[3-04]白味噌のおでん
「また、今度は酒でも呑み交わそう」
と、言った法強の約束を、布津野は「ええ、是非」と快諾した。
法強と別れを告げて見送った後、その日は孤児院の夜勤ではなかったので、布津野はロクとナナの三人でそのまま帰宅することにした。後のことは宇津々ながめに頼むと、彼女は笑って快諾してくれた。
榊たちに見送られて三人が自宅に帰宅した時は午後の19時を回っていた。
玄関を押し開けたら、何かを煮込んだ柔らかい暖気が漂っていく。二月の冷え込む外気に張り詰めた肌がほだされていく。
「お帰りなさい」
と玄関に姿を現したエプロン姿の冴子に向かって、
「「ただいま」」と三人で唱和する。
「美味しそ〜」と、ナナが鼻をならし、
「うん、間違いなく美味しいね」と布津野も期待に胸が膨ませた。
ふふ、と冴子は少しだけはにかんだ。
「今日はおでんです。ちょっと変わった味付けですが、白味噌で仕立ててみました」
「白味噌?」
「ええ、手羽と昆布で出汁をとったおでんを、最後に白味噌で。忠人さん、味を見ていただけますか?」
「ええ、もちろん。お腹が空いて仕方なくて」
布津野はまるで鼻先を糸で引っ張られるように、冴子に連れられて台所に向かう。
取り残され気味になったロクとナナはちらり、と視線を交わした。
「……なんか、最近思うんだけどさ」
ナナが口をとがらせた。
「どうした?」と、ロクは靴を脱ぐ。
「グランマ、すっかりお母さんだね」
ナナがそう言って口をへの字に曲げたのを、ロクは横目で見る。
「そう言えば、そうだな」
「料理もどんどん上手くなって、もう、なんだかね」
「ナナもやってみろよ?」
「う〜ん、実は、ちょいちょい教えてもらっているのだけどね。ダメ、全然敵わない」
「まぁ、あの第五世代の最適解だからな」
ロクはそう言いながら靴を脱いでリビングに向かった。
「どーせ私は、第七世代の落ちこぼれですよ」
ナナもロクを追いかけて、二人はリビングに入った。
「その分、ナナにはその目があるだろう」
「そうだけど……。でもなんかバカにされてるみたいで嫌。あいつは能力頼りの能無しだ、って」
「そんなの、ナナの思い過ごしさ」
「ロクには分かんないよ」
二人は着ていたコートをクローゼットにしまって、鞄に入れた稽古着を取り出すと、今度はお風呂場に向かう。
その時、台所の方から、布津野と冴子の声が漏れる。
「すごく、美味しいです」
「よかった。早速、夕食にしましょう」
ナナは風呂場の前にある踊り場で、ぴくり、と耳を動かす。
「なんか、イチャイチャしてるなぁ」
「イチャイチャ?」
ロクが自分の稽古着を洗濯機に入れると、ナナに向かって手を出した。
ナナはロクに向かって稽古着を投げつけた。
少し斜め上にそれて飛んだそれを、ロクはひょいと手を伸ばしてつかみ取る。
「乱暴だな」とロクが抗議した。
「第七世代の最適解なら、簡単に取れるでしょ」
そう言い置いて、ナナはスタスタとリビングに戻っていった。
その後ろ姿を流し見て、ロクは肩をすくめる。ナナの稽古着を洗濯機に入れて、あたりを見渡すと父親の鞄も近くにあることを発見した。そこから布津野の稽古着も引っ張り出して、洗剤と漂白剤と一緒に洗濯機に入れてボタンを押した。
なにやら、今のナナは不機嫌だ。
最近のナナは、気分が急に変化することがある。孤児院や学校の友達と一緒の時は比較的ご機嫌で、父さんといるときはニコニコしている。だが、家に帰った後や、自分と二人のときなんかは人が変わったように気分がすさんでいる時がある。
今のところ、大きな問題はない。しかし、ナナは政府の、特に人事における意思決定の中枢を担う存在だ。彼女の移りやすい気分によって、その判断が左右されることはあってはならない。と言っても、イライラするな、と言って聞き入れるようなナナじゃないだろう。
せめて、彼女の機嫌のメカニズムを把握できれば、対処できるのだが……。
ロクは洗濯機の中をクルクルと絡まり回る稽古着に視線を落とした。
この問題について、課題を洗い出す必要があるだろう。ナナが不機嫌になる条件を把握できれば、妥当な対処を取ることも可能だ。
彼女の機嫌が変わりやすくなったのは、ここ最近のような気がする。それまでは、比較的大人しいパーソナリティーを保ち続けていたはずだ。
ふっ、とロクはある可能性をひらめいた。彼が持っている豊富な知識とまだ十数年しか経っていない曖昧な人生経験は、ある解に、すとん、とまとまる。それは、生物学的見知から非常に論理的な帰結だった。
「生理、だな」
ロクは、生理における女性のホルモンバランスと精神の乱れについて、ちゃんと論文を読んでみよう、と心に決めた。
◇
——女性の生理が始まる平均年齢は12歳か……
であれば、15歳のナナは比較的遅い、ということになる。これは第七世代の低い生殖能力と関係があるかもしれない。
などと、ロクは携帯端末の検索結果を眺めてブツブツとこぼしながら、リビングに入った。
ふんわり、と広がる柔らかい匂いがロクの仮説検証を中断させた。
視線を上げると、テーブルの真ん中にはグツグツと音を立てて煙を巻いている土鍋がある。グランマが作ったおでんがそれだろう。その土鍋を中心にして、ほうれん草にシラスをまぶした冷菜や、和布蕪などの酢の物が添えられている。和布蕪はロクの好物でもある。
「ロク、はやく」
すでに席についていたナナが、目を輝かせて急かしてきた。
さっきまでの不機嫌はどこに行ったのか、もうナナはいつもの機嫌に切り替わっていた。もしかしたら、単純にお腹が空いていただけなのかもしれない。生理は関係なかったのかもしれない。
よく見ると、もう全員が卓についていた。
急いでナナの隣に座ると、ナナが待ち受けていたのか両手を合わせた。
「いただきます!」。
「「いただきます」」
ナナにつられて、残りの三人が唱和すると、しばらくはモクモクと食べた。
美味しい。うん。とても美味しい。
白味噌を使ったおでん。
味噌の風味を活かすためなのだろう。厚揚げや練り物といった具材はしっかりと油抜きをされていて、臭みなど一切残っていなかった。つみれや蛸足なども下茹でされたもので、全体的にさっぱりとした海産物を中心に構成されている。主役の味噌が全体的な味のアクセントを発揮しているが、しかし、それを支えているのは昆布出汁の旨みだ。海の多彩な味を綺麗にまとめあげて、大地の味である味噌の活躍をフォローしている。
ほうれん草や和布蕪などの、おでんの添え物が冷ものばかりなのも、配慮のあることだろう。熱々のおでんを味わった後の口直しに最適だ。口の中を冷やし、和布蕪などの酢の物で舌をすっきりとする。すると、もう一度、新鮮な状態でおでんを楽しめる、というわけだ。
——ふぅ
ロクは一通り楽しんだ後、ちらりと冴子を見た。
グランマの料理技術の向上スピードは、目を見張るものがある。ここ数年でこの家の台所の設備や貯蔵庫の具材は拡大の一途をたどっている。包丁は用途別にズラリと並び、フライパンや鍋の類も手軽なステンレス製のものから本格的な鉄製の物へと置き換わった。コンロはガスではなくIHであるが、加熱性能を向上させるために特別な工事を先日施したばかりだ。おそらく、グランマに支給されている給与の多くがそれらに費やされているはずだ。
冴子がロクの視線に気がついた。
「どうしました、ロク? やはり肉類が少なかったでしょうか」
「いえ、たんぱく質は十分だと思います」
「野菜が少なかったかもしれない」
そう言って、グランマは俯いて「おでんにトマトを入れる、というのもあるらしいので、今度試してみましょう」とつぶやいた。
どうやら、グランマの料理の進化は止まることがないらしい。
彼女は第五世代の中でも圧倒的な最適解であった。すべての個体性能において、他の同世代を大きく引き離し、以降の第六、第七世代の個体は全てグランマの遺伝子から生まれた。これにより改良素体は飛躍的にその性能を向上させた引き換えに、その遺伝的多様性を失い生殖能力を低下させたとも言える。
そんなグランマは長らく内閣代行役を務めていた。この代行役はグランマのために設置された特別な役職で、首相の委任のもと常時、首相と同等の権限で政府各機関に対して命令が出来る。
しかし、グランマはこの代行役を、第七世代に分散委譲を進めている。ここ最近では、グランマが全体を指揮するようなことは、ほとんどなくなっている。
そうして生み出した時間的余裕を、グランマは料理に費やしている。
「忠人さん、お口に合いますか?」
グランマは、父さんに話しかける時に少しだけ口調が変わるようになった。そうなったのはいつ頃からだろう。グランマが料理に投資するようになった頃と重なる気がする。
「ええ、もちろん。どんどん美味しくなりますね」
「ふふ、ありがとうございます」
むぅ、とナナが小さく唸るのが聞こえた。
横目でナナの様子を窺うと、どうやらまた不機嫌になったらしい。生理痛とやらは、そんなに突然にやってくるものなのだろうか?
「それにしても、」
と、一息ついたのか、父さんがほうれん草の冷菜に醤油をたらしながら、こちらを見た。
「あの人が法強さんなんだね。初めて会った」
「法強?」とグランマが首をかしげる。
「先の事件で、領海侵犯をした中国艦隊の司令です。日本に亡命したという名目で、身柄を拘束していました」
ロクがそう補足すると、グランマは「ああ」と思い出したようだ。
「法強に対する処遇について決まったようですね。ロク、貴方にしては随分と思い切った判断でした」
「僕というよりも、ナナの判断ですね。僕としてはもう少し慎重に進めたかったのですが、」
「法強さんは良い人だよ、白黒の二色で珍しいんだから」
「……最終的には、首相の判断で対中国方針を彼に一任することになりました」
そう、とグランマは顎に指を当てて考え込む。
「ナナが人を見極め、ロクが判断する。無色化計画の担い手の判断は重大でしょう。ナナの能力を疑うわけではありませんが、しかし、亡命者である法強が動くことで様々な困難があるでしょうね。それに対処するのが、ロクの当面の仕事になりそうですね」
「その最初の仕事が、父さんと法強を引きあわせる事になるとは思ってもみませんでした」
ロクは和布蕪をすすりながら、肩をすくめた。
「忠人さんと? それはまたどういう事ですか?」
「どうやらニィが法強さんに変な事を吹き込んだらしいのです。困った事があれば父さんを頼れ、みたいな事をです」
「そうですか、ニィが……。彼は今、どうしているのですか?」
「詳細は把握していません。どうやら首相にすらまともな連絡をしていないみたいで、完全に行方知らずです」
「ニィには確か、欧米工作を依頼したはずですが……」
「ええ、無色化計画の最重要工作です。それなのに、ちゃんとやっているのかどうかも、ニィの生死すらも不明です」
ロクは和布蕪を苦虫みたいに咀嚼した。
「ニィ君なら、今アメリカにいるって言ってたよ」と布津野が蛸足を口にくわえながらモゴモゴと言った。
ガタッ、
テーブルが揺れて、ロクが立ち上がる。
「……父さん、今、何て言いました?」
布津野はロクを見上げた。すっかり背が高くなって、最近のロクには威圧感を感じるようになった。背丈はもう180cmになったらしい。とても高いところから、鋭い赤い目がこちらを見下ろしている。
「えっ、今、アメリカにいるって」
「誰が?」
「ニィ君が」
「どうして、それを知っているのですか?」
「えっ、ニィ君から聞いたから、です」
どうやら、触れてはならないものに触れてしまったことを、布津野はジワリと気がついた。ごくり、と蛸足を丸呑みにする。
「どうして、なんで、父さんがニィと連絡をとっているのです⁉」
「え、いや。だって電話番号交換したし」
「なんで交換しているんですか!」
「……友達だから、かな?」
「ありえないでしょう!」
そんなことはないだろう、と布津野は思ったが、口には出さなかった。最近はロクも大人になったのかあまり怒らなくなった。だから、これは久しぶりの激怒だ。これは、口答えをすると不味いやつに違いない。
「いつからですか?」
「え、ニィ君がアメリカにいるのは今週からじゃないかな?」
「そっちじゃありません。いつから、ニィと連絡をとっていたのか、という意味で……ん、待ってください。どうしてニィが今週からアメリカにいると分かるんですか?」
「あ〜、だって、先週に電話があった時はヨーロッパにいるって言ってたから。イギリス料理は不味いけど、イギリスで食べる中華料理は旨いとかなんとか……。二日前の電話ではアメリカで、緑茶を頼んだら蜂蜜が入っていて不味かったとか、」
ぴくり、とロクの方眉が跳ね上がる。
「……もしかして、いつも電話してるんですか⁉」
「いつもじゃないよ。大体、週に一回くらいかかってくる、けど」
「あいつ!」とロクは叫んだ。「首相よりも念入りに報告入れてやがる」
普段であれば絶対に使わない荒々しい口調を吐いて、ロクは頭を抱え込んだ。