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[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:遺伝子コンプレックス)  作者: 舛本つたな
[第三部]僕は35歳、ロクはとても頑張っているから
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[3-07]覚石先生の稽古

 ロクは仕事机から立ち上がった。

 携帯端末で時間を確認すると、約束の十三時まで残り三十分だ。そのまま、歩きながらデスクワークでこった上半身の筋を伸ばし、道着を入れた鞄を取り上げる。

 内閣府の裏口から外に出たロクは、トントン、と軽くジャンプして体をほぐすと、何度か屈伸をして筋肉を緩く伸ばした。

 そして鞄を背負い直し、一気に走り出した。

 今日は祝日なので学校はない。

 ロクの休日の予定は、いつも決まっていた。朝8時から内閣府に詰めて12時半までに政務を切り上げる。そして13時から、布津野の師である覚石先生の道場で稽古をつけてもらう事になっていた。

 内閣府のある永田町から、道場の新宿まではさほどの距離もない。公用車を使って東京都心の渋滞につかまるのも煩わしい。デスクワーク続きで体力を持て余してもいた。結論として、最速は走ることだった。稽古前の準備運動にもなるだろう。


 ロクが覚石に稽古をつけてもらいだしたのは一年前にからだ。布津野から覚石のもとでちゃんとした合気道の指導を受けるように、と言われて以来、ロクはこの稽古を欠かした事はない。

 ロクが合気道の稽古を始めたのは10歳の頃。それは布津野と出会った時であり、それ以来、ロクはずっと布津野から教わってきた。

 布津野は当初、この稽古は天才少年のちょっとした気まぐれだと考えていた。ロクなら少し教えればすぐに上達するだろう。ある程度の護身技術を身につければ、すぐ飽きてやめてしまうだろう。そんな軽い気持ちで、布津野は稽古をつけた。


 事実、ロクはすぐに上達した。


 もとより、運動神経も要領も異常に良いのだ。数日の内には、技の一通りをこなし、数ヶ月後には熟練者と比べても遜色のない実力を発揮しはじめた。まだ小さい子供だったとはいえ、身を守るために問題のないレベルまで、彼はすぐに到達してしまった。


 しかし、ロクは稽古をやめなかった。


 布津野の養子となり、通常の学校に通いながら政務もこなすハードスケジュールの中でさえ、彼は毎日の稽古を欠かすことはなかった。比較的時間の自由ができる早朝と夜に一時間ずつ、布津野に稽古を要求し続けたのだ。

 そんな五年は絶えずに継続し、彼は十五歳になった。

 身長はすでに180cmに達し、しなやかな体つきに確かな頑強さが備わるようになっている。その練り上げられた体躯は、改良素体だからという理由だけで出来上がるものではない。

 全身を巡る筋は、幾重にも束ねられ重ねられている。そこには無駄な贅肉はない。彼の筋肉は緩めた時には女の柔肌のようにやわく、力を込めればワイヤーのように絞り込まれる。動くことを最優先して鍛え上げられた筋肉だった。


 今、そのロクは走っている。次々と繰り出される四肢のバネは、空気を切り裂いている。入り組んだ都会を切り裂くように、その体は躍動していた。


 布津野は、それほどに稽古を熱心に続けるロクを見て、不思議に思った。どうして、ロクのような重要な人が、合気道にこれほどの時間をかけるのだろうか。それが理解できなかった。そして、布津野は同時に不安を感じた。

 ロクは、布津野以外から指導を受けたことがない。

 合気は奥が深い。自分の技が全てではない。と、言うか、自分の技は間違っているかもしれない。いや、間違っているはずだ。少なくとも自信はない。


 熱心なロクが間違って覚えていたらどうしよう……。


 布津野は不安を思いめぐらせて、ついに恐怖するようになった。そこで、密かに自分の師である覚石にロクを見て貰えないかと頼み込んだのだ。

 ロクとしても、布津野の師である覚石には興味があった。休日であれば、日程の調整もできる。そして実際に、覚石の稽古では学ぶことも多くあり、次第に熱が入りだした。一年経過した今では、すっかりと習慣になっていた。


 覚石の道場が見えてきた辺りで、走ってきたロクは足を緩めて歩く。


 全力疾走を10分間は続けていたが、息の乱れはなく汗もうっすらとしているのみだ。携帯端末を取り出して時間を確認すると、稽古が始まる15分前だ。少し柔軟体操もしたいので、急いで着替えたほうが良いだろう。

 ロクは玄関前で一礼し、道場に入ると足を速めて更衣室に直行した。手早く稽古着に着替えて、黒いはかまを絞める。素足になったので更衣室のフローリングが冷たい。稽古場の敷居の前でまた一礼して、敷居をまたいだ。

 稽古場に入ると、すでに覚石の孫娘である安達紅葉が寝そべって柔軟体操をしていた。彼女はロクに気がつくと「よっ」と言って手を挙げた。


「ロク君。今日も熱心だね」

「こんにちは、紅葉先輩」

「こんにちは」


 紅葉が差し出した手を、ロクはごく自然に取り紅葉を引き起こす。紅葉が「手伝って〜」と言うので、二人はそのまま一組になって柔軟体操を始めた。


 覚石の孫娘である紅葉は、幼い頃から合気道を学び続け、今年で20歳になる。広いはずの稽古場には二人以外はいない。そもそも、休日のこの時間帯には稽古は行われていない。

 実は、この稽古は覚石が特別に用意した個人稽古だった。参加者も紅葉とロクの二人しかいない。覚石は、布津野に頼まれてロクを指導してみて、その一途熱心なことを随分と気に入ったらしい。休日のこの時間を特別に用意し、自ら指導に当たることにした。

 後に、この事実を知った布津野は大変に恐縮し、覚石のところに菓子折りを積み上げて、頭を下げることになった。


「しかし、あれだね」と紅葉が言う。


 柔軟をしながらなので、時折、んっんっ、と呻きながらも、おしゃべりな彼女の口はよく動く。


「舌、噛みますよ」

「あれだね、もうすっかり、一人前だよね」

「なんですか」

「ロク君のことさ」


 よいしょ、と言って紅葉が立ち上がると、二人は体を入れ替える。今度は紅葉がロクの体を伸ばす番だ。


「うわっ、柔らかい。女の子みたいだ」とロクの背を押した紅葉が声をあげた。

「女の子って……」


 ロクは足を開いた状態で座り、上体を前屈みに折り曲げて、その胸をペタリと畳につけていた。


「ロク君みたいな背の高い男の子が、折り紙みたいに体が柔らかいと……なんかキモイね」

 紅葉はケタケタと笑う。

「なんでもいいですから、もっと押してくださいよ」

「これ以上押したって意味ないだろ」

「……まぁ、そうですね」


 すでにロクの上体は完全に床に設置しており、押してもこれ以上曲がりようはない。


「ロク君はもっと筋肉を太くすべきだな。お姉さん的にはそっちの方が好みだし」


「これでも鍛えているつもりです」

「マッチョになーれ、マッチョになーれ」

「変な呪文をかけないでください」


 ロクが振り返って紅葉を睨みつけようとした時、ちょうど稽古場に覚石が入ってくるのを見つけた。

 ロクは急いで正座を整えて、覚石に向かって一礼をする。その横にはすでに、紅葉も座して一礼を揃えていた。

 覚石も、ほっ、と息を漏らして小さく礼を返した。


「覚石先生、今日もよろしく願い致します」

「ああ、では早速じゃが、始めようかの」


 覚石はすでに高齢だ。戦前から合気道を修めた知る人ぞ知る達人でもある。覚石ほどの年齢になると道場で直接指導を行う者も少ないが、彼は歳を感じさせぬほどに元気で、今でもこうして門人を直接指導することもある。

 その確かな実力とひょうきんで気さくな性格が好まれて、多くの門人がこの道場に集まっている。覚石の道場は、よく名の知れた大きな道場となり、海外からも指導を求めてくることも多い。

 覚石は前に出た。


「まずは、体の転換から始めるか」

「「はい」」


 三人は覚石の指導のもと、合気の基礎的な型である体の転換から始め、やがって、一教、呼吸投げ、と稽古を進めていった。

 覚石の稽古は、あまり多くの技を取り上げない。一時間のうちに二、三個の技のみを扱い、その技も複雑なものではなく基礎的で単純なものばかりが選ばれる。

 ゆえに、本質的であり難解なのだ。

 ロクが、覚石の稽古の奥深さを感じることが出来るようになったのは、ここ最近になってようやくだ。

 合気の極意を要約すると、合わせ、導き、返す、の三つに分類されるだろう、とロクは考えている。しかし、これらを一連の動作に組み込むのは至難の技だ。

 覚石が見せる単純な技の随所にはその極意が含まれていた。ロクはそれを少しずつ探り当てる。毎日の稽古には新しい発見がある。そんな日々がロクの日常になっていた。

 しばらく経ち、その日の稽古も終わりに差し掛かってきた頃。


「それにしても、」と稽古を中断して、覚石がこぼした。

「どうしたの? おじいちゃん」


 紅葉が覚石を覗き込む。


「ふむ、ロク君や」

「はい」

「どのくらいになる?」


 どのくらい、とは? とロクは一瞬だけ迷ったが、すぐに妥当な回答に思い立った。


「父さんと稽古して五年、覚石先生には一年、です」

「ほう、まだ五年か!」


 覚石は目を丸くして見せた。


「5年でそんなに出来るとは凄いのぅ、三十年くらいは経っていると思った」

「おじいちゃん、ロク君は十五歳だよ」


 紅葉が口を挟む。


「十五歳か、大きいから気づかんかったわ」


 かっかっかっ、と覚石は大声で笑い「ちなみに儂は合気を初めて六十年くらいになる」と言い「はて、七十だったかも」と言い直した。


 ロクは反応に困って、曖昧な笑いを浮かべる。


「……布津野によう似ちょる」


 覚石が不意にこぼしたその言葉に、ロクは戸惑った。


「技もそうじゃが、そうやって困った時に笑うのもな」

「……」

「親子じゃの」


 ロクの笑いがふっと消えて、目が伏せられた。


「似て、いますか」

「そっくりじゃよ。ロク君のほうがずっと男前じゃがの」

「……そうですか」


 ロクの肩にこもった力が、すっと抜ける。


「え〜、布津野先輩も男前だよ」

 その横で、紅葉が覚石に抗議した。

「そりゃ、お前の曇り眼鏡じゃろ」

「違うよ。おじいちゃんが分かっていないだけだよ」


 ブーブーと抗議する紅葉を遮って、ロクは覚石に問いかける。


「覚石先生、一つ質問が」

「なんじゃ」

「父さんは、強いですか?」


 恐る恐る尋ねたロクに対して、覚石はからりと答えた。


「当たり前じゃ。儂の弟子じゃぞ」


 そうですか、とロクはまた曖昧に笑った。

 そんなロクの反応を見て、覚石は怪訝な様子で眉をしかめていたが、やがて何かを思いついたように、ほっ、と息をついた。


「そう言えば、布津野は最近どうしておる?」

「変わりはないですが、どうとは?」

「ほれ、なにやら軍の顧問になってからじゃ。布津野がお国の指導をすることになったと聞いて、儂は嬉しかったのよ。合気の御開祖も軍に指導したことがあったしの」

「ええ、」

「それが、最近では孤児院をやっていると聞いた。あやつも忙しくなったのか、ここ最近は道場に顔を見せる機会が減って、ゆっくり話すことも少なくなったしの」


 そう繰り返す覚石に、紅葉が茶化す。


「要はおじいちゃん、先輩があまり来なくなって寂しんだよね」

「だまらっしゃい」


 ロクは慌てて言い添えた。


「そうでしたか。父さんにそう伝えておきます」

「伝えんでよい。ただ気になっただけじゃ」


 覚石がそう喚くのを見て、ロクは少しだけ肩をすくめた。


「はあ、分かりました。父さんは軍の技術指導は今もしていますよ。孤児院の責任者に転任した後も相変わらずです。孤児院の生徒にも合気道を教えています」

「ほう」

「僕もそこで稽古しています」

「え〜、そうだったの。私も呼んでよ」


 紅葉がそう言うのを、ロクは頭を指で掻きながら答える。


「すみません。例の子供たちの孤児院なのです。ほら、1年半前の、あまり部外者の方を呼ぶわけには行かず……」

「……ああ、そうだったんだ」


 それは仕方ないね、と紅葉はおとなしく引き下がった。


「なんじゃ? 訳ありか?」


 興味深々の覚石に対し、紅葉は意地悪そうに目を歪ませた。


「おじいちゃんには、秘密だよ」

「なんじゃい、そりゃ」


 ヘソを曲げてみせる覚石に、ロクは慌てて言い添える。


「そういえば、その孤児院の生徒と父さんが指導している軍との対抗試合が確か近々あるはずです。両者の合同稽古の一環として、今回で五回目になるのですが、」

「なんと、試合か!」

「あっ、」


 ロクはハッとした。合気道では試合形式の稽古を一般的には行わない。仮にも布津野の監督のもとで対抗戦が催されている、ということが問題になるかもしれないことに思い至ったのだ。


「あの、これは父さんの意志ではなくてですね。軍の隊長が、分かりやすい実戦的な稽古を望んで始めたことであって……」

「馬鹿、そんな面白いことをやっているなら、どうして儂を呼ばんのじゃ」


 予想外の覚石の反応に、ロクはあっけに取られて、はい? とだけ返した。


「そうだよ! 非道いよ。ロク君、どうして教えてくれなかったの」


 紅葉も畳み掛けてくる。


「いえ、試合形式の稽古は本来の……」

「そんな事はどうでも良い。もちろん、不心得者の試合など武道の本質を歪めるだけじゃが、十分に了解した者同士であれば問題はあるまい。それに、お国の訓練じゃ。独自の工夫を重ねるのは当然。儂が口を挟む事ではない」


 覚石は両腕を組んで、ロクを睨みつける。


「しかし、そんな面白いことをしておいて、儂をのけ者にするとは弟子としてどうかと思う」

「そうだ、そうだ」


 紅葉が囃すのをバックにして、覚石はずい、とロクに詰め寄った。


「ロク君、どうじゃ」

「……なんでしょう?」

「その対抗戦とやら、儂も見物に行っても構わんか?」


 はぁ、とロクの口から曖昧な了承がこぼれ落ちた。


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舛本つたなの別作品リンク
公爵令嬢になったお腐(ふ)くろさん、(以下略)

本作を大幅に書き直した書籍版(kindleなどの電子書籍もあり)です。 下の画像で出版社さんのサイトに飛びます。 下読みもできますよ。

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