどうかは考えよう。
近くにあった折り畳みテーブルを組み立てて、そこに不埒分の焼そばを置く。テーブルを挟んで、彼女と対面するような状態にして話し始めた。
「何にも教えてくれなかったどっちにしろ解決できないよ。教えてくれ」
「……まあ、隠すようなことでもないから良いですよ」
そう言うと、身を翻してバリケードのほうへと進み始めた。体を押し付けて床を這っているので、ゴミとゴミと彼女の体がこすれ合って汚い音がする。
そうしていってバリケードの中へと入り、十秒と少しが経つと再び出てきた。
彼女の片手には新しく、汚い手帳のようなものが存在していた。
「なんだそれ?」
「まあまあ、とりあえず見てみてください」
彼女は片手に持った手帳のあるページを器用に開いて示すと、それを俺の目の前へと突き出してきた。
そこには、何か巨大な数字が書いてあった。
というか貯金通帳だった。
「…………なんだこれ、ゼロが……いくつある?」
そこに書いてある数字は一目では正確な金額がわからないような、それほどまでに桁数が膨大な数だった。
おそらく一般的なサラリーマンも一生懸けても稼ぐことができないだろう。
そして、それを彼女が持っているということは。
「全部、お前が稼いだのか」
「はい、そして――」
彼女は通帳を持った右手で部屋を大きく仰いだ。視界に入ってくるのはゴミで埋め尽くされた相変わらずの魔境の様な彼女の部屋。
それを見たのを確認して、彼女は言った。
「この自堕落な生活を一生続けるのに必要な金額とほぼ同値です」
俺の頭は急な展開に付いていけず、ただぼんやりと「自堕落なことは自覚していたんだな」なんてことを考えていた。
少し落ち着いて、理解する。
要するに、彼女が小説を書かなくなった理由とは。
「私はこれ以上働かなくても、無事死んでいくことができます」
一生分の費用を未成年の内に稼ぎ切る、そんな常人離れしたことを彼女は成し遂げてしまったのだった。
よく宝くじが当たったらどうするか、という取らぬ狸の皮を算用しているようなしていないような質問がある。
そんな質問でよく語られるのは、仕事を続けるかどうかだ。
今回の問題は、俺の義理の妹は仕事をやめてしまうタイプだったという話だ。
「小説を書くこととか、好きじゃなかったのか」
昼食を終えて、俺は掃除を始めた。「趣」は小説を書くわけでもなく、掃除を手伝うわけでもなく、時間をつぶしていた。今は埃に覆われた小説を流し読みしている。
突起物を踏まないように、足元へと気を配りながら捨てられるであろうものを拾い集めていく。
「嫌いじゃないです。けど、どちらかというと便利な手段だったんで」
「手段?」
「生きていくための、です」
野生生物みたいなことを言っている、そう思った。
しかし、そんなものなのかもしれない。俺が学校へ通ったり、バイトをしているのも生きていける手段を増やすためだ。未来へつながる石橋を補強しながら進んでいる。
特に、学校にも行っていない、そして人が嫌いな彼女にとってそれは重要なのだろう。
納得はできる。けれど、なんだろう。頼まれたということや、ほかの感情が彼女に小説を書き続けてほしいと思わせている。
「……ほら、いくら金があってもインフレしたら意味がなくないか?」
「その時は海外にでも行きますよ」
その言葉が本気なのかを計り切ることはできなかった。
いつもと変わらない表情で俺の問答をさばいていく彼女の姿は、本気なんか冗談なのか、そんなことをもぼやかしてしまう。
霧の中でさまよっているような感触が心の奥で広がった。
「大体、仕事なんて言うものはそんなものですよ。お兄ちゃんは私のもとで超ホワイトなバイトしかやってないからわからないかもしれないですけど。担当さんともできることなら、ビジネスライクに縁を切りたいものです」
言っていることはは真っ当に聞こえる。少なくとも、百人が聞いて全員が否定するようなものではないだろう。
けれど、彼女はやけに饒舌に語る。それが違和感になっていた。
自分に言い聞かせるようにも見える。そして、それは彼女がまだ小説を全く書こうとしてないわけではないことを示しているように俺には感じられた。
「仕事に関しては……そうだな、きっと正しいんだと思う」
たかが月に数回親類の家へ訪れるだけで、五万円ももらえるなんて仕事は全国を探してもこのバイトくらいだろう。
「それは認める……けど、そんな俺でもわかることがある。どんな仕事でも愛着とか、縁が生まれるんだと思う。お前の場合、あの担当さんとか」
俺の仕事に愛着があるかは微妙だが、少なくともこんな仕事がなければ変わり者の義理の妹とこんなにも親しく見えるような交友はなかっただろう。
例え「趣」が俺のことを、赤の他人と変わらないような目で見ていたとしても、俺は彼女のことを掛け替えのない存在だと思えるようになっている。
「担当さんは仕事だから私に会いにくるんですよ」
「本心から会いたいと思ってるかもしれないじゃないか」
「わからないですよ。そんなこと」
そうだ。それはわからない。俺は数時間前に初めて会ったばかりだ。彼女は以前から親交があるだろうけれど、彼女の目線からどう映っているかなんてわかりはしない。
でも、そんなものだろう。
人の感情なんてわからない。
目の前の生意気な義理の妹は、人の感情を極めたなんて言うけれどそれが正確な評価とは限らない。ただの思い込みということもある。
「もういいです。今日のお兄ちゃんは必至すぎて気持ち悪いですよ」
堪らない、といった具合に汚いバリケードへと身を隠す「趣」。
まるで喧嘩をしてしまったようじゃないか、そう思った。同時に俺は彼女と争うようなことをした覚えがなかったことにも気づいた。
新鮮な感覚だ。
そんな感覚に包まれながら、彼女の期限が戻るまで掃除をつづけることにした。
寝起きの気分は、曇天の雲をかき分けているような者に似ていると思う。今の俺はまさしくそんな気分になっていた。
上半身を起こして周りを見ると例のバリケードを除けば部屋がきれいになっている。周りの情景と照らし合わせていくうちに自分が何をしていたのかが思い出せた。
「掃除して……、終わった後眠くなって……寝たのか」
久しぶりに証明にさらされたフローリングの上で寝たせいか、背中のあたりの骨が落ち着かない。
関節をマッサージで刺激して、なんとかけだるさを軽減する。
窓の外を見ると夕方と夜更けの境目くらいの暗さが広がっている。三時間程度だろうか、それくらい眠りに落ちていたらしい。
また休日を無駄につぶしてしまった、そう思っても時間は戻らない。俺にできるのはその現況を見つめることだけだった。
バリケードは相変わらず匂いと汚さを表現していて、常人なら近づけない聖域となっていた。
そこに俺はけだるい体を起こして歩んでいく。
毛布を強引に剥ぎ取ると、何がどうなっているのかそのバリケードの中から転がり出るようにして「趣」が現れた。
小柄な体は眠っているままのようで、背を丸めたアルマジロのように出てきた。
このように乱暴に扱われても起きないとは、少し俺は驚かされる。
「……こうしてみる分には普通の、いや痩せすぎの、美少女って感じだな」
肌が過度に青白いのは少し美少女らしくはない。
けれど、そう言ったところを除けば一般的な美貌を手にしているように見える。寝顔も無邪気なもので、この姿だけを見ればとても素直な少女だった。
「――――あ」
何となく、言葉を口に出したいと思った。
何による衝動なのかはわからない。けれども、彼女の意識がない今だからこそいつもよりもいえることが増えている気がしている。
「あんまり口には出したくないけど」
冗長な前置きをしてしまうのはなぜだろう。性根なのだろうか、「趣」が見ていたら笑っているかもしれない。
「俺はバイトに行くとお前が俺に目をくれずに小説を書いていて、それを傍目に掃除をするのが嫌いじゃなかった」
高校生活の思い出を探っていると、いつだってこの部屋のことを思い出していた。臭くて、汚くてこびり付くようなこの部屋のことを。
「最初はいけ好かないと思っていたけど……今でも生意気とは思ってるけど、俺はお前の変なところもまあまあ好きだ」
何を言われても、その言葉は彼女が「俺の感情を操作するため」に言っているのではないか、と疑い続けていた。それは今も大して変わらない。
けれど、考え方は変わった。普通の人間だって……俺だって同じようなことをすることに気付いたからだ。
そう思ってから少し、「趣」を正面から見れる気がした。
「相談した依頼を、小説のトリックの実験台にされたときは少し嫌な気分にならなくもなかったけど」
あの問題は解決した。何の不都合も存在しないように問題は終着した。後に残ったのは「趣」への少しの恐怖だった。
もしかしたら、彼女は俺を意のままに操っているのかもしれないと思った。けれども、それは彼女にとって当たり前のことだったのだと思う。
新しく絵の具を買ったら、たまたま近所の桜が満開になっていた。みたいな、一石二鳥だっただけなのだろう。
時にその行動が冷淡に見えていても、別の角度から見ればきっと正しい。
「……なんというか、お前が小説を書いていてほしいと思う。理屈じゃなくて、そのほうが落ち着くよ」
その言葉は不思議と無意識に漏れていた。
「……起きてますよ」
「なんてこった、気付かなかったぜ。全然、気づかなかった」
部屋から出ていこうとすると背後からか細い声が聞こえてきた。振り向かずに……いや、俺の顔が見られないようにして出ていこうとする。
自分の表情がよくわからなかった。俺はどんな顔をしているのだろう、なんとくなく見せたくはない。
「…………いつから起きてた?」
出入り口のドアノブに手をかけて、そんなことを聞く。
彼女は俺を喜ばせるための言葉を選ぶかもしれない、しかし今だけは正直に答えてくれるような気がしていた。
「最初からです」
「先生が無事原稿を送ってくれました。本当にっ、ありがとうございます」
またもや「趣」の家の前で出会った彼女は、そう言いながら過度に深い礼をした。俺としてはそんなことを言われるほどのことをしていないので少し戸惑う。
説得をしに行ってから、一か月がたった。
この一か月間あの部屋には行っていなかった。執筆活動をいそしんでいると思っての配慮だった。何度かお行こうとしたこともあったけれど、なんとなく会いたくなかった。
恥ずかしかったのである。
高校生活の負の遺産が一つできてしまった気分だった。
そんな自分の愚かさを一か月間嘆いて、なんとなくいい節目と感じていたときに担当編集さんに呼び出されたということもある。
「本当はもう少し早くお礼を言うべきなんでしょうけどね」
「……それはどういう」
言葉の意味を俺が尋ねると、彼女は驚いたような瞳で俺の姿を捉えた。自分の発言が何かおかしかったのだろうか。
「原稿をもらってから一か月弱経ってしまいましたし、社会人として迅速なお礼は大事だと思いまして」
……一か月弱?
「三日くらいあればハードカバー一冊分くらい書き終えられますよ。」
「そんなわけあるか」
部屋の掃除をしながら、原稿をどの程度で書き終えたのかを聞いたら返ってきた声はそれだった。俺にもその才能を分けてもらいたい。小説を書く気はないけれども。
と、そんな会話をしていた。
まったくいつもと変わらない様子だと思う。俺としてはかなり恥ずかしい告白をして、原稿を書かせたつもりだったがそんなことはないらしい。
つまらない、とは思わない。
不動こそ正義である。
ただ、部屋のごみは不動とはいかないようだ。そこにはしっかりと一か月分の汚れがたまっている。いつも以上に開けた期間は、いつも以上に膨大なごみとして出現する。
その中にカレンダーがあった。
示しているのは今日の日付、ちょうど四月ごろである。
「そう言えば、この前俺は高校三年生になったんだ」
「へえ、おめでとうございます」
特に感情も込めずに彼女は言った。
逆の立場でも俺はそうしていただろう。けれど、受験や……進路のこともこれからは考えなくてはいけなくなる。
もしかしたらここへ来ることもやがて無くなるのだろうか。
「……もし俺が来なくなったら、別の奴を雇うか?」
聞いてみたかったことだ。その返答によって、俺のこの一年の、または未来の身の振り方も大いに変わりそうなことだった。
返答は短く、簡単で、素早かった。
「まさか」
その言葉が聞きたかった自分がどこかにいたようだった。