[3-25]師
「父さん」と口をついて後、ロクは黙った。
なんだい、と自宅のソファで寝そべっていた自分の父親は、相変わらず考えの薄そうな表情でこちらを見る。
ロクは言葉に迷った。
彼は首脳会議の準備に、ここ最近は多忙を極めていた。無色化計画の宣言、法強の暗殺への対応、そして土壇場での会場移動だ。
やることは大量にあったのだが、結局のところ、それは今日で全て片付いてしまった。無理な計画など初めから建ててはいない。ギリギリで間に合うと見立てた結果は、開催の前日午後六時には整然と完了してしまった。
「どうだい? 会議の準備は」
父親のその問いかけを無視して、ロクはその目の前に立つ。
ここに至るまでには、いくつかの不測の事態があった。四罪の孤児院襲撃に、黒条会の事件への関与。
黒条百合華は一ヶ月以上前からシャンマオと接触し、彼女から信頼を得ていたようだ。シャンマオは襲撃事件以降、黒条会の用意した隠れ家に戻り活動を再開している。彼女に仕込んだ発信器と、黒条百合華からの情報から、次の襲撃については把握できた。それゆえに、直前での会場変更だ。
不測の事態はもう一つある。妙な事だった。榊たちからの協力の申し出があったことだ。彼女が言うにはニィからの指示があったらしい。四罪の遺伝強化兵に対抗することが出来るのは彼らだけだと言う。
「父さんですか?」
ん? と布津野はロクの問いかけに首を傾げた。
「ニィに言ったのは」
「ニィ君?」
「榊が会議の護衛に協力すると言ってきたのです」
「……ああ」
と、布津野は眉間を開き手を叩いた。ロクはため息をつく。
「やっぱりですか」
「いや、僕と言うわけではないのだけど、」
「じゃあ、誰なんですか?」
父親は頬を掻いて、目をそらした。
「いや、ニィ君には、榊さんと話して欲しいと言ったんだけどね、」
ロクは無言で続きを促した。
「そしたら、ニィ君がさ、ロクに協力してやれ、って言ったんだよ」
「ニィが?」
「うん、榊さんに」
ロクは眉を寄せて口を歪めた。あのニィが僕に、協力を? それはどういうことだろう。何か理解出来ない気味の悪さがある。
「ニィは、」
あいつは僕を恨んでいるはずだった。
一年半前にこの拳を交わして殺し合った。寸止めの試合ではない。拳をとがらせ眼窩を砕き、踵で踏み抜いて骨を砕き、間接を歪めて筋を断つ。そんな実戦を繰り広げた。目の前の互いを否定し合う。命の削り合い。互いに消えていなくなることを望んだ関係だった。
悪かったのは、僕だ。
と、今は思っている。でも、ニィから手を差し伸べてもらうつもりもない。それは何となく、とても嫌だった。あいつが守ろうとしたもの。それが僕には見えていなかった。そして、自分が殺そうとした彼らから、協力の申し出があった。僕は……。
「ニィは……」と息をつく。
目の前には、あの時、全てを救った父親がいる。
「ニィ君は、元気だよ」
「そう、ですか」
「自分を探しているんだって」
「はぁ」
ニィは自分を探している……。あいつの言うことも抽象的で要領を得ない。
「偽善者になりたいそうだよ」
相変わらず、訳が分からない。
「ロクは何になりたい?」
僕は……。この人は本当に脈略のない事をよく口にする。
「……父さん、今から、稽古をつけてください」
ん? と、父親が首を傾げる。
◇
自宅の地下室は、二十畳ばかりの稽古場になっている。稽古用の柔らかい畳を敷き詰めた空間だ。ロクは小さな頃からそこで、布津野から合気の手ほどきをうけていた。
ここも狭くなったな、とロクは感慨に耽っていた。
自分がまだ小さかった頃。父さんよりも身長が低かった頃だ。ここはとても広く感じられた。今では手狭に感じる。あの父さんを相手に稽古するには、間が足りないと思う。特に、地下室にあるせいで天井が低い。全力で飛び上がったら、頭を打ってしまうかもしれない。
「大丈夫なのかい?」
と、父さんが腰にはいた袴を手で払う。
「明日は大切な会議なんだろう?」
「大丈夫ですよ。やることはやりました」
ロクは、両足を大きく開いて足をぐいっと伸ばす。筋肉がやわらかく伸びてしなる。柔軟体操をしながら、自分の袴の裾を整えた。多分、今日の稽古は大切なものになる。分からなかったことが、分かるかもしれない。遠くにあるものの距離に検討がつくかもしれない。
「ねぇ、父さん。お願いがあるんです」
つとめて、いつも通りの声で言う。
「なんだい。珍しいね」
いつもの曖昧な笑い。
「僕と、仕合をしてください」
曖昧な笑いが、すこし崩れて呆然に変わる。
「しあい?」
「全力でお願いします」
右の半身を切って、父親を正面に見据える。
気をぶつける。
父さんは構えず、立ち尽くしていた。
「ロク、」
「お願いです」
「でも、」
危ないよ、と言いそうになる父親を遮る。
「僕は強くなりましたか」
「もちろんだよ」
「だったら、」
と、ロクは言い置いて、ゆっくりと息を吸って吐く。
「だったら、僕と戦ってください」
「ロク……」
「手加減とか、いい加減とか、嫌ですから」
ロクは前に構えた自分の手が震えていることに気がついた。鼓膜の奥で、自分の声が震えている。
もしも、父さんが本気で、僕と、戦ったら。
「本気で、お願いします」
その絞り出した声は、
父親を動かしたのかもしれない。
ゆっくりと、目の前の師が腕をほどいて、前後に足を置いて、構えを作っていく。
右半身。
それは、自分と同じ構え。自分はそれを完全に模してきた。それを幾度も見て、相対し、なぞり、整え、盗んだ。それでもなお、目の前のその立ち姿は、何かが満ちるように美しい。
気か。
合気の技を解釈するときに、『気』と呼ばれる概念の実在を信じたことは一度もない。そのような思考停止的な解釈で、技への追求を誤魔化す気など毛頭もない。しかし、父親がまとう気配はなんだ。五感では解釈できない圧がある。
「ロク、」
と声がする。
「いくよ」
前か後ろか、右か左か、方向は分からないが、師はすでに動いていた。
ロクの体はそれに反応して、迅っていた。
動かしたのは右の前に置いていた拳。あの宮本さんさえ避けられなかった高速の直突き。それが繰り出されるよりも、はるか前に、
師の二本指が、自分の頸動脈を押さえていた。
!
すでに、決着がついていた。
二本指が頸動脈を圧迫している。首筋の自分自身の脈動が、どくん、どくん、と全身を震わせる。その鼓動が自分の窮地を告げている。その動脈はすでに止められていた。
何も見えなかった。
気がついた時には、父さんは動き終わっていた。
自分は死んでいた。
それはもはや技などではない。初動を隠したり、足を送ったり、ましてやフェイントによる視線誘導のような、そういった仕込みのある工夫ではない。
まるで時を止められてしまったような非連続。
過程を省略され、
殺されたという事実だけが、
目の前にある。
「ロク、」
と、曖昧な笑い。
「本気は危ないよ」
頸動脈の圧迫が開放されて、止まっていた時間が動き出す。時間は午後八時ごろ、冬が終わっていない季節の地下の稽古場は、底冷えしていた。だが、自分の体が凍てついているのは、気温だけが原因ではない。
「……何ですか?」
無駄だと分かりながらも、聞かずにはいられない。
「何なのですか、今のは?」
と重ねてみる。
「もらった」
と、師は答える。
「ロクの呼吸にあわせて、もらって、かえした」
いつも通り、意味は分からない父親の言葉。でも、確かな結果だけが目の前にあった。それを、意味不明だと断じてしまうほど、自分はもう子どもではない。
「呼吸とは、何ですか?」
さあ、なんだろう? と師ははぐらかす。はぐらかされるのは嫌だった。急いで問い詰める。
「……あわせて、もらって、かえす。呼吸とは何ですか?」
「う〜ん」
「父さんの、感想でも構いません。教えてください」
頭を下げて教えを請うことに、抵抗を感じなくなったのはいつからだろう。年齢を重ねることは成長することであり、同時に、自分には出来ないことを見つけることでもある。そんな皮肉を納得できるようになったのは、いつからだろう。
「間違ってても、大丈夫?」
「ええ」
僕だって、取り返しがつかないくらい間違っていたのだから。
「……言葉に頼らないこと」
と師は言った。
「あるがままにあること……」
師は歩く。その歩く姿さえ、武の神髄が凝縮されている。その歩法の妙に気がついたのは、ごく最近だった。
「自分を取り戻すこと、大切なものを頭から体に返すこと、」
師の歩みが止まり、こちらを見据える。その威容には吸い込まれるような気配があった。
「自分を広げること、相手と一つになること」
すなわち、
「和合、ですか」
「和合すれば、殺すのは簡単」
もしかしたら、と言って父さんは顔を上げる。
「殺さなくてもよいかもしれない」
敵を殺すことの上位概念として、和合はある。
「合気とは、」
師は笑う。
「きっと、言葉では説明できないものなんだ」
……結局のところ、
師は情けない父さんで、大事なところで説明を諦めてしまう。そんな拍子の抜けた回答は、いつも物足りなくて、おあずけをくらっている。結局のところ、この人の次元に僕は追いつけていないのだ。
「父さん、」
と口に出した後は、すらすらと続きが出てきた。
「お願いがあるのです」
「何だい?」
父さんは嬉しそうに顔を崩した。
「明日の会議では、ナナは首相と随伴します」
「ああ」
「ナナと首相を守って欲しいのです」
四罪の目標は法強と総書記であろうが、だからといって首相の警護をゆるめるわけにはいかない。万全を期すためには、ナナと首相の身を絶対的に保証しうる対策が必要になる。
それに、父さんは首相のお気に入りだ。
「四罪の襲撃がナナと首相に及ぶ可能性もあります。お願いできませんか」
「うん、分かった」
父さんは大きく頷いた。
「珍しいロクのお願いだからね。頑張るよ」
「お願いします」
「任せてよ」
父さんは、本当に嬉しそうに笑っていた。





