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[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:遺伝子コンプレックス)  作者: 舛本つたな
[第三部]僕は35歳、ロクはとても頑張っているから
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[3-15]雰囲気

 笑い声が遠くから聞こえて来る。

 子どもの笑い声だ。少し高めオクターブが、下の階からせせらいで鳴り響いてくる。

 法強はそれを聞きながら缶ビールを傾けた。口の中でビールを含んでゆっくりと回して喉を通す。やはり日本のビールはうまい。笑い声を聞きながらであればなおさらだろう。


「旨いな」法強は息を吐いた。

「旨いですね」布津野もビールを煽る。

「ああ」


 二人は布津野の部屋で酒を飲んでいた。

 椅子に向かい合って座り、思い思いに缶ビールを開けて飲む。色んなブランドの様々なビール。缶の色は銀色だったり金色だったり、苦味が強かったりスッキリしていたり、様々だった。

 二人はあまり喋らなかった。ともに、しゃべるのは好きなほうではない。人の話を聞くのを好み、率先して自分の意見を言うようなタイプではなかった。

 二人は子供達の笑い声が、ところどころから聞こえてくるのに耳を傾けながら酒を体に馴染ませる。互いに沈黙することは多かったが、気不味さはない。自然と今を楽しんでいる。


「この孤児院は、」と法強が口を開いた。

 ん、と布津野が首をかしげる。


 法強は改めて布津野を見た。本当に普通の男だ。三十を過ぎた、ありふれた中年の日本人。いや、今では彼のような未調整は珍しいのだから、ありふれた、というのはおかしいのかもしれない。


「……いい孤児院だな」


 ありがとうございます、と布津野が笑う。

 布津野は空になったビール缶をゴミ箱に入れながら、冷蔵庫に入れておいた次のビールを探しに立ち上がった。


「良い子たちばかりだから、自然と良い場所になりますね」

「ほう」

「優しい子たちばかりです。思いやりがあって、我慢強い。ロクとナナがここによく遊びにくるようになりました。今では随分と仲良くなってね」

「あの鬼子部隊の隊員を、優しい、とな」


 法強は目を閉じた。

 鬼子実験部隊は、中国人民解放軍の先端技術部門が管轄した特殊組織だ。黒い噂の絶えない組織で、祖国の陰部だ。対日本戦術開発を名目に誘拐した日本の子供を動物実験のようにすりつぶし、彼らは戦力分析と対抗策を模索していた。

 鬼子グイズとは蔑称だ。祖国では前大戦から続く反日感情から、日本人のことを日本鬼子と呼んでさげすんだ。この習慣は一部でまだ残っている。

 それを部隊名に冠して、非人道的な行為を正当化する小人しょうにんどもの意図が透けて見える。彼らこそがまさに鬼子だろう。対日戦略研究などともっともらしい理由を掲げても、子供を虐げる行為に価値などあるわけがない。


「鬼子部隊で行われていた悪行を、布津野さんはご存知か」

 法強の目が薄く開いた。

「……彼らが話してくれた事の範囲でなら」


 実験部隊内では子供たちに対する虐待が日常化していた。部隊内の負傷率や死亡率は異常に高い。訓練や実験とは名ばかりの様々な悪行が横行していたのだ。

 あの子たちが今、こうやって笑って生活しているのは、まさに奇跡だ。一般的に、戦争帰還兵の自殺率は高くなる。過酷な戦場にいて、なんらかの精神障害を疾患する可能性も高い。加えて、彼らは、明らかに一般的な戦場よりも過酷な状況に追い込まれ続けてきた。


「恨むか」

 布津野がビールを片手に椅子に戻って、腰掛ける。

「恨むって、誰をですか?」


 布津野のその疑問は、法強の意表をついた。法強は言葉に詰まった。


「……恨んでいないのか?」

 プシュ、と布津野は缶ビールの栓を開ける。

「恨む?」

「彼らを虐げた者たちに怒りを感じないのか?」

「……あの子たちにひどい事をしたのは、人なんですか?」

「当然、人だろう。人以外にあのような残虐なことは出来まい」


 布津野は手元のビールを何度か回した。二次会に飲むビールにしては、少し冷え過ぎている。炭酸も強すぎる。もう少し、柔らかい味が欲しい。こうやって回していると、柔らかくなる。


「早瀬くんっていう男の子が、あの子たちの中にいます」

 唐突に布津野は言った。

「彼は好きな女の子がいたそうです。実験部隊で一緒にいた茜ちゃんという子です」


 布津野は冷えた缶ビールを両手で包んだ。


「ある日、茜ちゃんが脱走しようとして捕まったそうです。その処刑人として早瀬くんが選ばれました。ある将官が、茜ちゃんに目隠しをして、訓練場の射撃標的にくくりつけて立たせた。早瀬くんには一発だけ弾丸を込めた拳銃が渡されたらしいです」


 布津野は一口、ビールを飲んだ。まだ冷たい。


「その将官は、40歳くらいの大きくてヒゲの濃い人だったらしいですね」


 法強は無言で缶ビールをテーブルに置く。両手を組んで前のめりになる。布津野の表情はいつのものように穏やかで、自然だった。


「早瀬くんに拳銃を渡して、茜さんを撃ち殺せと命じた軍人さんです。すごく訓練に厳しい人で、訓練の時に彼に殴られた子は何人もいるそうです。影では熊ヒゲと呼ばれていたらしいです。みんなにとても嫌われていた」


 昔、学校にそんな感じの体育教師がいませんでした? と布津野は曖昧に笑って見せる。


「早瀬くんは、その熊ヒゲに茜ちゃんを撃ち殺さなければ、お前を殺すと脅されたみたいです。早瀬くんは目を閉じて拳銃の引き金を引きました。弾丸はまっすぐ飛んで、茜ちゃんに当たって、彼女は死んだそうです」


 法強は手を握りしめた。バコッ、と音を立てて缶ビールがひしゃげる。中身が飛び散って法強の袖をぬらした。


「そのクズを!」


 思わず大声を出して立ち上がった法強を、布津野の穏やかな声が遮った。


「その熊ヒゲさんは、」

 布津野の目が、法強を優しく制止していた。

「その日の夜に、自殺したそうです」


 法強は、すとん、と腰を椅子に戻した。


「熊ヒゲさんは、自分の頭を拳銃で打ち抜いたそうです。その拳銃は早瀬くんが茜ちゃんを撃った銃と同じものだったそうです。遺言らしき走り書きのメモが自殺現場で見つかりました。『すまない、すまない、すまない、』と三度、走り書きされていたらしいです」


 布津野は、法強を見据えた。


「法強さん、あの子たちは誰を恨めばいいのでしょうか?」


 法強は布津野の目に、釘付けになった。


「あの子たちがいたのは、誰かを恨めるような、そんな簡単な状況ではなかったと思います」

 布津野はビールを飲んだ。まだ少し冷たいけど、だんだん和らいでいる。

「熊ヒゲさんだけではありません。あの子たちの力になろうとした中国の人はたくさんいたようです。もちろん、酷いことをした人もいます。でも、あの子たちがよく覚えているのは、良くしてくれた人のことばかりです。仲間が死んだ時に一緒に埋葬してくれた軍曹さん。上官に逆らってまであの子たちへの仕打ちを止めようとした少佐さん。脱走中に匿ってくれた農村の皆さん。……法強さんもその一人だったと聞いています」


 法強の目の前には、やわらいだ笑顔がある。


「ニィの脱走計画に協力したのは貴方だと聞いています。ありがとうございます。あの子たちが人を恨まずに今を生きようとしているのは、法強さんのような人たちが中国にもたくさんいたからです」


 法強はビールを煽った。手元のビールを一気に飲み干して、テーブルに叩きつけるように置く。


 ——この人だから、だろう。


 あの子たちが今、笑っていられることも、人を恨んで自分を無駄にすることがないのも。この人があの子たちのそばにいるからだろう。


「俺は、」

 法強は喉を詰まらせた。

「俺は……何もしていない。何も、しなかった。出来なかった」


 法強は目を伏せて、布津野から視線を逸らした。


「俺はこの身を尽くさなかった」


 ——貴方とは違う。


 法強はビールがかすかに混じった唾を飲み込んだ。後味の悪い苦味が口に広がる。

 自分に残された人生はもうほとんどない。そろそろ、死に方を考えるべき年齢になったというのに……自分はこんなにも無様な生き方を続けている。

 口では祖国にはびこる腐敗に憤って見せても、十分に行動出来てはいない。鬼子実験部隊の設立し、非道なその行いを主導したのは一部の軍の過激派に過ぎない。その暴走を自分は止めることが出来ずにいた。

 一命を賭して、それに反旗を唱えた勇士は、軍にも市井にも数多くいただろう。それは今の話からも察することが出来る。彼らこそまさしく祖国の誇りだ。しかし、彼らの英雄的行為は奴らによって握り潰され、その命は闇に葬られているのだ。

 この残虐な行為を主導した奴らは、祖国において断じて多数派ではない。多くは蛇蝎のごとく奴らを嫌っている。だが、その反抗が主流になることはない。不用意な反抗は死を意味する。ゆえに、志の高い若者ほど早くに命を散らし、自分のような老人ばかりが残った。

 奴らが祖国に張り巡らせた根は深い。数十年も時間をかけて周到に、それは蔓延っているのだ。


「鬼子実験部隊を主導した、祖国に蔓延る腫瘍しゅようがある」

 法強はそう言って、両手を握りしめる。

「それは集団でも組織でもない。ましてや個人などでもない。ただ長い間、祖国を苦しめている原因だ。奴らの存在こそが、祖国が正道を歩めずにいる原因だ」


 法強は布津野を見た。


「貴方には、それが何か分かりますか?」

「……いいえ、全然分かりません」


 布津野があっさりと答えるものだから、法強は笑ってしまった。


「そう言わず、何となくでいい。考えてみてくれ」

「何となくですか……」


 布津野はしばらく考えてみた。それはあまり長い思考ではないが、短くもなかった。巡らせてみた思考の勢いが衰える前に、適当なものを見つけて、スゥと着地させるだけの時間。そして、布津野は口を開いた。


「……雰囲気ですか?」


 法強は驚いた。


「雰囲気?」

「ええ、雰囲気です。雰囲気が良くないのではないのか、って」

「……そうかもな」


 法強はそれが真実に近いところにある気がして、「雰囲気、雰囲気か……」と何度もつぶやいている。

「そうだ。まさしく雰囲気だ」と法強がついに断じた。


 人に原因があるのではない。善行を貫いた人はいた。悪行を止めなかった自分もいる。ただ、悪行を行った人は少数だった。人の間にある雰囲気がそのいびつな状況を続かせている。そんな気がした。

 法強は面を上げる。


「なぜ、雰囲気だと?」

「何となくですよ。当たってましたか」


 布津野は嬉しそうに続ける。


「でも、人が良くないことをしてしまう時は、雰囲気が悪い時だと思うんですよね。何ていうか、相手に油断してしまう雰囲気。配慮をさぼってしまうような怠けがある。これでも数年だけ教師をしたことがあるので、何となく分かります」


 いじめと同じかなぁ、と布津野は頭をかく。


 法強は唸った。祖国にはびこる問題と学校のいじめを、目の前の男は同列に扱っている。それは真理かもしれない。少なくとも、今の祖国の状況が学校の問題よりも、高尚なものだとは思えなかった。

 布津野はビールで口を苦める。


「よく見てみると、いじめの現場には役割があるのです」

「役割?」

「もしかしたら、日本独特かもしれないけど、いじめる子といじめられる子は二人で一緒に舞台に上がっている共演者みたいなところがある」


 もちろん、と布津野はビールを置いた。


「いじれられる子は悲惨です。強制的に役を押し付けられて、どうしようもなくて、うつむいてしまう。本当の自分を見つける余裕なんて、全然ない。それと、いじめには他にも重要な役割があります」


 それは観客です。


「観客?」

「周りでいじめを見ている子たちのことです。いじめに関心があってもなくても、彼らは観客になる。いじめる子はその観客を気にして必死になっている。必死にいじめて見せる。まるで売れない役者のように必死に。いじめられる子も周りの視線やあるいは無関心に、絶望したり期待したりする。二人とも観客の反応に必死になる。自分じゃないものを演じさせられる。でも、観客あくまでも観客なんだ」

「どういうことだ」

「いじめる子が頑張っていじめても、いじめられる子がどれだけ苦しんでも、観客は絶対に舞台には上がろうとはしない。まるで、毎週定期的に見せられる教育番組みたいに、つまらなさそうに、無関心でありながらそれを話題にする。いじめる方が絶対に悪いとか、両方とも馬鹿だとか、まるで小学生みたい、とか、舞台の上で必死になっている二人のことを色々と言って、馬鹿にして談笑する」


 布津野は苦い顔をした。


「そんな感じの、いじめを取り囲んで視聴する劇場みたいな雰囲気が、いじめのある教室にはあります。まるで教会が支配している小さな村で催される宗教演劇みたいな感じの。凝り固まって淀んだ雰囲気。そうなってしまえば、もう、教師がどれだけ頑張っても、どうしようもありません」

「……」

「一度、そうなってしまえば、本当にどうしようもない」


 僕が馬鹿だから、何もできないだけなのかもしれないけど……。と布津野はつぶやいてビールに口をつける。


「法強さんが悩むくらいの問題だったら、もしかしたら同じなのかもしれないなぁ、と思ったのだけです。だから雰囲気なんて、適当に言ってしまいました」


 法強は新しいビールが欲しくなった。カラカラに喉が渇いている。布津野のビールを羨ましそうに眺めた。

 布津野は立ち上がると、冷蔵庫を開けてよく冷えた缶ビールを取り出した。それを法強の目の前のテーブルに置く。

 法強はそれを睨んだ。暖房が効きすぎているのか、缶ビールはすでに汗をかき始めている。


「……そういう雰囲気が、今の祖国には間違いなくある」


 法強は断定した。


「義を軽んじ、不徳を傍観する雰囲気が祖国を蝕んでいる。そして、大衆も、それを観客のように視聴して憤るが、何もしない。何もできない。一部がいじめられる役を押し付けられ、大衆も観客に回る。そうやって、社会が回っている。皆がこのつまらない劇を見せ続けられている」


 法強の手が震えていた。


「……難しくて、大きな問題ですね」


 少なくとも学校のいじめよりは、と布津野は言う。


「ああ、確かに規模はそれより大きい。しかし、その本質は同じだ」


 法強は目を閉じた。この問題は複雑に入り組んでいる。本当は自分たち役人こそ舞台に上がらなければならない。誰も見たくない虐待劇に立ち上がり、弱きを助け悪を挫く劇へと変えなければならない。皆が見たいと思う劇に変えなければならないのだ。

 役を演じるべき役人が、観客のままでいようとする。この矛盾した状況を変えなければならない。


「祖国の総書記は、この問題に取り組もうとしている」


 法強は、布津野が持ってきた缶ビールを手に取り、開けた。


「奴らに対する抵抗を始めているのだ。鬼子の部隊についても対処しようとしていた」

「総書記?」

「祖国のトップだ。そのトップでさえ、奴らに対抗するのに苦労している」


 俺はそれを応援したい、と法強はビールを煽った。


「頑張って欲しいですね」


 布津野はそう言って、返答をビールで濁した。

 なんだか、やけに難しい話になってしまったなぁ、と布津野は内心で戸惑っていた。適当に答えたのに、なんだか法強さんのツボに入ってしまったらしい。妙に神妙な顔をして真剣に考え込んでいる。


 困ったな。本当に適当に答えただけなのに……。


 本当は、もっと別の話がしたかった。一番楽しみにしていたのは、政府でのロクとナナの様子だ。自分は二人の父親ではあるが、子供のほうがしっかりと仕事している。年収だって惨敗だ。彼らが自分の知らないところで、どんな風なのか知りたいのだ。


「あの、」と声をかけると、法強が思考を中断させた。「ロクとナナは、政府ではどんな様子なんですか?」

 思索にふけっていた法強は、顔をあげた。

「ふむ、あの二人についてか」

「ええ、もちろん、政府の重要な仕事をしているみたいですから、お答えできない事は聞けませんが、」

「……まぁ、貴方になら構わんだろう。日本政府の事情など俺の知ったことでもない。とは言え、どう、と言われても答えづらくはあるな」


 法強は腕を組んだ。

 布津野は、ふと不思議に思った。法強さんは中国からの亡命者ということになっている。しかし、その正体はかつて日本に戦争を仕掛けてきた将軍さんだ。それが、どうしてここにいるのだろう。


「ロクは、まぁ、日本政府の中枢だな。重要案件の意思決定に関わっている。ここ最近は、無色化計画についての諸外国への工作が主要な任務だな」

「推進と工作?」

「無色化計画のことは?」

「確か、遺伝子最適化がどうのこうのって話ですよね。首相から教えてもらったことがあります」


 もう、半分以上忘れてしまっているけれど、


「ふむ、やはり未だに貴方がつかめないな」

 法強は顎を撫でた。

「日本政府の最高機密を首相本人から聞き出せる一般人か……。それがロクとナナの父親で、この孤児院における責任者。未調整の一般人。一人目の男……。そう言えば、ニィも貴方を推していたな」

 法強が目を細めて布津野を見た。

「ニィ君が?」

「ん、ああ。日本政府に囚われた時にな。『布津野忠人を頼れ』と言われた。あのニィが他人を頼りにするとは驚いたものだ」

「ああ、あの子のことだから、きっと冗談ですよ」

「ふふ、あのニィを子供扱いか……」


 そういえば、と法強は思い出した。ニィは、目の前の未調整について、こうも言っていた。


 ——間違っても、この男だけは敵に回してはいけない。


 もし、

 法強の脳内に出現したその疑問は、全てを占拠した。もし、俺が祖国へ帰り日本の敵にならば……。


 ——この男は、俺の敵になるのだろうか。


 法強は布津野をもう一度、改めて見た。目の前の男には「敵」という言葉がひどく似合わなかった。それは、仏像にアサルトライフルを持たせたみたいで、違和感しかない。


「布津野さん、実は悩んでいることがあります」

「ん、なんですか? 私なんかには、お答えできませんよ」


 布津野はハハッ、と曖昧に笑う。

 僕はロクとナナの話が聞きたいんだけどなぁ、という本音はビールと一緒に薄めて飲み干す。少し、酔ってきた。そろそろ水を用意しよう。体内のアルコールを薄めないといけない。

 布津野は立ち上がって、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出す。

 法強の声を背中越しに聞く。


「俺は、貴方の敵になるかもしれない」

「敵、ですか?」


 右手に2リットルのペットボトルをぶら下げ、左手にコップを二つまとめて持つ。少しおぼつかない足取りで席に戻った。


「敵って、どんな感じの敵ですか?」


 この人が敵になったら、どんな敵になるのだろう。と、法強は興味がわいた。おそらく、今までに見たことがない敵になるだろう。きっと強敵だ。それは間違いない。

 布津野は、法強にも水を入れたコップを差し出した。法強はそれを受け取って、一気に飲んだ。うまい。酔いが回った体に水が染みわたる。


「俺は今、選択を迫られている」


 無色化計画に賛同するかどうか。賛同するなら祖国の中国に遺伝子最適化の普及に尽力してほしい、と。選択権は自分にある。確かに最近の行動は全て自由になった。本当に、帰国すら止めるつもりはないらしい。


「数週間後に、東京で主要国家元首会議が開催される。今回の議長は宇津々首相だ。彼はそこで重大な発表をするつもりだ」


 布津野は首を傾げた。


「最適化技術の公開と、諸外国に対する最適化施術の施設誘致、運営における全面的な援助だ。彼は本気で世界を変革しようとしている」


 遺伝子最適化による人類社会の改革。恒久平和の実現。人種も思想も宗教も、格差も優劣も階級も、全てを遺伝子から消し去る無色化計画。

 そんな妄想じみた計画をこの国では四十年以上から試行錯誤し続け、世界のトップに君臨した。そして、今、その成果を世界中に広めようとしている。国家間の競争はその様相を変えている。軍事力による領土侵略から、グローバル企業による経済侵略。そして最適化による遺伝子侵略へと。人類の種としての統一。そこは色のない世界が広がっている。


「首相とロクは、俺に期待しているだろう。祖国に最適化の受け入れるよう説得することを。無色化計画の推進には賛同する国が必要になる。しかし、他の諸外国はいずれもキリスト教国家だ。宗教的理由からこれに反対するだろう」


 その判断を首相は自分に委ねた。その判断材料として、日本の技術や社会構造、品種改良素体を使った政治システム、ありとあらゆるものを見せた。それらは圧倒的だった。軍事力でも経済力でも、既存の国際競争の枠組みでは、祖国は対抗できないだろう。


「俺はどうすれば、」

 法強は布津野を覗き込んで、繰り返す。

「どうしたらいいのだ?」


 布津野は頭を掻いて、天井を見上げたり、足元を見たりと視線を彷徨わせた。やがて、彼は法強に視線を戻して、口元を曖昧に緩める。


「なんだか、とんでもない話ですね」


 法強は無言で、視線を布津野から外さない。

 布津野は背を椅子に預けた。難しいですよ。難しすぎます。と何度もつぶやいて見せるが、その全ては法強の無言に押しつぶされる。

 やがて、布津野は諦めたようにため息をこぼした。

「とても難しいですから、言葉にしたら間違えるかもしれませんね」

「……」

「少なくとも、後悔するかも」

「後悔?」

「う〜ん、言葉に出来ないことを無理やり言葉にすると、歪んじゃう気がします。それで、その歪んだ言葉を理由にして、言い訳になる。ぐちゃぐちゃになる。本当に、法強さんがやりたかった事と別のものに縛られる」


 布津野は頭を捻って、言葉に悩みながら慎重に言葉にする。


「言葉は、なんというか本当のものとは、離れたところにあって……。それで、無理矢理に言葉にしちゃうと、縛られて、とても気持ち悪いんだ。いじめみたいに」

「いじめ、みたいにか?」

「そう、本当の自分じゃなくて、演じている自分みたいな感じ。演じさせられている自分。言葉に縛られて、操られて、無理やりに落とし込められてしまう。泥沼」


 楽しくないでしょう。

 布津野はそう言って笑った。

 だから、


「法強さんは、そのままでいいんじゃないかな?」

「そのまま?」

「ええ、答えが言葉じゃないもので自然に出てくるまで。ちゃんと備えておく。無理矢理に言葉にしようとすれば、自分が歪んじゃうから。考えてしょうがないから、」


 ほら、僕は未調整だから……。


 法強の頭の中から、言葉が消え去った。すると、彼の右手が自然に動いた。右手は目の前の空いたコップをつかんで、それを布津野に向けて差し出していた。

 布津野が、慌ててそれに水を注ぐ。

 法強の右手は、それを口元まで運んで傾ける。法強の喉はそれを一気に飲み干した。胃が踊って、血が巡り、水が身体中に染み渡る。

 うまい。


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舛本つたなの別作品リンク
公爵令嬢になったお腐(ふ)くろさん、(以下略)

本作を大幅に書き直した書籍版(kindleなどの電子書籍もあり)です。 下の画像で出版社さんのサイトに飛びます。 下読みもできますよ。

遺伝子コンプレックス
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