第一話 手紙
薄く埃を被った廊下を歩いていると、籠った空気に耐えかねて咳き込んでしまう。
この家に来たのはいつぶりだったか、確か一週間ぶりだ。それでこの有様、相変わらずだが少し驚かされる。
横を見ると窓ガラスがあり、その奥には手入れされていない庭がある。しかし、その広さはマイホームにしても広いものだった。
そんなことを思いながら僕は目的の部屋までたどり着く。扉の取っ手を握る。何度来ても、ここでは手が不思議と止まってしまう。扉の向こう側の光景を見たくないと思っている俺がどこかにいるようだ。
そういう時、脳内に一万円札を五枚浮かべることにしている。五万円、つまり俺のバイト代だ。金は力なり。
五人のおっさんに背を押され、俺は扉を開けた。
「…………うぇ」
第一に飛び込んできたのは匂いだった。
アンモニア臭のような強烈なものではない。この匂いは、他人の家のにおいを濃厚にしたような匂いだった。悪臭というより、受け入れにくい匂い。
第二には床を覆うごみの数々だ。
床は見えることなく、未開の山地のような起伏を持ったゴミが部屋を飾っていた。一歩踏み出せば何かを踏み潰してしまうだろう。
それでも俺は中へと進んだ。帰りたい気持ちは決壊したダムのごとく流れ続けている。右足がなにか柔らかいものを踏んだ。何を踏んでしまったか考えたくもない。
部屋は金をかけているのか広い。ゴミは足を進ませるのをためらわせて『そこ』にたどり着くのにやけに時間がかかる。
「……生きてるか?」
俺がそうやって、言う。すると『そこ』から声が聞こえてきた。
「ま、だ。生きてます」
しばらく声を出していなかったのか、声は掠れている。音もぶつ切りで、聞きなれていないと理解するのが難しい。
目的地、つまりこの大きな部屋の隅だ。
そこには小汚い毛布を何枚も使って作ったバリケードのようなものがある。匂いの原点もここだ。それはとにかく巨大だ。時代が時代ならば芸術品になっているようにも見える。
俺が臭いに耐えていると、その中から声の持ち主が這い上がってきた。
さながら卵の殻を食い破って出てくる幼虫のように、一人の少女が出てきた。
髪は無造作に伸びていて、体は運動不足にもかかわらずやせ細っている。比喩ではなく、痩せすぎだった。
「いつぶりでしたっけ、三日ぶりくらい?」
先ほどよりは聞き取りやすい言葉で、難解な発音をした言葉を少女は話す。
「一週間だよ」
少女の名前は、いや、ペンネームのほうが有名だろう。
ペンネームを「趣」という。俗にいうベストセラー作家という奴だ。
一言で言うと俺の異母兄妹だった。
一週間分のごみを片付けているとインターホンが鳴った。
家主である「趣」に目線を向けると、「おねがいします」と言われて、しぶしぶ玄関まで取りに行く。これもバイトの一環だから仕方がない。そう思って元気を出す。がんばれ俺、負けるな五万。
先ほど、ゴミの山をかき分けて手に入れた印鑑は持っている。見つからなかったらどうするつもりだったんだろう。
そして、特に問題なく荷物を受け取る。どれだけ頼んだのかわからないが、相当重いので生半可な質量でないことがわかった。
「荷物くらい取りに行けよ」
荷物を下ろす。その拍子に何かが破壊された音がした。どこに置いてもこんな結果だろうから気にしない。「趣」もこちらを見ようともしない。
「人、嫌いなんですよ」
「学校も行かないで、宅配便する受け取らないで、俺が来なかったらどうするんだよ」
「餓死ですかね」
まじめなトーンでそう言う彼女。普通なら一笑してしまう言葉だが、彼女に限っては本気だということは知っている。
それが治らないということも、知っている。
「私はですね。お金とお兄ちゃんがいれば十分ですよ」
「はぁ」
こちらを向いて、「趣」はそんなことを言う。満面の笑顔は多くの人を魅了することだろう。演技にしては自然すぎる表情だ。
……だから、演技なのだ。
掃除を再び始めると、もぞもぞと「趣」が荷物の入った箱へと這いよってきた。芋虫のようだった。バリケードから剥ぎ取った毛布を体に巻き付けているからなおさら。
「臭い。それに邪魔だ。風呂入って来いよ」
「面倒です」
僕には目もくれずに「趣」は箱を開けて、中の物を確認している。掃除している手を休ませずに、中身を伺うと食料品や便せんが入っているようだった。
ああやって大量に物を買って、消費するのは良くて二割である。
だからこそこんな有様になるのだ。
「そんなに無駄に金使うなら、僕のバイト代に還元してくれよ」
「たぶん、確定申告的なものが必要になると思いますよ」
「どれだけ無駄にしてるんだよ」
未成年だからいらないような気もするが、冗談にまじめな思考はいらない。
彼女の言っていた金額についての言葉は嘘ではない。
そんなことができるほど彼女の小説は売れる。文芸誌の取材もよく来るらしい(受けるわけではない)。何を書いても馬鹿みたいに売れて、広い世代に人気だ。現代の○○(ここには文豪の名前が入る)なんて言われることも珍しくない。
その代償が、あれとかそれだと思うと、成りたいとは思わないけど。
丁度、彼女が読み終わったらしい本をまとめて、ビニールテープで縛っていると彼女は震えながら立ち上がった。
そして、だんだんと聞こえるようになってきた声で
「お風呂入ってきます」
と言った。
珍しい、どんなに汚れても気にしないような奴だからそう思った。
とにかく、俺はその辺の清潔そうな布を探すことに専念する。この少女、このまま放っておくと纏っている小汚い毛布で体をふくことになるだろう。それは臭い。汚い。
未開封のバスタオルを見つける。確か、いつか僕が買ってきたものだった。
それを開けて、投げつける。
受け取ると「趣」は部屋から出ていった。歩足は弱弱しい。一日の運動量が少ないせいかもしれない。
「ふぅ……」
彼女が部屋から出ていくのを確認して、ごみの無くなった床に座り込む。
彼女と話すのは苦手だった。別に、異母兄弟だからというわけでもない。そういう感情ではなく、親しくないというわけでもない。
ただ、「趣」には一つの大きな欠点がある。それが嫌だった。
それがあるからこそ、人を魅了する作品を量産できるのだが、それでも気に入らないものは気に入らない。
端的に言うと、彼女は――――。
「あの」
「お、おおうっ?」
声がしたかと思えば、冷たい何かが僕の手のひらを握った。一瞬で神経が逆立つような感覚、電撃が流されたような感化を受けて、冷たい何かから反射的に飛び去る。
「……え?」
そして、振り返って正体を伺うと、先ほど手渡したバスタオルに包まれたテルテル坊主……もとい、「趣」がいた。
驚いたのはそこではなく、そんな些細な、視覚的な驚きなんかではない。
「ガス止まってましたよ」
何でもないような口調で彼女は言う。俺はガス栓を点けてないだけだろう、と冷静に言葉を吐くことはできなかった。
彼女の体は冷たく濡れている。それにも関わらず、彼女の体から悪臭は消え去っていた。あの匂いが、水の温度を確認する程度――一度浴びた程度で無くなるわけがない。
だから、
「お前――冷たい水で体を洗ってきたのか、全部」
「冷たくても、温かくても、変わらないでしょう」
何をいまさら、と言わんばかりに言いきった。
顔色は青白く、肉体的には平気なはずがない。それでも彼女は本心から、それを言いきる。格好をつけているのでも、見えを張っているのでもない。
そう判断して、言うのだ。
「何を驚いているんですか、お兄ちゃん。私はそういう人間ですよ」
続けて、言う。
「感情を理解し尽くして、かえって無感情になったような、そんな人間」
先天的なものではないらしい。
気づいたらそうなっていたとか、それが本当かどうかは分からないけれど。
家庭的な問題でも、いじめられたというわけでも、ドラマチックな変革があったわけでもない。
たとえるなら、第二次性徴のようなものだと「趣」は言っていた。
生きていくうちに、色々なことに気付いていく。それは当たり前のことだ。だから、彼女の特徴も修練の結果。精錬された「趣」の暫定的な完成形ともいえる。
彼女がいつか言っていた言葉を、俺は忘れることはない。
『コミュニケーションなんて表情と、言葉の内容と、仕草と……あと色々。それだけのことで構成されているんです。
そんなことに気付いてしまったら、そのすべては私にとって一種の計算にしか見えなくなりました。
人が悲しんでいたら自然に「見えるように」励まします。
人が喜んでいるなら自然に「見えるように」一緒に喜びます。
本心なんて無くて、人のために感情を動かす。それが私です』
初めて聞いて、痛々しい妹だと思った。今となっては、聞かなければよかった一つの事実に過ぎない。
「いただきます」
毛布で出来たバリケードの中からくぐもった声が聞こえる。その声と同時に、僕がバリケードに添えたチャーハンが内側に取り込まれる。
「いつのかわからないが、ココアがあったから淹れたぞ」
チャーハンと同じようにココアの入ったマグカップを同じように置くと、数秒後に青白く細い、蛇のような腕が内側へとからめとっていく。
バリケードの中身はどうなっているのか、まったくもって知りたくなかった。悪臭の発生源というだけで、真っ当な環境ではないのは確かだ。
何度か掃除をしようとしたこともあったが、次の週には匂いとともに復活していたのであきらめている。
周りを見渡すと、部屋に入った時と比べものにならないほどきれいになっていた。外を見ると、六時と七時の間ごろだろうか。すっかり夜も更けている。ここへ来たのが昼頃だったので六時間程度ここにいたことになっていた。
「掃除終わったぞ」
「んー」
気の抜けた返事が返ってくる。
こんな口調一つでも、「趣」なりの考えがあるのだろう。消して気を抜いていたから帰ってきた言葉ではない。
彼女の特殊性を知ってしまうと、真っ当な会話一つ一つに疑いを向けてしまう。
更正できるものではないのかもしれない。死ぬまでそのまま生きていくことだってあり得る。事情を知らなければ、「趣」は未成年のくせに大ヒットベストセラーを何本も世に出す天才的文豪であり、人当たりも良いという完璧超人である。
治すようなことではないし、治したければ勝手にどうにかするだろう。
俺がすることと言えば、その特性を生かして、利用することだけだった。
「帰る前に、相談があるんだけど。聞いてくれるか?」
「チャーハン代くらいなら」
こうやって、高校生にしては法外なバイト代をもらって、彼女の家を掃除する。けれども、厚かましいことに俺はたまに「趣」に相談事をしていた。
人の感情を極めた、その言葉は偽りではない。相談したことは大体解決しする。成功しなかったときは、たいてい俺がもらった指示を実行できない時だ。
「それにしてもお兄ちゃん。なんでそんなに頼まれごとをされるんですか」
「一度引き受けると、二度三度とくるもんだぜ」
巡り巡ってその迷惑が「趣」に降りかかるのだから、彼女からしたらとんだ災難である。
「……やれやれ」
嫌がっているように超えるが、彼女の言葉を真に受けないことにする。自分の都合で振り回している気がするのは気のせいのはず。
少し待つと、バリケードの中から一人の少女が這い出てくる。無論、「趣」だ。真剣な話をする時には外へと出てきてくれる……という態度をとっているのだろう。
ありがたく受け取ることにして、近くの折り畳みテーブルを持ってきて設置する。
部屋の隅に置いておいた学校鞄の中から、相談内容をまとめたルーズリーフを取り出して、テーブルへと置いた。
毛布に包まれた彼女は、その紙に手を伸ばそうとしする。しかし、途中でその動きを不意に止めた。
「取るのが面倒くさいです」
「箱入り娘かよ」
大体あってますよ、と彼女は言う。頼んでいる立場なので、それに素直に従ってルーズリーフに書いてある内容を要約して説明することにした。
「依頼人は同級生の女子生徒。依頼内容は、恋愛相談」
「普通ですね」
最後まで聞け、と彼女の言葉を静止させて僕は補足の説明をする。ただの恋愛相談ならよかったが、面倒な条件が重なっているのだ。
「その相手は、妻子持ちの教師だ」
「これはまたベタな……」
それについては珍しく同感だった。
「前提、失恋するとして」
「そうなるだろうな」
その恋のお相手の教師をよくは知らないが、それだけ慕われている相手ならば人生の崩壊の危険を前に生徒と付き合ったりしないだろう。
俺もそう思っている。
だから、
「依頼人にそう伝えても、納得してくれなかったんだよ」
「納得するなら相談なんてしませんよ」
その通りだ。相談内容を聞いたときから、やんわりと諦める方向へと話を誘導していたが、諦めるなんてできないの一点張りだった。
「つまり、失恋させるうえで納得してもらう必要があるんですね」
むむむ、なんてあざとくうなる「趣」。そんな仕草をしているが、彼女の中ではこの問題の解決法なんて思いついてしまっているはずだ。
むしろ彼女の頭を悩ませるのは、その結論に俺をどう導くかだけだ。
聞いても教えてくれないだろう。そういうものではない。説明できるとは思わないが、彼女にも異常な美学があるらしい。
少し思考を逸らしていると、彼女が声を上げる。
「やっぱり告白して断られるのがいちばんわかりやすいですかね」
「だな」
けれど、と彼女は言う。
「告白する勇気があったら、相談しないです」
身もふたもないことを告げられた。結局のところ、他人に相談する奴なんんて問題を解決する気がない類人猿どもということだったらしい。
人の悩みというのは何とも傲慢なことだろうか。
「じゃあ、古風な手段はどうだ」
「と言いますと」
「ラブレター」
特に考えがあったわけじゃない。これがだめなら、次はそれ。そんな人海戦術のような考えでしかない。
「中々いい案だと思いますよ。けれど、問題があるとすれば」
案外いい考えだったようだった。
しかし、そのあとに「趣」は一つ指摘をした。
「――匿名性がないことですね」
意外なことだった。それが問題になるとは思っていなかった俺には、その意見に賛同しかねるところがある。
「告白に匿名性がないのは当たり前だろ?」
「わかってないですね」
やれやれ、そう言わんばかりに首を横に振られる。
「年頃の女子っていうのは何でも欲しがるものです。まあ、悪いことじゃあないですけど、今回は厄介な問題になっただけですね」
自身も年頃の女子のくせに、そんなことを平然と言ってのける。突っ込んだりはしない。彼女はこんな言葉を気に留めたりしないだろう。
「この例で言うと、匿名性と告白の実行、両方を成し遂げたいわけです」
なるほど、わかりやすい。
「つまり」
将棋の棋士が、相手を詰みの状態にするような、そんな決定的な瞬間を俺は目の前の彼女から感じていた。
世の中のすべてを手中に収めているような感覚。
ただ一つの最適解がそこにはあるように感じていた。
「名無しで出すんですよ」
「…………なるほど」
「上手くいったよ。依頼人も青春ドラマのヒロインみたいな気持ちになれただろうぜ」
「…………何の話ですか」
「忘れてるならいいけどさ」
二週間ぶりに来たこの家は、相変わらずの汚れ具合だった。気合を入れて、開封済み、未開封にこだわらずにゴミをビニール袋の中へと入れる。
掃除を始めてずいぶん時間が経ち、部屋もあるべき姿に戻っている。
バリケードのほうを見ると相変わらず汚い。なぜだかその光景は、一生変わらないもののように俺には見えた。
「……あー、ラブレターの話ですね」
「それそれ。無事、涙あり、青春のほろ苦さを味わうエンディングを迎えられたよ」
あそこまでうまくいくとは思っていなかった――――なんて白々しいことは言わない。彼女に頼んだ時点で大体そうなると思っていた。
何も知らなかったら僕も少し羨ましいと思えるほどに、「青春ごっこ」があの相談の後繰り広げられたのだ。
これで俺への相談も、ひいては「趣」の負担も増えることになるだろう。
それは別にいい。
「……あった」
ゴミ山の中から発掘した「それ」を俺はゴミ袋とは別に用意した袋へと入れる。「趣」に背を向けて行うことで見つかってはいないはずだ。カモフラージュとして、その袋にいくつかのごみを投げ入れた。
俺は想像を確かめたいだけだ。
「じゃあ、今日はこれで失礼するよ」
「わかりました。ありがとうございます」
気づいていたのかは知らないが、気付いていても何も言うことはないだろう。なんとなくそう思った。
豪邸を出て、家への道をいつもと変わらない歩幅で歩く。そして、十分ほどそうして、先ほど手に入れた「それ」を袋から取り出した。
『名もなき手紙 作者 趣』
この本が出版されたのは一週間前。つまり、この前の相談から一週間程度たった時だった。 俺が本の存在を知ったのは、ニュースで報道されていた時だった。『ベストセラー作家の新作発売!』なんてテロップとともに紹介されていた。
その時に俺が思い出したのは、この前に訪れた時の荷物に入っていた「便せん」
あれは家から出ない人間が使うものではなかった。
つまり、あいつは便せんをテーマに小説を書こうとしていた……いや、時系列的には書き始めていた。その時、たまたま俺が相談に来たから「名もなき手紙」に沿って解決法を教えてくれたのだろう。
例え俺が別のことを相談しても、結論は名無しの手紙を送ることによって解決しようとしていただろう。
結局、俺は踊らされていたのだった。
それを自覚すると、手に持っている本がやけに冷たく感じられて、全部まとめて廃棄用のごみ袋に詰め込んで道に投げ捨てた。
後ろを振り向くことはできなかった。
俺の義理の妹、「趣」を名乗る彼女はそういう奴だ。
何年も付き合い続けて、何度もこんな思いをしている。自分の思うままに人を導く……弄ぶ。
彼女が俺に見せる感情は、俺を操るための偽りでしかない。
それを知ったうえで俺は彼女といっしょにいる。
その理由を俺はよく理解していない。