[3-05]一人目
布津野が法強と出会った日から、数日後。
ロクと法強は内閣府の一室にいた。その部屋は普段は多目的に利用されるスペースであったが、ここ最近は対中国検討委員会の一室として利用されている。
「今日で、最後ですね」とロクは法強に言った。
「最後、とは?」
「僕が貴方と行動を共にするのは、です」
「ふむ」
法強は椅子を見つけると、そこに腰掛けた。説明を求めるようにロクを見上げる。
「今まで、僕たちは貴方を対中検の一員として扱ってきました。もう一年くらいになります」
「そうだな」
「もう十分でしょう。日本の状況、最適化を前提とした国家運営。それを世界に普及するための技術。そして、軍事的実力についても、」
「……」
法強は無言でこめかみに手を当てた。
その様子を観察しながら、ロクは法強の目の前をゆっくりと歩く。
「対中検、つまり、対中国検討委員会では、中国に対する情報収集と分析を通して、内閣に外交施策の提言を行います。それが首相に承認されれば、GOAなどに作戦発令が行われ、実行される」
ロクも椅子を引き寄せて、法強の目の前に座り込む。
「こういった懸案事項の検討と意思決定は、各検討委員会を通して行われています。他にも対米検討委員会や対純人会検討委員会など種類は様々です」
法強は手を上げてロクの説明を遮った。そのまま唸るような声で、続きを引き継ぐ。
「そして、その委員会には、お前たち品種改良素体が長として就任する」
「ええ、正確には意思決定顧問が検討委員会を主催します」
「同じことだ、意思決定顧問は十二人。すべて第七世代で構成されている。つまり、今の日本の行政体制は遺伝子による選民寡頭政治だ。もはや民主主義とは言い難い」
「否定はできません」
さて、とロクは法強の対面に座りながら、両手を組んだ。
「法強さん、貴方はその上で判断することになります。中国に帰国し、この事実を本国に伝えて日本と対立をしても良い。また、日本に残って中国における最適化の推進に協力してもらっても良い。また、隠居して静かな老後を過ごすのも自由です」
「……何が目的だ?」
「先ほど言った通り、それは貴方が自由に判断することです」
法強は猜疑に満ちた目線でロクを睨み付けた。
「お前の本音は?」
「僕の、ですか」
「ああ、首相の判断ではなく、お前の考えだ」
「……近々、東京で開催される主要国首脳会議で遺伝子最適化技術の公開と、最適化施設の誘致援助を発表する予定です。もし、無色化計画に賛同するのであれば、中国政府にこの提案の受け入れるように働きかけて欲しい。とは考えてはいます」
「……」
「どちらにせよ、それを判断するのは貴方です」
法強が再び黙り込んだのを、ロクはしばらく眺める。
「……さて、今から話すことが、最後の情報共有になります」
ロクは一呼吸だけ間を置いて、目を閉じた。
「ナナの役割についてです。彼女の能力は、すでにある程度の説明はしました」
「……ああ、なかなか信じられぬ話ではあるが、」
法強は小さく頷いて、かつてニィが言った「日本政府には巫女がいる」という発言を脳内に反芻させた。
「信じる信じないも貴方の自由です。彼女の目には、人の人間性を色彩として可視化する能力があります」
法強は、むぅ、と小さく唸って両腕を組んだ。
しばらくの間、二人は黙ったままになった。やがて、口を開いたのは法強だった。
「俺が選ばれたのは、彼女の判断なのか?」
「……難しい質問です。少なくとも、ナナが貴方の色を気に入ったのは確かです」
ロクは椅子に体重を預けた。
法強はなおも問い詰める。
「あり得ないことだ。国運を少女に託すのか」
「……組織運営において最も重要な意思決定は人事です」
「もちろんだ」
「選出された人物がそれ以降の意思決定を代行することで組織は運営されます。ナナは政府の人選に深く関わってきましたが、今回のような大胆な人選、それも過去に日本に対して戦争を仕掛けようとした貴方を選ぶなどあり得ませんでした」
「……そうだろうな」
法強は頷いた。仮に人間性を可視化できたとして、その人物と組織の利害が一致しているとは限らない。今回の場合は特にそうだ。自分と日本政府の利害は対極にあるもののように思える。
「正直なところ、僕はこの人選について反対です。あまりにもリスクが大きい。しかし、貴方が優秀な人であることについては合意です。最適化に対する偏見も薄い。……最終的には、首相はナナの判断を選びました」
「なぜだ」
「分かりません」
「……首相は二人目だと言ったな」
ロクは椅子から身を起こして、眉間にしわを寄せた。
その仕草を、法強は奇妙に感じる。
「ナナに選ばれたのは、二人目だと」
ロクは無言で、口を歪めている。
「一人目は、あの布津野忠人か?」
「……そうだと、思います」
「布津野忠人とは、何者だ?」
その問いは、ロクの時間を止めた。
ロクは手で口を覆って、目線を天井に向けた。法強にはロクが熟考しているようであり、不意を突かれて呆然としているようにも見えた。いずれにせよ、それはこの一年間で初めて見るロクの悩む姿だった。
「普通の、未調整です」
絞り出されたその結論に、法強は空虚を感じた。
「お前の父親だろう」
「……そうでもあります」
「普通の父親か?」
「……」
無言が続く。法強は興味が沸いた。
「子供は父親を尊敬するものだ」
「……中国人らしい、祖先崇拝ですね」
「儒学は嫌いかね?」
「興味はありませんね」
ロクの固い表情が、法強の胸の中のわだかまりを溶かした。
「お前の技、父親のものだろう?」
目の前のロクのしかめ面がはがれ落ちて、子供じみた表情が覗いた。
それを見た法強は驚いた。存外、こやつも可愛いところがある。
「独特な動きだ。柔術か?」
「……いえ、合気道です」
「ほう、合気か……、それはまた珍しい。実戦性の乏しい高尚な技と聞く」
合気道の歴史は比較的浅く、その創始は1948年である。古武術、柔術といった技を合気道としてまとめ上げたものだ。合気、呼吸といった概念を中心とした難解な術理に加え、和合の精神性を強調することから、その実戦性を疑問視する意見も多い。
「前の稽古では、こちらの対練に付き合ってもらったが、いずれ対等の手合わせを願いたい。武に精神性などを混ぜ込んだ合気の技とやらで、どこまでやれるのか興味はある」
法強は遠い目をしてそう呟いて、チラリとロクの様子を窺う。
その時、法強は絶句した。
ロクの目が途端に鋭くなり、こちらを刺し殺さんばかりに睨み付けていた。ロクは明らかに不機嫌な顔をしていた。彼にもむき出しにできる感情があったのだ。
「言っておきますが、」
ロクの口が開くと、そこから低く怒気がこもる声がこぼれた。
「貴方ごときが、父さんに勝てるわけありませんから」