[3-31]和合
「嫌いだ」と、法強は言った。
その翻訳を、布津野はすぐには理解できなかった。
法強が持っている端末からは、ロクの中国語が聞こえる。さっきまではシャンマオさんが、日本に協力するとかなんとか……。色んな事を言っていた。驚きすぎて、理解が追いついていない。
四罪を作ったのが日本人であることや、法強さんが四罪のスパイだったとか、そう言った事まで法強さんは隠さずに全て翻訳してくれた。
端末の向こうのロクが、同じ中国語をもう一度言う。
「嫌いだ」
と、同じ翻訳を法強さんが繰り返す。
もう一度、ロクが断言する。
「絶対に、嫌いだ」
翻訳も当然、同じだった。
布津野はこみ上げてくるものを抑えることが出来なかった。よく分からないけれど、とても、うれしい。ロクがしゃべっている。
法強さんの翻訳は続いている。
「我々は連絡を希望する。宇津々首相に伝えろ」
「そのつもりはない。不要だ」
「それは貴方の意見だ」
「論外だ」
ロクの力強い言葉が聞こえてくる。その中国語の意味は分からなかったけれど、翻訳を聞く前から何となく意味が分かる。
「彼らを虐げたお前達とは、論外だ」
布津野は深く呼吸した。
味がする。味わっている。お酒みたいに、まどろむ幸せ。なんて子だろう。国家の命運とか、人類の未来とか、あの子は色んなものを背負わせれた。それでもしっかりと立っている。立ち向かっている。
——ロクは、本当に強くて、とても優しい子なんだ。
法強はゆっくりと端末を下げる。そのまま宇津々首相に問いかける。
「宇津々首相、ロクのこの言葉、どのようにお考えか?」
そう問われた首相は、ほっ、と笑った。
顔面のしわが寄せ集まって愉快を表現していた。彼は極上の料理の香りを味わうかのように大きく鼻で息を吸い、ゆっくりと吐く。
「完成したの」
「完成?」
首相は、とん、と杖をついて笑う。
「布津野が完成させた」と宇津々は言って布津野を見て、「ありがとう」と頭を下げた。
布津野は何のこと分からず、思わず首相にならって頭を下げた。
首相は顔を上げると、法強と総書記に向き直る。
「ロク、いや……布津野ロクは、内閣代行役じゃ」
首相のその声は力強い。一つ一つの言葉を刻み込むように言う。
「奴の下した判断は、儂の決断じゃ。日本政府が、四罪と協力することは、絶対に、あり得ぬ」
総書記は息をのんだ。その言葉の意味するところをじっくりと噛みしめる。強大な隣国が敵対する国内派閥との決別を断言した。その重大さを理解するのに時間がかかった。
はっ、と我に返るなり総書記は慌てて口を開く。
「我が中国政府は、」
「あの」と、総書記の発言を布津野が遮る。
全員が布津野のほうを見た。
「すみません、僕は早くロクのところに行きたいのですけど」
布津野はそう言って、法強の携帯を指差す。そこからは、機械や物が激しくぶつかる音がこぼれていた。それは明らかに戦闘の音だった。
「ふむ、そうじゃの」と宇津々首相は腰を上げる。「すまんが、この会談はここまでじゃ。後日、別の機会を設けよう。続きはそこで。布津野、儂とナナも連れて行け」
「あっ、はい。急ぎましょう。ほら、行きますよ」と布津野はドアに向かう。
「せかすな」
そう言って、三人は挨拶もそこそこに慌ただしく部屋を出て行く。
そして、バタン、と音を立てて扉が閉じた。
部屋に残されたのは法強と総書記の二人だけだった。総書記は、深く息を吐きながらソファに体重をまかせて沈み込む。
「一体、何だったのだ」
と、隣に座る法強に問う。
「布津野忠人です」
「それは……あの男のことか?」
「ええ、説明いたしましょう。彼こそが布津野忠人です」
「……法強よ」
総書記は法強をねめつけた。
「そういう事は、初めに報告して欲しかったぞ」
◇
シャンマオは少年の黒を見極めようとしていた。
生まれたばかりの殺意は燃えている。悪意の色は白黒の単色で人によって変わることはない。しかし、その形状は千差万別だ。例えば、あのニィの悪意は研ぎ澄まされた結晶だった。
それに引き替え、この少年の悪意は形を成していなかったはずだ。ぬるく、ゆるく、ぼやけた悪意。まるで幸せを形にしたような汚い塊。それが、この少年の底だったはずだ。
しかし、今の彼は黒い炎だ。
その黒が動く。
空気を突き破って打撃がとんでくる。
鋭い突きだ。
それを捌いてカウンターを差し込む。大体、四回に一回は少年に当たる。すでに何発も反撃を放った。普通なら一撃で沈むでもおかしくないダメージがあるはずだ。
しかし、少年の黒がかすむ事はない。
目の前の黒がまた燃える。
すぐに打撃がとぶ。
それはシャンマオが経験したことがないほどに、最も速く、鋭く、重い打撃だった。色の予兆に目を凝らさねばやられていただろう、と値踏みをする。
捌かずに腕で受け止めた。防御の上からはね飛ばされ、体ごと崩される。
ズン、と骨がきしみ、体が持ち上がる。
無理矢理にでも距離を取るために、ごろごろと地面を転がって逃げ、すぐに立ち上がって距離を取り直す。
少年の打撃は一流だ。その鍛錬の深さは、底を知らぬ。
あの黒炎は伊達ではない。受けては、こちらがやられる。
ロクの鋭い打撃を、シャンマオは後ろに一歩下がってやり過ごす。同時に、ふわり、と右足で弧を描いて横蹴りをはさむ。
その弧は、少年の首筋から心臓にかけてを袈裟斬りするはずだった。
しかし、少年の姿が消えた。
——またか。
少年の黒が視界の端でちらつく。確認せずに逆方向に転がって逃げる。肩に打撃らしき衝撃がかすめた。確かな恐怖を認識する。あれの直撃は、タダでは済まない。
シャンマオはすぐさま立ち上がって、再び対峙した。
その少年の名は、ロクという。
ニィと同じ、日本の最高性能の強化個体。
第七世代品種改良素体だという。特化型ではなく汎用強化型らしい。ゆえに身体能力だけならこちらに分があるだろう。しかし、時々、戦いの途中で姿を消すことがある。厄介な現象だ。あれは何かの能力なのか。
「……よく、やる」
素直に驚いている。ついこの前に、どこぞでやり合った時よりも、明らかに厄介な存在になっている。あの時のぬるい色は、もうない。小さいが確かな炎がちらついている。
その黒には見覚えがあった。
それはもっと巨大な何かだった。目の前のそれは蝋燭の灯火くらいだが、あれは全てを飲み込む業炎だった。あの色のない男が発した殺意と、この少年がまとい出した色はよく似ていた。
「怒っているのか? 坊や」
少年の黒はきらめいている。
男前が上がったな、とシャンマオは思う。少年の黒は、純粋に美しい。あの色のない男と違って、炎が小さいだけあって鑑賞する余裕がある。
「むしろ私は優しかっただろ。殺さずの腕一本だ」
構えを整える。黒の発火に備える。
少年との間合いは五歩先。この遠い間合いなら、色を見てからの対応は容易だ。どんな攻撃にも、カウンターを合わせてみせる。
「もしかして……あの鬼子が好きだった?」
安い挑発。
黒がパッと光る。
来る。
少年は……
馬鹿な!
消えていた。
五歩もある遠間で、消えることができるのか!
次の瞬間、視界の右端を黒が焼く。
やみくもに両腕で全身を守る。
真っ直ぐ水平に貫いてくる拳の衝撃に体が浮きあがる。わざと踏ん張らずに真横に吹き飛ばされる。受け身、起き上がって備える。
追撃の前蹴りが、迫る。
それを震脚で合わせて踏みつぶす。
そのまま肘打ちを下からかち上げて、少年の顎を跳ね上げる。自分でも惚れ惚れするような完璧なカウンター。
しかし、黒は燃えている。
頭を跳ね上げられながら、少年は構わずその長い手で横撃を繰り出した。
今度は、肩を入れてそれを受ける。衝撃が全身に叩き、体が回る。宙でバランスを取って、辛うじて着地した。
「無茶苦茶をやる」と悪態が出てくる。
少年はよろめきながらも立っている。
その美しかった顔はすでに血でぐちゃぐちゃだ。鼻血を垂れ流して、呼吸の合間に覗く口の中も赤い。殴打を重ねられた目の周辺は紫色にむくみ出している。
明らかにこちらよりもダメージは大きい。少年の攻撃のほとんどが、こちらの攻撃を受けながらの捨て身だ。防御を度外視したねじ込むような殴打。
顔に似合わず、強引なやつだ。しかし、このまま続ければ、勝つのは確実にこちらのはずだ。
それでも少年は立っている。
——もしかしたら、
本当にこの少年は、あの鬼子の女が好きなのかも知れない。
少年の黒は徐々に大きくなっている。シャンマオは、少しだけ申し訳ない気持ちにもなった。状況を打破するために、あの女を少しなぶりすぎた。結局、少年を怒らせすぎて、事態をより悪化させてしまった。
「そろそろ、終わらせるか」
一歩を前に置く。
さすがに時間をかけすぎた。女の子の前で必死になる少年が、提案を嫌がるのであればしょうがない。さっさと片づけて、館内のどこかにいる総書記を暗殺し、日本の首相に接触しなければならない。
加減はもう止めだ。
殺してしまうかもしれない。この美しい黒が消えてしまうのは、少しだけ惜しい気がする。でも、まだ自分の奥義を見せていない。
膝をゆるめ、重心を前に傾ける。
その時、
「ロク!」と声がして、扉が開いた。
シャンマオはそちらを見て、恐怖した。
あの男がそこにいた。
色のない男。
男は部屋の中に視線を走らせた。
壁に叩きつけられたテーブル。壊れたドローン。部屋には顔面を血だらけにした少年。ぐちゃぐちゃになった腕を垂らした鬼子の女。
そして……私を見る。
圧、を感じた。
体が反射して、壁の際まで飛びのいた。
男から業火があふれて部屋を埋め尽くす。すでに四方を炎に囲まれている。逃げ場なんてない。限界まで背中を壁につけて、炎から距離をとる。この黒炎に触れた時、私は死ぬ。失敗した。私は失敗していた。大馬鹿だ。この男がここにいるなんて……。
「君か?」
その優しげな声とは正反対に、殺意が周囲を狭める。もう後ろはない。逃げ道もない。目が焼ける。足が震えて床が滑る。殺される。私は、この男を怒らせたのだ。
その黒の範囲は制空圏だ。部屋中に広がるほどに広い。小柄なこの男は全てをつつみこむ。私の場所は、ここには……。
「父さん!」
男の歩みが止まった。
「ロク、」
男が少年のほうを振り返る。背を向けてなお、その色には微塵の隙もない。
「僕が……やります」
「ロク、大丈夫だよ。すぐに終わらせるから」
少年は男のほうに、ふらふらと歩いて近づく。男を見下ろしながら、少年は日本語で何か言っている。
「僕じゃ、不安ですか?」
「ロク、」
「僕では、勝てませんか?」
「でも、」と男がうめいた。「だって、怪我しているじゃないか。榊さんだって、」
「僕では、父さんの足下にも及びませんか」
周囲で燃えさかっていた黒炎が、ピタリ、と止まった。
「僕だって、守れる」
少年が男の側を通り過ぎて、こちらに近づいてくる。
その時、ふっ、と部屋中の黒が消え去った。
かわりに、ボッ、と少年の黒が大きく燃えた。
ちょうど、男の黒炎が少年に乗り移ったように見えた。少年は右半身に構える。血だらけの顔。真剣な瞳。美しく大きな黒い炎。それはより一層、強く燃えていた。
少年は口にたまった血を吐きながら、言い放つ。
「僕だって、誰かを守れるんだ」
◇
ロクは教わってきた全てをなぞっていた。
布津野が見せる技、稽古で体感する体の流れ、緩急のリズム、一瞬の呼吸。
そして、教えられてきたこと。
師、曰く。
言葉に頼らない、あるがままに、思考を消し、体に主導権を返す。
相手と一つに、和合。和合すれば簡単に殺せる。殺さなくても良くなる。
相手の呼吸と一つになる。
師、曰く。
ロクの気をもらって、ロクに返した。
ロクの攻撃するぞっていう感じが何となくする。
深呼吸。
深く息を吸うこと。
前には敵がいる。いや、多分、違う。絶対に、違う。そうじゃない。
父さんなら対峙した相手を敵とは思わない。確信。相手を敵と見なせば、和合は出来ない。和合が出来なければ、相手を殺せない。敵は、殺せない。
細く息を吐く。
後ろからも呼吸を感じる。父さんの呼吸。ナナの呼吸。首相の呼吸。そして、榊の呼吸。榊のは、痛みで細切れになっている。苦しそうなうめき声。彼女を守れなかった自分。ナナが心配そうな声で榊を呼びかけている。
息を止める。
今、自分を接点として、前と後ろがある。前には敵がいて、後ろには守りたい人がいる。
和合とは、呼吸を一つにすることだ。
全てを一つにする。接点となって、前も後ろも一つにする。
区別がなくなれば、そもそも対立など存在出来ない。対立するから抵抗される。簡単には殺せない。しかし、和合すれば簡単に殺せる。対立しないなら、抵抗もされない。もしかしたら、殺さなくても良いかもしれない。
目の前の呼吸。
シャンマオと呼ばれる女。片目だけが白い、背の高い女。その女の呼吸と自分の呼吸を同じにする。
吸って、吐く。
相手の気と合わせ、一つになり、もらって、かえす。
あわせて、もらって、かえす。
和合すれば、こいつを、簡単に、殺せる。
◇
シャンマオは困惑していた。
色の無い男の黒が、少年に乗り移ったはずだった。この瞳を焼くほどに、黒が燃えさかっていたはずだ。
それが、少年が構えた途端に、だんだんと消えていった。
消えていくのだ。
ついには、跡形もなく、色がなくなる。
やがて、まるで誕生日のキャンドルを吹き消すように、少年の体から色がなくなった。
ぬるい色もない。小さな黒炎もない。人なら誰しも持っているわずかな悪意すらその体には宿していない。
自分の目の前には、色の無くなった少年が立っている。
不可解。
危険。
あの男と同じだ。色を隠したのか? そんな事、出来るのか? 悪意もなく戦うのか。
だが。しかし。それでも。
私には、戦い以外に何もない。
奥の手はある。あの男にでもこれなら通じたかも知れない。
——半歩寸勁。
細く息を吐いて、シャンマオは重心を前に置く。
◇
ナナは目を見開いた。
よく目を凝らして、もう一度、ロクを見る。ロクは大きな女の人とにらみ合っている。不安定な色をした女の人だ。見る度に色あいを変わるが、その色はいつも薄い。この人はからっぽだ。でも、問題なのは彼女の色じゃない。
ロクの色だ。
あのロクの純粋な青が、何色にも染まらなかった蒼が変わっていた。
真っ黒に染まっていた。
それはよく知っている色。何度も思い返してなぞってきた色。
お父さんの色。
お父さんと初めて出会った日、嫌な人たちに囲まれたあの波止場で、お父さんは、そのマリモみたいな抹茶色を深めて黒になった。
優しい色。
底のない闇のように、深くて、優しい色。
近くに寄り添った榊が「ロク、」とうめく。
「大丈夫だよ。夜絵ちゃん」と言って、その肩をそっとなでる。
「ロクは絶対に、負けないよ」
だって、お父さんの色と一緒だから。
◇
ロクは、シャンマオと一つになっていた。
あわせて、もらい、かえす。
まるで呼吸のようなリズム。吸って、止めて、吐く。呼吸をするように一連の動きを自然となぞる。まずは、彼女の呼吸にあわせることからだ。
彼女の呼吸がはねた。
自分の呼吸も共振して、体が前に出る。
互いに半歩前へ。
彼女の拳が繰り出される直前、その呼吸のおこりに合わせて自分の手が出た。攻撃ではない。攻撃は今、必要ない。彼女を迎えるために手を前に差し出しただけ。
彼女の拳が攻撃になる前に、互いの手が触れて止まる。
あわせた。
目の前の顔が戸惑っている。打ち出しのはるかに手前、攻めの呼吸と同時の刹那、攻撃の意思が形成される直前で、彼女と僕は一つになった。
戸惑いの数瞬、
彼女の呼吸が今度は沈む。
互いに一つになっているから、より鮮明に呼吸が伝わってくる。絶対的な攻撃の意思。拒絶の意思。重力に引っ張られるような重心の落下。大地を揺るがす後ろ引き足の震脚。取り合った手が拳を作る。密接したこの状態からの至近撃。
「チャッ!」
イメージしたのは球体だ。
相手の力、呼吸、気、その全てもらう形。
今だから気がつくことがある。消える入り身とは、もらうことだ。
消える入り身は相手の攻撃に合わせて前に踏み込む。相手が体感する速度は相対速度だ。入り身の速度に相手の攻撃速度が合わさり、予測以上の速度を体感する。それが認識可能域を超えたとき、相手の視界から消えるのだ。
相手の速度をもらうこと、それが消える入り身ならば……。
これは、その単なる応用でしかない。
彼女の寸勁の爆発力が全身に伝わる。
イメージは球体。水で作られた球。
衝撃は受け止めることなく流動して自分は回る。くるり、ふわり、と。彼女と同じ速度で、寄り添うように。
寸勁を迎えた自分の腕は、水のように脱力している。
濡れた布のように吹き飛ばされる腕は、それでは彼女の手を離さない。体が回転して、そのまま彼女の後ろに回り込む。彼女の寸勁のエネルギーは腕を通して流動し、今、全て自分の体の中心に循環される。
これを、彼女にかえす。
自分の体は、らせんに流動している。まるで社交ダンスのように、両者は一体となって流れをつくる。あわせて、もらった。今度はそれを、かえす。
技の流れは、入り身投げの形に似ている。
自分を軸として彼女は下へ沈み、その反動で上へと昇る。
ふわり、
と、彼女が宙に舞う。宙で体は反転し、その足は天を向き、頭が地に落ちる。
——どう、かえす?
すでに和合している。十分にもらっている。簡単に殺せる。……殺さなくても良いかもしれない。
このまま頭を叩きつければ、殺せる。
抱きとめてやれば、死なない。
その選択は、僕にある。
すでに、和合した彼女の活殺は、中心となった自分に委ねられている。
和合する回転の中で、榊の呼吸を感じる。彼女の痛みを感じる。彼女を通して、その人生を滅茶苦茶にされた四十八人の呼吸を感じる。四十八人の呼吸の背後には、もっとたくさんの人の呼吸があったはずだ。
——殺す。
燃える殺意の中で、こちらを見ている父さんの呼吸を感じる。もし、父さんだったら……。
——もし、父さんだったら?
僕は……。
回転は収束する。
一つになった呼吸は、まだ二つにもどる。
僕の腕の中で、彼女の呼吸は僕の呼吸と交じり合って脈動していた。気がつけば、彼女の頭を両手ですくい上げて、僕は抱きしめるように床に座り込んでいた。
……殺せなかった。
「……なぜ」と彼女が言う。
なぜ……、彼女の疑問と自分の疑問が重なりあった。自分の行動の結果に対して、理由を探す。無意味。まるで、父さんのような意味不明の行動。でも、答えはすぐに見つかった。
「……父さんなら、」
大丈夫、中国語で言えば、父さんには分からないのだから。
「父さんなら、殺さないと思うから」
シャンマオは全てを諦めて、そのままロクの胸にもたれかかった。





