[3-30]嫌だ
「四罪は、無色化計画を全面的に支持する」
シャンマオのその声は、ロクにはずいぶんと遠くから聞こえた。
それは、言われてみれば想定されるべき提案だったかもしれない。中国で対立を深める派閥の片方が、隣国の支援を要求する。その見返りは無色化計画の全面的な賛同。それは非常に魅力的で、当然の外交カードだ。四罪はそれを誰よりも早く切り出した。
シャンマオの口は、まだ動いている。
「これは、四罪の総意だ」
どうやら、四罪とやらは統制された組織なのかもしれない。四罪は非公式の組織のはずだ。通常であれば、そういった裏組織を運営するのは非常に困難だ。日本の純人会は共有する感情や思想はあれども、分散し統制されてはいなかった。
「四罪は、無色化計画を全面的に支援する。並びに、四罪が進めてきた遺伝子強化技術についても、日本国に対して公開する用意がある。我々も遺伝子操作を推進してきた。今後、両国は連携を強め、人類の可能性を追求していくべきだ」
シャンマオの言葉には、国家と国家が交わす契約の様式がうかがえた。主語と目的語は明確だが、ある程度は解釈の余地を残した物言い。しかし、それでも今の日本が喉から手が出るほどに求めているものだ。
計画の成就には、絶対に必要なものだ。
「現在、我々は総書記派と対立関係にある。正式に日本国と協力関係を結べる状態にはない。しかし、その政権を奪取する日は近い。近いうちに政権転覆があるだろう。今後は、貴国と密接な連携を取りながら次期政権の運営に当たりたいと考えている」
シャンマオは息を吐いて、小さく吸う。
「ついては、四罪幹部との定期的な会合を求む。お返事を頂きたい」
シャンマオの朗読が終わった。
ロクの思考が滑り出す。
四罪からの協調の提案。無色化計画への全面的協力と、中国現政府の転覆計画。四罪幹部とのホットラインの設立。
もし、これが成れば日本は最適化合法化から初めての、同盟国を得ることになる。それは歴史的な転換期となるだろう。これまで遺伝子最適化は日本の暴走であり、世界的には犯罪行為とされてきた。それが同盟国を得ることで、一つの政治的思想として世界に提案されることになる。
それこそが、無色化計画の第一段階の目標だった。
ロクの口が開いて、シャンマオに問う。
「四罪の幹部とは?」
それが気になるところだ。どの程度の中国共産党の高官たちが名を連ねているのだろうか。法強によると軍部が中心となっているはずだ。その影響範囲によって、四罪による政権奪取の現実性をはかる事ができる。
「……四人の反骨」
シャンマオはそうつぶやいて続ける。
「四種の強化個体の頂点に立ち、それらを導く四人」
「四種の強化個体?」
「反応特化の驩兜。感覚特化の三苗、体力特化の鯀。頭脳特化の共工」
ロクはひそめた。驩兜、三苗、鯀、共工は中国神話に出てくる悪魔たちで、これらを総称して四罪と呼ぶ。名の由来はそれだろう。しかし、生み出した個体に対して悪魔と名付ける……。ロクはそこに違和感を覚えた。
「なぜ、四罪と名乗る?」
シャンマオは黙ったまま、目を細めた。
「……日本人がそう呼んだからだ」
「日本人?」
「お前たち日本人が作り、名付けた。お前たちは罪だと」
シャンマオの白い片目が鋭くロクを射貫いた。彼女はハッキリと言い放つ。
「四罪の起源は、戦後、中国で拘束された旧日本軍の研究者たちだ」
「なんだと」
ロクの言葉にシャンマオは目を閉じた。
「彼らは中国共産党の軍事研究を推進した。やがて先端戦術検討委員会と変え、遺伝子強化技術を開発し、四つの特化個体を産み出し、私たちを悪魔と呼んだ」
そして、それが政治に対して影響力を持つようになり、中国政府を二分する要因になっている。
「法強上将は、初期の共工型だ」
「なっ……」
「初めは駐日工作員だった。専門は技術盗聴。大学の留学生として研究施設に入り込み、軍事技術を中心に四罪に情報を提供していた。その後、中国軍部への内部工作を担当することになり、最終的には艦隊司令にまで登りつめた」
法強は若い頃は日本に留学し、軍部で異例の昇進を遂げた。それが四罪による諜報工作によるものだとしたら、法強の異様な経歴も整合する。
「上将のような例は他にもある。四罪の個体は中国中枢のあらゆる場所に潜伏している。我々はやがて中国政府を主導するだろう。そして、日本政府との交渉に応じる用意がある」
さあ、とシャンマオがロクに問いかける。
「以上で我々のメッセージは終わりだ。これを日本国首相に伝え、政府としての回答を頂きたい」
「……」
ロクの思考は走る。
早急に、宇津々首相に伝え、顧問委員会で協議すべきだ。
確認する事は大量にある。四罪の実体、四つの強化個体、法強とシャンマオへの尋問。二人をナナの監視下におく必要、外には驩兜兵の遺体もある。解剖して生体調査。中国での政権交代の可能性を再評価……。
「ロク」
と、背後から少女のおびえた声がした。
その声に意識が引っ張られて、思考に置き去りにされてしまう。
そこには、榊がいた。
女の子だ。
失われた左腕。小さな体。栄養失調による発育不全。いつも強気で毅然としている、僕よりも一歳年下の、僕が見殺しにしようとした……。
その瞳が不安そうにこちらを見ている。
思考は遠くに行ってしまって、消え去ってしまう。
……気持ち悪い。
吐き気と、
めまい。
ああ、僕は、
こんな自分が、大っ嫌いだ。
「……嫌だ」
と、ロクの口から何かがこぼれた。吐きそうなくらい、自分のことが嫌なんだ。
「嫌だ」
もう一度、言う。
「絶対に……嫌だ」
自分の言葉に、自分の全身が震えている。なんて言葉だろう。そこには合理性はない。理由もロジックもない。でも、自分の重心の位置はここだ。ここから動いてはダメだ。
「なん、だと?」
シャンマオは眉間をしかめる。
「我々が要望しているのは取り次ぎだ。宇津々首相に伝えてくれたら良い」
「伝えるつもりはない。必要もない」
「……お前の意見など、」
「あり得ない」
ロクはシャンマオを睨みつける。
「みんなを苦しめたお前たちなど、あり得ない!」
ロクのその断言に、シャンマオは眉を跳ね上げて、声を絞り出す。
「もう一度、言うぞ。我々は、」
「くどい」
と、ロクはそれを遮ってはねのけた。
シャンマオの目が閉じられた。彼女の口がわずかに動く。
「この、餓鬼が」と小さな悪態がこぼれたとき、
突然、シャンマオが動いた。
その動きを追いかけて、二体のドローンが発砲する。
シャンマオは身をひねり、近くのテーブルをまるでサッカーボールのように蹴り飛ばして、左側のドローンにぶつける。ドローンは吹き飛ばされ、壁に激突して動かなくなった。
残ったドローンの銃口がシャンマオを追いかける。
シャンマオは上に飛んで体をひねった。
そのままの宙返りで、天井を足で蹴り急降下する。
その急な変化に銃口は対応できなかった。連射する銃弾は一発もあたらない。着地と同時の踵落としが、ドローンを真下に叩きつけて粉砕した。
「ロク!」と榊が叫ぶ。
「下がってろ!」
ロクは前に出た。
シャンマオはゆっくりと立ち上がっている。破れた大きな窓を背にして、辺りには破壊されたドローンが散らばっている。ドローンの動体予測射撃すら間に合わなかった。
彼女は三苗と鯀のハイブリッド。四罪最強の暗殺者。
その白い左目がロクを見据える。
「そんなぬるい色で、」
ロクは右半身に構えた。目の前から殺意がぶつかってくる。背中には榊の呼吸を感じる。
「感情がしゃべるな!」
シャンマオが疾る。
その瞬歩と連撃に、ロクは合わせた。
うねりあがる奔流のような豪腕。
左右に散らす連撃。
それを捌いた時、ロクの足下にシャンマオの震脚が踏み下ろされた。
「がぁ」
ほぼ同時に繰り出された崩拳を胴に受けた。ロクは後ろに吹き飛ばされる。そのまま、受け身と取れずに一回転して壁に衝突する。
「ロク!」と榊が駆け寄る。
ロクは朦朧とする視界を振り払いながら、見下ろしてくるシャンマオを睨みつける。
強い。
個体寿命を削ってまで高めた運動能力に、こちらの殺意を見る眼。孤児院の屋上での戦いでは、彼女は本気ではなかった。
「その程度か?」
こちらに近づいてくる。
「お前など造作もないが、賢しいお前は打算している」
「かっ、はぁ……あぁ」
呼吸が乱れている。拳を腹部に打ち込まれた。ロクは、激痛を腹に抱えてのたうち回る。横隔膜が痙攣して呼吸を拒否している。速すぎる。見えなかった。
「不愉快な餓鬼。そんなぬるい、汚物のような色で生死を語る」
立て、立てよ! 足に力をこめろ。動け。動けよ。
「分かったような口で、生かされているだけなのに、まるで生きているかのようにしゃべる。汚れを知らない汚ない餓鬼が、本当に良くしゃべる!」
くそ、動けよ!
その時、榊が立ち上がった。
ロクの目の前で、シャンマオに立ちはだかるように、彼女は構えた。
「……鬼子の副長か」
シャンマオがあざ笑うのを、榊は睨み返した。
「女が、」と榊は小さく息を吐く。「餓鬼だの、汚物だの、ウンコだのと喚くな。女子力が下がるぞ」
「は?」
「知らないか? 当然だな。私も最近覚えた。女の戦闘力のことだ」
シャンマオが口の端を歪めた。
「榊……」
と、ロクは這いつくばりながら、榊に手を伸ばした。
「らしくないな。ロク。でも、まあ、」
榊は横顔だけを向けて、ロクにこぼす。
「……ありがとな」
榊は沈み込むように前に出た。
後ろ足をたたみこんで鋭く切り下ろすローキック。
シャンマオが一歩引いてやり過ごしたのを、体を開くような打ち下ろしの手刀、突き上げの肘打ち、後ろ足を引きつけながらの前蹴り、その三連撃でシャンマオを一歩二歩と後ろに退けた。
とん、と後ろに跳んだシャンマオは口の端を歪めて嗤う。
「まさか、勝てるとでも?」
「女子力なら圧勝だ」
「……どうやら、腕一本では足りぬらしい」
シャンマオの体がふわりと跳躍した。
その跳躍には踏み込みが一切なかった。体を沈ませることなく、足が伸びたまま飛び上がる。
そのままの滑空で、榊の顔面をなで蹴りにした。
榊は反射的に前に転がってそれをやり過ごした。
すぐに振り返ると、横殴りが顔面を襲う。脇を締めた右腕で受け止める。
打撃の衝撃で体が浮き上がり、横に吹き飛ばされる。
——このゴリラ女が!
着地と同時にまた打撃、かろうじて受け止め、また吹き飛ばされる。
それを続けて三度。
まるでピンポン球のように右へ左へとはじき飛ばされていく。その受けに使った腕から、感覚が徐々に失われていった。
榊は、自分がシャンマオに遠く及ばないことを熟知していた。
ゆえに狙っているのは時間稼ぎだった。時間さえ稼げば、ここに駆けつけてくるはずだ。こんなゴリラなど相手にもならない。あの人がここに来る。その時間さえ稼げれば、後は何も問題にならない。
六度目の打撃を、もうボロボロになった右腕で迎える。
しかし、覚悟した衝撃は来なかった。シャンマオの手が、榊の右腕を掴んでいた。
「片腕だけで、よくやる」
シャンマオはそのまま榊の右腕をぐいっと引き、伸びきった関節の裏側を膝で蹴り上げた。
ボグゥ
と、聞き慣れない音がして。榊が絶叫する。
シャンマオが榊の腕から手を離す。彼女の腕は、千切られて皮一枚でつながる木の枝のように、ぶらん、と肩から垂れ下がっている。その手の平は、あらぬ方向にねじ曲がっていた。
「榊!」と、ロクが叫ぶ。
「これで少しは、」とシャンマオがロクの方を振り向く。
すでにロクの体は迅っていた。
止まった呼吸など問題にならなかった。酸欠のはずの体はかまわず疾走していた。
シャンマオは目を見開く。
少年には、黒が宿っていた。
振り上げられた少年の拳に、反射的にカウンターを合わせる。
完全なタイミングで、拳が少年の顔面を抉る。
しかし、
それでも、少年の体は止まらなかった。
堅い崩拳を、やわらかいはずの顔面で押し込んで、振り上げた拳をそのままうち下ろす。
少年の黒が、シャンマオの視界を覆い隠した。
拳はシャンマオのこめかみを振り抜いて、シャンマオの世界を反転させた。
シャンマオは頭から吹き飛ばされて、向こうに転がる。
ロクもその場でよろめいて膝をつき「榊! 榊!」と鼻血をまき散らしながら呼びかける。
「騒ぐな、あっ……ぐっ」
榊は壁にもたれかかり、うめき声をかみ殺してた。額には玉のような汗が噴き出している。その右腕はめちゃくちゃになってしおれて、白い骨が突き出ているのが見えた。
ロクの冷静な部分が判断する。開放性の完全骨折。後遺症の可能性。もしかしたら、彼女の腕は、もう二度と……。
ロクは振り返る。
そこには、すでに立ち上がったシャンマオが凄まじい形相でロクを睨んでいた。打ち込んだこめかみから血を流しながら、彼女は言う。
「腕ごときで、よくわめく」
「貴様ッ」
ロクはシャンマオを睨んで叫んだ。
「殺す!」
シャンマオは、ロクが燃やした黒を見ていた。





