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[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:遺伝子コンプレックス)  作者: 舛本つたな
[第三部]僕は35歳、ロクはとても頑張っているから
81/144

[特別短編]冴子の子猫トラップ

書籍版『遺伝子コンプレックス』の発売記念短編です。




 冴子の献立は、完璧に計画されていた。


 冴子にとって料理とは、買い物による供給、冷蔵庫の在庫、調理加工、食事による消費が循環する供給連鎖サプライチェーンだ。原料から加工し、美味しさを付加価値として生産する。彼女のマネジメント手腕により、日々その工程は改善され続けている。


 そろそろ、正式に仕事を辞めようか……。


 冴子は洗い場でカチャカチャと、平皿の底ふちに残った油汚れを温水で流していた。そんな単純作業は、彼女にとって良い思索の時間でもある。指先の動きが思考をはじいて波紋になる。

 内閣代行役を引き継いだロクは、問題なくやっているようだ。首相から頼まれる仕事も減ってきている。そろそろ、給与を頂くことが心苦しくなってきた頃合いだ。

 家計に不安があるわけでもない。

 貯蓄も十分であるし、それを資産として運用すれば生活費程度は捻出することができるだろう。昨年から初めてみた株式投資は、25%の運用益だった。四千万円程度の少額運用だったが、それでも一千万円になる。そのお金は北海道にあるマリモ保全対策協議会に寄付をしてしまったが、忠人さんの年収とそれ合わせたら生活に困ることはないだろう。

 目につく油汚れがなくなった皿たちを、食器洗浄機に並べ終えた。洗剤液を機械に補充して、ボタンを押す。ピッ、と電子音が応答して、静音化された動作音と熱水の洗浄音が聞こえてくる。洗剤と熱水による食器の消毒洗浄。使えるものは使い、効率化を徹底し、余った手間暇は美味しさに費やす。

 足りないのはお金じゃない。鰹だしを取ったり、鶏肉の脂を抜いたり、料理本をじっくり読む時間なのだ。もっと試したいことが頭の中にあるのだ。

 そうだ、ロクとナナの学費も考えて、中長期的な財務計画を立てみよう。計画に余裕があれば、私は仕事を辞めても問題はないはずだ。あの二人にも十分な収入がある。しかし、家族というものは親が子どもを養うものらしい。


 おかしい。


 と、口の端が笑ってしまう。

 忠人さんがロクとナナを養うイメージは、ちょっとおかしい。ロクはだれかに養ってもらう必要がない。そして、忠人さんが誰かの上に立つのも想像できない。あの人は、いつだって誰かと同じ目線でいる人だ。


 そのおかしさは、ふふん、と鼻歌まじりになってしまった。


 リビングのほうを振り返る。

 そこには誰もいない。水槽で飼育しているマリモがいるだけ。土曜日のお昼過ぎは、いつもこんな感じだ。ロクは朝から政務で、お昼は覚石先生の稽古。忠人さんも孤児院での稽古の後に、GOAでの技術指導がある。ナナは、いつも忠人さんについて行っていなくなる。

 三人が帰ってくるのは、18時くらい。

 今は、昼食を忠人さんとナナに食べさせて、送り出した後。

 時刻は14時。

 そろそろ、買い物に出かけなくてはならない。


 冴子のサプライチェーンは、止まらない。



 ◇

 冴子は買い物で悩むことはない。


 近場の食料品店に足を踏み入れる前から、すでに買う物は決まっていた。

 彼女の献立計画では、二週間後まで決定されている。完璧な生産計画に従って、食材の物流管理ロジスティックスも徹底されていた。重い飲料品や常温保存ができる香辛料や野菜や米は、定期購買プログラムで在庫に応じて自動配送される。

 こうやって買い出しをするのは週に二回程度だ。肉や魚、鮮度が重要な果物や野菜を調達するのが主な目的だが、それに加えてもう一つの目的があった。


 それは、インスピレーションを得るためだ。


 固定化された計画は効率的ではあるが、革新イノベーションに乏しいことを冴子は課題に感じていた。

 美味しさ、という付加価値の探求をゆるめてはならない。

 買い物とは、発見のためのフィールドワークだ。自分が知らなかった食べ物や香辛料、調理器具を探すためのインプットの場でもある。

 前に忠人さんと一緒に行ったデパートでは、石窯スチーム炊飯器なるものを発見した。そのパッケージを手にとって、なぜ石窯でスチームであればお米が美味しく炊けるのか……。価格は十万円ほど。科学的な根拠があるのであれば、十分に検討の余地がある投資額だ。


「気になりますか?」

 と、忠人さんが声をかけてきた。

 石窯スチームの説明書に目を通しながら、それに応じる。

「ええ、石窯スチーム。確かに石窯をキッチンに置くのは困難ですから、それで主食のお米が美味しくなるなら、良いと思いますが……」

「これ以上、美味しくなったら大変ですね」

「大変ですか?」

「ええ、大変ですよ」と、忠人さんが笑う。

 そして、私は石窯スチーム炊飯器を買うことにした。


 残念ながら、今日の買い物には新しい発見はなかった。

 なので予定していたものだけを買う。ほうれん草と空豆と竹の子、それに、サクランボ。魚はたらにした。大きな魚なので切り身になったものを買う。これなら食べやすいのでナナも喜ぶだろう。忠人さんは何でも喜んでくれる。

 本当は一匹まるごと解体するような魚料理に挑戦したい。しかし、余らせてしまうのも残念だ。取り組むには献立計画を見直さなければならない。次の計画の時には、大型の魚類を丸々と使ったラインナップを組み込んでおこう。



 ◇

 会計を済ませて、ビニール袋を片手にぶら下げながらの帰り道。


 みゃあ


 と、鳴く声がして足が止まった。細くか細いその鳴き声の正体は、子猫かと検討をつけて視線を落とせば、やはり、そこにいるのは子猫だった。

 汚れた布を丸めたような、その子猫は段ボールの隅に無造作に置かれていた。それはすり切れていた。弱々しく、ぴくぴく、と、どうやら動いている。


 瀕死ね。


 そう判断したのが不味かったのかもしれない。いつの間にか、かがみ込んで観察していた。かろうじて手の平にのりそうな大きさ。指をのばして、子猫にふれる。みゃあ、と力ない抗議。体温は冷たく、体の反応は弱い。


 どこかの飼い主が育てかねて放棄したのだろうか?

 こうやって死んでいく子猫は東京に何匹いるのか?

 この状態から生き延びる確率は何%くらいなのか?

 捨て猫についての統計的知識は持ち合わせていない。


 そのボロぞうきんを丸めたような体を、手の平にのせて観察をつづける。ぷるぷる、と手の上で震える小さな体、微弱な心臓。この子猫は、少なくとも、生きようとしている。こんな、どうしようもない状況で、無駄に足掻いている。


 まるで、忠人さんみたい……。



 ◇

 帰宅して、第一に取りかかったのはミルクの用意だ。

 子猫を抱えながら、帰路の途中で子猫のケアについての情報をインターネットで目を通す。本来であれば、猫専用のミルクを与えるべきらしい。しかし、今は緊急事態だ。市販の牛乳でも、問題になるのは下痢程度らしい。で、あれば、まずは何か栄養を与えることを優先すべきだ。

 玄関の脇にビニール袋を置きっぱなしにして、冷蔵庫を開ける。牛乳パックを取り出して、皿に注ぎ電子レンジにいれて適当につまみを回す。


 ブーンと低い音、回る皿。


 猫用のほ乳瓶などない。吸い付けるものであれば代用できるだろう。さっ、と部屋中に視線を走らせる。ティッシュでも問題はあるまい。三枚ほど引き取って、手の中で丸めてしまう。

 電子レンジを開けて、回転を止める。皿をつかみとれば、ちょうど人肌程度に温かい。こんなものだろう。それを流しに持って、温水を加えて薄める。牛乳は猫にとっては濃すぎるので水を混ぜるとべきだ、とネットに書いてあった。その真否を確かめる時間はない。

 指で皿の底をなぞり、温水と牛乳を混ぜる。濡れた小指を子猫の口に入れる。ちゅ、と吸い付く反応がある。思った以上に力強い。すぐに、丸めたティッシュに牛乳を染みこませて、今度はそれを子猫の口に含ませる。


 死にかけの子猫の口が、必死に動き出した。


 この対処法は間違っているのかもしれない。しかし、十分に検討する時間はなかった。これが私にできる最大限で、後はこの個体がもつ可能性の問題だ。この子猫が、忠人さんだったら生き長らえるだろう。


 腕の中の子猫は、必死に口を動かしている。


 ティッシュを口から取り出して、一度休ませる。みゃあ、みゃあ、とより多くを求めて鳴いている。しかし、この頃の子猫が一度に飲める量には限界がある。ネットの情報では一回に10ccが目安とあった。急に飲ませても問題になるだろう。何にせよ、久しぶりに胃に栄養を送れたのだ。少しは休ませたほうが良いだろう。

 冴子は、ミルクをねだる子猫を抱えながら風呂場へと歩いた。清潔なタオルを一枚取り出す。それで子猫を包んで胸に抱えるようにして抱く。栄養に保温。後、出来ることは衛生面だろう。様子を見て風呂に入れてやるべきかもしれない。


 みゃあ!


 と、一鳴き。何度か聞いたなかで一番大きな鳴き声。多少は回復しているような気がする。どうやら、この子猫は忠人さんだったらしい。

 そのまま胸に抱いて温めてやりながら、リビングに戻る。ソファにゆっくりと腰を下ろして、携帯端末を取り出す。子猫のケアについて再確認する必要がある。検索キーワードは「子猫 世話」。検索結果を上から五つ同時に展開して、さっと目を通す。

 三つ目が比較的信用できそうだ。子猫の体重と生後日数のグラフや猫の母乳と市販の牛乳の成分比較表が興味深い。特に、兄弟猫の数の違いによる発育曲線の差異が示唆に富んでいる。兄弟猫が多い場合、一人あたりの摂取母乳量が減少し、発育が遅れる。多産と少産の生物がもつ生存戦略の違いが読み取れて面白い。

 一度の出産で生まれる個体が多い場合は、確率的に生存個体を残すことが出来る。しかし、親個体が供給できる栄養は一定である場合、子個体が得られる栄養は分散する。そうすると個体の生育は悪化し、死亡率は上昇するだろう。子個体間の母乳の取り合いによって、得られる栄養格差があることにも留意しなければならない。

 一方で、人間のように少産の生物の場合は、子個体は親個体から供給される栄養を独占することになる。個体はその発育の可能性を最大限に発揮することができる一方で、その少数の子個体が死ねば子孫を残すことが出来ない。

 そういったリスクヘッジの戦略から判断すれば、人間こそ多産になるべきなのかもしれない。

 なぜなら、人類は母乳以外の手段で子個体に栄養を供給できるようになったからだ。つまり、粉ミルクなどの機能食品を扱えるのだ。これにより、親から供給できる栄養は子個体の数に限らず最大化される。そうであれば、多産のほうが合理的だ。

 もちろん、それは栄養面だけの問題だ。文化的な動物である人間には、学費などは子個体の数に応じて、有限な親の資金から分散されることになる。しかし、その課題も社会制度を整えることで……、


 みゃー。


 ……さて、次に必要なのは、排泄補助か。

 ティッシュ箱を手元に引き寄せて、五枚ほど抜き取る。子猫を包んでいたタオルを膝の上に広げて、抜き取った子猫を右手の中に丸め込んでお腹を露わにする。うっすらと血管が透けた腹はピンク色だ。手の中にギリギリ収まった子猫の体は暖かい。体温が戻ってきたのだろう。進捗は悪くない。


 ふみゃ!


 この鳴き声は抗議なのだろうか。しかし、これは必要なことだ。構わずティッシュをお尻に当てて指でゆっくりとこすってやる。しばらく、するとティッシュが湿りだした。黄色い。新しいティッシュを抜き変えて、またお尻をこする。


「全部出したら、次のミルクをあげる」

 みゃ。


 まるで会話が成立したような偶然の鳴き声に、思わず笑ってしまう。

 取りあえず、しばらくはこのローテーションだろう。暖かくて衛生的な環境、定期的なミルク、効率的な排泄。それほど難しいオペレーションではなさそうだ。自分の家事サイクルに組み込むことは難しくはない。

 子猫が体を、ぷるぷる、と震わせて、お尻からはもう何も出なくなった。胃の中が空っぽになったのなら、また入れなければならない。それは人間と変わらない。

 子猫を抱き上げて、台所に向かう。皿に入れたミルクを温め直しながら、ちらりと時計を確認した。

 時刻は17時30分。

 その時だった。ガラスでできたボールを二階から投げ落とされたような、ぎくり、とした感覚に襲われた。


 ——困った。どうしよう。


 具体的に何に困っているのか。それが自分にも分からなかった。言葉に出来ない何かが、私を怯えさせていた。恐怖ではないが不安だった。それは恥ずかしさにも似ている気がした。もう少ししたら、忠人さんが帰ってくるのに……。


 子猫にミルクを含ませたティッシュをあてがう。


 思いは沈む。過去の自分の言動と自分が今していること。その二つがまったく噛み合っていない。私はそんな人間じゃなかった気がした。まるで幽体離脱のように、本来の自分が体を抜け出して、体が勝手に動かしてしまったような……。


 子猫は、ちゅぱ、ちゅぱ、と吸い付いている。


 忠人さんにこの姿を見られたら……。

 何と言われるだろう。

 どうして、笑い、かわいい、珍しい、優しい、やっぱり、意外、猫は好き? いいえ、だったら嫌い? いいえ、ならどうして? なぜ、冴子さんは……。


 ——私は?


 ダメだ。

 これは駄目だ。このままじゃ全然、駄目だ。きっと私は駄目なんだ。そうだ、私だったらダメなんだ。

 その時、ふと作戦を思いついた。

 それは稚拙な作戦だったけれども、問題はないと確信する。忠人さんは騙される。騙されてくれるだろう。

 本来あるべき形はハッキリしていて、今はぐちゃぐちゃになってしまっている。それは、もう私の手では元に戻らない。それを忠人さんに押しつける。そして、あの人は受け取ってしまうだろう。彼の手が入ったその瞬間に、全てが整然として、しっかりと噛み合って、ゆっくりと回り始めるはずだ。

 まずは、そこからやり直さなければならない。

 全てがちゃんとした組合せで、もう一度はじめからスタートする。


 少し飲ませすぎたミルクを引き上げて、子猫の抗議を無視する。

 急いで廊下に出て、物置になっている部屋から折りたたまれた段ボールを取り出す。それを箱の形に組み立て、洗い場に持って行く。そして、段ボールの底にタオルを数枚敷き詰めた。もっと小汚いタオルのほうが良かったのかもしれない。これでは清潔すぎて不自然に思われるかもしれない。でも、大丈夫だ。そういう不自然さに気がつくような人ではない。

 段ボールに敷き詰めたタオルは色々だ。白とかベージュとかブラウンとか、清潔なモザイク。


 その真ん中に、子猫をそっと置く。

 まるで、宝物を扱うように丁寧に。

 あるいは、爆弾を設置するように慎重に。


 それだけでトラップは完成した。たったこれだけで、あの人は騙されてしまう。たったこれだけで、あるべき形に戻すことができる。

 時刻は17時40分、忠人さんが帰ってくるまで後20分しかない。あの人は時間に不規則だから、もっと早く帰ってくる可能性もある。急いで設置しなければならない。

 段ボールを抱えて外に出る。

 日が落ちて寒くなっている。子猫には申し訳ないが少しの辛抱だ。忠人さんの帰り道の、玄関からなるべく近い、街灯の光が良く当たる場所。そこに子猫を仕込んだ段ボールを、アスファルトの道路上に設置する。


 みゃあ!


 不安そうな鳴き声が、置いた段ボールから上がる。

「そうです。そうやって、大きな声で鳴きなさい」

 こちらを見上げる子猫の頭に、指を這わせる。十分に開かない子猫の瞳がさらに細くなって、不安そうに両腕をから回りさせていた。

「そうすれば、きっと、貴方も……私たちみたいに」



 ◇


 参ったな、と布津野は段ボールの前にかがみ込んでいた。

 その中には、色とりどりのタオルが敷き詰められていて、真ん中には子猫がこちらを見上げている。


 みゃあ! みゃあ!


「参ったな」

 そう言いながらも、布津野は子猫を両手で包み込むようにして抱き上げてしまった。その小さな体は熱をもって暖かい。でも、こんな寒い夜にタオルだけだ。もしかしたら、凍えて死んでしまうかもしれない。

 やれやれ、いけない。どうにもいけないな。

 捨て猫だろう。かわいそうだし、かわいくもある。

 でも、拾ったなんて言ったら、冴子さんは何と言うだろう。ナナは喜んでくれるかも知れないが、ロクは無責任だと非難するかもしれない。生き物を飼うのは大変だ。みんなの協力がなければ、きっと難しいだろう。

 そうは思いながらも、布津野は子猫を抱き抱えたまま歩き出した。

 取りあえず相談しよう。ナナと一緒にお願いしたら、もしかしたら許してくれるかもしれない。許してくれなくても、他の解決法を教えてくれるかもしれない。せめて、今日の一晩だけでも、と頼んでみよう。だって、今夜はこんなにも寒いのだ。


 玄関にたどり着くと、チャイムを鳴らして待ち受ける。

 ドアの向こうから、とっとっとっ、と冴子さんの足音が迫ってきて、扉が押し開けられた。


「忠人さん!」

 冴子さんが姿を現した。

「はい、あの、」

「それ」

 と、冴子さんが懐に抱えたものを指差した。

「すみません。実は、」

「猫ですね」

「えっ……はい。そうです」

 どうして分かったのだろう。彼女はまるで予言者みたいに何でもお見通しなのだ。

「拾ったのですか?」

「ええ、ほら、今夜はとても冷えそうだったので」

「見せてください」


 冴子さんが近づいてきて、腕の中をのぞき込んだ。子猫は、みゃあ、とまるで挨拶をするように冴子さんを見る。

 冴子さんは、息をついて少し笑った。良かった機嫌は悪くないみたいだ。これはチャンスかもしれない。


「あの、」

「忠人さん。お気持ちは理解しますが、考えなしに拾っては困ります」

「……すみません」

「子猫のケアは慎重にしなければいけません。ミルクも猫用のものが必要ですし、その後の排便補助もあります。それを三時間おきに繰り返し、三週間後にやっと自分で排泄が出来るようになるのです。他にも湿度や保温環境を整える必要もあります。そういった事をちゃんと調べてからにして頂かないといけません」

「すみません」


 本当に冴子さんは何でも知っている。

 その時、冴子さんが、ふっ、と笑った気がした。


「しょうがありませんね」


 冴子さんが大きなため息をついて、子猫を指でなでた。


「私は夕食の準備があります。どうやらこの捨て猫はわりと元気なようですね。忠人さんは、ティッシュでこの子のお尻を撫でてあげてください。お腹にたまっていれば尿が出てくるはずです。出なくなったら、しばらくすれば寝てしまうでしょう。なるべく暖かい環境を作ってやってください。使わなくなった毛布が寝室にあったはずです」

「はい!」

「子猫用にいくつか必要な物がありますが、それは、私からロクに電話して、帰り道で買ってくるように頼んでおきます」

「いいんですか? 助かります」


 正直、ロクから色々と言われることを恐れていたから、冴子さんが代わってくれるのは本当にありがたい。


「今回だけです」

「はい」

「ほら、早く上がってください。ここは寒いですから。まずは良く手を洗って。タオルは洗面台にあります。なるべく清潔なのを選んで使ってください」

「はい」


 布津野は喜んで家の中に入る。

 冴子は玄関から布津野の背中を眺める。その背中ごしに、みゃあ! と元気な鳴き声がした。


「……お帰りなさい」


 冴子はそうつぶやいて、開けっ放しのままだった玄関をそっと閉じた。


 今回の短編は皆さまからのアイデアを拝借して書いたものです。短編アンケートの中でモフモフ成分が欲しい、猫をひろう話がいい、と頂いて、割と率直にそのまま書いてしまったのが今回の短編ですね。


 書かせて頂いた感想は「この話、大好き」。


 本作には大きなプロットの流れが存在しているため、今回のようにじっくりとキャラの心情を描写する機会がなかなかありませんでした。中でも冴子は一番描写が難しいキャラです。だからこそ描写にやりがいがある。このような短編だからこそ、じっくりと文章を書くこと楽しめたと思います。


 今回はキャラやプロットさえも読者の方に依存した話でした。その反面、書くこと自体の楽しさを満喫できた短編です。自分一人では発揮できなかった面白さを出せたのでは、と内心驚いております。


 本作のヒロインは沢山いるのですが、冴子が一番大人しいキャラクターです。

 動的なヒロインは、ニィや百合華です。二人とも人気キャラですね。

 ロクや紅葉は、静的なヒロインです。目立った人気はありませんが、この二人がいないと物語の形が崩壊してしまいます。

 その中で、冴子は停止的なヒロインです。実は、彼女がいなくても物語は成立してしまいます。彼女自身が物語のメインプロットに関わってくることはほとんどありません。そう思うと不思議なキャラですね。刺身のツマみたいなもので、存在意義は説明出来ないけど、なんかいるよね〜、って思われているキャラです。


 そんな冴子さんが、今回の特別短編希望キャラクターとして、圧倒的一位を獲得したことは、妙に嬉しく思っています。彼女がこうやって布津野とイチャイチャしているのが妙に微笑ましい。35歳のおっさんと25歳のイチャイチャなのに、中高生の恋愛みたいな距離感がある。


 そんな感じですね。

 引き続きよろしくお願いします。

 

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舛本つたなの別作品リンク
公爵令嬢になったお腐(ふ)くろさん、(以下略)

本作を大幅に書き直した書籍版(kindleなどの電子書籍もあり)です。 下の画像で出版社さんのサイトに飛びます。 下読みもできますよ。

遺伝子コンプレックス
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