[3-23]老ね酒
布津野忠人が久しぶりに自宅に帰ったのを、冴子は玄関で笑って出迎えた。
「ただいま」
「お帰りなさい。お久しぶりですね」
「ええ、三日くらい?」と布津野が首をひねる。
「はい、ちょうど三日です」と冴子は頷いた。
冴子はベージュのタイトなTシャツにジーンズを履いていた。その上から茶色のエプロンを首からかけて腰に巻いている。ラフだが機能的で、清潔感のある服装。
冴子さんらしいな、と布津野は思う。
冴子は着飾ることがほとんどなかった。その理由は、彼女が十分に美しいからなのかもしれない。必要以上にこだわる理由がないから、無頓着にもなる。昔から彼女はシンプルで機能的な服装を好んだ。それは百合華とは対照的でもあった。
布津野が靴を脱ぎ揃えて、玄関に上がると、ふいに冴子との距離が近くなった。
すん、と良い匂いがする。
その匂いには、冴子自身のもののほかに、台所からの美味しそうな匂いも混じっている。
「今日は、なんですか?」
布津野は目を輝かせて、冴子を見た。
冴子は、そんな布津野の反応が好きだった。
「簡単なものですよ」
冴子はそう言って、布津野の袖を指先でつまむと、引っ張りながらリビングへと歩き出した。布津野は慌てて冴子を追いかける。つままれた袖から、彼女の細指が離れてしまわないように、気をつけながら。
「ゆず味噌を使った昆布だしの田楽煮、そら豆を塩ゆでしたもの、昆布を卵で巻いただし巻きに、それと、前に教えてもらったお店のポテトサラダです」
「おお」
布津野は鼻をひくひくさせる。色んなものが詰まった匂いの中に、茹で上げたジャガイモの芯の強い匂いが確かに混じっている。以前、冴子さんと宮本さんの行きつけの居酒屋に行ったことがある。そこで食べたポテトサラダに冴子さんは興味津々だったのだ。
「今日は、ロクとナナもいませんし、良い日本酒が手に入りました。前から気になっていた蔵の一本です。純米ですが食事用にはぴったりです。料理はお酒の味を邪魔しないように、素材の味が活かせるものにしました」
なんだか聞いているだけで、すでに美味しい。
冴子さんは料理が上手い。もともと多才な人だが、料理には特に熱心だ。素材やレシピにお酒まで、随分とこだわって追求してしまっている。一度はまってしまうと、とことんやり込んでしまうのはロクとそっくりだ。
以前までは、政府の仕事で十分な時間が取れずにいたが、今では仕事のほとんどをロクたちに引き継いだらしく、プライベートを満喫できるようになったらしい。冴子さんが改造した台所は、すでにちょっとした小料理店の厨房のような設備を取り揃えている。
おかげさまで、布津野は夜に飲みに行く機会がなくなってしまった。家に帰れば極上の出来たてが待っているのだ。あえて、外食をするモチベーションなんてない。せいぜいが、宮本さんに誘われて例の居酒屋にたまに顔を出すくらいだ。
「ロクとナナは忙しいみたいだね」
布津野は上着をクローゼットにしまいこむと、台所に向かう。
「どうやら、計画も大きな局面を迎えたようです。ロクはしばらく内閣府に常駐でしょうし、それと連携するナナも大変でしょう」
冴子が台所から小皿を布津野に差し出した。
布津野はそれを受け取りながら、他にも箸やグラスなどをテーブルに並べていく。そうか、今日は二人だけだから、二つずつでいいんだ。
「寂しいね」
「会議はあと数日後です。すぐに終わりますよ」
「いつも賑やかだったから」
「ええ、作る量が少ないと、ちょっと物足りないです」
冴子は酒瓶を抱えてテーブルにやってくる。
皿から出来たての湯気がのぼって、匂いが柔らかく目にしみる。田楽、そら豆、だし巻き、それとポテトサラダ。美味しいお酒がメインならちょうど良い感じだ。冴子さんは、簡単な物ですが、と言っていたが、完璧主義の彼女は油断できない。
今日は簡単なもの、だと彼女が言ったのは嘘だった。出された料理は十分に手が込んでいる様子だ。こういう事については、彼女は必要以上の過剰に手間をかける。
大きなテーブルの角で、二人は近くに座る。
冴子が酒瓶の栓を開けて、白い髪をかきあげて瓶の口に鼻を寄せる。すん、と鼻を鳴らして匂いを確かめた。その赤い瞳が細められて、唇が小さく引き上がって笑みを作る。どうやら、彼女の思い通りにすべてが整ったらしい。
冴子の細い手が酒瓶を掲げて、瓶の口を布津野に向けた。
布津野は両手でグラスを差し出した。なんだか恐れ多い気がした。彼女が完璧に整えた晩餐に、土足で迷い込んだ礼儀知らずの田舎者のような、そんな気持ちになる。妙に肩身が狭く感じるが、この晩餐は僕のためだけに、彼女が用意したものだ。
とくとく、とグラスに注がれる日本酒は、少しだけ黄色に濁っていた。
「一年だけ寝かせた老ね酒です。香りが強いですから、口の中で回して楽しんでみてください」
冴子さんのグラスにも日本酒を注ごう、と手を伸ばしたが、彼女は酒瓶を胸に抱えるようにして離さなかった。赤い瞳がきらめいて、まずは飲んでみてください、と促している。
言われるがままに、恐る恐るグラスを口に近づけた。
途端に香りが顔面に飛び込んでくる。若々しい紹興酒のような、熟成して一番甘くなった桃のような、強くてはなやいだ芳香。
覚悟を決めて、口に含む。
鼻孔を抜けるような香りが走る。香りが口の中で甘い味に変わっていくような錯覚。そんな経験したことのない美味しさが口の中から鼻に抜けていく。
「……すごい」と布津野は目を丸くした。
冴子はそんな布津野の反応が、大好きだった。
冴子は胸に抱えた酒瓶を布津野に手渡すと、今度は自分のグラスを差し出した。
布津野は慌ててグラスに日本酒を注ぐ。
冴子がグラスに口をつける。はじめに唇を軽く濡らして香りを楽しんだ後、一口だけ口に含んで、ゆっくりと飲み干した。
「美味しい」と冴子はつぶやいて小さく鼻を鳴らした。
思い通りの食卓が出来た時に彼女がよくする得意げな仕草。その瞬間だけ、美しいはずの彼女は、妙に可愛らしく見える。
布津野は田楽を箸で切り分けながら、そんな彼女の様子を横目で盗み見ていた。冴子の期待に満ちた視線が、自分の手元に注がれているのが分かる。どうやら、この田楽にも工夫や仕掛けがあるらしい。
確か、ゆず味噌を使った田楽らしい。ゆず味噌ってなんだ? もしかしたら冴子さんが自分で自作した味噌かもしれない。色からして白味噌を使っていることくらいしか分からない。
布津野は息を呑んだ。先の日本酒の芳香はまだ口の中に残っていた。覚悟を決めて、ゆず味噌なるものを田楽に乗せて、一口で口に放り込む。
口の中の酒の芳香に、ゆずの柑橘香が混ざる。それは、老成した日本酒のあくのある香りを若返らせる。
その驚きに、柔らかく煮込まれた大根が染み渡っていく。甘い。大根って甘かったんだ。初めて気がついた。
ほう、と布津野は息を吹いた。何度も首を振っては、よく咀嚼して味わった。
ふふ、と冴子も笑って田楽を口に運ぶ。布津野の真似をするように、彼女も、ほぅ、と息を吹く。
……しばらくの間、
二人はそうやって、極上の食卓を他愛のない会話で楽しんでいた。
◇
「先日、ロクと黒条会に行かれたとか、」
冴子がそう尋ねたのは、ひとしきり飲み食いを終えて心が落ち着いた時だった。
「……ああ、うん」
布津野は頬を掻いて口を歪めた。何だろう。ちょっと罪悪感がある。やましい事はしていないのだけど……。
「お陰様で上手くいったようですね」
「うん?」
「ロクが言ってましたよ。黒条百合華は忠人さん相手なら口が軽くなる、とか」
「ええ、そうみたいですね」
うん。やっぱりダメだな、全然ダメだ。百合華さんとは食事の約束をしてしまったけど、何とかしてお断りできないだろうか。
歪んだ口元を指でかいて、布津野は首をかしげた。
「僕には、イマイチ理解出来なかったのですけど、今はどんな感じなんですか?」
先日の百合華さんとの話は上手くいったのだろうか。ロクは何か情報を聞き出そうとしていたが、百合華さんは不機嫌だったのか、なかなか教えてくれなかった。
結局、ロクの代わりに自分が質問する形で、百合華さんは色々と答えてくれたのだが、自分にはよく分からなかった。
「数日後の主要国首脳会議では、各国の首脳が来日します。今回の会議には中国政府も招かれており、そのトップである総書記は明日に前入りする予定です」
冴子はグラスを回しながら、酒の香りを楽しみながら言う。
「この会議で、宇津々首相は無色化計画を公式に宣言し、各国に受け入れの是非を問うつもりです。この状況に対して、四罪は法強暗殺のための部隊に派遣してきました。法強は軍部では珍しく総書記派の筆頭と見なされていたようです。この会議の裏で、中国政府の権力闘争が繰り広げられているのです」
どの国でもこのような厄介事には事欠きませんね、と呟いて冴子は酒で口をぬらす。
「黒条百合華は、この四罪の部隊と随分と前から接触し監視していたようですね。表向きは協力者を装いながら、かなり深いところまで探っていました」
布津野は、ごくり、と酒を飲んだ。相変わらずとんでもない人たちだ。色んな予測をして、前もってちゃんと用意しているのだ。どんな頭の構造をしているのだろう。
「それで、その、なに? スーザイ?」
「ええ、四罪。四つの罪と書いて中国語でスーザイと読みます。中国神話の悪魔から由来しているのでしょう。中国の遺伝子実験を先導し、鬼子実験部隊を設立した機関のようですね」
「……そう」
布津野はグラスを置いた。空になったそれは、向こうの景色の輪郭を歪めている。あの子たちを苦しめた組織は四罪というらしい。心の奥で痛みだした嫌悪を、酒と一緒に紛れさせていく。それが一番だ。
でも、そうやって紛らわせたあの子たちの気持ちはどこに行けばいいのだろう。
「あ、」と布津野は思い出した。「そのスーザイの暗殺者なんだけど」
「ええ」
「ほら、目が白い人がいたんだ」
「聞いてます。シャンマオと呼ばれる人です。悪意を見ることのできると」
「うん」と言って布津野は頭を掻いた。「その人、逃がしちゃったんだよね」
聞いたところによると彼女は有名な暗殺者らしい。彼女が自由ならば、また法強さんを殺しに来るかも知れない。ロクに彼女を助けるようにお願いしたのは自分だ。致命打を与えたところで安心してしまった。
「ああ、ロクから聞いています。どうやら、ロクはわざと逃がしたようですね」
「そうなの?」
「ええ、彼女に発信器を仕込んで泳がしているようです。彼女を監視しながら相手の出方を見極めるそうです」
「へぇ」
「あれ以降、シャンマオは黒条会の用意した隠れ家に戻ったようです。彼女は、方々に出向いて活動しています。ロクが張り巡らした諜報網にいくつか本国との連絡の履歴がありました。これで、ある程度相手の動きを予測できるでしょう」
冴子はグラスを傾けて、酒を飲み干す。
「このような現状を鑑みて、ロクは会議の開催場所を東京から北陸に変更しました」
「え、どうして?」
布津野は頭をひねる。数日後の会議の開催場所を変更するなんて、きっと大変なことだ。参加者の予定も変わるだろうし、野党の人からは予算の無駄遣いだのと言われてしまいそうだ。
「人の少ないエリアのほうが、都心よりもずっと警護しやすいですからね。それに、四罪の暗殺が計画的だとしたら、直前での開催場所の変更に対応できないはずです。それに、北陸での会議開催はセカンドプランとして用意がありました。ですので、スムーズに移設できます」
どうやら、また色々と考えているようだ。
ここから先は、おそらく自分には全く理解できないだろう。そう、決めつけてしまって布津野はこれ以上の詳しいことを聞くのを止めた。その代わりに不思議に思ったことがあったので、それを質問することにした。
「中国でも遺伝子操作の研究をしていたのですか?」
「ええ、むしろ、あちらの方が歴史は長いくらいですよ」
へ〜、と布津野は事も無げに答える冴子の言葉を理解するのにしばらく時間を要した。
冴子の声が、その理解の間隙を埋めていく。
「日本政府がヒトゲノムの遺伝子最適化の実験を始める十年以上前から、中国では様々な実験が行われていました。日本も、当初はその実験データを参考にしていたくらいです。当時の日本は技術を盗む側でした」
「そうだったんですか?」
「ええ、今日の遺伝子最適化における技術格差は、日本が最適化を合法化してから急速に生じたものです。当初はそれほどの違いもなかったはずですよ」
「でも、ほら、確か日本の遺伝子最適化は首相の弟さんの研究が基盤になっているんですよね」
「ええ、宇津々左京教授の研究ですね。遺伝子最適化の第一人者です。未だに彼の基礎理論に基づいた研究が続けられてます。遺伝最適化における現代の巨人です」
「その人がいたのに、当時は日本と中国は同じくらいだったんですか」
冴子は食べ終わった皿を重ねながら答える。
「宇津々教授の研究は全て公開されましたから、それが日本と他国の技術格差にはなりません。教授の論文は図書館に行けば布津野さんでも閲覧できますよ」
読んでも分からないだろうなぁ、と布津野は肩をすくめる。
「じゃあ、どうして、日本だけが、こんなにも違ってしまったんだい?」
冴子は重ねた皿を持って立ち上がりながら、わずかに眉を下げた。
「一般的な歴史のカリキュラムで教えられる内容ですが、お忘れですか?」
「うん、すっかりとね」
布津野は頭を掻いて誤魔化した。子供の頃、学校の授業で確かに習ったかもしれない。でも、その時の自分は劣等感の塊で、色々と周りが見えていなかったし、授業には全然ついていけず、頭に入って残っているものなんてほとんどない。
冴子は少しだけ息を吐いた。
「まぁ、日本の成功要因については、いまだに諸説あり定説はありません。しかし、一般的には最適化の合法化、無料化、そして営利化禁止がその要因とされていますね」
「合法化と無料化と営利化禁止、ですか」
「ええ、最後の営利化の禁止については、それを成功の理由とするかどうかは意見が分かれますが、合法化と無料化については否定する説はほとんどありません。これにより、最適化は国民が平等に受けられる権利として広く普及したと言われています」
冴子はそのまま洗い場のほうに歩いていく。
布津野は、その国民の権利とやらを自分は享受できなかったのか、と思いながらも不思議と悪い感情がないのに気がついた。昔はあんなにも悩んだというのに……。もう三十五歳のいいおっさんなのだから、どうでも良くなったのかもしれない。でも、それだけじゃない気がする。
洗い場で手を動かしている冴子の後ろ姿を見る。普段ならここにロクもナナもいる。みんなで食べる美味しい食事は本当に楽しい。未調整でも構わなくなったのは、きっと、そんな彼らのお陰なんだと思う。
「冴子さん」
布津野は、その後ろ姿に声を投げかけてみた。
「なんですか?」
冴子は手を止めて振り返る。流しの水が、サーザーと鳴っている。どこかで、かちゃ、と皿が崩れた音がする。エプロン姿の彼女はわずかに微笑んでいた。
「ありがとう」と男は言った。
「なんですか、突然」と女は笑う。





