[3-10]桃源郷
「「うおおー!!」」
言葉にならない声と雄叫びのような感情が、稽古場に溢れかえっていた。
ロクの勝利だった。
しかし、感動に突き動かされた歓声は、勝者の孤児院側だけでなく、負けたはずのGOAからも上がっていた。
その戦いはそれほどに凄まじかったのだ。
両者の攻防はギリギリを交錯し、繰り交わされた技と駆け引きと大胆さは、見ているものの余談を許さなかった。
「マジかよ、見たかよ!」
「あれ、あれ、布津野先生の入り身だよな」
「わっかんね。くそ、速すぎて見えないのが何発もあったぜ!」
「あれが俺たちのボス。第七世代様かよ」
互いの陣営も関係なく、この戦いを見ていたものは隣に対して感想をぶつけ合い、やり場のない感動のはけ口を求めて溢れかえっていた。
その喧騒から浮き上がる様に、戦いの当人である二人の周辺は静かだった。
しばらく、ロクは静止していた。
結果を噛みしめる様に、ロクは両手を握っては開いては、その感触を何度も確かめていた。その表情は、まるで筋肉を無くした様に緩んで形を失っている。
——不器用な奴だな。
宮本は、馬乗りになったままのロクを見上げてそう思った。
どうやら、あの表情は、喜び方を知らないらしい。
「おいおい、起こしてくれよ」
宮本がロクに呼びかけると、ロクは、ハッと気がついて馬乗りから飛びのいた。そして、そのまま恐る恐る手を差し伸べる。
宮本はそれを掴んで、身を起こす。やれ鼻血がすげぇ、打撃の顔面受けはやるもんじゃねぇな。
宮本は鼻につめるティッシュが欲しいな、と考えながら周囲を見渡したが、周りの彼の部下達は戦後の評論合戦に忙しく、誰も宮本を見ていなかった。酷い部下たちだ。ティッシュ、ティッシュ。
「宮本、さん」
珍しく歯切れの悪いロクの声がした。
「ん、なんだ」
「あの、」
なにやら遠慮がちだな。いつものロクからは、なかなかに見られない反応だ。
「僕は、強かったですか?」
宮本は、ポカン、と口を開けた。
「おいおい、ロクよ。第七世代は嫌味も一流か?」と宮本は肩をすくめる。「お前は、さっき、俺に勝ったばかりだぜ」
「あ、いえ。そういう意味じゃなくて」
「なんだ、」
「あの、」
ロクがこちらを見た。なんとも言い難い表情だ。
「父さんと比べて、どうでしたか?」
ああ、そういう事か。
宮本はティッシュを諦めて、稽古着の袖で鼻血をぐいっと拭った。痛てぇ、鼻骨が折れてやがる。それでも精一杯を込めて、ニッと笑いかける。
「まだまだ、だな。旦那のほうが圧倒的に強い」
望みどおりの解答を言ってやると、ロクの両目に、輝きが広がって表情を笑いに変える。
「ありがとうございます!」
ロクは頭を下げた。
やれやれ、まるで殊勝な子供みたいじゃねぇか。
宮本はもう一筋垂れ落ちそうになった鼻血を、袖で拭い直す。
「「ロク」」と背後から声がした。
孤児院の生徒たちだ。彼らは宮本を追い越して、ロクに飛びついて喜んだ。口々に「やった」「やった」とばかり、言葉を覚えたての赤ん坊のように繰り返して、ロクに抱きついて飛び跳ねている。
しまいには、戸惑うロクを担ぎ上げて胴上げを始め出した。
わっしょい、わっしょい、
随分と仲が良くなったもんだ。
「ロク」と少女の声がして、胴上げが中断した。
孤児院の生徒たちはロクを下ろして、彼女を見た。片袖をペラペラにはためかせた孤児院の短槍の嬢ちゃん。確か名前は榊といったか。
「……まあ、良くやったな」と言って、榊はロクを見た。
「ああ、ギリギリだったけど」
「……」と、榊は言葉が見つからず黙った。
「どうした?」
ロクが首を傾けて、榊を覗き込む。
「な、なんでも、ない」と榊は一歩後ろに退がって「だが、まだまだだな。ニィ隊長だったら、苦戦などしない」
「……そうかもしれない」
ロクは握りしめた両手を見ながら言った。
「まだまだ、だ……」
ロクは横を見ていた。
「でも、ようやく一歩、近づけた」
ロクの視線の先から、布津野さんたちがこちらに近づいてくる。
その布津野さんは、小走りでこちらに駆け寄ってくる。
「ロク!」
「……」
ロクも数歩駆け寄りそうになったが、途中でピタリと直立不動になった。そのロクを布津野は躊躇せずに、がばっ、と抱きしめた。
「凄かったよ。良くやったね。怪我はない?」
「大して、ありませんよ」
曖昧な表情を浮かべるロク。榊には何となく分かる。それはロクの照れてる様子だ。あの憎たらしいロクが表情を隠すのに失敗している。
「いや、でも本当に凄かったよ。入り身が綺麗で、速かった。足運びもスムーズで、それに、動きの起伏が整っていたよ。やっぱりロクはすごいな。まだ十五歳だよ。それなのに宮本さんに勝っちゃうんだから」
「父さんほどじゃ、ありませんよ」
「そうかな、ねぇ、ナナ」
「うん、ロク凄かったよ」
そう言い添えたナナに向かって、ロクは「ありがとう」と答える。
曖昧なロクの反応とは裏腹に、布津野はなにやらハイテンションになっている。左右をキョロキョロと見渡して、覚石に目をとめた。
「覚石先生、ロクはどうでしたか? 是非、ご講評をお願いします」
「少しは落ち着かんか。布津野」
覚石は笑いながら、そうたしなめる。そして、ふむ、と口を整えた。
「まずは流石、と言わざるを得んな。日頃の稽古が結果に出たな」
「ありがとうございます」と、なぜか、ロクではなくて布津野が礼を言う。
「あとは老婆心じゃが、試合と実戦を混同せんことじゃ。試合で勝った者が実戦で生き残るわけではない。実戦なら、ロク君なら直突きで相手の眼球を狙うじゃろうし、相手もロク君を捕まえた瞬間に刃物で止めを刺しにくる。当然、結果も変わってくるじゃろう」
「はい」
「此度の結果は、あくまでも試合という状況下でのこと。ロク君が目指しているのは試合での強さではあるまい」
「……もちろんです」
「ふむ、それだけじゃ」
「ありがとうございます」
ロクは深く礼をした。
「さてさて、ようやく、おじいちゃんの古臭い小言も終わったね」
元気な声の正体は、紅葉だった。
「ロク君、最ッ高だったよ」紅葉は親指をビシッと突き出した。そして、横で鼻を押さえている宮本の方を振り向いて「それに、宮本さんもね」と言い添えた。
「紅葉ちゃんは優しいな」
しみじみと宮本はため息をつく。
「それでは負けた宮本選手から、今回の感想はいかがですか?」と、紅葉はまるでマイクを握っているかのように手を丸めて、宮本に突き出した。
「ああ、そうだな。次からルールには、ロクはGOA側の選手であることを明記しておこう、と思いました」
「……ひどい感想だなぁ」
「それが大人の戦い方だ。それにロクは俺たちのボスだからな。ボスに裏切られて負けた隊員が不憫じゃないか」
そうだろ、ロク? と宮本はロクに問いかける。
「そうですね。その裏切り者の上司を、現場指揮官の宮本さんが打ち倒せば、部隊の士気は上がったでしょうね」
「やれやれ、小さくて可愛かった頃のロクが懐かしい」
そう言って宮本は「小さかった時もあまり可愛い奴じゃなかったな」とブツブツとつぶやく。
「夜絵ちゃんも凄かったよ」と今度はナナが榊夜絵に駆け寄った。
「ナナちゃん」
「千葉さんみたいな大きな人に勝っちゃうんだもの。ロクよりすごいよ」
榊夜絵は小さく笑ってナナと手を握った。
「私なんて、まだまだ」
「そんな事ないよ」
ねっ、と言ってナナは横向いて「法強さん」と呼び掛けた。
「そうだな」と法強は請け負う。「榊は間違いなく強い。女で体も小さく、しかも隻腕のハンデをものともしない功夫だった。並の事ではない」
「法強上将……」
「もはや、上将ではない」
そう否定して、法強は目を細めた。
「ニィやロクだけではない。この国の子供たちはこれほどに凄まじい」
そうこぼして下を向いた法強を、ナナが下からのぞき込んだ。
「違うよ」
ナナの赤い目が法強をじっと見る。
「みんな頑張った結果だよ。いっぱい苦しんで、いっぱい恨んで、いっぱい目指した結果だよ。日本の子供でも、ダメな子はたくさんいる。大人も一緒」
法強は、目を見開いた。
「そうか、お前は見えるのだったな」
「うん」
だったらどうすればいい、と法強は自分に問いかける。
その思考は沈んでいく。俺はどうすればいいのだ。祖国の未来はどこにある。目の前の現実にそれはあるのか。この子たちのような可能性にあふれた未来を、祖国は望むのか。
頑張った結果、それが得られる世界を……。
努力がむくわれる未来、そんな桃源郷を……。
……
法強はちらりと布津野を見た。
そこには幸せそうにロクを見ている男がいる。
小柄で平凡な男だった。この場で、自分とこの男だけが異質だった。桃源郷の桃には霊力が宿っているという。彼もその桃を食わずに育った異邦人のはずだった。
しかし、その男は桃源郷の中心にいる。
否、その男の周囲が桃源郷になっている。
そんな風に見える。
その男の周りにはいつも笑顔が咲いている。
「俺は、」思わず口をついた法強に、布津野は気がついた。
彼は法強のほうを振り向いて、砕けた笑いを浮かべた。
「法強さん、見ましたか? ロクも榊さんも、凄かったですね」
「そうだな」
なんだかこちらも笑いたくなる。
そうだ、と布津野は手を叩く。
「法強さん、一緒に飲みに行きませんか? お祝いです。前にご一緒しましょうと言ったじゃないですか」
それは良いな、と法強は思い「是非、行こう」と応じた。
「宮本さんも、それに覚石先生もどうです。紅葉ちゃんも一緒に、紅葉ちゃんも二十歳になったでしょ」
それぞれが、行こう、行こう、と言う。
桃源郷の酒は旨かろう、法強は顎を撫でた。
「ロクとナナも……」と勢いに乗った布津野が声をかけると、
「いえ、僕は結構です。未成年ですから」
ピシャリ、とロクが断った。
そう、と意気消沈する布津野をロクは見下ろした。
「どうぞ、大人たちだけで行ってきなさい。榊の検査もしなければなりません。僕らは検査に付き添ってから帰りますので」
そうだった、と布津野は表情を気まずくした。榊さんは頭を打ったのだ。浮かれていた自分が恥ずかしくなる。
榊がロクの続きを引き継いでい言う。
「どうぞ、布津野さんたちは行ってください。孤児院でも今夜は祝賀会を予定しています。もちろん、お酒は出ませんので飲んできてください。確か、今日は布津野さんが夜勤でしたよね」
「ああ、うん」
「では戻ってきた後に、改めてお祝いしましょう」
榊は続けてロクの方を向いた。
「ロク、お前も来るがいい」
ロクは怪訝な顔をする。
「仮にも、お前が大将戦を勝ったのだ。お前がいなければ祝賀会も締まらないからな。顔を貸せ」
「……ああ」
ロクが頷くのを確認した榊は、今度はナナの方を向いて声色を優しげに変えた。
「ナナちゃんも来るよね」
「うん。お父さんが当直だから、今日はお泊まりだね」
「そうね。パジャマは貸してあげるからこのまま一緒に行こう」
ナナと榊の二人は手を取り合って、きゃっきゃっと囀っている。そばでその様子をじっと見ていた紅葉は「二人の小さな女の子っていいよねぇ」と意味不明な感想をつぶやいた。
そのまま紅葉はくるり、と振り向いて布津野を見た。
「布津野先輩、私、やっぱり飲み会には行かない」
「え、そうなの?」
さっきまでは乗り気だった紅葉の急変に、布津野は驚いた。
「うん、その代わり、私もナナちゃん達とお泊まりする!」
そう宣言した紅葉は、布津野の返事を待たずにナナの方に向かって駆け出した。そのままナナを抱き上げると「私も仲間に入れてー、パジャマパーティーだ」などと叫んでワイワイ言わせている。
子供達と若者はそんな黄色い声を上げながら、稽古場から固まって出て行く。後に残された布津野は周りを確認した。
布津野の周囲には、宮本と法強、覚石の三人が残っている。
「一気に平均年齢が跳ね上がりましたね」と布津野。
「そうじゃの」と覚石が応じた。
まぁ、男同士の呑みってのも楽しいからいいか、と思い直し、布津野は三人に笑いかけた。
「それじゃあ、行きましょうか」
そうして、中高老年の男達は夜の街に繰り出していった。