[4a-03]合気
「お父さん、ナナもアメリカに行くことになったよ」
「へ〜、アメリカ?」
布津野はナナと歩きながら、こちらを覗き込んでくる彼女に視線を落とした。
季節は夏の盛りを少し過ぎ、二人は坂道を下っていた。日差し避けにお揃いの麦わら帽子がゆらゆら揺れている。夏休みに入ったナナは、暇を見つけては布津野とお出かけをする。今日は合気道の師である覚石に呼びつけられた布津野についてきたのだ。
布津野は首を傾げた。さて、アメリカに行くとはなんぞ? ナナも? も?
「ナナも、行くんだ……。アメリカ?」
「うん」とナナはにっこりと笑って「お父さんと一緒」と続けた。
んっ?
布津野は立ち止まって空を見上げた。いまだに日差しは殺人的で、頭の中が、ぼ〜、としてくる。夏はなかなか終わらない。
さて、アメリカ? 僕はアメリカに行く?
「アメリカって、外国?」
「そうだよ。アメリカ合衆国。USA! USA!」
ナナはそう言って元気にはしゃいでいる。
「あ〜」と声をこぼしながら、暑さにゆだった頭の中をかき回して見る。アメリカ、合衆国、USA……。
「もしかして、ニィ君?」
布津野は口を開けて、手を叩いた。
記憶の底に思い当たる節がこびりついていた。そう言えば半年前くらいに、そんな約束をニィ君とした覚えがあった。
そうだ。確か、主要なんとか首脳会議の後のことだったと思う。日本にいなかったニィ君も裏で頑張っていたみたいで、それでイギリスとアメリカも無色化計画に反対しなかったらしい。冴子さんがそう言っていた気がする。
そのお礼に、アメリカに遊びに行くと約束したのだっけ。
「あれ? でも、海外旅行ってしていいの?」
「ダメだよ」
ナナは腕を組んで前を歩き出す。
ニィ君にアメリカに遊びに来て欲しい、と言われた直後に布津野は海外旅行については確認したのだ。具体的には、冴子に相談したのだ。教えてくれた事によると、「一般人が海外に旅行を許可するほど、今の外交状況は安定していない」とのことだ。
そう言われた事をニィ君には伝えたのだが、彼は「そんなのは常識ですよ、愚か者。まあ、そんな些末な事はこちらで手配します。愚昧は怠惰に構えていてください。追って動きはあるでしょう」と言っていたので、そのまま言われた通りに忘れてしまっていた。
どうやら、多分、それが動き出したのかもしれない。
布津野が思案している様子を、ナナは覗き込んで、布津野の疑問に言葉を添える。
「誘拐事件がたくさんあったからね。外務省も一般の人の海外渡航は禁止しているよ。今回は特別」
「ふ〜ん」
「ナナは外交のお仕事です」とナナは、麦わら帽子で目を隠す。「お父さんは私の護衛だよ」
「護衛?」
「そうです」
「ええっと」
「私のナイトです」
ナナは背伸びして、へへ、と笑う。
「どういうこと?」
布津野は何となくの懸念を感じた。もしかしたら、これは海外旅行ではないのかもしれない。
ナナは意地悪そうに口の端を弓なりに引き上げた。
「私も分かりません。詳しいことはロクに聞いて」
「ニィ君が関係してるんでしょ?」
「うん」
ロクとニィ君の不仲は凄まじい。
「でも、ロクにニィの事を聞けるのはお父さんだけだよ」
「あんまり、聞きたくないよ」
仲直りして欲しい、とは思っているけど。
「まだ、二人には色々足りてないと思うし、」と布津野は頬を掻いた。
「色んなもの?」
ナナはその大きな目を見開いて、布津野に問いかけた。
「それは何?」
「時間とか、あと、あきらめること、とか」
布津野は空を振り仰いで思う。そろそろ、夏が暑いことを、あきらめて認めなければいけないのかもしれない。
「あきらめ?」
「相手が完璧じゃない、と諦めること」
ふふ、とナナは笑った。
その瞳が深く、布津野の奥底を覗いた。そのあどけない表情は、恍惚を混ぜてわずかに歪んでいく。その小さな唇が開いて、布津野という底なしに疑問を落とした。
「ロクやニィは、完璧じゃないの?」
「……」
「みんなは、例えば宮本さんやグランマだって、疑っていないよ。改良素体の主席と次席はロクとニィ。二人は完璧な人間だって、人類の完成形だって」
ナナは両手を広げて、くるり、と回った。
その長い白髪が、はらり、と舞って、夏の陽光を弾く。強い日差しに押しつけられた彼女の白く華奢な体は、風景にとけて消えそうに思えた。
「お父さんだけだよ」
しかし、ナナの赤い瞳と唇だけが風景から浮かぶように映えている。
「あの二人を、子どもだと思っているのは」
◇
布津野とナナが、覚石の道場を訪れたのはそれから10分程度の後のことだった。
「覚石先生、これお土産です」
と、布津野は手にさげていた包みを覚石に差し出した。
「ほっ、如才ないことじゃが、手土産なんぞ無くとも、もっと顔を見せんか」
「すみません」
「して、これはなんぞ?」
覚石は受け取った手土産の包みを確かめながら聞く。
「いつもの家内の手料理ですが、アジの南蛮漬けだとか」
「ほう」と、覚石は感心したように頷いた。「いや、実のところ楽しみしておったのよ。お前とは違って、奥さんはよう出来とる。べっぴんじゃしのぅ。その上、料理は極上と来ておる」
覚石は、嬉しそうに冴子の手料理を包んだ手土産を掲げて見せた。その様子を見た布津野も、まるで自分のことのように嬉しくなる。
「そのように伝えておきます。冴子も喜ぶでしょう」
「それに比べて、本当にお前は……」
そう言って覚石が睨みつけるので、布津野は反射的に「すみません」と頭を下げた。
「謝るくらいならもっと道場に顔を見せんか」
「すみません」
「もっと皆に稽古をつけてやれ」
ハハッ、と笑いながらも布津野は内心は困っていた。
自分とて、覚石先生の稽古には参加したいのだ。しかし、ここ最近になって先生は稽古中に、自分を指名して指導を代わるように命じるようになった。
合気道の第一人者である覚石先生の稽古には、各地から練達の合気家がその技を体感しようと集まっている。それなのに、途中で若造に指導を代わるものだから、バツが悪いったらありゃしない。心苦しくて、稽古から足が遠のくばかりだった。
「それに引き替え、ロク君は熱心じゃぞ」
「おっ」と布津野の口から思わず声がこぼれる。「ロクは頑張ってますか?」
「今日も来ておるぞ」
「そうですか、今日は先生の一般稽古ですよね」
「ああ、最近はさらに熱心になっておる」
覚石先生にロクの稽古を頼んでからしばらくになるが、普段は学校や政府の仕事がない休みの日に個人指導を頂いていたはずだ。(うらやましい)
そういえば、まだ夏休みだ。ロクは休みの日でも政務で忙しくしているから休みを満喫しているとは言い難い。それでも、多少は時間の融通がきくようになったのだろう。ロクは普段なら出られない覚石先生の集団稽古にも顔を出すようになったらしい。
「ま、なんにせよ。よう来た」
「ええ、何やら御用があるようで」
「ああ、忘れておった事を思い出したのでな。とりあえず、稽古着に着替えてこい」
「はぁ……、今回はあくまでも先生のご指導でお願いしますよ」
覚石先生の後に指導を引き継ぐ辛さは半端ないのだ。
「なんじゃ。それでよう軍の指導が務まるものよな」
「あれはあくまでも任意の勉強会みたいなもので、正式な訓練ではありませんから」
「よう言いよるわ。聞くところによると、最近は地方の自衛隊からも参加者がきているようじゃないか。お前の技は一つの流れになりつつある。それをいい加減に認めんか」
「はぁ、何にせよ。先生こそお先も短いのですから、しっかりと日々の稽古で技を残して頂けるようにお願いします」
「言いよるわ!」
かっかっかっ、と覚石は笑い飛ばして稽古場に向かっていった。
◇
布津野が稽古に着替えて道場の畳に足を踏み入れた時「父さん!」と、ロクが険しい顔をして迫ってきた。
布津野は思わず身構えた。ロクの表情が怒りの形に歪んでいたからだ。
一体、今度は何をやらかしたのだろうか。あれこれ、それどれ……。あっ、昨日、お酒を飲み過ぎてロクに絡みすぎたのが不味かったのかもしれない。それに違いない。あの後は冴子さんにもちょっと怒られたのだ。
ロクが目の前まで来て、こちらを見下ろしてくる。
「父さん……」
「ごめん!」と反射的に謝る。
ロクの目元がきつくなる。
「何が、ですか?」
「えっ、何って」
「何に対して謝っているんですか?」
「え、……あの、お酒?」
ロクの片眉が跳ね上がって、口元が引き下がる。
どうやら、違ったみたいだ。
「適当に謝らないでください」
「ごめん」
「ニィのことですよ」
「あ、ああ……、ニィ君ね。それだよね」
どれだろう? もしかして、アメリカの事かな。しかし、あれは自分が何かしたというわけではないのだけど……。
「ニィに勝手に約束したそうですね。アメリカへの渡航を。軽率な行動はしないでください。しかも、ナナや榊たちまでも同行することになったのです。これは外交に大きな影響を与える可能性があります。いつもみたいに安請け合いして。謝れば済むレベルは遙かに超えているのです!」
お、おう。これは不味いぞ。尻上がりにロクの怒りにエンジンがかかってきている。取りあえず落ち着いて欲しい。僕はきっと、そんなに悪くないのだ。ニィ君に遊びに来て、と言われて、いいよ、と答えただけなのだ。
「お、落ち着きなよ。ロク」
「僕は落ち着いてますよ。冷静でなければ、こんな馬鹿で無意味なこと、本当はどうだって良いのですから」
「う、うん。そうだよね」
ああ、これはアカンやつだ。
この状況を何とか誤魔化す方法はないだろうか? って、言うか、榊さんたちも行くの?
「榊さんも行くのかい?」
恐る恐る、冷たい表情のロクに聞いてみる。
「ええ、そうなってしまいました」
ロクが頷くのを見て、胸が広がる気がした。
「ニィ君が、榊さん達をアメリカに?」
「そうです」
嬉しくなった。思わず口元がゆるむ。
ああ、長かったけれど、一歩だけ進んだのだ。ニィ君と榊さん達の間にあった不安な関係が少しだけ動きだしたのだ。思っていたよりもすぐだった。やっぱりあの子たちはちゃんとした子たちだ。
「それは良かった」
「……何がですか?」
「え、ほらニィ君が、」
「ニィが、何ですか?」
言葉をかぶせてくるロクに、思わず布津野は後ずさる。
その時、パンッ、と手を叩く音が鳴り響いた。
「ほれ、稽古を始めるぞ。何をやっとるんじゃ?」
いつの間にか稽古場に姿を現した覚石が、そこに立って二人を見ている。
「「すみません」」
二人は唱和して、すぐさま稽古場の後方に正座している道場生の中に並んだ。すぐ近くで、アハハ、と闊達な女の笑い声がした。そちらのほうに視線を移すと、紅葉が口を大きく開けて笑っていた。
「まったく、稽古の前に親子喧嘩とはな」
覚石は稽古場の中央に立って、ほっ、と息をついた。その正面には多くの道場生が正座を整えて並んでいた。いずれも稽古を長く重ねた古参たち。その隅に座ったばかりの布津野のほうを、覚石は見る。
「布津野よ」
「はい!」
先ほど、おしかりを受けた事もあって、布津野の声は思わず引きつってしまう。
「前に出よ」
「え、ええ」と布津野は躊躇した。「あの、今日は先生の稽古ですよね」と恐る恐る尋ねた。
「さっさとせい」
「……分かりました」
布津野は渋々と答えると、膝行(正座の状態から膝立ちで移動する特殊な歩行法。古武術における座法の運足)で前に出る。
その膝行は周囲の道場生の視線を引きつけた。
袴のこすれる音がわずかに、シュシュ、とするのみで、動体が発する余分は音が何一つしなかったのだ。重心の上下は薄皮一枚分もない。二足で歩く以上に布津野の膝行は安定していた。
そのまま覚石の前まで移動して、再び正座を整える。
周りの道場生が息を飲み干す音だけが空気を震わした。
実のところ、覚石の稽古に布津野が姿を現したことに、そこにいる全員が注目していたのだ。
皆は布津野が歳こそまだ若いが、この道場の古参の一人であることは知っていたし、その稽古量が異常であることは古株ほど承知していた。当然、布津野と直接稽古したことのある者も多くいる。
ゆえに、実のところ心得のある者はわきまえていたのだ。覚石先生の一番弟子といえば布津野であるということを。
「さて、とうとう来たの」と覚石が笑う。
「ご無沙汰して、申し訳ございません」
「そう思うなら、もっと顔を出せ」
「すみません」
布津野の下げた頭の上から、ふむ、と覚石は息を漏らして問いかける。
「そういえば、お前は合気を初めて何年になるかの?」
「はぁ、確か先生のところに通い出したのは十五の時です、ですから、」
布津野は首をひねる。
「今はいくつじゃ?」
「三十、五か六だったはずです」
「そうなると、大体、二十年くらいか」
「まぁ、そうですね」
二十年か、と布津野は肩をすくめる。
長いような、まだまだ短いような、いまいち判断がつかなかった。合気の道を歩むには、まだまだ未熟だろう。この道は遙かに遠く続いており、足らないことを多く実感している。出来る事も増えたが、不足をより多く感じる。他の格闘術と違って、合気の良いところは、歳を重ねて体が弱くなってもその探求を続けられる事だと思う。
「ここ数年じゃのぅ」
覚石はそうこぼして、目を細める。
「はぁ、」
「お前がさらに強うなったのは……」
覚石はゆっくりと懐に手を入れて、そこから折り畳んだ書状を取り出した。それを両手で掲げて差し出すと、ひょい、と布津野に向かって頭を下げた。
布津野は反射的にそれを両手で受け取った。師に頭を下げられた経験に覚えはない。戸惑いで頭の中が真っ白になった。手に取ってしまった書状に視線を落とす。大きさは葉書くらいの、和紙を丁寧に折り畳んだ物だ。んっ、何か墨で書いてある。
それは『免許皆伝』と読めた。
「……これは?」
説明が必要だった。
「なんだ、字も読めんのか」
「めんきょ、かいでん?」
「そうじゃな」と覚石は顔を上げて布津野を正視する。
そこには慣れ親しんだ師の、いつもよりも深く、冴えて広がりのある真顔があった。いつものひょうきんな様子は消え失せている。そして、渡されてしまったこの書状は、どうやら大変なものらしい。
ざわめきが背後を撫でた。覚石との会話は背後の道場生たちにも聞こえていただろう。事の展開について行けてないのは、どうやら自分だけではないようだ。
さて、免許皆伝……。その名はもちろん知っているが、実際のところ何なのかは分からなかった。なんか凄そうな感じがする。うん、ちょっとうれしい。いや、結構うれしいかもしれない。
でも、これを免許皆伝って具体的になんなのだろう。
「先生、あの……」
「ん?」
「ありがとうございます。……ですが、あの」
「なんじゃ」
「これを頂いたら、どうしましょう?」
かっ、と覚石は笑い飛ばした。
「どうするとは?」
「え、でも……昇段みたいなものですよね? だったら、ほら、審査料とか」
……免許皆伝の審査料とか、高そう。
「馬鹿っ」
と、覚石は唾を飛ばして叱りつける。
「お前は本当に馬鹿じゃの」
「はぁ」
「皆伝に金なんぞ取るか!」
「すみません」
覚石は身を乗り出して、声を落とした。
「良いか、皆伝とは教える事は全て伝え、お前はそれを余さず修得した、という意味じゃ」
「またまた、ご冗談を」
「はぐらかすでない。お前の悪い癖よ」
ぴしゃり、と言われて押し黙るしかなかった。
覚石は、じろり、と布津野をねめつけながら先を続ける。
「つまり、……お前は儂と互角よ」
互角、という言葉が体の底に入って反響するまでしばらく時間がかかった。
「この先は分からんよ。儂を気にせず自由にやれ。故に免許皆伝じゃ」
「……そんな」
違和感がある。自信はない。急に手にした書状が重くなった。
「なんじゃ」
「そんなわけ、ありませんよ」
ふぅ、と覚石は深いため息をついた。
「儂は幸せ者じゃ」
「……」
「受け継ぐ者がちゃんといたからの。……後はお前が伝えてやってくれ。紅葉やロク君、他にもお前が導いている多くの者達。今思えば、皆伝は遅すぎたかのぅ」
急に、覚石先生のことが小さく見えた。
「先生……」
「稽古が終わった後に、師範室に来るがよい。他に渡すものがある」
「……はい」
「さて、」
覚石は急に声を張り上げて、後ろに控えていた道場生に視線を移した。
「皆、見ていたとおりじゃ。布津野はこれより免許皆伝。今日は布津野の皆伝初日の稽古じゃ。皆、よく教えて貰うように」
「「はい」」と、道場生たちが唱和して、一斉に頭を下げる。
布津野は視線に迷って、その前列に座していたロクの方を何気なく見た。ロクも周囲にならって頭を下げていたが、目だけを上げてこちらを真っ直ぐと見ている。
ロクと目が合う。
その赤い瞳はきらめいていた。
◇
稽古が終わった後、布津野は師範室に入った。
「ご苦労さん」
と、覚石はいつもの気さくさで布津野をねぎらった。
布津野は一礼して、覚石の前に座す。
「勘弁してください。皆さんは先生の稽古を楽しみにして集まっているのですから」
「そうは言うても、布津野のわりには様になっておったぞ。やはり、所々で教えているせいかの」
「道場の先輩がたも居るのです。先生の稽古の時は先生がご指導してください」
「なんじゃ、つまらん」
「私も先生の稽古を楽しみにしていますから」
ほっ、と覚石は笑った後に、口をへの字に曲げる。
「だったら、もっと顔を出せ」
「……先生が指導を代われとか言い出すでしょう」
「軍の指導もしておる奴が来るんじゃ。道場生にもお前の指導を受けたいとねだる者も実際に多い。毎週、儂が指導してもつまらんじゃろ。バリエーションとやらも重要じゃ。ダイバーシティじゃ」
覚えたての英語を無理矢理に使うように、覚石は肩をすくめながら言う。
「それは、先生がみんなにばらすからでしょう」
「ばらす決まっとる。門下から軍の指導者を排出したのじゃ。それも精鋭の特殊部隊にじゃぞ。武術の流派として、これほどの名誉はない。死ぬ前に目一杯は自慢せんと損じゃて。昔の仲間からも嫉みのメールが一杯きたぞ」
ほくほく、と覚石は笑っている。
今度は布津野が口を曲げる番だった。まったく、お爺ちゃんがメールを使いこなすものだから情報漏洩がとんでもない。ロクに怒られるのは僕だって言うのに……。
まぁ、しょうがない。
実のところ、自分だって先生を喜ばせたいと思って、ばらしたのだから。
「それで、渡したいものとは?」
「おう、そうじゃそうじゃ」
覚石は、ひょい、と立ち上がって奥の戸棚を探る。
その足腰の軽さを見て、後十年は大丈夫だな、と布津野は思った。御年は九十を超えているはずだが、まだまだご健在だ。それなのに免許皆伝なんて、何をお考えなのか……。
「ほれ」
と、覚石は布津野に声をかけて、何かを投げてよこした。
布津野は反射的にそれを掴む。
棒状の、深い紫色の袋に包まれた物だ。
刀だな、と掴んだ瞬間に悟る。形状は短い、小太刀だ。
よっこらしょ、と覚石は布津野の正面に座り直した。
「お前も武道家じゃてな。一本くらいは持っておれ」
「刀ですか」
「一応、名刀じゃ。くれてやるよ」
刀袋の紐は金糸を編んだものだった。それを引いて柄の顔を出す。
柄は黒を基調にした簡素な装飾、鍔は小ぶりのものだ。柄に手をかけて、鞘から少し抜く。
現れた刃が光を弾いている。思った以上に分厚い。そりの少ない刀身。その上を刃紋がゆるやかに乱れながら、鞘の奥まで通っていた。
美しい形をした殺人道具。
布津野はすぐに鞘に納めて、紐を結び直して封をする。そして、深くため息をはいて、顔を左右に振り払う。
目眩がした。
「どうよ?」と覚石が問いかけてくる。
「……どうして、殺すための道具なのに、こんなに美しく作ったのでしょうか?」
ふむ、と覚石が間を巡らせた後に、口を開いた。
「しかし、布津野よ。お前の技も整っておる」
「……」
「あれは、殺すための技か?」
両手を組んで顔を苦くする。
「……そうです。本来なら、」
一度だけ人を殺したことがある。
しかし、実のところあれは技によるものではない。ロクとナナと初めて会った日、二人を誘拐しようとしていた警察に囲まれた時、僕はある刑事を撃ち殺した。
そう撃ち殺したのだ。拳銃で。
一番簡単な方法で殺したのだ。
飛び出す白い脳片に、赤黒い血液に、灰色に落ちていく死に顔。
僕の技は……。
「でも、実際はどうなんでしょうね」と布津野は息をはく。
「……と言うと?」
「僕にこんなもの持つ資格はあるのでしょうか」
布津野は受け取った小刀に視線を落として、曖昧に笑った。
「まぁ、戦争を知らないことは良いことじゃ。それに、実際の戦では刀なんぞ飾りじゃてな。今の世は、人を殺すのは大砲ばかりじゃ」
「……先生は確か戦争に、」
「行っておったよ。人を殺めたこともある」
布津野は息をのんだ。しかし、やがて何かを決意して口を開く。
「言い訳しているみたいな気がしませんか?」
「ふむ」
「道具を使って殺すのは、簡単です。殺したのは自分じゃない気がして、やってしまった結果から逃げてるような、そんな気が……」
「……」
覚石は両腕を組んで目を閉じた。眉間にしわを寄せ、しばらく押し黙ったまま小さく呻き声をこぼした。そして、「痛いの」と呟く。
「痛い?」
「儂が殺したあいつはのう。結局、儂を撃たんかったよ」
「……」
「油断しておった。ジャングルでの不意の遭遇戦。草木をかき分けたら、目と鼻の先に銃を持ったあやつがいた。金髪のアメリカ人よ。背は高かったが、赤ら顔の若者よ。儂らはのぅ、まるで道端で偶然出会った昔の知り合いみたいじゃった。覚悟が曖昧での、互いに相手が何者なのか思い出そうと必死になった」
覚石は顎をなでて目を閉じる。
「ようやく、二人が敵同士だと気がついた。儂は腰の後ろに隠した短刀に手かけ、あやつは銃口をこちらに向けた。すでに刃圏の間合いじゃ、儂はあやつの攻撃の意に備えた。呼吸を合わせて同調した。撃ってきたら殺してやろう、とな」
ぽつぽつ、と語り出した覚石の言葉に布津野は耳を傾けた。
まるで友人を語るような親しみをそこに感じた。語られているのは殺人の話のはずだ。そんな違和感をそのままに覚石は続ける。
「あやつはな、なかなか撃たんかったよ。儂も自分から動こうとはしなかった。先に動けば明らかに有利な至近距離。しかし、儂らはぴくりとも動かなかった。儂はな、相手に先に動いて欲しかった。先にお前が動け、と念じておった。先に発砲されれば言い訳が出来る。お前が撃ったから殺したのだ、とな。そんな言い訳を、儂はじっと待っておった」
覚石は正座を崩してあぐらになる。
思い出すように頭を左右にふって、じっと手元に視線を落とし続けていた。
「あやつも同じ思いだったのじゃろう。銃口を儂に突きつけたまま、じっと動かなかった。その状態でしばらく見つめ合った。どこから蝿が、ぶーん、と飛んできての。あやつの頬に止まって、足をすりすりとしていたのがハッキリと見えたのを覚えておる。それでも、儂らは一歩も動こうとはしなかったんじゃ」
覚石の手が、ゆっくりと握られて拳の形になる。
「あやつを殺してしまったのは、儂が臆病だったからじゃ」
「……臆病、ですか」
「あやつは、次第に状況が飲み込めてきたのじゃろう。銃を突きつけているのは自分であり、儂が後ろ腰に短刀を隠していることに気がつかなかった。今になれば、あやつが何を考えていたのか、よう分かるのよ。あやつは自分が圧倒的に有利だと思った。だから、自分が退けば誰も死なずに済むと思った。……やつは、銃口を据えたまま、一歩だけ後ろに下がろうとした。しかしな。儂は、あやつと完全に和合していたのじゃ。……儂の体はそれに反応したよ。その引き足と同時に踏み込んでいた。気がつけば、あやつの喉を切り裂いていた」
その枯れた声が染みこんできて、布津野は目を閉じた。
状況は容易に想像できた。一歩刃圏の至近距離で相対する二人。片方は銃を突きつけ、片方は後ろ手に短刀を隠した。その状況であれば、覚石ほどの達人であれば互角以上の状況だ。しかし、相手は銃を手にした自分こそが優位に立っていると勘違いをした。
二人とも相手を殺したくはなかった。
ゆえに優位に立っている自分が退けば良い。そう判断した相手は一歩さがる。自分の優位を保ちながら立ち去れば、誰も死なずに済むのだから。
「相手が引くのを許せば、刃圏から離脱し、先生が不利になる」
「そうじゃな。……臆病な儂はそれを飲めなかったのよ。気がついた時には、刃を振るって殺してしまっていた。あやつが成そうとした平和を、儂が台無しにした」
覚石は眉間に皺を寄せて、痛みに耐えるように目をぎゅっと閉じた。
「喉を切り裂かれて、血を噴き出しながら、あやつは倒れた。仰向けになりながら、じっ、とこっちを見上げていたよ。ワイ、ワイ、と何度も呟いていた。ワイ、ワイ、ユー、とな。儂は、それが英語で『なぜ?』と問いかけているのだと気がついた頃には、あやつはもう息絶えておった」
覚石はゆっくりと目を開いて、ぼそり、とつぶやく。
「儂の合気なぞ、その程度よ」
「……先生」
「今思えば、あやつを殺さずに済ます技などいくらでもあった。しかし、実際にこの体から出てきたのは、入り身からの切り捨てよ。お前の言うとおりかもしれんな。短刀に頼ったばかりに、身につけた技が出てこなんだ」
布津野は黙るしかなかった。
自分だって、同じだった。肝心な時に、技は何一つ出てこない。身につけたはず修練に意味はあったのだろうか。
「この先は、お前の道じゃな」
「……僕ではとても、」
「お前で無理なら、お前の息子かの」
「はぁ」
確かに、ロクなら出来てしまいそうだ。あまり、危険なことはして欲しくはないけれど。
「さて、それよ。思い出したぞ。お前が辛気くさい話しを振るから、忘れてしまうところだった」
「なんでしょう」
「いやな、ロク君とそれに紅葉にもじゃな。見せておきたいと思っての」
覚石は、ずい、と顔を近づけた。
「儂の本気をな」
「……穏やかじゃないですね」
「そうよ。生半可な相手では殺してしまうじゃろう。……のう、そこでじゃ、」
目の前で覚石が、ニヤリ、と笑った。
「布津野よ、この儂と仕合せい」





