[3-12]祝賀会
孤児院で催されている対抗戦の祝賀会は盛り上がっていた。
今宵の主役は二人いる。榊夜絵とロクだ。二人の連勝が孤児院の勝利をもたらしたのだ。
「乾杯!」
もう何度も繰り返されたその祝杯は所々であがり続けていた。そして、その中心にいるのは、なぜか部外者であるはずの紅葉だった。
彼女には、特殊な性質がある。初対面の人間と打ち解けるのに必要な時間や手順といったものを無くすことが出来るのだ。完全に部外者の彼女は、いつの間にか孤児院の卒業生かのように、ごく自然に周囲に溶け込んで盛り上がっていた。
ロクは、そんな紅葉を祝賀会の会場の片隅で眺めている。
彼女は明るく包容力のあるお姉さんのように見えた。実際のその通りなのだろう。周りに自然と人が集まってくる。今だって、彼女の周りは笑顔ばかりだ。そういう性質は父さんと似ているな、とロクは喧騒から出来るだけ遠ざかりながら、不思議に思った。
「どうした? 主役が隅に引きこもっては、形無しだな」
そう言って、ロクに近寄って来たのは、意外にも榊だった。
「お前こそ、」とロクは驚いた。
「どうにも、苦手だ。こういうのはな」
「そうなのか?」
と、ロクは問い返す。
榊が喧騒を嫌うのはイメージに沿う。だからといって、苦手な喧騒を避け流ためにわざわざ自分に話しかけてくるのには、違和感があった。
彼女に作用したのは、周りに馴染めない者同士のシンパシーか? と思いを巡らせたが、どうにも解せない。榊は誰よりも自分を嫌っているはずだ。
「お前は、僕のことを、」とロクは言って、しばらく黙る。やがて、「恨んでいるのかと思った」と続けた。
「恨んではいない」
榊のそれは、即答だった。
「お前が、大っ嫌いなだけだ」
榊のそれは、本心だろう。
その罵倒を受け止めながら、ロクは思いを馳せる。
自分が父親と徹底的に違うのは、女性との縁がないことだと思う。これは最近になって気がついたことだ。
父さんの周りには、父さんを支えようとする女性が多くいる。そうそうたる顔ぶれだ。グランマにナナ、黒条百合華に紅葉先輩。いずれも並大抵の女性ではあるまい。
「父さんはどうだ?」
「はっ?」
片眉を上げて見せる榊は、確かに自分を嫌い抜いている。
「父さんの事、好きか」
「布津野さんの事だと? そんなの、好きに決まっているだろう」
だよな、とロクは手元のオレンジジュースを飲み干す。果汁100%なのに着色料アリという矛盾が、いい塩梅で現実的な味わいだ。
「どこが?」
「どこがって……」
「父さんのどこが好きだ?」とロクは榊を観察した。
「……何となくだ」と榊が眉を寄せる。
「何となく、か」
「何となく、だ」
何となく好き、と絶対に嫌い。この二つを並べて思い浮かべて比較検証してみる。もしかしたら、嫌悪には理由が必要で、好意には理由が不要なのかもしれない。少なくとも、父さんには理由がない。
「さて、」ロクは榊を見る。
榊は硬い表情をしてこちらを睨んでいた。明らかな嫌悪を我慢して、自分に話しかけてきたからには何か理由があるのだろう。思い当たる節は、ある。
「知りたいことは、ニィのことか?」
「なっ!」
顔を赤らめる榊を見て、ロクは笑うしかなかった。
「その話はここじゃ不味い。少し、外に出るか?」
「いいのか?」と榊は驚いた。
「ん?」
「ニィ隊長のこと、私に、教えても……」
そう言って躊躇する榊は妙にしおらしい。
「僕が知っていることも、お前に話せる事も限られている。しかし、その範囲なら教えることは問題ない。父さんから、お前たちがニィの現状について知りたがっていることは聞いていたしな」
「……」
ロクは立ち上がると、さっさと部屋を出て行こうとする。
榊は慌てて、それに追いすがった。
二人はそのまま、玄関から外に出る。場所は孤児院の正面玄関の近くになる。吹き付ける風は冷たかった。季節はまだ晩冬の二月で、あたりはもう闇に包まれていた。
「ニィは、」
ロクは空を見上げると、頭を左右に振った。
「……。榊、お前から質問をしてくれないか?」とロクは言い直した。
「私から質問?」
「ああ」
「なぜ?」
「理由が必要か?」
「必要だ」
なるほど、僕はやはり嫌われているらしい。
ロクは榊のほうを振り向いた。
「僕は、最高意思決定顧問だ」
とロクは続ける。
「答えにくいこともある。僕の発言には責任が生じることもある。分かるだろう?」
榊は、黙って頷いた。
「だから、僕からお前に機密を教えることは出来ない。しかし、お前が勝手に僕に質問して、僕の反応から勝手に解釈するのは、問題にはならない」
月明かりに、ロクの曖昧な表情が浮かんでいる。
「ついでに言うと、僕は答えにくいことを聞かれた時に、それが事実なら黙り、それが間違いなら『分からない』と答える癖がある」
つまり、沈黙ならば肯定、『分からない』と答えれば否定。それがロクの提案であり、榊への譲歩だった。
「……意外だな」
「どうした?」
「お前はもっと、融通の利かない奴だと思っていた」
「別に、それは間違ってはいない」
「どういう心境の変化だ?」
「……」
ロクは、確かに、どうしてだろうか、と不思議に思って自問する。
答えなんて、どこにもない。今日の試合での勝利に、自分は酔っているのかもしれない。宮本との試合という機会を与えてくれた榊に、お返しをしたくなったのかもしれない。
榊はロクの正面に移動して、まっすぐにロクを見上げた。
榊は小さな女の子だ。榊の左腕の裾が夜風に吹かれて、ゆらりゆらり、とはためいている。彼女の左腕はニィを助けようとして失ったらしい。彼女はニィを崇拝していて、何かにつけて自分に突っかかってくる。
そんな彼女と千葉の試合は、ロクの心を揺さぶるものがあった。
毎日を必死に生きてきた彼女の練磨がその試合に表れていた。圧倒的に不利な体格差を覆すほどに、彼女は練り上げたのだ。彼女はニィの部隊の一員であることを誇りに思い。そのニィの部隊がGOAに負けることを許さなかった。
そんな彼女のことを、僕は嫌いではない。
「……お前の、今日の試合、」とロクがこぼす。
「なんだ?」
「やはり、ニィのためか?」
「……そうだ」
榊の声は硬いが、ハッキリとしていた。
ロクは笑った。
「ほら、質問しろ。僕の気が変わらないうちに、だ」
「あ……ああ」
榊の顔が少し砕けて、戸惑いの形に変化する。
「あ、えっと、まずは、ニィ隊長は今どこにいる?」
ロクは眉を寄せる。
「榊、質問はイエスかノーかで答えられるものにしてくれ。僕が出来るのは、黙るか『分からない』と答えるかの二つだけだ」
「えっ、ああ、そうだったな」
榊は小さく、すまない、と謝った。
「な、なら、」
榊は混乱していた。
実のところ、いきなり質問をしろと言われても、すぐには思い浮かばない。ニィについて知りたいことは沢山あったが、その思いは積もりすぎて言葉にするのは難しかった。加えて、実のところ毎週のように布津野からニィの近況を聞き出しているのだ。実のところ、ニィが今はアメリカにいることはすでに知っている。
しかも、イエスかノーかなどと……
「お、お前は、」と榊は少し声を上ずらせて「今でも、ニィ隊長の敵なのか?」
「……分からない」とロクは否定した。
「味方、なのか?」
「……」とロクは肯定する。
「味方なんだ」
「……」
なぜ、という問いを榊は飲み込んだ。一年半前、ロクはニィの敵だった。二人は榊の眼の前で殺し合いを繰り広げた。それが今、二人はどんな関係なのだろうか。想像もできない。
榊は改めてロクを見上げる。
「ニィ隊長は、アメリカにいるな?」
「父さんから聞いたのか?」
「ああ」
「……」
ロクは目線で、質問を続けるよう催促をした。
「隊長は、日本政府と関係があるのか?」
「……」
「隊長が、海外を飛び回っているのは政府の仕事のためか?」
「……」
肯定が続き、榊は表情を複雑に崩した。
ニィ隊長は日本政府の要請で欧米にいるのだ。おそらく彼は、そこで何らかの政府活動に従事している。
「その仕事は、軍事的なものか?」
「分からない」
軍務ではない。榊は安堵する。であれば、ニィ隊長が死亡する可能性は低いはずだ。しかし、軍務でなければ何のために欧米に行っているのだろうか。それもかつて敵対した日本政府の要請で……。
榊は考え込んでいるのを、ロクはしばらく眺めていた。
「もう、いいのか?」と今度はロクが質問する。
「え、あ、もう時間切れか」
「そういうルールはないが、質問がないようだからな」
「難しいから悩んでいるんだ。イエスかノーかは難しい」
意地悪せずにちゃんと質問に答えろ、と睨んでくる榊にロクは口を歪めて両腕を組んだ。
「お前は案外、不器用だな」とロクが言う。
「なんだと?」
「なぜ『ニィと会えないのか?』と聞かない?」
「……」
榊はようやく口を開いた。
「会えるのか?」
ロクは、辺りにあった正面玄関の壁に背中を預けた。
「その質問には、ちゃんと答えよう。僕もイエスともノーとも答えることが出来ないからな」
榊はロクの近くまで寄って、ロクの顔を覗きこむ。
ロクは目を閉じた。
「お前がニィに会えるかはニィ次第だ。政府はニィの行動を制約していない。あいつには行動の自由が保障されている。日本に戻ってこようと思えば、戻ってくるだろう。その時にお前たちとの面会を拒否するつもりもない」
「では、なぜ……」
続きを口閉ざして榊は下を向く。では、なぜ、ニィ隊長は会いに来てくれないのだ。こんなにも、私たちは、私は、ずっと、
「ニィが政府から要求されたミッションは、かなり困難なものだ」
下を向く榊を、チラリと見ながらロクは続ける。
「本来であれば、数名の第七世代が連携しながら、何年もの下準備を経て取り組む課題だ。それをあいつは一人で担当している。あいつでも並大抵ではこなせない。余裕なんてないだろう」
毎週のように父さんと無駄話をする余裕はあるみたいだがな、とロクは口に出しそうになったのを辛うじて我慢した。
榊が顔を上げて、ロクを見る。
「……慰めたのか?」
「事実だ」
「随分と、下手な慰めだな」
「事実だと言っている」
何せ、ニィは首相にさえ満足に報告をして来ないのだ。これではあいつが欧米での工作に奮闘しているか、ただ遊んでいるだけか、こちらからもまったく分からない。
「榊、」と今度はロクが問いかけた。
「なんだ?」
「お前は、僕のことを……」
と、ロクはそこで言い淀んだ。
「嫌いだぞ」と榊は、すぐにロクを遮る。
「……それは知っている」ロクは眉を寄せた。
「なんだ、安心した。告白でもされるかと思って、咄嗟に断ってしまった」
ロクの反応が一瞬遅れる。
「……思春期特有の自意識過剰だな」
「私は割と可愛いからな」
ロクは、さっと榊の小さい体に視線を走らせる。
「まぁ、小児性愛者には一定の需要がありそうだ」
「誰が、幼児体型だ!」
「愛らしくていいじゃないか」
「まさか、お前、ペドなのか?」
榊は一歩後ろに引いた。
ロクは頭をふる。なにやら急にふざけた雰囲気になったことに困惑する。こいつは、こんなに騒がしい奴だったのか。肩をすくめて改めて榊の未発達の体を見る。
その小さな体は、彼女本来の身体的特徴ではなく、おそらく成長期の栄養失調による発育不全によるものだろう。榊は自分よりも一つ年下の十四歳だ。誘拐されたのが三年前。そこで配給される食糧が十分な成長に足るものだったわけではない。
この孤児院の子どもには、彼女のような発育不全を抱える者も多い。
「何だ、ジロジロ見るな。まさか本当に?」
榊が残った片腕で自分の体を抱いた。
ロクは目をそらして「違う」とだけ呟いた。
「で?」と榊が一歩戻ってくる。
「ん」
「なんて聞きたかったんだ?」
「ああ、」
ロクは言い淀んだ言葉を口に含んだ。例えば、ニィは榊たちを救おうと必死に足掻いた。父さんだって、彼らを助けるために命を張った。例えば、そういった行為と単純に比較した場合……。
「お前は、僕のことを恨んでいるだろう」
「はぁ?」と、榊は小馬鹿にしたように唇の方側を釣り上げた。
「……僕は、お前たちを殺そうとした」
榊の表情が、ようやく真剣なものに戻る。
一年半前の事件で、ロクが下した決定は四十八人の脱走兵を見殺しにし、ニィの身柄を拘束することだった。それは緊張感を高めつつあった中国との国際状況を鑑みて、万が一の戦争勃発を避けるためのリスクマネジメントでもあった。
結局、布津野がその作戦を阻止し、ニィとの協力を取り付けて彼らの命は救われた。今では、この孤児院でその正体を隠しながらも、彼らは平穏に暮らしている。
「だから、なんだ?」榊が問いかける。
「……」ロクは黙った。
シン、と夜の冷気が忍びよってくる。
夜の街の奥まった喧騒が、遠くから潮騒のように鳴り響いて、ロクを急き立てた。唇が震えているのは、寒いからだけではないだろう。心臓の脈動が口まで伝わってくるからだ。
息を吸い込んだ。肺が凍てついたかのように、痛い。
「……謝らなければ、と思う」
空白が闇に広がって、沈黙が立ちこめた。
しばらく、時間だけが経つ。
ブハッ
と、榊が吹き出して、続けてケラケラと喉を鳴らして笑い出した。
ロクは目を丸くして、榊を見た。榊は腹を片手で押さえ、前のめりになって息を殺して笑っていた。ハー、フッフッ、ハー、とラマーズ法のような榊の呼吸音がロクの鼓膜を震わせた。
榊は面を上げて、涙目を拭いもせず、ロクを見上げる。
「お前、私を笑い殺す気か!」
「なんっ」
「何を言うかと思えば、いきなりしおらしくなって、謝らなきゃ、だと?」くつくつ、とまた喉を鳴らす。「はぁ〜、おかしい所だらけで、どこから突っ込めば良いのかもわからんぞ」
ロクは眉をしかめる。
「僕は、」
「やめろ、やめろ」と榊は手を振ってロクを止めた。「これ以上やられては、本当に死んでしまう」
それに、と榊は一本指をロクの口に向かって突きつけた。
「こちらとしても、謝られても許すつもりもなければ、お前だって許されると思っていまい。そんなことをされても困るだけだ、やめておけ」
「……」
「気持ちは、まぁ、嬉しくは思う」
榊は一歩近づいて、右手を握り込んで、とん、とロクの胸を叩いた。
「……お前のせいじゃない。私たちを殺そうとしたのは政府の意思決定であって、お前じゃない」
ロクは榊を見下ろす。笑い明かした彼女の潤んだ瞳が間近にあった。
「少なくとも、今のお前じゃない。あれは意思決定顧問の判断であって、布津野ロクの判断じゃない」
もう一度、とん、とロクの胸を叩いて、榊は後ろに跳び下がった。着地した瞬間に、ひらりとその空の左袖が揺らぐ。
その時に彼女が見せた白い歯が、月明かりに浮かんだ。
「お前は、政府として下すべき判断に逆らえないヘタレだった。ただそれだけで、お前が悪いわけじゃない」
榊は、くるり、と背を向けて、手を振って孤児院の中に向かって歩き出す。
「ヘタレに謝られるほど、私たちも落ちぶれてはいないよ」
榊の小柄な姿が、孤児院の中に入って消えた。





