[4a-09]自由の国
お読み頂く前にご注意を。
本作に登場する政党名は架空のもので実在しません。よく似た実際の政党があっても別物です。お魚で例えるならばヒラメとカレイくらい別物です。
イライジャは、目の前の少年が嬉しそうに支度をしているのを、ぼんやり、と眺めていた。
「はしゃいでるじゃないか。ニィ」
口に出して見て、ふと気がつくことがある。
この少年の名はニィと名乗った。スペルはNiと書く。それは日本語で2を意味するらしい。勝利の女神Nikeと名前がかぶっているような気がした。少年の容姿は、女神のように美しくもあった。それは、母の面影によく似ていたし、自分が好んで履くスニーカーのブランドとも同じ名前だった。
「もちろんさ、イライジャ」
勝利の女神と似た名を持つ少年は、満面の笑みを浮かべて振り返る。
「今日は、あの人がくる」
それはもう何度も聞いた。
タダヒト・フツノという、発音しにくい名前。最適化されていない昔ながらの日本人。ニィと出会ってからもう半年近くは経つが、その名はよく聞かされていた。
「お前に一番に紹介してやるよ」
と、ニィはまるでそれが何よりも名誉なことであるように鼻をならした。
「……ありがたいね」
「まってろよ」
「なぁ、ニィ」
「なんだ」
イライジャは、両手を組んで睨みつける。
「俺は本当に大統領になるのか?」
「ほぅ、不安なのか?」
「……まぁ、不安だな」
不安というよりも疑問だな、イライジャは口には出さずに息をつく。
大統領にしてやる、とニィに言われて半年がたっている。別に本気にしたわけでもなければ、大統領になりたいわけでもない。自分がこの少年と一緒にいるモチベーションは別にある。
「確かに、俺は大統領候補の一人になった」
「ああ、世間はその話題で盛り上がっている」
「……とはいえ、自由至上党だとはな。マイナーどころもいいところだ。これで本当に大統領になれるのか」
アメリカは共守党と民衆党の二大政党制であり、大統領はこの二つの政党から選出されてきた。それ以外の政党はおまけみたいなもので、ごく数%の人が冗談みたいに投票するものだと思っていた。
「大丈夫なのか?」
「実は上手くいっている。予想外なほどにな。もともと自由至上党の支持者数はそれなりに多い。特に、近年は急速にその数を伸ばしていた。お前が大統領候補者として立つ、と報道されてからは昨年比で三倍に膨れあがった」
「……元が数%だろう。三倍しても二桁にもいかない」
「ところが、10.3%だ」
「……そうかい。そいつはよかった」
くつくつ、と笑うニィの様子を横目でみながら、イライジャはソファに身を投げ出して足を組んだ。
日本による経済と遺伝子破壊という文字列が報道メディア上で目にするようになってから、アメリカはナンバー1ではなくなった。圧倒的であったはずの合衆国は、二番手の国に成り下がった。経済成長は水平線ぎりぎりでよく潜りこみ、失業率と犯罪率はまるで一生を添い遂げる老夫婦のように一緒に昇天し、もはや雲の上だ。
もともと、ナンバー1だった時だって、多くの貧困者がこの国にはいた。昔のそれは、黒人とかアイリッシュとかヒスパニックだった。しかし、今はそれにワスプも仲間入りしている。大した問題じゃない、と言う奴もいる。隆盛と没落のシーソーゲーム。繰り返しているだけだ、と。
しかし、このシーソーゲームはずっと下がったままだ。
「不満たらたらの没落白人層が、二大政党から自由至上党に流れて豚のようにブーブーと不満を垂れているだけだろう」
自由至上党は政府によるあらゆる法規制に反対するネタ政党だ。
無政府主義ともみなされる事も多い。アメリカ合衆国そのものに不満を感じている裕福層が投票する傾向が強い、と新聞の論説を読んだことがある。
「もう少し状況は複雑だな。確かにWSP、つまりWhite(白人の) Anglo-Saxon(アングロサクソン民族の) Protestant(プロテスタント教徒)からの支持者は増えている」
「だったらそうだろう。自由の国アメリカを享受してきた田舎貴族様たちが、昔を懐かしんでいるだけだ。『今こそ、建国の理念に立ち返るべきだ』ってな。今朝の新聞にそう書いてたぜ。『王制からの自由を経て、我々は再び自由を試されている。第二次独立戦争の時は近い。最適化を受け入れる勇気が必要な時かもしれない』ってな」
ニィは、くははっ、と笑って、まるで噛ませ犬役の俳優のように肩をすくめて見せた。
「おいおい、イライジャ。俺がしかけた世論誘導にお前が影響されてどうする。ハリウッドスターならもっと気の利いたアレンジを加えてくれ」
「……新聞に遺伝子最適化の擁護論を書かせたのはお前なのか」
「書き方が不満だったがな。あの新聞社はもっとセンスのあるライターを雇うべきだ」
イライジャは頭をふって、今朝呼んだ新聞を探し出す。ちょうど、机の上にそれは放り出されていた。
少し左翼よりの論調がつよいが大手の新聞社だ。
ここが推しているのは民衆党のはず。大統領予備選挙の後半を控えて、各候補者のマニフェストを比較検証しているコラムだ。その大見出しには『遺伝子最適化が最大の争点』と書いてあり、論調は受け入れ派の候補者を擁護するような偏向を感じなくもない。
「これは……日本の思惑か?」
「どうだろうな。まあ、利害は一致している。今のところは」
ニィはそう言って、クローゼットの姿鏡の前に立ち様々な角度から自分を確認している。
「俺は、アメリカを裏切るつもりはないぞ」
「裏切ってもらったら困る」
ニィは顔だけをこちらに振り向けて、笑って見せた。
「大方、日本の陰謀に利用されているのだと疑っているのだろう? 流石は、ハリウッド出身。脚本の発想が単純で浅い。ラストシーンは、日本の女スパイとのキスシーンで終わるつもりか?」
「それが、ヒットのコツさ。……哲学的で退屈な映画が見たければフランス映画でも見ていればいい」
「プロパガンダとは言ったが、日本は遺伝子最適化の情報を積極的に広報しているに過ぎない。別に、アメリカのマスメディアや政治家を金で雇って情報操作を……、まぁ、たまにはするが、そんな事ばかりしているわけじゃない」
「……」
「まぁ、単純なアメリカ人の自称愛国者たちからすれば、お前が裏切り者に見えてしまうこともあるだろう」
ニィは、クローゼットの中に頭をつっこんで服を探り出す。
「やっているのは、もっと全うなロビー活動さ。各国の大学、学会に遺伝子最適化技術とその解説を公開論文にして提出。経済系の新聞社には、最適化以後の失業率やGDP、所得推移などの経済統計の詳細データの提供。教育学会や社会保障に熱心な政治家に対しては、モドキと未調整の就学年齢別の成績格差の統計提供。……ま、それらの最後に決まって一言添えてはいる。遺伝子最適化は素晴らしい。人間をこれほどに豊かにする、とね」
「……」
「政治家や大学教授、それに新聞社の編集長、いわゆる世論先導者たちは、そういった情報には必ず目を通す。それが彼らの仕事だからな。そこから彼らなりの解釈が加わって、新聞やTV、論文、あるいは政治家の発言や政策公約に表出するようになる。アメリカ人には色んな人がいる。昔から宗教界からの科学教育の抑圧に不満を抱いている知識階級は多い」
ニィの含み笑いが聞こえる。
「生物の進化は生存競争によるものだ。遺伝子の組合せと突然変異の結果に過ぎない。人類の祖先は猿だ。こんな古典的な進化論は日本では五歳児でもわきまえているが、アメリカではそれを小学校で教えると宗教団体に訴えられる」
イライジャは頭を抱えて目を閉じた。
進化論裁判を引き合いに出すのは卑怯だ。かつて、進化論を否定する裁判があり、それを教えた教師が有罪になったのは有名な事実だ。しかし、それはもう随分と昔のことで、今では一部の南部の田舎者たちの特殊な主張にすぎない。
それにしても、ニィは頭が良い。彼の口から流れてくる情報の奔流を、自分の頭で処理するのは不可能だ。この少年だったら、黒いものを白いのだと説明することだって簡単だろう。
そんな偏った事実に皮肉をまじえつつ、ニィの解説はつづく。
「……つまり、アメリカの知識階級の中には、科学的事実を重視する一派がいる。彼らはアメリカのリベラルな立場を代表していて、一定の政治的発信力を持っている。最近になって、日本が公開したデータから最適化がもたらした利益が判明した。そんな彼らが、アメリカに対して最適化に対する態度緩和を主張しても、それを裏切りと言うのはあまりにも可愛そうだろう? 彼らとて、愛国心ゆえの行動だ」
「残酷なのはお前だ、ニィ」
「理解してもらえなくて、悲しいね」
と、いいながらもニィはむしろ愉快に言葉を弾ませている。
……まぁ、いい。
イライジャはソファに背を預けて、天井をながめた。
別に大統領になりたかったわけじゃない。合衆国への忠誠にこだわるほど、古くさい人間でもない。教会への礼拝だって年に数回くらい顔を出して、適当にアーメンと呟いているだけだ。礼拝習慣のある人間には高所得者が多い。宗教団体が好んで使う宣伝文句をそのまま信じているわけじゃない。
そんな半端者が、大統領選挙を賑やかすには自由至上党などというネタ政党から立候補するのがちょうど良かったのだろう。それはいい。どうでもいいのだ。
自分はただ、母の秘密を知りたかった。
この少年はそれを教えてくれた。
この少年と一緒にいるのは、半分が惰性で、もう半分はまだ納得できない事があったからだ。
それと、自分がこの状況を楽しんでいることも否定できない。
「よし! どうだ、イライジャ。バッチリ決まっているだろう!」
いつも楽しげなニィの声が弾んだ。
イライジャは顔をあげると、顎がずり落ちそうになった。
「お、お前……。その格好!」
「どうだ?」
「それで、そのタダヒトに会うつもりなのか!?」
「そうだ最高だろ?」
ニィが、くるり、と回ると、スリットがこれでもかと食い込んだドレスが白い太ももを晒して、ひらり、と舞う。黒くて長い髪はカツラだろう。にっこり、と笑った顔には化粧をしたらしい。紅い瞳によく似合う口紅が、にんまり、と端をひきあげていた。
背が高すぎるが絶世の美女がそこにいる。
それは、自分が初めて出会った時のニィの姿だった。
「さあ、」と、ニィは手を叩いて飛び跳ねた。「楽しくなってきたわ!」