[3-last]山の上の空
シャンマオにあてがわれたのは、真っ白な部屋だった。
そこには、家具らしきものはベッドと仕切りのないトイレがあるだけで、それらも全て白色で統一されていた。シャンマオはこの部屋をとても気に入っていた。
清潔で色のない部屋。この空間で汚れているのは自分だけだった。自分さえいなくなれば、この部屋は完成する。今、私はベッドの壁際に座ってる。出来るだけ小さくなりながら、目立たないように……。
その時、ノックの音がした。
顔を上げるとドアが開く。そこから現れたのは白髪の少年。名はもう覚えた。ロクという。美しい少年。彼の色は淡いものだったが、最近になって急に黒に近づいた。
少年は部屋に入って言う。
「自殺を試みたそうですね」
「……」
「欲しいものはありますか?」
「……」
「知りたいことは? 今後の貴方の処遇とか?」
「……」
少年は近づいてきてベッドの反対側に腰掛けた。
綺麗な少年だと思う。同時に不遜な餓鬼だとも思う。殺し合った相手の横に無遠慮に座る。それは勝者の油断なのか、子どもの無邪気なのか。私がつけた顔の傷は薄らいでいる。いくつかは痣になっているが、やがては消えるだろう。
少年は問いかけてくる。
「食事を取っていないそうですね」
「……」
「カウンセラーが嘆いていました。どんな問いかけにも応じないと」
「……」
「貴方は、死ぬのですか?」
……、無言で頷く。
「どうして?」
どうして? 変なことを聞く。
敵に捕まれば死んだ方が良いと教わってきた。死にたいわけではなく、死にたくないわけでもない。死ぬことには、漠然とした不安があったが、きっかけがあれば乗り越えられる。ここに捕まったのは良いきっかけだ。まあ、この少年には私に死なれると不都合な事情があるのだろう。
「せっかく、殺さずに済ませたのに」
少年は美しい顔をしかめて、こちらをのぞき込んでいる。やはり、この少年は傲慢だ。
「死んでしまうのなら、同じでしたね」
しかし、この少年が私を殺せたのは確かで、そして殺さなかったのは事実だ。そう言えば、この少年だけではない。あの色のない男も……。
「……あれは、お前の父親?」
口を開くと、自分の声がしゃがれている。久しぶりに口の機能を使った。上手くしゃべれない。口の中も乾いてカサカサだ。
「なんですか? 口を開いたと思えば、貴方も父さんですか」
少年は横目でこちらを見て、少し笑った。
「色が無かった」
「父さんの色?」
頷いて「でも、戦えば、真っ黒だった」と続ける。
「貴方の目は悪意を見る、でしたっけ?」
少年の声が心なしか弾んでいた。こちらを、目を輝かせてこちらをのぞき込んでくる。もしかしたら、彼は単に無邪気な子どもなのかもしれない。変わってしまった彼の色は、それでも、純粋なものだった。
「さて、解釈が難しい。でも、興味がありますね。父さんの色が見えない。詳しく聞かせてください。色が見えないのに真っ黒とは?」
「あ〜」
と、喉を鳴らす。
躊躇したのは久しぶりでしゃべりづらいせいもある。
しかし、見える色について色が見えない相手に説明するのは難しい。ましてや、あの男にはその色さえ見なかったのだ。私だって、あれが現実なのか信じられない。
「さっき言った意味、なんだ?」
説明できる気がしなかったので、話題を変えてみる。
「ん?」
「私も父さんですか、って言った」
「あ〜」
と、今度は少年が喉をならした。
「父さん、あれでモテるのです」
「は?」
「だから、もしや貴方も父さんを好きになってしまったのかな、と」
クッ、と笑いが吹き上がり、肺が驚いたのか、ゴホゴホ、と咳き込む。
これは酷い不意打ちだ。この少年に対しては、十分に身構えていたのに……。
「大丈夫ですか」
「私が、あの男のことを、その、なんだ。好きになったのかと疑ったのか?」
「過去の実績から考えると、あり得ない話ではありません」
少年の顔は、真剣だった。
「そうなのか?」
ふと、興味がわく。
「ええ、例えば貴方も知っている黒条百合華は、その典型ですね」
「ほう、」
なるほど、今回の敗因がおぼろげに見えてきたな。そう言えば、あの黒条の女頭目は私に忠告していた。確か、銃弾を避ける男に会ったら逃げろ、と。
「あの男、あ〜、つまりお前の父親だ。あれのことか」
「そうです」
「そうか、あの恐ろしい男のことか……」
「恐ろしい?」
「あいつは、色がないのに人を殺せる」
あの男の攻撃は、殺意すら置き去りにしたのだ。
少年はなにかを飲み込むように、言葉をつく。
「……和合すれば簡単に殺せる」
「なんだ?」
「父さんの教えです」
「それは……凄まじいな」
事実、私はあの男に手玉に取られた。初めて、絶対に敵わない相手に出会った。私の戦術はこの目に依存するところが大きい。色のない相手に敵うわけがない。殺意もなく、人を殺せる者など、もはや人間ではあるまい。
「……あの時のお前も、色が見えなかったな」
少年の顔を見る。その美しい顔が崩れてほころんでいた。その笑顔に、ちょっと時間を忘れるくらい、見とれてしまった。
「あわせて、もらって、かえす」
少年は、そうつぶやいた。
「……なんだ? それ」
「これも父さんの教えです」
「あわせて、もらって、かえす?」
「そう、解釈ができない」
少年はそう言って、目を輝かせてこちらを見る。
「どうでした? あの時の僕は? ほんの少しだけですが、出来た気がした。あわせて、もらって、かえす」
「……よく分からん」
私が負けたのは確かだが、あの一瞬のことは良く覚えていない。まるで奔流にのまれたように世界が回転して、いつの間にか少年の腕の中に私はいた。
「……そうですか」
少年はそうつぶやいて、うなだれた。その様子は少なからず傷ついているような気がした。彼には何か期待する言葉があったのかもしれない。それを言い当てることが出来なかった自分が、不甲斐なかった。
「で、」
と少年はゆっくりと立ち上がった。
「貴方は死ぬのですか?」
「……ああ」
少年はこちらを振り向いて言う。
「死ぬ前に、一つお願いしたいことがあるのですが」
「……なんだ」
「やってくれますか?」
「内容による」
「簡単なことです」
「さっさと言え」
少年は手を差し伸べて、いった。
「僕の稽古相手になって欲しい」
少年の淡い黒が、ふっ、と消えた。まるでこの真っ白な部屋の一部になったように、少年は綺麗な白で構成されていた。そこに思惑はない。無邪気な興味だけでそこに立っている。
手が勝手に動いていた。気がついた時には少年の手を握っていた。その手が意外に温かいことに驚いて、「あっ」と口から声がもれた。
「稽古は不定期の仕合です。僕を殺すつもりでお願いします。期限は、そうですね、僕が貴方を圧倒できるようになるまで、でどうですか?」
私を圧倒する? そんな事は不可能だ。あの男でない限り。
「……いつまでだ?」
「可能な限り、早く終えるつもりです」
少年の目が細くなって、真剣な光を放った。
「僕が、父さんを超えるまで」
シャンマオの視界には、ロクの奥底であの黒炎がちらつく。綺麗な純粋な黒。
まぁ、いいだろう。
どうせ私は、あと五年もすれば寿命で死ぬ。強化個体の寿命は短い。残りの余生をこの少年の妄想に付き合ってやるのも、悪くないかも知れない。
◇
「布津野さん、褒めてくださいよ」
「流石、ニィ君だね。すごい。……ところで、何をしたんだい?」
「何も分からないくせに、とりあえず褒める。その安っぽい反応は、流石の偽善者ですね」
「でも、何かをやり遂げたのだろう? おめでとう!」
「ふふ」
布津野は缶ビールを片手に家のベランダに出た。
今は、夜の十一時くらいだらか、ニィ君のいるアメリカは午後二時のお昼間だ。携帯端末の向こうのニィ君は何か興奮しているようだ。酒で火照った体に、冬場の夜風は気持ちよいのか寒いのか曖昧な夜。
それでも、ニィ君との話はとても楽しい。
「でも、愚か者には少し難しい話なんですよ」
「その愚か者に分かりやすく話せるのだから、ニィ君はすごいなー。憧れちゃうなー」
「ふふ、まあ、その安いおだてに乗って差し上げましょう。今日はちょっとばかし気分が良いのです。すこぶるね」
「どうしてだい?」と布津野は笑う。
ニィ君は本当に愉快な子だ。榊さん達に慕われるわけだ。
「ロクの奴に貸しを一つ作れたからです」
「貸し?」
「ええ、貸しです。もしかしたら一つじゃないかもしれない。二つや三つ分くらいはあるかも知れません」
「つまり、いつか返して欲しいのかな?」
「……本気で思うのですが、貴方は時々、相当に意地の悪いことを言いますよね」
ハハッ、とから笑いして誤魔化す。
あのニィ君に意地悪と思われたのなら、それは相当な意地悪なのだろう。僕としては、ロクとニィ君には仲直りして欲しいだけなのだが、まあ色々と難しいと思う。
「ごめんね」
「息を吐くように謝らないでください。この冷血者」
「それで、何が貸しなんだい? 出来るなら僕が変わりに払ってあげよう」
「ほう、言いましたね。何でもすると?」
「できることならね」
ふむ、と携帯の向こうからは、ニィ君が何やらブツブツとつぶやいている声がする。「布津野さんに、代わって払ってもらうのも……、確かにロクなんぞに何をさせても面白くもない。ああ、うん。……これは面白いな」と何かブツブツとつぶやいている。
——何やら不穏なことを言っているな……。
「思いつきましたよ!」
さて、何が飛び出すやら。
「お手柔らかに」
「流石の日和見ですね。いざとなったら、すぐに置きにくる」
「大人だからね」
「枕詞に汚いが抜けていますよ」
「汚い大人だからね」
「そんな、大人としてのプライドもない布津野さんに挽回のチャンスを差し上げましょう」
どうやら、何かを頂けるみたいだ。
この子は突拍子もなくて、無茶ぶりをする癖があるから困ったものだ。ビールをぐいっと飲む。さて、汚くてプライドもない大人としては、何とかして適当に誤魔化してうやむやにしたいのだけど……。
「今度、アメリカに遊びに来てください」
「へっ……別にいいけど」
意外に簡単なお願いだったから、反射で了承してしまった。
「イエス!!」
布津野の携帯の向こうからは、まるで子どもみたいな声がしていた。
◇
ロクが榊の病室を訪れるのは、これで三回目になる。
「やあ、内閣代行役が直々にとは恐れ入る」
片方しかない腕をギブスで固定されてしまった榊は、顎をくいっと上げてロクを迎えた。
「内閣府からここは近いからな」
「本当に、有り難みのない奴だ」
からからと榊は笑った。
ロクは用意した個室の部屋を見渡すと、そこにはいくつもの果物やら花やらが飾られているのがよく分かる。
「人気者、だな」
「ん、ああ。皆、よく来てくれる。お陰で見舞いの品が余ってな。食べていくといい。ただし、冷凍庫のハーゲンダッツはだめだ」
「飲み物がいいな」
「冷蔵庫の中だ。自由に選べ」
ロクはベッドの近くに備え付けられた冷蔵庫を開ける。
炭酸に果物ジュースにお茶のペットボトル。色々あるが、グレープフルーツの缶ジュースがあったので、それにする。
「へぇ、グレープフルーツか?」
榊がロクに問いかけた。ロクは椅子をベッドに寄せて腰掛ける。
「まぁ、な」
「私はあの酸っぱいのは嫌いだ」
「じゃあ代わりに飲んでやろう。消費の棲み分けが出来ていいじゃないか。無駄がない」
「ジュースは甘いのに限る」
「お子様だな」
「お前が捻くれてるだけだ」
そうかもな、とロクは缶ジュースに口をつけて、すぐに後悔した。グレープフルーツの強い酸味が口の中の傷にしみたからだ。
「ナナちゃんもよく来てくれる」
榊はそう言うと、ロクに「アップルジュース、100%のやつ」と短く命じた。
ロクは言われるがままに冷蔵庫の中をのぞき込む。奥のほうにまだそれは残っていた。
「それに、布津野さんも」
「一緒か?」
「そう、いつも一緒だな」
「ナナは父さんの事が大好きだからな」
「お前もたいがいだがな」
榊が不可解なことを言う。
「ん、どういう意味だ」
「おいおい、無自覚か?」
榊は口をへの字に曲げて、顔をしかめるロクを見た。
「……?」
ロクは何気なく缶ジュースを差し出したが、榊は頭を左右に振ってロクを睨みつける。それでようやく気がつく。彼女の唯一の片腕はギブスで固定されているのだ。缶を渡されても飲めるわけがない。
ロクは慌てて缶を開けて、左右を見回す。
「ストローとかは?」
「ないぞ」
「そんな訳はないだろう。看護師から貰ってこよう」
「本当にお前は、」と榊が呆れた。「モテない奴だな」
ロクはそう言われて困惑した。同じようなことを黒条百合華から言われたことがある。あの時は納得出来なかったが、不思議と真実を突きつけられたような気がした。僕は、どうやら本当に女の子にモテないらしい。
「ほら」と榊が顎あげる。「飲ませてくれ」
ロクは榊が何を要求しているのか、すぐには理解することが出来ずに、缶ジュースを両手に持って立ち尽くす。右手にグレープフルーツ、左手にアップル。酸味と甘味に挟まれた自分。
「ほら、早くしろ」と榊がこちらを睨む。
「あ、」
「言っておくが、口移しではないぞ」
「……馬鹿な事を言うな」
ロクはそう言って、榊の横に近づいた。近くに寄ると榊は目を閉じて、その小さな口を少し開く。顔が近い。缶ジュースを近づける。缶をもった手が彼女の唇に触れた。それはとても柔らかかった。
そっと、口の中に果汁を流し込む。
くはっ
と、榊が飛び上がった。
「何だ、これは! 酸っぱい」
ロクは榊の口に当てた缶を、目の前に掲げて見せた。
「グレープフルーツだ」
「貴様、私は」
「好き嫌いは良くない」
「そういう問題ではない!」
二人のギャーギャーと騒ぐ声が、廊下までこぼれていた。
◇
布津野は右半身に構えて、相手を見る。
前に対峙しているのはロクだ。今回の事件がひと段落して久しぶりの、いつもの夜の稽古。家の地下にある、少し広めの畳敷き。ここは、ロクがまだ僕よりもずっと背が低かったころから使い続けている稽古場だった。
大きくなったロクは、僕と同じ右半身の構え。軸が真っ直ぐに通った体に、緩やかに伸ばされた両手。拳は柔らかく開き、膝は重心をたくわえている。とても綺麗な構えだ。
久しぶりだな。二人きりの稽古は。
ロクの呼吸を感じる。細くて鋭い。まるで針を豆腐に落としていくような、深さのある呼吸だ。良い気が通っている。それに加えて、今日のロクには深みが出てきた。懐が出来上がってきたのだろう。
まだ十五歳だ。合気を初めてまだ五年しか経っていないのに、ロクは極意を習得しつつある。当然だけど、僕よりも圧倒的な早さで、ロクは成長していく。
あわせて、もらって、かえす。
僕が長い間かけて身につけた事を、この子はあっという間に身につける。この子は誰よりも努力している。いつだって一生懸命だ。もう、僕が教えてあげる事など、ほとんど残っていないのかもしれない。
ただ、ひたすらにロクに向かって構える。
ピン、と糸が限界まで張るような緊張感。
はじけば音が鳴るような空気。
吸い込まれてしまいそう。
本当に強くなった。
親ばか、じゃないだろう。
きっと、あと少しだ。
ほんのちょっとで。
きっと、そう……。
この子は僕を追い越してしまう。
「ロク?」
と、稽古中なのに、思わず問いかける。
「なんですか?」
「もし、」
もし、僕よりも強くなったら……。
「……」
無言のロクの目は真剣なままだ。
想像する。ロクが僕よりも強くなった時のことを。この子ならきっと僕がたどり着けなかった先へと行けるだろう。そしたら、僕は、もう……ロクに必要とされなくなるのかもしれない。
それは、とても嫌だな。
でも、それでも、
冴子さんも、ナナも、そしてロクも……。
大切な僕の家族は、こんな僕を好きでいてくれる。何をやってもダメだった僕を、父さんと呼んでくれた。その優しさに、もう少しだけ甘えてもいいだろうか?
「きっと、もうすぐなんだろうけど」
念のために、今のうちにちゃんとお願いをしておこう。
「なんですか?」
「ロクが、僕よりも強くなったら……」
ロクの呼吸が止まったのが分かる。
「今度は、僕に色々と教えてね」
——馬鹿な事を言うな!
と、ロクは怒鳴りそうになるのを堪えた。
何が、自分よりも強くなったら、だ。馬鹿な事も言うのも普段だけにしろ。こちらにはそんな戯言など聞く余裕なんて一ミリたりともないのだ。
見上げ続けた山の頂きは、登ってみなければ決して分からない。
月日を尖らして、年月を費やして、ようやくここまで登ってきたのだ。幼いころから見上げ続けてきた雲の上に、ようやく顔を出したところなのだ。
そして、思い知る。雲の上には遙かな空が広がっていた。
過去の自分の過ちが恥ずかしい。過去に戻って自分の首を絞めてやりたい。数年前の自分など掃いて捨てるべき存在だったのだ。よくも分かりもせず吠えていたものだ。父さんよりも強くなったと思い込んでた時期が、僕にはあったのだ。雲よりも上の世界があることなど、気がつきもしなかった。
実際はどうだ。
合気の奥義の一端に手をかけたからこそ、初めて理解できる。
父さんは山じゃない。空だ。
幼いころからこの人と対峙してきたのに、初めて気がつけたのだ。自分がどれほど配慮され、優遇され、優しく、丁寧に、指導されてきたのかを。
一足だ。
父さんが置いたその一足で、自分は死地に取り込まれた。父さんの制空圏に飼われている小鳥のように、今まで僕はこの籠の中でさえずっていただけなのだ。
冷や汗が流れ、息がつまる。
すでに殺されているはずなのに、僕はまだ生かされている。
五年間もずっと、何万回も父さんはこれを繰り返してきた。そして、僕は何も知らずに、恥知らずにも、何万回も生かされてきたのだ。
あわせて、もらって、かえす。
その奥義は、手順じゃなかった。全然ちがったのだ。あわせる事はもらう事で、もらったと同時にかえしている。本当は、この三つを同時に終わらせるのだ。父さんはただ、最後のかえす事を、ゆっくりと優しくしていただけだ。
もう、退がれない。
少し前の自分を嘲笑する。何が自分の間合いだ。身長差なんて検討違いもはなはだしい。身長が高いから遠間なら自分が有利だと? 全然ちがう。稽古のために退がらせてもらったに過ぎない。本当なら、
退がった瞬間に、殺される。
「父さん」
と、うめきに似た声を絞り出す。
「なんだい、ロク」
「どこまで、」
空の極みは、一体どこの果てまで、
「どこまでも」と父さんは言う。
もう半歩、父さんが足を前に踏んだ。
それで、世界が固定された。
その一足が全てを完成させたのだ。
一足、一息、一即で、和合する。
すでに、あわせている。
もう、もらっていた。
いつでも、かえせるのだ。
間合いなど関係ない。相手に触れずとも、気を通わすだけで、相手と一つとなっている。
——これに、勝てるのか。
父親の呼吸が、すん、と落ちた気がした。
自分の体が、前に出た。自分も前に出る以外にない。父さんが稽古のために用意した隙に真っ直ぐ打ち込む以外に、何も見つからない。
繰り出そうとした直突きが、拳の形を成す前に、父さんは視界から消えた。
ああ、これも全然違った。相対速度なんかじゃなかった。拳を打ち出すための加速より前に、父さんは消えてしまった。僕の消える入り身は、父さんのとは全然違ったのだ。
世界が傾きだした。
もらわれた力が、自分にかえってくる。
ゆっくりと、
どこまでも優しく。
何の痛みもなく、背中から畳におろされる。
見上げる視線の先にあるのは、天井と父親の顔だけ。
まだだ、
まだまだ、遙か上に……。
「まだです」
と、自分に言い聞かせるために声をあげる。跳ね起きて、もう一度構える。重心の位置はここのはずだ。それは分かったのだ。分からない事は増えたが、分かった事もあるのだ。
声を張りあげる。
「もう一本。お願いします!」
僕は前に進んでいる。父さんに近づいている。
——第三部『僕は35歳、ロクはとても頑張っているから』 終了
作者の 舛本つたな です。
これにて、第三部、完となります。
ここまで、お読み頂いき、またマイリスト、感想など本当にありがとうございます。
本作は、本当に読者さまに恵まれた作品だと思います。二年前から応援頂いている読者さんも多くいて、自分が色んなものに支えられていることを実感しています。
せっかくの後書きなので、色々と振り返ってみたいと思います。
三部は、少年マンガみたいな話になりましたね。
気がつかれた方もいるかもしれませんが、意図的に主人公をロクに変更し、彼の成長をテーマにしていました。
楽しかったですが、何というか作者としてはヒヤヒヤして書いていました。
何というか、布津野が主人公の時のような安心感がないんですよね(暴露)。
三部は前・中・後編の三段構成なのですけど、中編だけは布津野が主人公として前に出てきましたね。
あの時は、書いている私も安心してしまいました。
ロクが主人公でハラハラしていた後だっただけに、布津野が前に出てきた瞬間に、もう勝ち確定のBGMが脳内に再生されていました。
そんな危なっかしかったロクも、三部を通してしっかりと成長してくれたと思います。
いつか、彼が布津野のように安心感のある大人になってくれれば嬉しいですね。
それと、新キャラの榊夜絵。
彼女は読者さんの感想から生まれたキャラですね。
私が「ロクにヒロインが欲しい」と感想でつぶやいていると、「ロクには新しいヒロインを!」というご意見をたくさん頂きました。
そこでライバル役のニィと複雑に絡ませてドキドキさせよう、として出来たのが榊夜絵です。
ニィに憧れる彼女は、気持ちの良い女っぷりで少しずつロクと仲良くなっていきます。
他にもヒロインの可能性があるキャラはいるのですが、それはゆくゆく明らかにしていきたいな、と思います。
ロクとニィと榊たちの恋愛模様を、まるで子供たちの青春を眺めている布津野のような気持ちで、楽しんで頂けますと嬉しいです。
それと、書籍化しましたね。
主婦の友社さまより、書籍化の連絡があったのは昨年の8月だったと思います。
ちょうど二部を投稿していた時で、皆さまからいただいたポイントによって初めて日刊ランキングに掲載された直後でした。
書籍化の機会を頂けたのも、多くの方が応援してくださった結果なのだと実感しております。
せっかく頂けた書籍化の機会、改稿は徹底的にやり込みました。
編集からも色々なアドバイスを頂いたのですが、皆さまの感想からも課題を徹底的に洗い出し、『Webよりも面白いもの』を目指して物語をやり直しました。
説明的で冗長な部分はバッサリと削除し、キャラクタの絡みを追加していきました。
10万字だったのを19万字に拡張しただけでなく、そもそも展開すら変更しています。
特に、後半は完全に新規ストーリーになっています。Web版では第二部で出てくるはずの真田が書籍版では第一部から登場したりしています。
Web版よりも、ずっとシリアスに、でもギャグは手を抜かない。
結果、増大したページ数に、担当編集が青ざめたのはいい思い出です。
編集の指示では13〜4万字が普通だと言われたのに、まさかの19万字を提出! 増大するページ数、膨らむ印刷原価、圧縮される主婦の友社の利益率……。
それでも、主婦の友社さまは「確実に面白くなった!」と言って頂き、編集長の即決で、出版に踏み切って頂きました。
本当に感謝しております。(売れても利益出ないのでは?)
そんな書籍版『遺伝子コンプレックス』は2017年6月21日(水)に発売です。
発売日に記念として特別短編をWebで投稿しました。
活動報告で、皆さまに短編の内容をアンケートした結果、圧倒的な人気を誇ったのが冴子さんでした。
……メシ激ウマ正妻キャラの冴子さんは、読者の胃袋もガッチリと掴んだみたいですね。
<特別短編のアンケート結果>
1)ニィ 3票
2)ロク 1票(同情票)
3)冴子 8票
4)その他 5票
ロクぇ……。しかも、お前、途中集計で得票数0だったから、読者さんが「かわいそうだから、」と言ってくれた同情票だぞ。候補に挙げていなかった百合華にすら1票入っていたというのに……。
作者は、ロクが本当にモテないのでは、と不安になりました。
第四部はニィを主人公としたアメリカの話です。
無色化計画発表後のアメリカで、ニィが暗躍する政治サスペンス。
引き続き、よろしくお願いします。