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[4a-06]達人

 覚石が稽古場の中に入った瞬間に、その場に座して待っていた全員が頭を下げた。

 武道の指導者として覚石には風格があった。その点においては、弟子である布津野よりも圧倒的なものがある。彼は偉ぶることのない性格であり、愛されてもいたが、同時に十分に敬われてもいた。

 集まった大勢に覚石は驚き。一斉に垂れた頭に向かって頭を下げる。


「こんなにようさん集まって、ありがとう」


 老齢を感じさせぬ、どこかひょうきんな声で、覚石は挨拶をする。


「さて、布津野は?」

「ここです」


 ちょうど、覚石が入ってきたあたりとは反対側にいた布津野が応じた。


「ふむ……」


 そう言いながらも、覚石はあたりをキョロキョロと探る。

 すでに、孤児院の生徒たちや先ほど屋外で出迎えたGOAの隊員たちも戻って稽古場の隅にして座っている。覚石はその面々をなぞり、ようやく目当ての顔を見つける。意外に近くに座っていた。見つけた紅葉に声をかける。


「ほれ、紅葉」

「ん、なんだい」

「よう見とけよ」


 覚石はそう言いながら、中央に向かって歩を進める。


「めったに見られんもん、見せちゃるけ」


 覚石の歩みに合わせて、布津野も立ち上がった。

 周囲の人間は、いよいよか、と押し黙る。

 前足の重心を抜いた布津野は、その踏み降ろす先に迷いがあることに気がつく。呆然とした。結局のところ、気持ちは定まらずに心の置き所を見つけられなかったままだ。さて、どうやって立ち会ったものか……。


「父さん」


 取りあえず歩みを始めようとしたとき、背後からロクの声がした。

 振り向くとロクがいる。


「あの……」


 しかし、ロクは声をかけたものの、続きに迷っていた。

 目を伏せて、迷った両手をにぎにぎしている。時折、思い立ってこちらを見上げるが、結局何も言わずに視線を下に戻していく。

 その姿は、布津野を懐かしい気持ちにさせた。

 まだ小さかった頃のロクの姿がそこにあった。


「ロク、」


 久しぶりに見たものに嬉しくなって、布津野の中で何かが弾みだした。

 ああ、困った。

 もう、止まらないよ。


「頑張るからね」

「はい!」と思わず出た大きな声に、ロクは口を押さえてうつむいた。そのまま目を合わさずに「がんばってください」と添えた。


 何かに押されるように、布津野は前に進んだ。

 もしかして、これはロクにカッコいい姿を見せれる唯一のチャンスかもしれない。妄想が体を前におし進めていく。行く先には憧れ続けた覚石先生が待ち構えていた。嬉しいことが沢山あって、とても一つにまとまらないのだ。

 自分の足運びが浮ついていることを自覚しながらも、気持ちが前へ前へと進んでいく。

 覚石から手前に三歩のところで布津野は静止した。


「何を笑っとる」と覚石が呼びかける。

「うれしくて」

「ふむ」

「いろいろ、うれしくてですね」


 布津野は一礼をして、やわらかく構えを開いた。

 さて、今の自分の状態からどんな技が出てくるのか。興味半分、不安一杯。でも気持ちはとても良い。軽いのだ。精一杯がんばって、先生の技を十分に引きだそう。それをみんなに見てもらおう。そして、ロクにも。彼ならそこからもっと色んなものを学ぶだろう。とても楽しくなってきた。

 覚石は目を細めると、はっ、と息を吐き捨て、口をゆがめた。


「本当に馬鹿じゃの、お前は」

「すみません」

「なっとらんよ」


 覚石は呼吸を消して、右足を半歩前においた。

 その瞬間、布津野の全身を何かが打つ。

 はつ

 覚石先生が気を発っしたのだ。それは威嚇だ。先生は今、あえて気を発しこちらを威圧している。

 先生のレベルにもなれば、実戦では気は慎ましく納めるのが常だ。腹に収め、呼吸に練り込んでおく。相手に気を悟られては対処される。意を隠し、気がつかぬうちに仕留めて終わらせるはずなのだ。

 布津野は気がついた。

 自分は今、覚石先生に叱られている。


「周りを見よ」


 言われるがままに、周囲を見る。そこに座して並ぶ真剣な顔。


「お前を慕って集まった者達、いずれも強くあらねば死んでしまうぞ」


 GOAも、孤児院の生徒も、ロクもナナも……。戦いに身を投じ、あるいは戦いに巻き込まれて、今日まで生き延びてきた。


「彼らに、戦わずに死ねと教えるのか?」

「……」

「なんとしても生きて抜いて欲しい。例え、他者を殺すことになっても……。違うてか?」

「……」

「儂らが未だに極められぬ合気は、そんな生やさしいものかよ」


 すっ、と体温が落ちて。浮ついていた色んなものたちが懐に収まっていく。覚石先生の表情が能面のように消えていく。

 覚石先生が敵へと、変わっていく。


「ここは、死地よ」


 ため息にも似た、深い呼吸。


「お前は勘違いしとる。今、皆に見せるべきはなんじゃ」


 でも、先生だって殺したくはなかったんでしょ?

 腹に収まろうとした何かが、最後の抵抗を投げかける。

 でも、それでも。僕は先生が生き延びてくれた事がうれしいのだ。人を殺してしまっても、先生は生き延びてくれた。


「申し訳ありません」


 布津野は重心をまとめて、吸って吐いた。


「よいか?」

「……整いました」

「みたいじゃの」

「やりましょう」

「おう」

「……」

「……」


 ……無言。

 稽古場に音が消えた。

 両者の距離は三歩ある。それは、周りの人間にはごく普通の距離のように見えた。

 しかし、この二人の場合は違う。

 布津野は奥歯を噛む。

 すでに、一足一手の間合いしか残されていない。

 そして、一足一手あれば確実に殺せる実力を持っている。

 互いの死地に足を踏み入れてしまっていた。

 実戦に沈み込んだ意識の片隅で、布津野は自分を責めた。

 本来であれば、もう数歩手前から間合い取りが行われるべきだった。先生の本来の間合いはこの距離を軽く超える。それなのに、この距離まで歩み寄ってしまったのは自分の気持ちの軽さが原因だ。

 もはや、退がることは不可。いきなり致死の攻め受けを交わさなければならない。

 はたして……、


 すっ、と覚石の呼吸が沈む瞬間を、見逃す布津野ではない。


 布津野の眼前に、一本指を折り立てた覚石の拳が出現する。

 すでに布津野は一歩引いていた。引き下がりながらそれを手刀で防ぐ。

 覚石の拳の形は、中高一本拳。拳の面による打撃ではなく、指を尖らせた点による部位破壊。人の骨と肉を穿つ形。

 覚石が踏み込み、布津野が一歩譲る形で、互いの拳が接点となって止まる。

 ……これは布津野が不利な形勢。


 ほっ、と覚石が息をはく。


「これを受けよるか」


 言いながら、覚石は後ろ足を引き寄せて体を立てた。

 それは布津野の領域の中に、自分の中心を打ち立てた事になる。それに押し出されるように、退いた布津野の体は崩れていく。


「受けてしまいましたね」


 本来であれば、受けずに流すべき打突だった。しかし、さばくには、二足ほど距離が足りなかった。それにしても見事な繰り出しだった。入り身だけではない。先生は打撃の気配すらも消す。


 さて、この状態からしのげるか。


 すぅ、と覚石は接点となった拳を切り落とす。

 そこをテコの接点にされた布津野は、さらに崩された。

 覚石のもう片方の拳が下から上に持ち上がる。それは布津野の顔面を迎え入れるように、凶悪なかぎ爪を作っていた。

 かぎ爪が布津野の顔面に迫り、親指で頸動脈、人差しと薬の指で眼球を抉ろうと迫る。

 その時、ふわり、と布津野の体は崩された方向に流れた。


 布津野の技の妙は、ここにある。

 ある程度の領域に達すると、格闘は体の崩しあいになる。急所を狙えば防がれる。容易には当たらない。ゆえに事前に相手の体を崩した上で急所を穿つ。達人同士の攻防は素人とのそれと違い、体の崩し合いから始まる。

 そういった手順を、布津野は無視する。

 体を崩すという手順は、相手が抵抗することを前提としている。その抵抗を布津野はあっさりと諦めてしまう。それも異常に早い段階で。


 覚石のかぎ手が顔面にせまる前に、布津野の体は、くるり、と回って自ら崩れ落ちた。

 覚石は、自分がかすみを掴んだ錯覚に戸惑った。

 殺意をといだかぎ手は、空をかいて何も掴めずに終わった。そして、自分の足下には、仰向けに倒れる布津野がいた。

 覚石は嗤う。必殺の手順をすかして、こやつめ、足下で寝そべりおる。


「食えんな」と覚石は下を見る。

「難しい形になりました」

「踏むぞ」

「ですか」


 覚石は前足を軸に、後ろ足を蹴り出した。

 布津野は、それを片手で受けると同時に、反対側の手で覚石の軸足を払いにいく。


 むっ、と唸り声を絞り出しつつ覚石は飛び退いた。

 着地を狙った追撃を警戒して備えるが……、布津野はそのままゴロゴロと距離を取る方向に転がって、さっ、と立ち上がった。

 改めて対峙した二人の間合いが一気に広がっていた。


「取り直し、かの」

「無様で申し訳ありません」

「ほんとに、な」


 互いの距離はかなり遠くなっていた。

 本来であればそれは格闘の距離ではない。しかし、二人とって、それがまさに接点距離だった。お互いに一歩一手を読み合うような未熟者ではない。少なくとも三歩先は予感している。

 この遠間でさえ、初めの一歩を失えば死ぬことになる。そういう領域レベルの戦いだ。

 それでも、先ほどまでの即死の間合いではない。

 一息分の余裕を残したギリギリの接点。

 戦術が錯誤する余地がそこにある。


「ようやく、整ったか」


 覚石は前後の足を組み替えて、ゆるやかに弧を描いて移動する。


「言い忘れておったぞ」

「はぁ」


 息を細く吐きながら、布津野も覚石に合わせて動きだす。

 二人は滑るように、綺麗な円を描いた。


「お前は皆伝じゃてな」

「まだ、いまいち」

「儂と互角とゆうたが……」

「ええ」

「勝つのは儂じゃ」


 ピタリ、と止まった。

 互いをよく見たのは、この瞬間が初めてだった。

 敵として見た。

 相手の威容を眺め、

 相手の呼吸と共振する。

 あの息。

 あの、いき、をとめる。


 しかし、覚石は、はっと息をのんだ。

 久しぶりだったのだ。

 布津野の威容に正面から対峙したのは。

 ……なんたること。

 これほどまでに、強くなっとったのか。


 ゆらり、と布津野が動いていた。

 冷たい電流が、覚石の肌の上を走る。

 覚石の体もまた、ゆらり、と動いていた。

 見事よ。半呼吸ほど先を取られた。

 布津野の直突きが、意識の疎外を縫って迫ってくる。

 受けられるか。

 先ほどのこやつ、これを受けよった。

 儂に、受けられるのか。

 いっそ、引きつけて……、入る。


 覚石が消える。


 布津野は運足を回して、対処をこころみた。

 誘われた。

 心の底から自分を刺す非難が沸き上がる。

 迂闊だった。先生に素直に勝負をしかけるなど。

 すでに、運足は回している。

 球をイメージする。

 すぐに来るであろう反撃を回して受けようと整える。

 衝撃は、右脇からきた。

 重い。自分の中心を完璧に捉えた打撃。

 これは、回せない。

 咄嗟に、軸足を踏みかえて衝撃を背中に逃がす。

 同時に、体を開きながら、拳を打ち下ろした。


 ずん


 手応えの反動が、拳に跳ねる。

 消えたはずの覚石が、打ち下ろした拳を腕で受け止めていた。


 視線が交錯する。

 互いの瞳には、驚愕が浮かんでいた。

 しかし、同時に笑みに変わる。


 二人は直感した。

 同時に確信した。

 さらにもう一歩、大丈夫だ。

 この相手は簡単には死なない。

 安堵の息を交わされた。

 ぱっ、と同時に飛び退いて間合いを整える。

 再び遠い間合いでの対峙になり、覚石が、ぼそり、とつぶやいた。


「もう、ええじゃろ」

「……ええ」

「そろそろ、出すものをだそうか」

「はい」


 二人は、再び一つの輪に入っていこうとしていた。



 ◇


 半分くらい、か。

 と、ロクは奥歯を噛みしめながら、目の前の攻防を食い入るように見ていた。

 繰り広げられた技のうち、自分が理解できたのは半分もない。 

 両手を膝につき、食い入るよう前のめりで目を見開く。

 まばたきすら、もったいない。

 わずか二合だ。少なくとも、自分が把握できたのは二合だけだ。

 その刹那の攻防の後に、父さんと先生は再び遠間で対峙している。

 その距離は、ロクが知っている距離に比べて、異様なほどに遠い。


 自分の理解では、間合いとは攻撃範囲だ。

 一般論として、それは自分の身長に比例する。一歩踏み込んで、拳や蹴りが届く有効半径。それは身長と同じになることが多く、制空圏とも呼ばれる。

 互いの制空圏を重ね合わせながら、自分の攻撃が届き、相手の攻撃が届かない有利な位置を取り合う。これが間合いの攻防。その距離は身長くらいになる。

 それが自分の理解だ。

 しかし、目の前の間合いは、それよりも遙かに長い。

 両者とも長身ではない。むしろ小柄であろう。理論上では、自分よりも遙かに狭い制空圏で戦わなければならない存在のはず。

 それなのに、両者がとった距離は、自分の制空圏の二倍以上もある。

 この理解の空白が、今の自分の限界なのだ。


「くぅ」と、ロクの口から無意識にうめき声が漏れた。

「さらに、張り詰めてきたな」


 隣に座っていた榊の見立てに、ロクは「ああ」と短く頷く。

 父親と先生がまとっている雰囲気が、明らかに変わってきている。先ほどまでの弧を描くような運体はない。完全な静止の状態で、二人は対峙を続けている。まるで、二対一体の彫像のように動かない。


「これが、練達の領域か」と榊がこぼす。


 ロクはくやしかった。

 努力は研いできたつもりだ。自分の最大限をここに注ぎ込んできた。それでも、自分はまだそこに踏み込むことができない。

 一合目は先生の不可視の攻撃、横から見ている自分でさえ、認識が追いつかないタイミングで繰り出された。父さんはそれを受け、続くかぎ手を回って避けた。

 初撃の妙については、自分も十分に研究を重ねたつもりだ。

 正直なところ、遠間の直突きに関しては、父さんよりも自分のほうが優れているのでは、と思っていた節があった。こちらから攻撃をしかける場合は、どうしてもリーチの差が大きく影響する。その点で、自分は圧倒的に有利なはずだ。

 しかし、覚石先生の初撃は自分の理解を超えていた。

 そして、二合目に見せた父さんの初撃は、自分よりも遙かに遠い間合いからの繰り出し。それは自分の認識を置き去りにした。気がついたら打ち終わっていたのだ。

 それに応じて見せた、先生の入り身は消える。

 そして、父さんは……


「反撃を丸く受け入れ、軸足を組み外して流した」

「さっきの返し技のことか? 布津野さんの」

「一度もらった流れを途中で切り替えた。出来るのか、そんなこと。技の自由度が桁違いだ」


 その上、体をひらいた上での打ち下ろし、反撃に繋げている。

 高等技術の応酬。

 相手が達人でなければ、最初の一手で勝負が決まっていただろう。達人だからこそ技に対応できる。技が技を呼んで一つの流れとなっている。

 くやしいのは、自分はその半分も理解出来ていないことだ。


「そろそろ、動く」

「……」


 父さんと先生の周囲の空気は、圧縮されてわん曲する。まるで磁場のように緊張感が濃く煮詰められている。

 気、としか表現しようのない、ヒリつく感じがロクの顔面に飛んできた。

 それを正面から受け止めながら、ロクは両手を握りしめて、食い入るように前を見ていた。



 ◇


 布津野の意識は広がり、落ちていた。


 ここまでの深みに入り込めたのは、生まれて初めてだった。

 その状態のことを、無、と呼ぶのかもしれない。

 布津野には難しいことは分からない。表現する言葉を知らない。

 しかし、それを表現できる言葉など、実のところ何処にもない。

 それは、幸せを説明できないことと似ている。

 言葉では、和合を表現できない。

 平和を実現できない。

 何もできやしない。

 何一つ、自分はできなかった。


 布津野の視界で、ぼんやりと相手の輪郭が立ち上がる。

 生と死を交わしながら、

 それでいて信頼すらできる相手。

 ああ、

 自分は何一つできやしないけど、

 二人なら何だってできるのかもしれない。


 ありがとうございます。


 動き出したの布津野だった。

 すっ、と前に出て、くり出した拳は開いていて、まるで握手を求めるように見えた。

 覚石もまた、前に出ていた。

 布津野に答えるように手を伸ばす。

 ロクが気づいてくれたら嬉しい。

 この遠い間合いの理由わけを。

 自分の攻撃が届く距離では全然足りない。

 本当に必要なのは、二人分なのだ。

 互いに歩みよるためには、二人分の距離が必要なのだ。


 両者の、開いた手が交差して、互いの手首で接した。


 すでに和合し、二人は溶けあっている。

 もらったものを返さなければならない。

 教わった奥義、

 あわせて、もらって、かえす。

 先生は厳しい人だから、

 他人にも、自分にも、大変厳しい人だから。

 ちょうど、ぴったり。

 もらったのと同じだけ返さなければならない。

 少なすぎれば、自分がやられてしまう。

 多すぎれば、受け取ってくれないだろう。

 もらったものを、ちゃんと返せた時、

 和合した二人が、そこに残される。

 勝者も敗者もそこにいない。

 ……それが、平和?

 ……?


 ——かもしれんが、違うじゃろう。


 先生の目がこちらを射貫いている。厳しい視線が、自分が逃げ込んだ結論を責めている。


 それは、確かに平和を保つ。

 しかし、平和を勝ちとるものでは断じてない。

 覚石の体から殺意が立ちあがる。

 互いに相手を殺せる、無足一手の距離。

 それでも、殺し合うのなら。

 相手が自分の大切なものを、殺そうとするのなら。

 この世は生き地獄。

 しょせんは苦界。

 そこで必要な和合とは……。


「見せてみよ、布津野」

「……はい」


 ひゅっ、と呼吸の音が置き去りになった。

 両者が、同時に消える。少なくとも、一瞬消えたように周りの人間には見えた。

 いつの間にか、二人の位置は入れ替わっていた。

 まるで鏡映しのように、左右の位置が逆になっていた。

 物音はない。

 踏み足の響きも、衣擦れの揺らぎも、聞こえなかった。

 ただ、二人の細く吐きこぼす呼吸の音が重なる。

 手首をかわした対手を接点にして、両者は足を組みかえて、反対の手を腰に隠した。

 まるで左右対称の演目のように、両者の行動は完全に一致していた。

 そして、

 スタートのテープを切り落とすように、接点となった対手が切り落とされる。

 そして、乱れた。


 打ち、

 払い、

 穿ち、

 受け、

 掴み、

 外す。


 乱れ飛ぶその攻防は、ただの一つも相手に触れていない。

 くり出した瞬間に、対応され、放つ前に次の攻撃に変化する。

 さばかれる打撃など、そもそも打たない。

 無駄は一打すら許されない。

 打てば即ち殺す。打ち損じれば死ぬ。

 相手は達人なのだ。


 無数の錯誤の果てに、

 打と打。

 交錯、かみあい、止まる。

 一呼吸。

 再び、両者は消え。また位置を交換した。

 対手を接点にして静止。

 そのまま、均衡。

 元に戻った。

 深い、ため息に似た呼吸を、二人ともこぼす。


「入り身が、これほど難しいとはな」と、覚石が息を吸う。

 息を吸うことはそれ自体が隙になる。それは、覚石の教えであった。

 布津野は、しかし、師の見せたその隙につけ込まなかった。かわりに「そうですね」と、自分も存分に息を吸う。

 その時、覚石の発する殺意がゆらいだ。


「あやつもお前くらいだったら、儂に殺されなかったのにのぅ」

「……例のアメリカ兵ですか」

「綺麗に入り身がきまったよ。あの時は」


 死んでいくのは、いつだって弱くて優しい人。


「殺した者が生き残る。あやつを信じれなんだ臆病者が、こうやって生き残っておる」

「……そうでしょうか?」

「そうよ。お前は強うなった。故にまだ生きておる」


 殺す人が、強い人?


 そうだろうか。

 そうかもしれない。

 ……どうなんだろう。

 自分が本当に強くなったとして、

 先生が、本当に臆病だったとすると、

 この二つはちょっと違う気がするのだ。

 だって、僕を強くしてくれたのは……。


「先生なんですよ」


 覚石の顔が怪訝にゆがむ。

 布津野はそれを見て、思わず笑った。

 殺意が引いていく。


「先生。最後の一打です」

「どうした?」

「そろそろ、疲れました」

「実は、儂もじゃ」

「……だから、いきますよ」


 布津野は呼吸を整えた。

 覚石は戸惑いながらもそれに備える。

 この体の隅々に染みこませた技は、先生から頂いたもの。

 その体が訴えている。

 なにか違う。

 微妙に間違っている。

 殺すだけなのは嫌なんだ。

 この身にしみた先生の技が嫌がっている。

 この一撃は、

 この一撃こそが、

 本当の教えてもらった技だと思う。


 深く、深く、落ちていた。

 溶け込んで、形を失っていた。

 命を掴むように拳はできていて。

 足は距離を無くすように整えてある。

 両手を伸ばせば何だって掴める。一歩踏み出せばどこにだって届く。だけど、もっといい方法がある。

 相手にも拳と足があるのだ。

 だから歩みよろう。

 そうすれば、半歩でいい。

 片手だけ十分だ。

 二人なら、何だってできるのだから。


 布津野の右と覚石の右、

 同時に消えて、繰り出される。

 そして、同時に、ぴたり、と止まった。

 互いの踏み足は、半歩だけ。


 布津野の意識が戻る。覚石の意識も戻った。

 二人は半歩しか踏み込んでいなかった。互いの拳は顔面の直前で止まっていた。

 殺せる形をした二人の拳は、輪をつくっていた。

 もし、一歩踏み込んでいれば死んでいた。

 どちらか一方でも、一歩踏み込んでいたら、二人とも死んでいたのだ。

 でも、互いに半歩だけだから輪になった。


 かっ、と覚石が破顔する。


「相打ち、かの」

「ギリギリでした。……ねぇ、先生」

「なんじゃ」

「これが和合だったら、いいですね」


 覚石は大きく笑う。


「そうじゃの」


 二人は命を掴む形をした拳を降ろして、握手に変えた。

 半歩踏み込んだ足を戻して、距離を整える。

 そして互いに礼をする。

 殺さずに終わったのだ。




いつもありがとうございます。

舛本つたな です。


私の今の実力は出し切りました。

この描写を超えるのが、私の課題です。


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舛本つたなの別作品リンク
公爵令嬢になったお腐(ふ)くろさん、(以下略)

本作を大幅に書き直した書籍版(kindleなどの電子書籍もあり)です。 下の画像で出版社さんのサイトに飛びます。 下読みもできますよ。

遺伝子コンプレックス
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